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ティラノサウルスを探しに

掲載日:2026/03/10

 絵具でも塗りたくったかのような水色の空に、真っ白い入道雲が浮かんでいる。

 新緑の木々が青々と生い茂り涼風吹き抜けるだだっ広い公園は、子供達の格好の遊び場だった。


「ねぇ見て見て祐樹(ゆうき)!これっ、きょうりゅうの牙だよ!」


 荒れ果てた石畳の上に寝っ転がって、楽しそうに先の尖った石ころを高々と太陽へ掲げる少女。


 そんな彼女に、少し大人ぶってわざとらしくため息を吐いて見せる。


「そんな訳ないじゃん。ただの石でしょ。汚いから早く捨てなよ叶多(かなた)


 こんな場所に落ちている土塗れの石ころが、恐竜の化石なんてモノな訳がない。


 その返答に叶多はムッと頬を膨らませると、


「分かってないなぁ祐樹は。あの大きな雲のふもとには森があって、()()()()()()()()が雲にむけて大きな鳴き声を上げてるんだ」


 そう言って遠くの入道雲を見据え、その瞳を夢を包み込んだガラス玉のように輝かせた。

 

「きょうりゅうなんてずっと昔にぜつめつしてるんだぞ。そもそも本当にいたかどうかも…」


「いるよ」


 一切の曇りのない確信を持った返答を受け、思わず言葉に詰まる。


「だって、その方がワクワクするでしょ!いつか祐樹にも見せてあげる。約束ね」


 そして彼女は、吹き抜けた風に髪を靡かせながら、暖かな木漏れ日のように笑ってみせた。



 ――――――――――



 夏の暑さも鳴りを潜め、涼しい風に木々が鮮やかに色付いた頃。


 いつものように大きな頭陀袋を肩に背負って、川沿いの道を歩く。

 

 戦前はこの川で大きな花火を上げていたらしいが、そもそも戦争の終結自体が半世紀も前のこと。

 戦前というのは一体どれだけ昔の話なんだか。


 少し遠くに見える、空を突くような電波塔がまだ人の手によって管理されていた頃だろうか。

 今ではいつ崩れるかと寄り付く者のいないあの塔も、かつてはこの国の繁栄の証だったらしい。


「あれが崩壊したら、沢山鉄屑が拾えそうだな」


 歩を進める毎に袋の中の金属屑がジャラジャラと擦れ、不快な音を鳴らす。

 空はどんよりと垂れ込み、今にも泣き出しそうな様相だ。

 

「少し急がないと、塵混じりが降ってくる」


 半世紀前の戦争で発生した死の塵。

 日本の生活区域では地上付近の浄化はあらかた済んでいるそうだが、空には今もその多くが漂っており、雨が降ると一緒に地上付近まで落ちてくるそう。


 多少浴びたり吸い込んだところですぐに患うという訳ではないが、避けておくに越したことはないだろう。


 腕と足に力を込め、歩く速度を上げる。


 最初の頃は数時間で動けなくなっていた鉄屑拾いも随分と慣れたもの。

 袋の中身は、崩れて苔むしたビルの瓦礫や、蔦に覆いつくされた民家跡などから搔き集めた金属屑だ。

 それを、橋を渡ったところのスクラップ工場へと運び込む。


「すみませーん、引き取りをお願いします」


 工場の搬入口に設置されたプレハブの引き取り所で頭陀袋を下すと、すっかり顔見知りとなった受付の木村さんが顔を見せた。


 細身に長身の中年男性で、最近の悩みは寂しくなった頭部とのこと。


「ん、あぁ祐樹君か。いつも大変だね」


「俺は、これくらいしか出来ることがないので」


「まだ若いんだから、そんな事を言わずに色々と試してみたら良いのに」


 木村さんはよいしょっと頭陀袋を持ち上げると、プレハブ小屋へと持って入り中身の選別を始める。


「祐樹君の持ってきてくれるのは、状態が良くて助かるよ。状態が悪いと再利用するにも手間が掛かるから」


「昔、町工場でお世話になってたんで、金属の種類とか状態は多少の見分けが付きまして」


 物心ついた頃には両親は既に死んでおり、俺を育ててくれたのは町工場に住み込みで働く兄だった。


「なんだ、それだったら工場で働けば良いじゃない。うちも人手不足だし、スクラップの選別が出来るならそれだけでありがたい。何だったら僕の方から社長に話を通しておいてあげるよ」


