004
冷蔵庫を開けるのはこれで二回目だった。ミカは諦めて扉を閉じると、テレビと母親の見える台所の小さなテーブルに腰掛けた。母親は膝を抱えて、画面の下品な明かりに照らされていた。少しも動かなかった。彼女は眼鏡の奥の小さな眼を、ガラスのように無機質に変えて、全てをテレビに捧げていた。時々、腕をほどいて指を押し付けながら鼻をすすった。
「経験不足ね」ミカの母親は言った。
「明るくしないとダメよ」
「経験不足」
ミカは立ち上がった。テレビの部屋まで歩き、明かりをつけた。てんてんと、部屋の明かりが光った。母親は膝を抱えたまま天井を見上げた。彼女はわかっていないように見えた。自分の頭上で何が起きているのか、今、自分がどこにいるのか。あらゆるものが不確かで、理解出来ない中、テレビの明かりだけが救いのように感じられた。彼女は怯えたように灯りから目を逸らすと、再びテレビに見入った。彼女は呆然としていたのではなく、抜けだそうとしていたのかも知れない。言葉も行動も断片的な中、テレビを見るという行為だけは必死だったのだ。もしも自分があらゆる感覚を失い、何もわからない状態に陥ったら、目の前の光のトンネルを抜けて、現実へ帰ろうと考えるかも知れない。母親は膝を抱えて、口を開けたまま、テレビから目を逸らそうとしなかった。
「子供なのよ、子供」母親は言った。
「もう少し音を下げなくちゃ」
「考えも、行動も」
時を失ったみたいだった。母親はいつまでも若い頃のミカに向かって話し続けていた。彼女はミカの顔を見つめ、膝を抱えたまま、無関係なことを話した。時も空間も断絶したところにいたのだ。ミカは母親を昼間の間は世話する必要が無かった。夜になると痴呆が表面に現れるのだ。昼間の間は理性が彼女を捉え、口数の少ない、大人しい普通の母親にとどまらせた。演技しているのかも知れません、と医者は言った。そんなことする必要があるかしら、と友人は言った。きっと母は、とミカは思った。言葉が全てを言い表せるという自惚れを打ち砕くために、状態と状態のちょうど 中間にいるのだ。ミカの母親は夜になるとミカを子供扱いし、分裂した小言を言った。実際には介護される側である彼女が、ミカを子供扱いするのは滑稽だった。その滑稽さが、ミカの心を痛ませた。
「お父さんに叱ってもらわなくちゃ」
「ボリュームを下げて」
「子供の頃からずっとそう」
ミカは部屋を出て洗面所へ行く。母親はまだ何かを呟いている。
床にタオルが落ちている。二つ、それから小さいのが一つ。それらをつまんで籠の中に戻すと、ストレスを感じた。母親に言っても無駄なのだ。彼女は風呂場のドアを開いて中を覗く。排泄物は無い。シャンプーやリンスのキャップを全て取り外したりもしていない。壁にらくがきも無ければ、風呂釜にうずくまって給湯の小さなモニターを眺めている母の姿も無い。彼女は洗面所の鏡を見る。小さな窓の格子の向こうで、夜風がかすかに呻いている。どうしてだろう?と彼女は思う。どうして自分の眼にはこんなに濁りがあるのだろう?
「ひとりにしないで!」母親が言った。
「すぐ戻るわよ!」ミカはリビングに戻る。
「子供なのよ」ミカの顔を見ると母は言った。
母の眼は濁っていない。汚れていない。
ミカは再び洗面所に向かい、顔を洗った。歯を磨き、タオルで丁寧に拭いた。鏡の前は物で溢れていた。新品の歯磨き粉、化粧落とし、いくつもの歯ブラシ、ファンデーション、口紅、もうずっと使っていないコップ。気づくとすぐに散らかってしまうのは、母親の血のせいだと彼女は思っていた。それを克服出来ないのは、自分以外の何者のせいでもないとも考えていた。彼女は鏡を見て、自分がつい今、歯を磨いたかを思い返そうとしていた。磨いたような気もするし、磨いていないようにも思えた。映像としてかすかに残っているその記憶が、昨日や一昨日のものでないという自信が無かった。彼女は舌で歯を舐めて歯磨き粉の匂いを確かめた。
「ひとりにしないでってば!」母親が言った。
「わかってるわよ!」
「明日も早いんだから!」
母親はまだテレビを見ていた。番組はニュースに変わっていた。母は完結したのだろうかとミカは考えた。誰にも長い歴史があるはずだった。他人には見えない本人の長い意識の糸が。自分の知らない多くの経験を経て、母は一つの完結をこの場に見つけたのだろうか?だとしても、母親は何も語りはしなかった。ミカは母を見ていた。母親は膝を抱えてただテレビを見つめていた。