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魔術師の選択

魔術師の選択 -たとえ、わからなくても-

作者: ゆきいろ

*1*


 それを見付けたのは、偶然だった。

 彼女たちが場所を選んでいたこともあったし、藤間樹とうま いつき自身が閑散とした場所を好きだったことも起因した。

 教室や特別教室などから離れており、一般生徒が好んで使用しない階段。ひとがあまり来ないということで、良からぬことにも使われそうな場所である。その二階と三階を繋ぐ踊り場に、少女がふたり立っていた。

 雰囲気は、あまり穏やかではない。

 髪の長い少女とセミロングに纏めた少女が居たが、どちらの表情にも剣呑な光が宿っていた。片方には冷たさが、片方には激情がしっかりと見て取れる。

 ──これは、また……

 ここまで正反対に見える例も珍しい。

 どちらとも、普通に笑っていれば魅力的な少女に見えるだけに痴話喧嘩の類だろうと樹は当たりを付けた。

 気になり、足音を隠して近付く。

 階段の下、ちょうど踊り場を見上げるカタチになった段階でも、少女たちは気付かなかった。お互いだけを見遣り、静かなやり取りが続くだけだった。

 ぼそぼそと口を開いているようだが、言い合いをしている雰囲気はない。近いモノを拾い出せば、相手への干渉と拒絶。

 友好的ではないものの、それは姉妹間の仲違いに似ていた。

 眩しいものを見るように、樹は目を細める。

 片方が手を伸ばし、片方が振り払う。

 幼い子がしていれば、それはそれで微笑ましい日常の風景だろう。もう高校にもあがった少女たちがすれば、どことなく子供っぽさが目に付くが。

 しばらく眺めて、樹は踵を返す。

 ずっと見ていても仕様のないことだったし、最初の好奇心以上はなにも湧き出てこなかったから。

 だが──……瞬間、後ろで声が弾けた。

「いい加減にしなさいよ!」

「うるさいっ」

 甲高い声が響き、振り返る。

 セミロングの少女が下り階段の端っこに足を掛けたまま、髪の長い少女へと向き直っていた。

「流依には関係ないでしょっ!」

「関係なくない!」

 流依と呼ばれた少女が、セミロングの少女に詰め寄る。手を伸ばして──少女はそれを弾いた。手と手が叩く乾いた音は良く響いた。

 そして、あ、という間の抜けた言葉はどちらの台詞だっただろう。

 振り返った樹には分からなかった。

 拒絶した少女がバランスを崩し、緩やかに落下の姿勢を取る。くらりと上半身から揺れている為、自らで受けることは難しいだろう。

 まだ踊り場に居る少女からは、驚きに目が開かれる。やや頬に赤みが差しているのは、先程の興奮からか。当初、冷めている印象を受けたが、内面は大きく異なっていたらしい。

 落ちようとする少女が無意識に手を伸ばし。

 それを見た少女が捕まえようと手を伸ばす。

 だが、手は無情にも空を切る。

 落ちる。

 間に合わない。

 何よりも、そのまま階段下へ落ちた場合、無事では済まない。

 樹は咄嗟に左手を持ち上げる。

 頭の中に一枚の静止画が浮かんだ。幼い少年が運動公園かどこかで野球ボールを手にして笑っている場面。見たことのあるような面影は、それが自分なのだと理解させられた。瞬間、頭の中の静止画に罅が入った。

 頭に鈍痛を感じ、視界がぼやける。

 指先がとても熱かった。

 踊り場から落下しようとしている少女を中心に、直径3cmに満たない光が取り囲む。それは、くるりと円環を形成し、落下していく少女から一定の距離を取った。

 樹は息を呑む。

 漫画や小説のように、言葉は不要いらない

 複雑な行程も必要がなかった。

 落下する少女を掬い上げる。自分が行おうとしている行為と、その対象をしっかりと見定め、実行すれば事は成る。

 持ち上げた左手を、少女へと振るう。

 頭の中の罅が入った静止画が、まるで割れた鏡のように砕けた。数多の破片となり、映ったものが引き裂かれる。破片はゆっくりと下に向かい、架空の黒い床に叩き付けられ、粉々に舞う。

 痛みがある。

 同時に、光が一層強く輝き、少女を現在の座標に固定する。

「え──?」

 驚愕の声は少女たちからあがる。

 落下しようとしていた少女の身体は、落下しようとした体勢のまま、不自然にあった。踊り場から身体は斜めに傾いている。しかし、重力から逃れ、そこに縫い止められているかのようだった。

 樹は息を吐く。

「あまり動かないでくれます? すぐに下ろしますから」

 一歩前に進むと、流依から見られるのが分かった。

 落下を縫い止められた少女も、首を動かし樹を見た。

 ──動かないでと言ったのに。

 少女が動いたことで崩れた光球を微修正しつつ、樹は不満げに言った。

「特にあなた。下手に動かれると、そこから真っ逆さまになりますよ。無事で居たかったら、下に着くまでそのままにしてください。動かれると安全の保証が出来ません」

 まだ熱を持った指先をゆっくりと己の方に曲げる。

 指先の動きに従い、円環をなした光がゆっくりと巡る。少女を中心に、くる、と動いた。

 身体から水平に突き出された左手に、樹は右手を添えた。左の指先に宿る熱の半分を意識的に右手の指先に移し、今度は右手をゆっくりと水平に動かした。

 光球が少女を中心に円状に広がる。それらは規則的に移動し、やがて少女の位置をゆっくりと移動させていく。

 斜めに固定された立ち位置から、普通に立てるように地面にまっすぐと直し、そのまま階段へと降ろす。

 少女の身体が重力に捕まり、己の足で立った事を確認する。

 光球が完全に消えた。

 ──上手く行った、かな……

 未だ引かない鈍痛を意識しつつ、安堵する。突発的に行ったことなので、いつ失敗するか内心怖かったのだ。

 肩を竦め、樹は踵を返した。

「待って」

 呼び止められる。

 視線だけを元に戻すと、流依が驚きの表情のまま見下ろしていた。

「あなたは──……ううん、今のはなに?」

「さあ、なんでしょうね?」

 惚けるように言うと、流依の眉がつり上がった。

「ふざけないで。今の、あなたがしたんでしょう。じゃないと、直前の台詞が可笑しいじゃない」

「だから、なんなんですか?」

「何って……さっきのは何なのって訊いてるの」

「知ってどうするんです?」

「どうって……」

 流依が言葉に詰まる。

「気になるじゃないの! それに、訳が分からないじゃない!」

 いつの間にか階段にへたり込んだ少女が言った。眦に涙が浮かんでいるものの、強気に睨み付けている。

 樹は、醒めたように見上げる。

「それを知る必要があるんですか?」

 ──こんな特異なものを。

 続く言葉は喉元で止めた。

 少女としては重力に手を引かれ、落下するはずだった未来が少しだけ変わっただけである。下手をすれば大怪我をするはずだったものが、幸いにも防がれただけ。悪いことになった訳ではない。