「ありがとうございます。でも、すみません。そんな資格はないんです」


 俺はそんな兄を始め色んな人達を裏切って、そこを飛び出して来たのだから。


「君もなんだか難儀な子だなぁ」


 口を忙しく動かしながらも木村さんは慣れた手付きで金属屑を選別を進め、頭陀袋の中身はあっという間に空になる。

 そうして重量計が示す数値を電卓にカタカタと打ち込んだ。


「今日の総計は、三千と六百七十三円だね。切り良く、四千円にしておくよ」


 そんな言葉と共に、精算機から取り出された四枚の千円札がトレイの上に置かれる。


「流石にそれは……」


「良いの良いの、これくらい。祐樹君はいつも丁寧だし、お節介なおじさんに格好つけさせてよ。まぁ三百円ぽっちじゃあ格好も何もないかもしれないけど」


 その言い方からして、切り上げの補填分は木村さんが出すつもりなのだろう。

 酷く申し訳ない気持ちになるが、ここで固辞するのも失礼にあたる気もする。

 正直なところ、切り詰めた生活をしている身としては多少の金額もありがたいのも事実だ。


「いえ、三百円凄くありがたいです。すみません」


 頭を下げて四枚の千円札を手に取れば、描かれた偉人と目が合う。

 何処か責められているような後ろめたさに駆られながら、それを折り畳みポケットに仕舞った。


「どういたしまして。雨も降ってきそうだし早めに帰りなね。またよろしく頼むよ」


「はい、じゃあ失礼します」


 踵を返して工場を後にし、川下へ向けて速足で進む。


 ポツリと頬に雨粒が弾けた。


 振り返ると、周りの雲より更に一段と暗くよどんだ雨雲が空を食らいつくすようにこちらへ迫っている。


 その雲から逃げるように、ヒビ割れたアスファルトの大通りを小走りに駆け出した。


 落書きだらけの古いマンション群の間をしばらく真っすぐに進み、廃線となった線路跡を右折。

 ポツポツと人家の明かりが並ぶ住宅地の小道の、骨董品のような木造アパートの前で足を止める。


 アパートの一階に併設された庭では、品の良い老年の女性がいそいそと洗濯物を取り込んでいた。


「こんばんわ、佐田さん。お手伝いしましょうか?」


 このアパートの大家である佐田さんだ。


 ぎっくり腰で動けなくなっていたところを手助けして以降、二階の一室を格安で貸してもらっている。


「おかえりなさい祐樹君。もう終わるから気にしないで、疲れているでしょう。そういえばポストにお手紙来てたわよ」


「手紙ですか?」


 外階段横に備え付けられたポストへ視線をやると、確かに借りている二〇三号室の郵便受けに一枚の便箋が入っていた。


 このポストに何かが届けられたのは初めてだ。

 おそらくは何かの間違いだろうが。


 そんな事を思いながら便箋を取り出し裏面を確認する。


 送り主の欄には『古月(ふるつき) 叶多(かなた)』と書かれていた。



――――――――――



「祐樹、悪いがウチにはお前が高校に進学出来るだけの費用を払ってやれる余裕がない」


 只でさえ不愛想な兄から酷く真剣な表情でそう告げられたのは、中学三年の冬の事。


「じゃあ、試験に合格したのに進学は諦めろって言うのかよっ……」


「特待生での入学なら、寮での生活費くらいは工面してやれたが。授業料は無理だ」


 東京に一校しか無い高等学校。


 狭き門である入学試験には合格したものの、その点数は合格者の中ではほぼ平均といったところ。

 授業料が免除される上位一割の特待生には程遠かった。


 元より分かっていた。ウチの経済状況では特待生待遇でなければ進学は難しいであろう事など。


 そのために出来る事は全てしてきたつもりだ。しかし何処かで慢心があったのか、

 それともこれが自分の限界だったのか。


 しかし試験自体には合格している以上、簡単に諦める事など出来ようもなく。


