05
パレード、人の群れ。
彼女はここに来ている。願ったつもりはなかったが、必然にも思える。ほとんど注意を払わなかったのだ。彼女は自然を探している。模造の樹々や草ではなく、本物の自然を。それはどこにも無い。あるのは機械と偽物の動物――着ぐるみを着た人間たちと、カラフルなアトラクション、奇妙に小さな湖と、周辺の街並み。ここは岩でさえプラスチックで出来ている。
ある種の麻痺がある。考えることよりも、人波に飲まれることに喜びがある。行列が行列を呼び、人々が出来るだけ前に向かおうと人を押しのける。彼らは何かに興奮しているのではなく、興奮そのものに魅せられている。助長しあう相互関係。背中を汗で濡らした大人が子供を抱いて首を伸ばしている。着ぐるみを着た人々が、手を振りながら誰も知らないどこかへ向かっていく。
暑い日だった。ほとんど夏だった。
そして騒がしかった。一定の間隔で誰かの嬉しそうな悲鳴が聞こえる。ジェットコースーターが鉄を滑り降りる音、水の跳ねる音、陽気な音楽、人々の囁き、お互いの呼び名。空は広く晴れていた。彼らは次第に数を増やし、行列を何重にも重ねていく。こめかみに汗を浮かべた黒い肌の少年が、母の胸の上で呆然としている。パレードから目が離せなかったのだ。首にタオルを巻いた高校生が、隣にいる同い年の彼女に向かって冷めた意見を言う。彼女はからかいながら、彼の視線の先を見ている。鉄に光が反射している。胸にまで響く低音が鳴っている。アケミはデジカメの操作を尋ねながら、暑さと人の多さに不満を言って、みんなを笑わせた。行列の向こうで、笑顔の動物たちが前進していく。巨大な乗り物、派手な色彩、疑いの無い陽気さ。彼らはどこにも行かないのよ、とミカは言った。彼らはどこかに向かうのではなくて、行進することだけが目的なのだから。匂いは無かった。生物性が無かったのだ。血も無かった。生々しさはどこにも無かった。人々の興奮だけがあった。
「パレードの終わりはどうなるの?」ケイコが言う。
「誰にもわからないのよ」ミカが言う。
「誰にも?」
「そう、誰にも。なぜなら、彼らがどこにたどり着くか、見た人がいないからだわ」
「一人も?」
「もう諦めたわ」デジカメをしまいながらアケミが言う。
アケミを取り巻いていた彼らのうちの一人が笑った。苛立ちと陽気が人々のこめかみの上で暑さに泡立っている。
「そう、誰一人。彼らが行進するのに、目的も理由も無いのよ。だから、誰も彼らのラストを目撃しない。彼らには目的地も、祝うべき何かも無い。彼らは行進するためだけに、行進するんだわ」
「どうして行進しようと思ったのかしら」
「時間が来たからよ」
彼女たちは飲み物を探し、日陰を探す。
ベンチがある。計算された樹々があり、敷き詰められたレンガがある。実際よりも遠くに見える城があり、ポップコーンの匂いがある。
「ねえ、あの太った人見て」アケミが言う。
「すごい汗」
「時間は?何時?そろそろ乗れるんじゃない?」
「二時十五分だよ」テツオが言う。
「ポップコーン食べる?」アケミが言う。
「いいわね。けど、お昼食べたばかりじゃない?」
「冷たいものが飲みたいわ」
「向こうに行けばあるんじゃないかな」テツオが言う。
「どうしてあんな風になるってわかってて、こんな暑い日に、こんなところに来るのかしら」
アケミは太った彼の濡れた髪を見て言った。彼は真っ赤な顔をしていた。首から大きなタオルを下げ、額から流れる汗を拭き続けていた。彼女たちはベンチを離れて、ジェットコースターの乗り場へ向かった。長い行列があった。彼らは誰もが疲労し、暑さに苛立っていた。肩までシャツをまくった少年がいた。眼鏡を取り、顔の汗を手で拭いた老人がいた。
彼女たちは機械の動きに従って、地上からはるか離れた地点まで運ばれる。園内の景色が見渡せる。こんなに小さなところだったんだわ、と彼女たちは思う。一瞬遠くに見える海を見て、胸のすっとする想いがする。滑車はいまや最も高いところに来ようとしていた。煽るように、ガタガタと音がした。空気が澄んでいた。
「こうして定期的に恐怖を得る必要があると、誰もが感じているのよ」
「誰もが?」ケイコが言う。
「そう、誰もが」
「私は感じたことないわ」
「私もよ」
「それって――」
「感じていることにさえ、気づかないのよ」
「ふうん」
「部屋でじっと同じことばかりしていると、石ころになって固まってしまうのよ。私たちは気づかないうちに、そのことを知っているのよ。魚が教わらなくても泳ぎ方を知っているのと同じようにね」
やがて意識もストレスも置き去りにして、彼らは落下していく。
