01
写真で見たことのある風景だった。緑色をした看板に白抜きで書かれた駅の名前。小さいけど、まとまっている。短い横断歩道に面したその改札口は、正面に続く公園の終わりを睨んで、気高そうに静止している。好天気の空から鳩が飛んでくる。樹の葉々に切り取られた日差しが地面の上で潤んでいる。横断歩道が青に変わるたびに、人々が涼しげに日陰に入り込んだ。子供の背中を母親が押した。人々の流れに取り残されて日傘を差した老婆が、一歩進むたびに、時の緩やかさの味わいを知らせた。腰は曲がり、もう一方の手を丸めて添えている。横断歩道が短すぎるのよ、とミカが言った。それに、信号が変わるのも早過ぎるわ。騒々しさと埃っぽさだけが取り柄の反対側の改札口に比べたらここは楽園みたいだけど。彼女は暖かい日差しに、自分の服が着込みすぎていることを後悔していた。背中の中心が汗で濡れているのを感じる。停止線に薄緑色をしたタクシーが止まる。車の熱が、道の奥に見える別の交差点の風景を滲ませる。ここは休日だった。人々も、風景も、満ちているセンスも。人々は共犯していた。目の前に広がる景色が絵画めくことに、自分がその一員となることに。駅に止まる電車が再び動き出す茶色い音が、人々の背中を気づかないほどささやかに楽しませた。博物館の自動ドアが開くと、ハンカチを額に当てた中年の太った男と、ホールの冷気が漏れた。
美術館の前の通りを写真に収めようと、外国人がカメラを構えている。直線状の遠くに見える位置に、警察官が腰に手を当てて立っている。彼らをつなぐ何かがあった。説明出来ない、宇宙的な何かが。外国人は代わる代わるその位置にやってきて、写真を撮った。彼らはあらかじめ求めていた日本の何かをそこでようやく見つけたように、満足してそばの喫茶店へ消えた。露出した背中が赤く陽に焼けていた。
公園の中央で大道芸人が出ている。人々が距離をとって囲んでいる。その人々の後ろを、興味を持ちながらも立ち止まらない人々が過ぎていく。背の高い男がパンフレットを頭の上にかざして立っている。彼の作る日陰の恩恵に預かろうと、ミカが必死に身体を寄せている。
「本物じゃないのよ」彼女が言った。
「そうなの?」ケイコが言う。
「ラジカセから流れる音楽も、芸も、私たちも」
「本物じゃないの?」
「こんなの本物じゃないわよ。決して満足しちゃだめよ。チープな偽物の、まがい物よ」
立ち止まったのはミカからだった。だったら始めから立ち止まらなければ良いのにとケイコは思うが、口には出さない。ミカは軽蔑した表情で大道芸人と彼を囲む人々を眺める。そんな表情をしたら、そこにいる人々に不快感を与えるんじゃないかとケイコは不安になる。背の高い男性が、人の群れから離れかける彼女たちに振り返った。不快感は表れていない。ほんの小さな疑問が湧いただけだった。ケイコは少し安心して、ミカの後を追いかける。大道芸人も、彼の芸も、取り囲む人々も、公園のイスも鳩も、ミカは気に入らなかった。どうして人々は気づかないのかしら?彼女は不快感を顕わにすることで、彼らに気づかせたかった。世界に溢れる偽物たちの存在に。
彼女たちはいつもの喫茶店へやってくる。公園を抜け、繁華街を抜ける。
「嫌になるわよ。世界は偽物だらけだわ。本物はほんの少ししか無い。けれど、世界には膨大に物がある。それこそ、砂丘の砂のようにね。広大なこの世界で、どうして偽物が無くならないかわかる?それは人々が偽物をこそ求めるからよ。チープでくだらなくて、まがい物であること。そうであればあるほど、人々は驚き、狂喜するんだわ。偽物には人々を興奮させる強い作用があるの」
ケイコはマスカラを塗った長いまつげを震わせて頷く。ミカの言葉には、いつもケイコにはよくわからない深い響きがあった。テレビの砂嵐のように、不明瞭なところの奥から聞こえてくるような。ケイコにはそれが真実そのものであるように感じられた。自分にはどうしたってそんな風には話せない。感じてもいないことをどうして上手に話せるだろう?彼女の頷きはいつでも実感に満ち、驚きと尊敬で溢れ、ミカの心を喜ばせる。