「もしかしたら怪我をしていたかもしれないことが、何でもないことに化けた。それだけ分かっていれば十分でしょう」

 二人の顔を眺めると、どちらも二の句は告げないようだった。

 目を伏せて、視線を外す。

 再び声を掛けられる前に、樹は歩き出した。



 これが、樹と少女たちの出逢いだった──……。




*2*


「なかなか、体調悪そうだねぇ」

 ぽんぽん、と軽く肩を叩かれて樹は頭をあげる。

 机の前に陽気な顔が立っていた。目が合うと、彼はにっこりと笑い『や』と手を挙げた。

「新城……」

 呻くように名前を呼ぶ。

「いつも元気そうだね」

「反対にお前は、三日に一度ぐらいは体調悪そうだけれどな♪」

「その、体調が悪そうなやつに明るく声を掛けてるじゃん」

「俺まで暗くなってどーすんのよ」

 けたけたと彼は笑い、足で前の席を引っ張りだした。

 新城当麻しんじょうとうま。同じクラスの秀才だった。性格は明るく陽気、容姿は平凡だが、ハリネズミのような短髪が良く似合っている。人懐っこい笑みは、どこか安心できた。

「そっとしておこう、っていう考え方はないんだ?」

 突っ伏していた机から、難儀そうに樹が身体を起こす。

「俺はどっちかと言うと、距離置かれるより、こうやって接して貰った方が嬉しいし。自分が嫌がることは他人にしない。自分が喜ぶことを他人にする」

 なるほど、と樹は微笑わらう。

 ともすれば一方的な押し付けになりかねないのに、彼がすると嫌味にならないのは性格によるところが大きい。

 ──何よりも孤立しがちな樹に、臆することなく接してくれるのは貴重だった。

「まあ、お礼を言っておく」

 頭痛もどことなく軽くなったし、と付け加えた。

「『とーま』は堅いねぇ。もうちょっとフランクに行っても良いと思うけどな」

「これでも十分柔らかくなったんだけど」

 新城が人差し指を立て、のん、と振った。

「入学当初のあれに比べればって話だろ。あんなん比較の対象にならねーって」

「同じ人物だから比較対象になるよ」

 若干、視線を逸らしつつ言った。

「ならん。どこの世界に同世代に変な敬語使うやつ居るんだよ」

「初対面だったから……」

「精々が丁寧語どまりだ。男で『わたし』って真面目に言ったの、お前で初めて聞いた」

「うっさい」

 樹は肩を竦める。

 内心で仕方がないじゃないか、とも言い訳していた。

 入学したての頃、顔合わせの意味も込めて自己紹介をしあう事は珍しくない。相手に自分はこんな人間ですよと理解して貰うには、手っ取り早いとさえ言えた。

 だが、樹はそこで完全に滑ったひとりだった。

『私の名前は藤間樹です。趣味は読書。宜しくお願い致します』

 字面だけを見れば奇妙ではない。

 社会人ともなれば、何度か使用するようなフレーズだろう。

 しかし、高校入学したての子供が使うには些か無理があった。仕草や礼が、それなりに見栄え良かったことも影響した。どこの小説か漫画の世界の人物だと、かなりの人数が引いたのである。

 ──だって、知らなかったんだもん。

 学校生活というものを、高校に入ってから初めて学んだのだ。それまでは自分たちのコミュニティの中でしか生きてこなかった。

 生きられなかった。

 閉じた中で、保っていくしかなかったのだ。

「その割には、随分絡んできたよね」

「そりゃあ、な。だって自分の名前と同じ読みが居るんだ。嫌でも気になるって」

「普通はそこ止まりじゃない」

「んー……なんつーかな」

 新城は頭を掻いた。

「放っておけなかったんだよ。お前、見ていて危なっかしいだろ」

「同世代に心配されるなんて、涙が出そうだね」

 もっとも、本当の意味で同世代は無いのだと樹は知っている。閉じたコミュニティの中に居た理由だ。

 記憶と自我を喪失し、樹は七年前に『生まれた』。それ以前は何も知らない。身体の成長具合から、だいたいこのぐらいの年齢だろうという当たりを付けて高校に通うようになったのが今年のこと。本当の年齢が合っているのか、著しく乖離しているのか、すべてを無くした樹にとって分からないことだった。

 その意味で、新城の言葉は正しい。

 むしろたった七年で、危なっかしそうという程度まで回復できたことの方が驚きである。

 記憶喪失として放り出された時も、現在も、自分の廻りには、それだけ気に掛けてくれるひとが居るという証かもしれない。

 心がほこる。

「でも、まあ感謝してるよ」

「さよで」

 新城は屈託無く笑った。

 その後、ところで、と一転して真面目な顔をつくる。

「『とーま』くん」

 この手の声と顔は、真面目そうに見えてくだらないことを言う合図なのだと樹は二週間で覚えていた。

 だから、気軽に返す。

「なにかな」

「次の土曜日だけどな、一緒に遊びに行かないか」

 彼はこっそりと人差し指をあるところに向けた。

 あまり大きな動作にならないよう、樹もゆっくりと視線を巡らせる。

 新城が指した方向には、普段、彼が一緒に居るグループが集まっていた。男女数人ずつの混合メンバ。窓際に陣取り、誰もが楽しそうに笑っている。

「あいつらと行くことになっているんだけどな。もうひとりぐらい増えた方が色々楽しかったりする訳だよ」

 男女混合メンバは、少年が二人、少女が四人だった。新城を加えても少年三人──なんとなく言わんとすることは理解した。

「でも……」

 どことなく困った風に樹は顔を伏せる。

 彼等が嫌いな訳ではない。むしろ、目の前に居る新城同様、拙いながらも気配りの出来る、優しいひとたちだということも知っていた。樹ひとりが増えたとしても、彼等なら嫌な顔をせず迎えてくれるだろう。そんな確信はあった。それを見越して新城は誘っているのだ。

「僕は良く分からないから」

 話題に乗れる自信はなかった。

 彼等に気を遣わせるだけになることが容易に想像できる。

「あー、もう、大丈夫だって。別に深く考える必要はないんだ」

 呆れたように新城が声をあげる。

 それに、樹は答えなかった。俯き、殻にこもる。

「どうしたもんかねぇ……」

 これ見よがしに新城はそらを見上げる。

 既に幾度か繰り返されたやり取りだった。

 ここまで来たらあとは有耶無耶に終了になるだけが、決まり切ったパターンになりつつある。

 だが──

「新城くん、ちょっと良い?」

 どちらかと言えば鋭い声が彼等に割り込む。

 新城と、そして樹が声をした方に目を向けた。

 樹は危うく声を出しそうになった。

「四条さん? それに、碧海さんも」

 新城から驚きの声が出る。

 傍らに立ったのは、ふたりの少女だった。

 髪の長い少女とセミロングに纏めた少女。樹も見覚えがある。先程、階段の踊り場で仲違いしていたふたりである。とても一緒に行動する仲の良さは見受けられなかったが、事実、ふたり一緒に居るということが、受けた印象は誤解だということを物語っていた。

