05. 聖なる魚“フィーリフィッシュ”
「フィーリフィッシュって?」
「おい、そこかよ!!フィーリフィッシュまで知らんのか、お前ってヤツは・・・」
ナズナのあまりの無知ぶりに思わず突っ込んだリックだったが、そんな状態になってしまう環境にいたのかと、憐れみを覚えた。知らず言葉は尻窄りになる。
そんなリックに軽く憤りながら、内心ナズナは開き直っていた。
非常に不本意ではあるが、この21年で積み重ね刷り込まれていた馴染み切った常識は、この世界では通用しないことが多かった。今では生活に困らない程度にこの世界の“常識”というものを理解している。しかしそれは世界や国の概要、貨幣や生活必需品の相場、日常で使用する道具の使い方など、本当に生活を営む必要最低限の知識であった。よってそこから少しでも外れた“常識”は未だナズナの中に揃っておらず、往々にしてそれはナズナにとって“非常識”であることも多かった。
そんなナズナは、自ら情報を与えてくれるリックの前では無知を隠さず、わからないことは“聞くは一時の恥”と自分に言い聞かせ情報を集めていた。躍起になって情報を集め回るのは普通の人から見ればおかしな話なので、自重し流れに任せてはいるが。
この世界の人間からすれば、ともすれば異端と見られてもおかしくない“非常識”なナズナに気付いているのかいないのか。リックはナズナを気にかけ、戯けたり茶化したりとあくまで明るく、そしてさり気なく、この世界の“常識”を与えていた。
「で、フィーリフィッシュって?」
ナズナにとってみればこの世界にいること自体理不尽である。無知であるのは不可抗力だと、無意識に苛立った声を上げてしまう。
「ああ、悪い。フィーリフィッシュはな、神聖な魚っていわれてんだ。所謂聖魚ってやつだな」
「生魚…成魚……制御…?ってああ聖魚か?ええっ!魚かぁ…」
聖女でも聖獣でもなしに、聖なるものが魚であることにナズナは驚いた。地球に聖魚なるモノはたとえ概念だけでもあったかと記憶を漁るが、思い当たらない。少なくとも一般的ではないだろう。
「神聖って・・・精霊の御使いってこと?」
魔法が当たり前に存在するこの世界で、精霊は日本の八百万の神と似た存在であるらしかった。決定的に違うのは、精霊が確実に存在し稀に目撃されている点と、魔法という恩恵をこの世界の者に与えている点である。
精霊は万物に宿り、何処にでも漂い存在しているらしい。特に力のあるものは可視化でき、そのなかでも最も力あるものは精霊王と呼ばれている。人間にとって精霊王が最高神にあたり、崇め奉る対象となっていた。
ちなみにこれらはナズナの“異世界ビックリランキング”の上位に入賞している。
そんな精霊の眷属は特に神聖視されており、人の前に現れたものを“精霊の御使い”と呼んでいた。
リックはナズナの言葉に頷くと、嬉しそう声を弾ませて続きを話す。
「んでな、このフィーリフィッシュは普段滅多に捕れないんだ。てか目撃情報すら稀だ。なのにな、なんでか大量に捕れちゃったんだよ!」
「ああ、つまり天変地異の前触れか!?ってこと」
日本でも普段は捕れない魚が大量に捕れたらそう思うくらいである。精霊と密接らしいこの世界で聖魚が大量に掛かったなら、パニックになってもおかしくないのかもしれない。
それにしては嬉しそうだと訝しみながらも、ナズナは当たりを付けてみたのだが。
「はぁ!?なんでそうなるんだよ。神様が施しを下さったって、街中お祭り騒ぎだぞ」
「…えっ」
思いがけない方向からバッサリと否定され、ナズナは驚きに小さく声を零す。さすが異世界目線が違うとどこか呆れつつ、新たな知識を脳に刻み込む。
「神の御使いなんでしょ?なんで施しになるの」
「フィーリフィッシュはな、聖魚の名の通り聖なる力を内に秘めてて、それを食うと精霊の加護が得られるって噂だ。普段はその希少性から貴族サマの口にしか入らねーんだが、今回は庶民に行き渡るくらい捕れた。漁師も僥倖ってんで、売らんで配ってるらしい」
「それはまた…人がいいね。それこそ稼ぎ時だろうに」
これまた予想外の方向性に言葉に詰まり、自身の考えを言葉にしてしまわないようにと少しズレた感想を述べる。
ナズナの感覚からすれば、神聖なものに対して供物を捧げることはあっても、反対に神聖なものを食べてしまうなんてありえなかった。今回彼らのいう“施し”は漁業によって得られたが、目線を変えれば捕獲ともとれるのだ。
どうにも罰当たりな気がして恐ろしく、後に祟られてしまうのではないかと心配にもなる。
しかしリックは嬉しそうであるし、街からはお祭り騒ぎの喧噪が確かに聞こえてくる。この世界ではこれは祝福の類なのだと、賑やかな空気に認識させられる。
大抵の場合、意識に根付いた祝い事を否定することも、それをした者自体も周りから忌諱されるものだ。特にこの世界では神聖視されている精霊絡みのものを否定してしまった場合、狂信者に何をされるかわかったものではない。
リックとナズナは会話した回数は決して多くないが、ナズナの王宮勤め以来3ヶ月の付き合いにもなり、互いの人となりを理解しつつある。
リックは軽そうな外見にそぐわず、多少彼らの倫理観に合わないことを口にする者がいたとしても、決して一方的に指弾したりしない。むしろ一般的な感覚を教え注意を促しながらも、個人を否定せず受け止めてくれる懐深い人間だとナズナは知っている。必ずしも外見と中味が一致しないという良い例である。
しかしナズナは異邦人だ。
たとえ姿形が似通っていても、ナズナの身も心もこの世界から生み出されたものではない。欠片も混ざっていないのだ。脈々と受け継がれる血も、この世界に根付いた性質も、何一つとして持っていない。
何処にも属さない存在。本質的に、独りぼっちだ。
仮にナズナがこの世界の住人だったなら、大衆からズレている思想であってももっと曝け出していただろう。リックにだってもっと気安く、色々な事を話していただろう。
同じ世界で生まれたもの同士、きっとわかり合えるはずだと信じたはずだ。納得はしてもらえなくても、理解してくれるのではと期待したはずだ。
そんな青臭い理想は、ナズナにとっては見ることの出来ない甘い夢だった。
話もそこそこに、ナズナは帰宅の途に就いた。
道すがら押し付けるように与えられる“施し”を丁重に断り、この世界に来て一番の明るく賑やかな喧噪を背にして。
掛けられる声に愛想笑いを返しつつ、重くなる足を叱咤して家に着いたとき、どっと疲労を感じた。
途中で買った食料品の紙袋を、思わず漏れた乾いた笑いを誤摩化すようにテーブルに置いた。