「古月おじさんに頼めば」


 思わずそんな事を口にしていた。


 その言葉を聞いて、それまで何処か申し訳なさそうだった兄の表情が険しく歪む。


「馬鹿を言うな。古月社長には只でさえ散々お世話になっているのに、これ以上ご迷惑を掛けられるか」


「けどっ…」


「三年だ。三年間、工場で働け。給料が二人分になればあと三年程で進学の費用は揃うはずだ。それからもう一度受験すれば良い」


 高等学校の受験資格は二十歳まで、確かに三年後であればまだ受験は可能だ。


 けれどそれじゃあ意味が無い。


「叶多は今年入学するんだろ」


「あぁだからこそ尚更だ。只でさえ叶多ちゃんの進学費用が嵩むだろうに、お前の進学まで面倒を見てくれなど頼める訳が無いだろう」


「なら俺が直接おじさんに頼むっ。お金は高校を卒業したらすぐに返すって!それならっ」


「駄目だっ。高等学校への進学費用はお前が思っているよりずっと高く、簡単に返せるようなモノじゃない。今年は諦めろ」


 兄は一度大きく深呼吸をしてから、聞き分けの悪い幼子に言い聞かせるようにゆっくりとした口調で話す。


 俺に気を使って、考えながら言葉を選んで話していたのだろう。

 けれど、この時はそれがやけに腹立たしくて、


「そりゃあこんな郊外のちんけな町工場で働いてたらお金も貯まらないだろうさ!けど高校を卒業して都心で就職すればっ…」


 何も考えずに怒りのままにそう捲し立てた。


 直後、視界がグルンと反転し頬に走る重い鈍痛。

 床に倒れ込んで数秒、口の中に鉄の味が広まると同時に、自分が殴られたのだという事に気付く。


 手を挙げられたのは初めての事だった。


「お前はっ、お前は自分が何を言ってるのか分かってるのか!」


 兄が今までに見たことが無い激しい怒気を露にする。


 そりゃあ怒られて当然だろう、どう考えても俺が悪い。

 そんな事は幼子が見ても明らかだ。


 それでも、そう理解したうえで、もう止められない。


「こんな工場で毎日汗だくになりながら何年も働くなんて馬鹿馬鹿しい、まっぴら御免だねっ。俺は高等学校を卒業して研究者になるんだ!」


「なら今すぐに出ていけっ、この恩知らずの馬鹿野郎が!」


 吐き捨てた言葉の全てが本心だった訳ではない。

 けれど、売り言葉に買い言葉で取り返しのつかない事を口にして部屋を飛び出す。


 そして社宅の階段を駆け下りた工場の前。


「あれ祐樹、どうしたのそれっ。ほっぺ真っ赤だし、唇から血も出てるじゃん!」


 今、最も会いたくなかった彼女と鉢合わせた。


「っ叶多…何でもない」


「何でもなくないよ。早く冷やさないと。今お父さんもいるから、何かあったならウチで……」


「何でもないって言ってるだろ!もう全部うんざりなんだ、話しかけないでくれ」


 情けなくて、悔しくて、そう言い放ち叶多に背を向け駆け出す。


 最後に見た彼女の酷く悲しげな表情が眼の奥に焼き付いて、俺は何か決して損ねてはいけないモノを踏み躙ってしまったのではないか、そんな予感が消えなかった。



 ――――――――――



 懐かしい夢を見た。

 六畳一間の真ん中で突っ伏していた座卓から体を起こす。


 部屋に帰って来てシャワーを浴び着替えたところまでは覚えているが、その後どうも寝落ちていたようだ。


 付けっぱなしのラジオからは知らないポピュラー音楽が流れている。


 大きく伸びをしてふと座卓の上に視線をやると、そこに我が物顔で鎮座するカップ麺が一つ。


「あっ、最悪だ……」


 お湯を入れて待っている間に寝ていたらしく、三分などはとうに過ぎていた。


 恐る恐るカップの蓋を開けるとお湯の量は随分と減っており、代わりに膨れ上がった麺が我こそはとばかりに自己主張をしている。


 もはや口にせずともでろでろに伸びている事は明白だが、捨てるなんて勿体ない事は出来ない。

 