 四条しじょう

 碧海おうみ

 それがふたりの名前の一部なのだと知る。

「どうしたんだ? なんていうか……」

「私と上総が一緒に居ることが珍しい?」

 流依と呼ばれていた少女が、軽く息を吐く。

「いや、まあ、えっと……」

「取り繕わなくても良いわ。自分でも、そう思っているから」

「そう?……だったら本音を言わせて貰う。本気で珍しい。正直、ふたり犬猿の仲だったから。一緒に居るってだけで一大ニュースっぽい」

 にかっと笑う新城に、セミロングの少女──上総かずさが軽く手を振り下ろした。

「いたっ」

 頭を抑え、軽く新城が声をあげる。

 上総が半眼で睨んだ。

「そこまで言わなくて良いの」

「恥ずかしがらなくて良いってば」

「別に、仲良くなった訳じゃないから。必要になったから、そうしているだけ」

 上総は、ふい、と不満そうに顔を背けた。

「そうね」

 流依が同意の声をあげた。

「別に和解している訳でもないから。そうしないと纏まらなかったから、そうなっただけよ」

「俺から見たら、ふたりとも似た者同士に見える」

「なるほど」

 流依が頷く。

 そして──上総と同じように手をあげ、振り下ろした。上総が叩いた時よりも、若干強めだった。

 樹は内心、なるほどと納得した。

 確かに似た者同士である。

「ところで、何か用?」

 頭をさすりながら、賢明にもやぶ蛇を突くことはせず、新城は話題の転換させた。

「どちらかと言えば、こっちの方にあるわ」

 半眼のまま、上総は樹の方を射た。

 睨まれているというイメージが、かなり強かった。

「『とーま』に?」

「とうま君って言うんだ」

 流依も樹を見る。

「ああ、藤間樹って言うんだよ。俺と同じ読みが入ってる、珍しいやつ。かなり人見知りだけどな」

「名前より後の情報は、要らないわね」

 流依がばっさりと切り捨て。

 そうね、と上総が同意する。

「……」

「……」

 どことなく肩を落とした友人に、樹は微苦笑を零した。

「肩を叩いた方が良い?」

「言うな」

 机に『の』の文字をなぞる。

 本気で傷ついている訳でもないのだろう。深刻そうな雰囲気を醸し出そうとしているが、どの行動も冗談めいている。

「藤間樹くん、か」

 上総が確認するように名前を転がす。

「とりあえず、さっきはありがと」

「……どういたしまして」

 その台詞を聞いて、新城は顔をあげた。

「なに、『とーま』なにかしたの?」

「痴話喧嘩に通り掛かっただけだけど」

 言った瞬間、ぽかりと頭を叩かれる。

 いたい、と零して出てきた手を追う。

 流依が半眼で睨んでいた。

「痴話喧嘩の意味、ちゃんと解ってる?」

「……ごめんなさい」

 逆立てられた綺麗な柳眉と迫力に負け、即座に謝罪する。力の弱い女の子だが、怒っている声は確かに身を竦ませる効果はあった。

 少女はなおも口を開き掛け、肩を竦めた。

「良いわ。そういうことを言いに来たんじゃないから」

「何を目的に?」

「お礼ってところかな」

 上総が言った。

「御礼参り…?」樹は額に冷や汗を浮かべた。脳裏には踊り場を見上げた光景が蘇る。綺麗な素足と──普段は見えてはいけないそれを見た。「や、でも、あれは不可抗力……」

「不可抗力?」

 上総が首を傾げ、呆れたように流依がため息を吐いた。

「助けて不可抗力ってのも変な話よね。ちゃんと意味を考えてから使わないと伝わらないわよ」

「……」

 樹は一瞬だけ沈黙する。。

 齟齬はすぐに理解した。少女たちは気付いていない。踊り場から落ちる運命だったところを助けた。純粋に、それだけのことで探し出したのだろう。

「別に大したことはしてないです」

 素っ気なく言う。

「そうかしら? 下手をしたら、上総(あの子)は怪我では済まなかったかもしれないのよ。それでも、大したことないって言える?」

「結果としては、何もなかったんです。もし、なんて言葉を使い始めたら、色んな事が面倒になります」

「頑なね……」

「それに、新城くんと話している時よりも固いみたい。そういう言葉遣いされると、とてもじゃないけど同学年とは思えないわ」

 上総が言うと、樹の正面から声が漏れる。

 くつくつ、と笑うのは他ならぬ新城だった。

「だから言ったじゃん。『とーま』は人見知りだって。俺だって、ここまで打ち解けるのに苦労したんだよ?」

「コツを教えて欲しいわね」

 流依が新城を見た。

「根気が一番だと思うよ。ね、『とーま』?」

 尋ねられて、樹は顔を背けた。

 言葉を返す気にはならなかった。

「あらら、へそ曲げた?」

「別に」

「ご機嫌斜めだねぇ」

「そんなんじゃない。──僕としては、本当に大したことをしたつもりではありません」樹は流依と上総を交互に見た。「だから、そういう気遣いは不要です」

 丁寧な言葉で包んでいるものの、それは、はっきりとした拒絶だった。関わらないで欲しいというサイン。関わるつもりはないという宣言。

 反応は対照的だった。

 哀れむような、呆れたような表情を向ける流依と。

 気分を害したと判りやすく主張する上総。

 そう、と静かに零したのは流依だった。

「それはそれで仕方ないわね。でも、君を探しに来たのは、お礼だけじゃないわ」

 怪訝に瞳を細め、続きを促す。

「聞きたいこともあったから」答えたのは上総だった。「助けて貰ったはずのあの時、どうしたのか。あれって──」

 続きを言わせたくなくて、樹は机の端にあった教科書を床に落とした。

 落下音で、言葉は遮られる。

 上総は口を噤んだ。

 樹の意図を理解したに違いなかった。

 正直なところ、その先の言葉を口にされても、樹としてはあまり痛手にはならない。TVの前で宣言されても変わらなかった。

 ──だれが信じるだろう。

 常識では考えられない現象は、受け入れられないだろう。手品やトリックだと思われるのが関の山、下手をすれば狂っていると見られるのがオチだ。夢見がちなひとなら飛びつくかもしれない。それとて僅かだろうことは予想が付く。