時刻が夕方になり、外が涼しくなり始めた頃、彼らはテラスのある園内のレストランへ来ていた。木製の長方形のテーブルを囲んで座り、それぞれの選んだメニューを食べていた。時は緩やかだった。一日が終わりかけようとする、あの、安心した気の緩みがあった。
「見て」アケミが言う。「あの人、一人で来ているのよ」
彼らはアケミの視線の先を見た。ミカはジュースを飲んでやり過ごそうと思ったが、結局、遠慮がちに見た。彼は太ったあの男だった。Tシャツは乾いていたけれど、タオルはまだ首から下げたままだった。店員がやってきて、彼のコップに水を注いだ。男は必要以上に頭を下げた。やがて彼のもとに多くの食事が運ばれた。
「一人であんなに食べるのかしら」
「そうよ、ほかに誰もいないじゃない」アケミが言う。
「後から誰か来るのかも」
「誰かって誰よ?」
「例えば、恋人だとか」
「あり得ないわよ、見ればわかるでしょ」
彼女たちは笑った。太ったあの男は、とても穏やかに見えた。口をもぐもぐさせながら、時々、目を細めて園内を見渡した。
「きっと友達もいないのよ」アケミが言った。「普通、友達がいたら一人でこんな場所になんて来ないわ。それにしても太っているわね。太っている人間が自分勝手だというのは正しいのだわ。彼に友達がいないのが、その証拠よ」
アケミはつまらなそうに話した。蔑んだ目で彼を見た。彼女にとって、その太った男は蔑まれて当然であるらしかった。彼は自分が話題にされていることに気づいていなかった。明らかに、彼は善良だった。ほとんど、子供みたいだった。彼はたくさん水を飲んだ。何度も店員がやってきて、水を注いだ。その度に、しつこく頭を下げた。
「いつもあんなに食べるのかしら」
「じゃなきゃあんなに太らないでしょ」
「なんのために?」
「おかしくなっちゃっているのよ」
「なにが?」
「なんだったかしら、満腹中枢とか、細胞だとか、そんなのよ」
「私、あんなに食べれない」
「私もよ」
「食べれる人が異常なのよ」
「見てよ、あの手を」
「ぱんぱんね」
「クリームパンみたいだわ」
彼女たちは顔を合わせるとクスクス笑った。それから、再び彼を見た。
「また汗を拭いたわ」
「あんなに汗って出るものなの?」
「だから、あんなに水を飲むんじゃない」
「私、想像つかないわよ。あんなに太った人が、一体どんな仕事をして、どんな生活をしているのか。会社のオフィスでもあんな風に汗をかいているのかしら。得意先に出向く途中や、電車の中でも?少しも痩せようと思わないのが、信じられないわ」
ミカは黙っていた。テツオも、ケイコも黙っていた。
彼は食事を終えて、リラックスしたみたいだった。安心した雰囲気が彼から感じられた。口元を丁寧に拭き、胸に食べかすがこぼれていないか念入りに調べた。下を向くと、彼の顎の肉は、大きく重なって見えた。
アケミたちは食事をもう終えていた。いくつかの食べ残しがテーブルの上にあった。アケミはあくびをした。首をつかんで、マッサージした。
「ああいう人と付き合える?」
「無理よ」
「どうして?」
「恥ずかしいもの」
「ケイコは?」アケミが言った。「ケイコはどう思う?」
アケミはケイコを見た。みんなもケイコを見た。ケイコは小さく驚きの声を上げた。アケミの顔を見て、弱々しく笑った。
「どう?」アケミが聞いた。
「どうって?」ケイコが言う。
「付き合える?」
「どうかな」
「どうかなって」アケミは笑った。「自分のことじゃない」
「そうね」ケイコも笑った。
「どうなの?」
「わからない」ケイコはまた笑った。
アケミは笑って、みんなの顔を見た。
「簡単じゃない、付き合えるか、付き合えないかだけなんだから」
「アケミは?」ケイコが聞いた。
「私?私は無理よ」
「そう」
「ケイコはどうなのよ?」
「どうって」
「どうなのよ?」
ケイコはミカを見た。ミカは止めようか迷った。ひどい憂鬱が彼女にのしかかっていた。極端に厭世的になった。生きているのが嫌になり始めていた。実際には行動に起こさないとわかっていても、生と死を秤に掛けたい気持ちを抑えられなかった。
アケミは再び質問しようして、隣の友人に止められた。いつの間にか、すぐそばに男が立っていたのだ。彼は食事を終え、優しそうな表情をしてそこにいた。彼女たちのテーブルから、少し離れたところに立ち、彼女たちを見ていた。彼は不自然なほど長く、じっと彼女たちを眺めた。汗で濡れた髪の下の目は、微笑んでいるようにも見えたし、冷たく責めているようにも見えた。アケミたちは重く黙った。居心地の悪さが立ち込めた。
彼が表情も変えずに立ち去ると、アケミは「なによ、気持ちが悪い」とだけ言った。