 汁を吸って重くなった麵を力強く啜りもちゃもちゃと咀嚼するが、案の定というべきか麺の口当たりは最悪で、汁も冷めてぬるく中途半端。

 とても美味しいと言える代物ではなくなっていた。


 大きく溜息を吐き、無心でカップの中身を掻き込み空にする。

 それから繰り返すように二度目の溜息を吐いて、座卓に放っていた封が閉じたままの便箋を手にゴロンと畳の上へ寝転がった。

 

 古月叶多、幼い頃からずっと一緒に過ごし、家族も同然だった幼馴染。


 あの日、三年前に家を飛び出して以降、彼女を含め知り合いとは誰とも一切の連絡を取っていない。

 なのに、何故この住所を知っているのか。


 薄い便箋の中に入っているのは間違いなく手紙だろう。

 内容が気にならないと言えば嘘になる。

 しかしあの日の叶多の酷く悲しげな表情が頭を過り、封を切るのが酷く恐ろしい。

 

 暫く便箋の封と睨み合い、それから開ける事はせずに箪笥へと仕舞い込んだ。


 また明日に考えよう、と。

 

 ラジオを止め、押し入れから布団を引っ張り出す。

 決算セールで安く売り出されていたところを買ったモノだが、それでもおそらくこの部屋では一番の高級品だ。


 毛布を掛け、電気を消す。

 静まり返った部屋に響く外の雨音。

 瞼を閉じてその音に耳を傾けるうち、意識は微睡みへとゆっくり落ちていった。




 激しい雨と風の音に目が覚める。


 陽は昇っていないとおかしい時間にも関わらず、部屋はまだ薄暗い。

 どうも昨日より天気が荒れているよう。


 枕元のラジオを付け天気予報にチャンネルを合わせれば、雨と強風は深夜まで続くとのこと。

 今日は元から休みの予定ではあったが、この天気では外に出ることすら出来なそうだ。


 色々と買出しに行こうと思ってたんだけどなぁ。


 台所で顔を洗って歯磨きを済ませ、昨日沸かしたお湯の残りをヤカンからコップへ注ぎ口に含む。

 水道水を汲んでいるが故の、鼻を突くような独特の匂いにも最近ようやく慣れてきた。

 

 ガスコンロにフライパンを置いて火を付け、冷蔵庫から取り出した卵を割り落とし塩を振って目玉焼きを作る。

 それを食パンの上に乗せて食らいついた。


 昨晩のでろでろに伸びたカップ麺と比べると、味気ないトーストも美味しく感じられるものだ。


 洗い物を済ませ、部屋の片付けと掃除を始める。

 外に出れないとなると、もうやることがない。


 そうしてある程度の整理が済んだ頃、ピンポーンと部屋にチャイムの音が鳴り響いた。


 この部屋を訪ねて来る客と言えば物好きな廃品買い取り業者くらいなものだが、こんな天気の日まで買い取りに精を出しているとは考えづらい。

 おそらくは大家の佐田さんだろう。


「はーい。今、開けます」


 玄関の扉を開ければびゅうと冷え切った外気が部屋へと吹き込む。

 そこに立っていたのは、白いチュニックに青のカーディガンを羽織った一人の少女。


「叶、多……」


「久しぶりだね、祐樹」


 まるで記憶の中から出てきたように、彼女はあの頃と何一つ変わらない瞳でそう微笑んだ。



 ―――――――――― 



 長袖のTシャツとズボンを洗面所のウォールラックに置く。

 隣の浴室からはシャワーの音とご機嫌そうな鼻歌が響いていた。

 