 だが──……

 目を伏せ、まぶたの裏に、気さくな知り合いの顔を浮かばせる。

 新城が、どんな反応をするのか樹には判らない。

 そのことが、少しだけ怖かった。

「『とーま』?」

 樹は首を振った。

「なんでもない。指先が当たっただけ」

 屈んで落とした教科書を拾い上げる。

 ちらり、と少女二人を見遣ると、樹は続けた。

「用事はそれだけですよね? 帰ってくれませんか」



*3*


「早めに帰るのかと思ったら、そうでもなかったわね」

 校門を出たところで、行く手を遮られるように少女は立った。

 流依だった。傍らには上総もいた。

 本日三度目の出逢いに、樹は遂にため息を吐いた。

「仲、良いですね」

「別に良くないわよ」

 打てば響くように、上総が反論の声をあげた。

「そうですか? その割には、一緒に行動しているようですが」

「それだけでしょ。それで仲良く見えるんだったら、あなたの目は節穴よ」

「……そうですか」

 酷い言い様に、正直、どうでも良くなった。

 改めて二人を見れば、確かに距離感が隠れ見える。二人の立ち位置は、やや間が空けられており、微妙なところにあった。似た者同士の雰囲気はあっても、友好のそれはなかった。

「待ち伏せってところですか?」

「ええ、その通り」

 流依が言った。

「昼間に話せなかったでしょう。だから改めたの。──そうは言っても、此処じゃ昼間の時と変わらないから移動しましょう」

 くるり、と少女は廻り、歩き出す。

 着いてこいということなのだろう。

 樹の予定など、何一つ問わなかった。

「強引ですね。僕の予定があるかどうかも訊かないんですか」

 三歩後ろの位置を確保する。

「一応、着いてきてくれているわね」

「ただ単に、帰り道がこっちだからということもあるかもしれませんよ」

「ちなみに予定が入っているのかしら?」

「特に何も」

 普段良く利用している三叉路を見据えつつ、でも、と続ける。

「予定が無いから着いていくというのは、安直だと思いませんか。知らないひとに関わらないと言うのは、今や常識です」

 くすり、と零された声が前方から届く。

 ちなみに上総は先程から樹の隣を歩いている。

「敬語、似合ってないわよ」

「……今更」

「同じ歳だから、新城くんの時みたいに普通で良いと思うわ。そっちの方が自然でしょ」

「一度使ったら、なかなか変えられないんです」

 三叉路に差し掛かる。

 流依は先行して右を選んでいた。

 樹はちらりと左の道を見遣る。そちらを選べば普段通りである。お人好しにも少女たちに付き合う義理などないのだから。

 隣を歩いていた上総が、くい、と樹の腕を引いた。

「予定がないのなら、おいで」

 素っ気なく、だが、どこか抗いがたい声。

 振り解こうと思えば、幾らでも手段はあった。本気で嫌がれば、少女たちも諦めただろう。しかし、樹はそんな気分にはなれなかった。

「どこへ行くつもり?」

 意識して言葉を切り替えた。

「特にアテはないの。どこか行きたいところがある?」

「無いけど」

「なら、しばらく歩きましょうか」

 流依がようやく振り返る。

「訊きたい事もあるし、ね」

「……昼間の出来事、かな」

 人気ひとけのない踊り場の出来事。

 階段下へと落ちるはずだった上総。確かに、それを阻止したのは樹だった。あの場面を見れば、気になるのは頷ける。

 少女たちはどこまで見ただろう。

 左手を振るったところからか。

 宙に留めた少女をゆっくりと降ろしたところだけか。

 それとも──その動作には何も気付いていなかったのか。

 そうね、と流依が頷く。

「まるで、超能力のようだったわ」

「それはまた、ファンタジーだね」

 微苦笑を零した。

「茶化さないで。真剣に言ってるわ」

 ──そうだろうな。

 内心で、樹は頷く。

 少女たちは現実に足を付けて生きている。少なくとも、夢現に微睡みながら歩いているようには見えなかった。非現実的な、あるいは非常識的な光景を目の当たりにして、複雑な想いで樹の前に現れたことは想像に難くない。

 四条流依。

 碧海上総。

 このふたりが、犬猿の仲であることは、新城から聞いている。踊り場での喧嘩も、あまり珍しいものではないらしかった。

 そのふたりが、わざわざ揃って此処に居る。

 問いかけをするためだけに、一緒に行動している。

 冗談とするには、ふたりの距離があまりに遠かった。

 ──答えるか……?

 少しだけ迷う。

 知られて困る事はなかったし、秘密にしなければならない類でもない。信憑性はともかく、そういうものは巷に溢れている。

 はぐらかした場合と答えた場合の展開を予測し、今後という皿で天秤に掛ける。

「……」

 傾いたのは、答えた場合だった。

 はぐらかして、また新城の前で力のことを尋ねられるよりは、良いのではないかと考えた。

「答えてはくれないのかしら」

「……超能力とは、言えない」

 静かに樹が言うと、流依と上総の視線が鋭くなった。

「あれは超能力なんかじゃない。もっと別のモノ。別の法則で動かしただけのものだよ」

 じゃあ、と上総が声をあげる。

「何だったの?」

 至極単純な問いかけに、樹は一瞬だけ息を止めた。

 あれ。樹が上総を宙に留めた技術。──そういった使い方も可能な別の法則で動くもの。

 奇蹟。

 異能。

 秘技。

 昔はあらゆる呼び方が混在していたようだが、いまでは、たったひとつに統一されている。樹が所属したコミュニティのなかでも、その性質に揺らぎはなかった。

 たったひとつの呼び方が、とても的を射ていたから。

 それ以外の何かで呼ぶには、あまりにも凄惨だったから。

 常識の中では異端であるそれは──……

「『魔術』。僕たちは、あの力をそう呼んでいるよ」

「『魔術』……」

 上総は呆然と復唱した。

「そんなものが、あったんだ……」

「結果は、自分の身で経験したよね」

「見てなかったら、冗談か嘘だと思ってる」

「だろうね」

 世間で常識とされているものは、恐ろしく堅牢だ。たとえ目の前で非常識が行使されたとしても、ひとは理由を付けて目を背けようとさえするのだから。

 嘘みたいな不思議な技術、魔術が存在するなんて、殆どの常識人は笑い飛ばすだろう。トリックを疑う方が容易い。それは、架空の物語の中にのみ存在することが赦される技術だった。

 でも、と樹は言った。

「『魔術師』は確かに居る」

「魔術師、それが君なんだね」

「その通りだよ」

 上総の歩みが止まった。

 つられるようにして、樹と流依の足も止まる。

「それって、なんでも出来るの?」

 低い声音で上総が尋ねた。

 本気の声だ、と樹は思った。

 何かに餓えている、手に届かないはずのものを渇望した声。

 上総の方へ視線を向ける。

 少女は俯き、どことなく陰を作っているように見えた。陽も傾き始めた夕方ということもあるだろうか。寂寥を纏っていた。

「上総?」

「──魔術って、なんでも出来るのかな。私を空中に固定するだけじゃなくて、亡くなったひとを蘇らせたり、時間を戻せたりするの?」

 俯いていた顔が、ゆっくりと持ち上がる。

 流依は口元を手のひらで覆った。

 ──どのように生きてきたら、十代の娘がこんな表情が作れるようになるのだろう。

 まるで、能面であるかのよう。持ち上げられた表情の上には、少女らしい輝きや柔らかさが削ぎ落とされ、悲しみも喜びも怒りも何も映してない無表情だけがあった。

 樹は僅かな哀れみを感じて、目を細めた。

 似たような貌を、そう遠くない過去に眺めたことがあった。

「無理だよ。魔術も科学同様、万能じゃないんだ。存在を知ったひとは良く勘違いするみたいだけれどね。これだって、ある法則を基に行使されているだけで、根本的な世界の仕組みを変更できる訳じゃない」