ミカは喫茶店の古い壁を見渡す。かつては最先端であっただろうデザイン。茶色に金色を混ぜた格子柄。天井には白い大きな羽が回っている。彼女はテーブルの上に乗った小さなコーヒーカップのつまみを人差し指でそっと持ち上げると、カチャリと音を立てさせた。猫と戯れるような仕草。彼女の動きには演技めいたところがある。ジェスチェーによる表現を愛しているのだ。彼女はソファに深く腰掛けると、視線を落として地面を見つめる。瞳は何も見ていない。地面と瞳の間にある思索的なゆらめきをかろうじて眺めている。彼女はここのソファを愛していた。背を預けると身を包むように沈み、耳の後ろから古い学問的な匂いを漂わせるここの茶色いソファを。店員は三十を過ぎた無口な男だった。彼は問題では無い。店の時代遅れの雰囲気も、入口そばに置かれた申し訳程度の観葉植物も、こだわり切れないコーヒーの味も、どれも問題では無かった。ここにこのソファがあること、それだけが重要だった。彼女の知り合いであるほとんどの人間が彼女についてこう言った。「頭が良すぎるんじゃない?私が話すんじゃ、きっと退屈するんじゃないかしら、よく言えばね。悪く言えば?ひねくれ者なのよ、単純に」あるいはこんな風に言う人もいた。「さあ、良く知らないわね、私たちの前ではあんまり話さないから」ミカは時々、ひどい孤独感に襲われることがあった。自分の話す言葉が誰にも伝わらず、誤解だけを生むように思えた。彼女はある人の前では知識を試すように熱心に話し、ある人の前では諦め、重く沈黙した。彼女は分厚い本が好きだった。文字が密集し、窮屈に並んでいるのを見ると、わくわくした。そして、少し憂鬱になる。それを読むことで、自分の孤独がより強固になるような気がした。ソファがあること、それが大事なのだ。こうして深く腰掛け、小さなこげ茶色をしたテーブルを挟み、ケイコの上向いたまつげを見ていること。彼女に向かって想いを話すこと。彼女が全てを理解出来ているとは思わなかった。それどころか、半分も理解出来ているとは。それでも、この行為には彼女が失いかけたコミュニケーションの気配があった。言葉を用い、それを不完全に受け取られること。彼女たち二人は、言葉を介しながら、言葉で無いところで互いに感じあっていた。
「この間、服を買おうとしたの、代官山で」ケイコが話す。「私はお金をコンビニでおろして、街を歩き始めた。いくつかお気に入りのお店を回ってから、私たちは散歩し始めたの。買い物という目的を忘れて、いつの間にか歩くことが目的になってしまったのね。そういうことがよくあるのよ。いつもは通らない道を通り、表にテーブルを並べたカフェでコーヒーを飲んだ。それから、ある一軒のお店に入ったの。私がいつも回るようなお店と、よく似た雰囲気の服屋に。そこで、私は一枚のブラウスを手にとった。デザインが可愛かったから、私は値段と背中のタグを見た。そしたら、いつも私が着ているブランドだったのね。ところが、良く見てみると、何かが違う。雰囲気もデザインもそっくりだけど、どこかおかしいのよ。鏡に向かって服を合わせると、その違和感は一層増した。私はもう一度タグを見た。すると、そこに書かれている文字は少し違ったのよ。ブランドの名前が、Uの箇所がOになってた。私びっくりしちゃった。こんな街にも偽物があるんだって」
彼女たちは夜の風を感じ、人波と反対に向かって歩く。通りは暗闇とアルコールの雰囲気で満ちた。ビルのところどころでライトが欠け、タクシーがいくつも通りすぎていく。ミカはパンプスの履き心地に苦情を言い、都会の空気の汚れについて未来にまで渡る不吉な苦言を呈した。場違いな居酒屋の勧誘が彼女たちに声をかけ、ミカの神経に触れた。駅の背後で、薄暗い空に雲が早く流れている。ごうごうと、時々、強く風が吹いた。
「偽物が多すぎるせいだわ、あまりにも偽物が多いもの。まとわりつくこの黒く汚れた風も、そしてこの不快感さえも、きっと偽物なのよ」
彼女たちは囁き、頷く。わずかにズレたコミュニケーションを根底に感じながら。