 だから、と樹は手を伸ばす。

 少女の柔らかな頬に触れ、髪をつまむ。手は止めない。耳を撫で、頭の上まで持って行く。

 身動ぐことさえしない少女へ、頭に置いた手をゆっくりと動かした。

「夢物語だよ、そんなのは。喪ったものは戻らない。てのひらから零れたものは、掬い上げられない」

 どんなに望んでも。

 どんなに祈っても。

 無くしてしまったものは、同じカタチで戻れない。──決して長いとは言えない刻の中で、樹はそれを嫌というほど味わった。

「そう、なんだ……」

「大切な、ひとだったんだね?」

 そんな顔が出来るのは、いつだって大切な誰かが居なくなったときだけだ。

 少女の肩がぴくりと震えた。

 答えとして、それだけで十分だった。

 家族か。恋人か。親友か。それとも、もっと別の類の『何か』であるのかは判らなかったが、そのひとが上総にとって、とてもとても大きなウェイトを占めていることだけは理解できる。

 上総は泣き笑いのような表情をした。

「わからないの」

 もう、あまり覚えていないから。

 ぽそりと呟くその姿が、どことなく痛々しかった。

「随分……」流依が冷たく言った。「随分冷たいわね。律は、あなたをあんなに慕っていたのに」

 微かな驚きに樹は目を瞠る。

 先程までの少女からは、想像できないほど冷たかった。

「結局、あなたにとって、あの子はそれぐらいだったんでしょ」

「うるさい」

 上総が睨む。

 険悪な空気が漂い始めたのを察して、樹は困惑した。

 ──悪い予感がする。

 魔術師の勘が告げている。

 ──この雰囲気を持続させてはいけない。

 それだけははっきりと言える。

 だが、既に睨み合い、いがみ合う少女たちに、七年前に生まれた子供に何が出来るだろう。

 悪辣な言葉が飛び交う様を想像して、樹は悲しげに目を細めた。

 もし、険悪になるようであれば……

 指先に少しだけ力を込める。

 ──入れ込んでいるな。

 先程知り合ったばかりの少女たちだと言うのに、二回目の魔術を行使してでも諍いを止めようとしている。

 お人好しな自覚はあっても、この処遇は珍しかった。

 ふたりが口を開き掛ける。

 樹は指先に力を込めた。

 三人が息を吸い込み、嵐の前にも似た静けさが破られようとした刹那……幸か不幸か、それ以上啀み合いが続くことはなかった。

 流行の歌が上総の鞄の中から流れてくる。

 その電子音に誘われるようにして、空気が弛緩した。

 不満げに口を歪ませながら、上総は携帯電話を手に取る。

 流依はふいと顔を背けていた。

 そして──

「えっ?」

 どこか呆然とした声が響くまで、そう時間は掛からなかった。



*4*


「魔術でひとを救うことは出来ますか」

 一通り泣き腫らした瞳で、上総は言った。

「お父さんとお母さんを、助けられますか」

 声は震えていない。しかし、どこか縋るような響きがあった。瞬きひとつするまいと樹を見遣り、一言でさえ逃さないぞという意志が見えた。

「あなたは言いました。喪ったひとを戻すことは出来ないと。お父さんとお母さんは、まだ違います。まだ生きてます。大きな怪我はしているけれど、死んでなんかいないです」

 スカートを掴む手が、しっかり握り込まれているのを見逃すことは出来なかった。

「もしかしたら、何もしなくてもいつかは起きてくれるかもしれません。でも、もしかしたら二度と目覚めないかもしれません」

 医師の話を借りるとすれば、どちらにもなり得るということだった。このまま植物人間となり、いつ目覚めるともしれない入院生活になってもおかしくないのだと聞いている。

「わたしは、お父さんとお母さんと過ごせなくなるのが嫌です。叶えられるのなら、わたしに出来ることならなんだってします。いま出来ないことなら、将来にわたってでも返します」

 だから、と上総は頭を下げた。

「お願いします。助けられるのなら、助けてください」

 樹は憐憫に満ちた目で上総を見やる。

 少女の願いはまっとうであり、誠実だった。

 叶えられなくはない。

 だが────……

 未だに頭を上げる気配のない少女の肩に、触れるように手を伸ばした。

「不用意なことを言ってはいけないよ」

 不意にまったく知らない第三者の声が響き、少女に触れようと伸ばした手を引っ込める。

 上総が頭をあげる。

 樹は振り返った。

 樹の隣に静かに立っていた流依もまた、同じようにした。

 さして広くもない病室の入り口に立っていたのは、老齢に差し掛かった男だった。昔のひとにありがちな威厳に満ちたような雰囲気はない。優男がそのまま歳を取っただけのような、穏やかな表情の紳士がいた。

 目元がどことなく上総に似ている。

 口元は、ベッドに横たわる男性にそっくりだった。

「おじいちゃん…」

 ──やっぱり。

 予想に違わず、そのひとは上総の血縁者だった。

 ふっと少しだけ微笑み、上総の祖父が近付く。

「遅くなってすまないね。これでも十分急いだつもりだったんだが、それだけでは足りなかったらしい」

 そのひとは、上総の傍まで歩み寄ると頭をひとなで。

「流依ちゃん、だったかな。きみが傍に居てくれたのなら、この子も心強かったろう。ありがとう」

「いえ……わたしは」

 戸惑いに流依が揺れる。

 仲が良い訳ではないという話が頭を過ぎった。彼はその話を知らないのだろうか。

 そうかもしれない、と思う。

 歳が離れていれば離れているだけ、存在が遠ければ遠い分だけ、分からなくなるものなのかもしれなかった。

 彼はゆっくりとベッドの方に近寄った。

 沈痛な面持ちで目を覚まさないふたりを眺める。

「まったく多少は目を離せるような歳になったと思えば……親不孝とはこのことだろうに」

「おじいちゃん……」

 彼は目尻を下げ、首を振った。

「ともあれ、しばらくは様子を見るしかないだろう。上総、もう少しばかりふたりを頼むよ」

 それから、と彼は流依の方を見た。

「流依ちゃんも。もう少し、上総の近くに居て欲しい」

「……私で良ければ」

「十分だよ。助かるね」

「はい」

 そして、と彼は樹の傍に寄る。

 彼の瞳の奥に懊悩を見付ける。内側に大きな哀しみを抱いていることが分かった。抱かないはずがない哀しみを、少しだけ見せ付けられた。

「向こう側で話をしようか」

 病室の外を指される。

 静かだけれど、否とは言わせない雰囲気がそこにあった。

 簡単ではないだろうが、言葉をはね除けることは出来なくはなかった。それに従う理由はなかったこともある。

 だが──樹は頷く。

「分かりました」

 樹は病室の外に出る。

 彼もまたそれに続いた。

「おじいちゃん?」「樹くん?」

 声を掛けられるが、敢えて無視した。

 病室と廊下を隔てるドアを抜け、リノリウムの廊下を歩く。後ろを振り返らずとも分かる。年老いた男性は後ろに着いてきていたし、上総と流依は困惑しつつも病室の中から動かなかった。

 病室から距離を空けるように、談話室の方へと向かう。

 距離も程良いだろう。

「どこへ向かうつもりだい?」

「話をするのなら、談話室の方が良いでしょう?」

「あまり、ひとに聞かれなくない類の話をするつもりでいるよ。そこはひとが居るのではないかい?」

「居たらその時──聞かせない手段はあります」

「『魔術』を使って……かな?」

 胸の裡で、ため息を吐く。

 魔術の存在を知っている、そのことに驚きはなかった。

「その通りです」

 談話室へとたどり着く。

 中へ入ると幸か不幸か、ひとの姿はなかった。人払いの必要も、魔術を行使する必要もなかった。

「杞憂でしたね。誰も居ません」

 談話室の中程まで進んで、くるりと翻る。

 まっすぐに相手を射た。

「それでお話とはなんですか?」

「概ね予想は付いているのではないのかい?」

「そうでもないですよ」

 そうか、と彼は肩を落とした。

「なら、もう一度言おうか。不用意なことを言ってはいけないよ。魔術の行使は出来る限り避けるべきだ」

「魔術を使えば、昏睡状態からは救い出すことが可能です」

 言外に自分の息子と娘を助けたくはないのかと、孫が哀しみにくれたままで良いのかと尋ねた。

「確かに」

 彼は頷く。

「魔術を使って貰えば、あの子たちはすぐに目を覚ますかもしれない。上総もあんな風に泣き腫らしたりはしないだろう。けれど、君は知っているね? 魔術の行使には代償が伴うことを、魔術師なら身を持って知っているはずだね?」

 樹は目を細めた。

 ──やはり、と内心では想っていた。そうでなければ、最初の言葉の意味が繋がらないのだから。

「知っているんですね、代償の話」

 奇蹟。異能。秘技。力の悪辣さが判明するまでは、沢山の呼び方があった。しかし、この技術は最終的に術者を幸せにすることが出来ない。技術を行使するには代償が求められ、それは決して些細な何かではなかったから。

 それが分かっていても魔術師は、魔術師であるが故に、今も昔もこの技術に縋るしか術はない。必然的に使うしかない場面に立たされる。

 そうした意味も含めて、この技術を『魔の術』──魔術と呼ぶのだ。

「若いときに教えて貰ったよ。魔術師に会っていたからね。魔術を行使し続けた魔術師が、幸せになった例を僕は知らない」

「……その通りです」

 魔術によって幸せになった部分は少なからず実例がある。

 奇蹟に近い出来事を引き起こして、誰かを救い、絶対的な不幸から誰かを遠ざけた例も数多い。

 しかし、魔術を行使する魔術師自身に焦点を当てた場合……樹自身も知らない。大抵、最後には破滅して終わっている。

「今も、無いんだね?」

「聞いた限りでは。現在いまを生きている魔術師は、まだ分かりませんけれど」

「では、尚更だろう。自分の身を削ることはない。魔術を行使するのは止めておきなさい」

「助けたくは、ないんですか?」

「そういう風に見えるかい?」

 問われて、懊悩に満ちていた表情を思い返す。

 樹は静かに首を振った。

「いいえ」

 助けたくないとは夢にも思っていないだろう。そのままで居て欲しいなどとはカケラさえも感じていないだろう。むしろ、自分に出来るのならば何を犠牲にしてもと想う方だろう。

 幸か不幸か、魔術師ではない彼には、信じること、祈ることしか出来ない。

「黙っていれば、高確率で意識を取り戻したでしょう。それをわざわざ何故?」

 彼は目を伏せた。

 しばらくの間を空けて。

「若い時に魔術師と逢った、その言葉は先に言ったね。その時の彼を見ているからだよ」

「……」

「僕が逢った魔術師は、お人好しすぎるほどに優しかった。君と同じように。しかし、魔術を行使した結果は──……」

 言葉は尻すぼみになり、小さく消えた。

 噤んだ口からは、先の台詞は出てこなかった。

 ──魔術を行使し続けた魔術師が、幸せになった例を僕は知らない。

 きっと、彼が逢った魔術師もまた、幸せにはなれなかった。

 傷跡を人の心に遺してしまった。

 そういうことなのだろう。

「魔術行使の直後に、すべて喪失したんですか?」

 いや、と彼は言った。

「その時に代償となったものは、別のものだったようでね。その時以前と同じように接することが出来たよ」

「では、その魔術師は、その時の選択について何か言いましたか?」

 苦痛を堪えるように彼は顔を歪めた。

「強い子だった。優しい子だった。人を慮ることが出来る子だった。だからなのか、少なくとも、僕の前では言わなかった」

「あなた以外のひとの前では吐き出していた?」

「……いいや、それも無かったはずだよ。そうすれば、僕の耳に必ず言葉が入ってきただろう」

「選択の是非については何も聞いていないんですね?」

「その通りだ」

「それなら──」

 樹は彼との距離を一歩詰めた。

 手を伸ばし、伏せられた目をこじ開けるように頬に手を伸ばす。無理矢理にでも瞳をあわせた。彼の、微かな驚きを灯した瞳をまっすぐに見た。

「魔術師は、選んだんです。結果がどうなるかなんて、知らないはずはない。分からないはずはない。それでも、そうすべきだと想って、あるいは何かを願って、技術を行使した。確かに、あなたには忘れられない傷跡を遺したかもしれない。魔術師の自己満足が多分に入り込んでいたことは否定できない」

 それでも、とことさら強く言った。

「選んだんです。魔術師がそれで良しとしたんです」

「……それはある意味で傲慢だよ」

 樹は微笑む。

「それを赦されるのが、魔術師です」

 魔術を使えても、そこにいたるまで、魔術師は大事な沢山のものを奪われている。魔術を行使するその瞬間ときでさえ、また奪われる。

 得たものの大きさに比例して、奪われ続けるのが魔術師だ。

 納得するかは別として、それを覚悟しなければ魔術師なんてやっていけない。生きていけない。

 人の心に大きな傷跡を遺したとしても。

 他人から石を投げつけられ、傷ついたとしても。

 それを背負っていかなければならないのだ。

 それは義務であり、権利であり、魔術師の生き方である。

 仮に出来ることがあるとすれば、最善の結果になるよう努力することだけ。

「諦めてください。それが魔術師です。──そして、これから選ばれることも受け入れてください」

 頬に置いていた手を外す。

 自分もまた願うことがあるからこそ選ぶ。

 上総に、流依に、入れ込む理由は分からないけれど。

 そうした方が良いと心の深い部分が語りかけていた。

「君は──……」

 にこりと笑う。

「藤間樹です。そう言えば、あなたの名前をまだ教えて頂いていませんでしたね。名前を頂けますか?」

 彼は少しだけ逡巡し、肩を竦めた。

碧海智久おうみ ともひさ。上総の、祖父だよ」

「智久さん、ですね。ありがとうございます。初めて逢った魔術師のことを気に掛けて頂いて」

 智久は首を振る。

「その程度のことしか出来ないんだよ」

「十分です。出来るなら、名前をずっと覚えておきたいです」

「光栄だね」

 会話が途切れる。

 ふと談話室の掛け時計に目をやれば、それなりの時間が経っていた。上総や流依も、そろそろふたりを探し始めにくる頃かもしれない。

「僕は先に行きます。申し訳ないけれど、智久さんは後から来てくれませんか。5分程度で十分です。その時間があれば、全部終わってますから」

 返答を待たず、智久の横を通り抜ける。

 樹は病室まで戻る。

 やるべきことは決まっていた。


*


『藤間樹です。そう言えば、あなたの名前をまだ教えて頂いていませんでしたね。名前を頂けますか?』

 そう言われた時、実のところ智久は、ちくりとした胸の痛みを覚えていた。年甲斐もなく泣き出しそうな気持ちに襲われながら、それを悟られないように堪える。

碧海智久おうみ ともひさ。上総の、祖父だよ」

 ──君の祖父だよ、とは言えなかった。

『智久さん、ですね。ありがとうございます。初めて逢った魔術師のことを気に掛けて頂いて』

 何も知らない子供は……

 記憶を失い魔術師となってしまった孫は、そう言った。

 出来ることなら叫びたかった。

 違う。違うのだ、と。

 何も知らない魔術師を気遣った訳ではない。まったくの関係の無い誰かであれば智久とて、何も気遣わず、むしろ早く目覚めさせてくれと願っただろう。そのぐらい自分勝手な人間であると自覚している。

 名前も顔も知らない誰かではなかった。

 あの調子を見れば、上総も流依も気付いていない。

 だが──上総の父を育ててきた智久には分かる。目の前に立つ孫の生まれた姿を見、自身の腕に抱き上げた智久には分かる。

 この子は律だと。

 七年前に居なくなってしまったあの子であると。

 だからこそ、忠告せざるを得なかった。

 不用意なことを言ってはいけない。

 助けるにしろ、助けないにしろ、律にとってはどちらも辛い選択でしかない。

 魔術は魔術師を救えない。

 魔術を行使し助けてしまえば、律はその代償によって大切な記憶を奪われる。

 魔術を行使せず見捨ててしまえば、今後律としての記憶を取り戻した時に見捨てたという事実だけが残ってしまう。その結果が最悪であれば、律は自分を責めるだろう。

 ──どうして魔術師なんて存在するのだろうか。

 昔にも問いかけた疑問は、今も解決出来ないままだ。

 深い苦みを裡側に抱き続けたまま、智久は言った。

「その程度のことしか出来ないんだよ」

『十分です。出来るなら、名前をずっと覚えておきたいです』

 魔術を使えば使うほど、魔術師は忘れていく。

 大事な記憶を。

 今は想い出せないかもしれない尊い出来事を。

 使う度に、想い出を消費するのだ。

 影響力が大きければ大きいほど。

 魔術師の望みが大きければ大きいほど。

 その代償は、より大切なものになっていく。

「光栄だね」

 今回のことで、律は大きな記憶の欠落が出来るだろう。

 自分では気付いていなくとも、両親を助けようとするのだ。その代償が小さいことはあり得ない。

 七年以上前の、おそらく魔術師となる為に『仮贄』とされた記憶の殆どを奪われても不思議ではない。

 そうなれば、もはやこの子は律として戻ることは出来なくなる。

 かつて出逢った魔術師がそうであったように。

 だが魔術師であるこの子は選ぶという。

 そこに智久が口を挟む権限はなかった。

『僕は先に行きます。申し訳ないけれど、智久さんは後から来てくれませんか。5分程度で十分です。その時間があれば、全部終わってますから』

 言って、律は智久の横を通り抜ける。

 声を掛けぬまま、振り返らぬまま、智久は俯いた。

 潤んでいた瞳は、律には気付かれなかっただろうか?

 律の言葉は、正直ありがたかった。一緒に病室に行き、その場面を見続けて堪えられる自信はなかったのだ。

 智久は拳を握る。

 奥歯を噛んだ。

 せめて子供たちだけでも幸せにしたいと願うのに。

 ──無力だ。

 今も。

 そして、昔も。



*5*

 脳裏に一枚の写真が浮かび上がる。

 ──これは?

 疑問を抱きつつ、写真は二枚、三枚、四枚と追加される。顔が黒く塗りつぶされた写真。大人が二人。男性と女性だ。子供も二人。姉と弟だろうか。顔は黒く塗り潰されていたが、手を繋いでいたことから仲は良さそうだった。

 どの写真も、映る場面は違っていても、その四人が映っているというのは変わらなかった。

 映されているのは、家族か。

 いつの間にか写真は十数枚へと及んでいた。

 ──ああ。

 これが今回の代償なのだと樹は悟る。

 喪われる直前にのみ、何が代償に選ばれたのかが分かる。この瞬間だけしか代償については分からない。ここを過ぎれば何を喪ったのかさえ忘れてしまう。

 もっとも、こうなってしまえば後戻りは出来ない。術の行使を止めたとしても、喪われることが決定しているのだ。

 ──もしかしたら、これは僕の家族なんだろうか。

 藤間樹と名乗る前の、七年以上前の忘れてしまった家族。そう思えば、どこか懐かしさを覚えていた。代償として捧げられる以上、これから先、もう想い出せる可能性は皆無だろう。

 そのことに少しだけ残念に想う。魔術を使わなければ、いつかは想い出せたかもしれない。

 あくまでも可能性の問題として。

 ──後悔はしてない。

 視界の端に映る、上総の泣き顔を眺める。

 両親に縋る、まだ庇護が必要な娘。

 泣いていて欲しくはない。

 その気持ちが何に由来するものなのか知りもしないまま──

 樹は手をかざす。

 熱が集まるのが感覚で分かった。

 少しだけ視界がぼやけ、鈍痛を呼び起こす。

 樹を中心とした円が結ばれ、光を帯び、指先に幾何学模様が映る。自分を中心として微風が吹き、服を、髪を、空気を揺らした。

 目を細める。

 魔術を行使するイメージは出来ている。

 薄闇の中に、斜めから一条の光を差すようなイメージだ。

 指を立て、まっすぐに払う。

 幾何学模様の半分が瞬時に動く。残りの半分は、ゆっくりと追随するかのよう。

 口を開け、息を吸う。

 声が必要だった。

 魔術の行使に呪文や言葉は不要。

 しかし、対象となる彼等が居るのは暗く冷たい世界の端だ。

 対象となる彼等は、常闇の世界に居るのだ。光は無く、音も無い。入り口は大きな岩で塞がれ、出口を求め先に進めば、螺旋の迷路の如き場所に居る。

 樹は、その岩をどかし、常闇に微かな標を立て、導く為の声を彼等に届ける必要がある。

 そう、イメージだ。

 実際に彼等の居る意識のない場所が、どんなところかなど分からない。それで構わない。

 要はイメージ通りに魔術が行使され、彼等の目覚める手助けになれば良いのだ。

 魔術師は、想像をし、それに基づき力を行使することしか出来ない。現実的な事象──例えば空を飛ぶだとか、ひとを一時的に宙に固定するだとか──を起こすのであれば、その通りに意識していれば良い。だが今回は、重傷を負った彼等が眠り続けないよう、起こす手助けをするだけ。どうすればその手助けになるのか、そのイメージはひとによって様々だろう。

 両手を使い幾何学模様が病室を埋め尽くす。

 開いたままの口から、声を紡ぎ出す。

「これって、まさか……」

 流依の声がする。

「歌はないけれど、良く律が歌ってた曲?」

 うん、と上総は頷く。

「……飽きもせず、歌ってたね。歌詞なんて分からないから、ずっと鼻歌で」

「今頃になって、同じように聴くなんて」

 彼女たちは、この口から出る旋律を知っているらしい。

 樹には馴染みのないものだった。

 幾何学模様は幾重にも重なり、未だベッドに横たわるふたりを包む。戻るか。届かないか。ただの魔術師である樹には分からなかったが、なんとなく手応えは掴んでいた。

 ──だいじょうぶ。

 なんとなく言える。

 ──怖がる必要なんて、ない。

 目覚めることも。

 己の記憶が失われることも。

 口を閉じ、指先を払う。

 視界は光が満たし、脳裏に描かれていた写真が、すべて粉々に砕けた。鈍痛は瞬間的に激しくなり、そして潮を引くように消えた。


*


「終わったんだね?」

 背中に声を掛けられ、樹は振り向く。

 微笑を浮かべた老紳士──智久が病室のドア付近に立っていた。

「5分以上、時間を掛けてしまったんですね……」

 智久は首を振る。

「僕が少しばかり時間を間違えたようだ。歳を取ると、どうにもいけないね。もう約束の時間が経っただろうと想っていても、実際はそうではなかったということだよ」

「そうですか」

「それで、首尾は──?」

 何のとは聞かれなかった。

 お互い了解している項目であるからこそ、省いたのだろう。

 樹は未だベッドに横たわり、目を覚まさないふたりを眺める。状態としては先程から変わっていない。彼等に繋がれた機械も、魔術を使う前から計測値は同様のはずだった。傷が治っている訳でもないし、表情から苦痛の色が消えている訳でもない。

「もしかして、ダメなの……?」

 不安げに上総が声をあげる。

 目尻には既に涙が見え始めていた。

 樹はそのままベッド上のふたりを眺めて、頷く。

「大丈夫」

「えっ?」

「きっと大丈夫。この人たちは目を覚ますよ」

「そうか」

 智久はかみしめるように言った。

 上総は目を白黒させたまま、二の句が継げなかった。

「ちょっと待って」慌てたように流依が言う。「その根拠って何なの。どうしてそう断言できるの」

「勘」

「はい?」

「魔術師としての勘。大丈夫、目を覚ますって」

 流依は口を開けた。

「それって……」

 樹は微苦笑を零す。

「申し訳ないけれど、本当にそういうことしか言えないんだ。魔術って言うともっと劇的なものを想像されるのかもしれないし、昼間のような夢のような出来事を思い浮かべると想うけど、全部が全部そんな風にはならないんだよ。例えば病気や怪我を治すだとか、眠っているひとに夢を見せるだとか、そういうのは魔術を行使している時は大がかりだけれど、実際の効果は緩やかにしか現れない。一瞬で効果が出て、めでたしめでたしなんて無理な話だから」

 怪我をして魔術を行使しました。

 一瞬で怪我が治りました。

 そんな現実があれば、魔術はもっと早く世間に露呈している。そうではないのだ。あくまでも魔術は別の理と法則によって、その力が成り立っている訳であって、荒唐無稽な何かではない。

 出来ることには限りがあり。

 限りある中でも、即効性のものは多くない。複雑に事象が絡み合うものであれば尚更のこと。

 魔術は万能ではない。

 奇蹟でもない。

 特別ではあるが、継承されてきた技術のひとつである。

「君の見立てでは、大丈夫ということだね?」

 智久の問いかけに、頷くことで答えた。

「まだしばらくは目が覚めないでしょうけれど、やがて目を覚まします。障害も残らないでしょう。日常生活に戻れますよ」

「そうか。ありがとう」

 いいえ、と樹は言った。

「そろそろお暇します。──魔術を使うのって、結構疲れるので」

 これは病室に残る三人に向けて。

 流依は身動ぎをし、上総が口を開き掛けたが、樹はその先の言葉を聞くつもりはなかった。

 いま、話すべきことはないように想われたからだ。

 疲れているということに、嘘偽りもまったくなかった。痛みはなかったが倦怠感が身体を包んでいた。しかも今日は短時間の内に二度も魔術を使っている。疲れない訳がなかった。

 傍らをするりと抜けて病室から出る。

 樹の意図を汲んでくれたのか、言葉が間に合わなかったのか、あるいは智久が静かに制止を掛けたのか。呼び止められることは、なかった。

 そのまま廊下を抜け、外に出た。

 明るかったはずの空は、既に薄闇のなかにあった。

「夜だ、ね」

 微かに星が見える。

 月の見えない星月夜。なんとなく、好きな夜だ。

 ──なにが代償になったのだろう。

 空の星を数えながら、ふと想う。

 もはや想い出せることではないと知りつつも、気にせずにはいられないことではあった。

 後悔はなかったが。

 ──それに。

 上総。

 流依。

 智久。

 ……新城。

 忘れたくないと想っているひとたちは、まだ覚えていた。少なくともこぼれ落ちてはいないはずだ。想い出せないだけだなんてことは、きっとないはずだ。

 ──だいじょうぶ。きっと、大丈夫。

 呪文のように繰り返して、軽く息を吐く。

 それから、自宅へと向けて歩き出した。


最後まで作品を読んで頂き、ありがとうございます。

「小説家になろう」さんでは初めての作品になりました。


何か少しでも心に残れば幸いです。

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