「着られそうな服、ここに置いておくぞ」


「ありがとー。祐樹も一緒に入る?」


 戯言は無視して、びしょ濡れの衣服が放り込まれた洗濯機のスタートボタンを押す。


 部屋へ戻り久しぶりに暖房を付ければ、エアコンが少し埃っぽい温風を吐き出した。

 

 台所でやかんに新しく水を汲み火にかける。


 しばらくして、ブカブカ服で洗面所から出てきた叶多が座卓の前の座布団に腰を下ろした。

 沸いたばかりのお湯をコップに注ぎ、その前に置く。


 彼女はをお湯をフウフゥと冷ましてからチビチビと口を付けると、


「このお湯、何か変な匂いがする!」


 何故か楽しそうな表情でそう言い放った。


 その呆れる程に屈託の無い笑顔に少し安心する。


「買ってきた飲料水じゃなくて、水道から汲んだ水だからな。それで、何でここに?」


「何でここに?じゃないよっ、祐樹が全然手紙を返してくれないからでしょ!手紙は受け取ったらすぐに返事を書くのがマナーだよ、全く」


 今度はプンスカと頬を膨らませる叶多。

 相変わらずコロコロとよく変わる表情だ。


 それにしても手紙、というのは昨日届いていた便箋の事だろうか。


「届いたのが昨日なんだから、そんなすぐに返せる訳ないだろ」


 東京圏内であれば郵便物の配達に掛かる日数は凡そ一週間から二週間程度。

 昨日のうちに手紙を読み返事を送り返していたとしても、届くのはまだまだ先になる。


 まぁ実際のところはまだ便箋を開けてすらいないのだが。


「え、昨日?本当に?」


「あぁ、昨日留守のうちに投函されていたみたいだけど」


「おかしいなぁ、一ヶ月前には出したのに…」


 叶多は困ったようにそう呟く。


 ここら一帯は東京圏でも端の端、住民も殆どがその日暮らしの貧困層。

 おそらくは後回しにされたか忘れられていたのだろうが、


「配達で何かトラブルでもあったんだろ」


 何となくそんなことを伝えるのは憚られ、そう誤魔化した。


「むー、それなら仕方ないか。特別に返事が遅れたのは許してあげる」


 許してあげるも何も、この件に関して俺に責任は無い筈なのだが。


「そもそも、俺がここに住んでるってどうやって知ったんだ?」


 昔から彼女はやけに勘の鋭いところがあったが、流石にそれだけでピンポイントにこの場所を見つけられるとは思えない。


「そりゃあ幼馴染だからね、そのくらいお見通しだよ」


 何の説明にもなってやしないが、詳しい事を話すつもりはないのだろう。


「兄貴や工場の皆には……」


「言ってないよ。祐樹がここにいるって知ってるのは今のところ私だけだと思う。そんな事より手紙は読んでくれたの?」


「いや、まだ」


「ふーん、まぁ良いか。こうして直接会ったんだし、今ここで話せば良いんだから」


 そして叶多はフッと一度息を吐いてから続ける。


「祐樹が出ていってからさ、工場の皆ずっと心配してたんだよ。お父さんも、私だって。哲雄(てつお)さんもずっと、祐樹に何かあったら全て自分のせいだって後悔してた」


「兄貴がそんなことを?」


 三年前のあの日、間違っていたのは俺だけだ。

 兄に非なんて何一つ無いというのに。


「だから早く帰って皆を安心させてあげてよ」


 そうすべきなのだろう。

 きっと三年間ずっと、そうすべきだったのだ。

 意地を張らず帰って兄や皆にしっかり謝って、今度こそ工場で働かせて貰えば良い。

 

 けれど…最初の半年は意地を張っていた。それから半年で身の丈を知って、この二年は後悔と惨めさに擦れるばかり。


 あの日、身勝手に飛び出しておきながら俺は何も成長していない。


「ごめん、まだ帰れない」


 今も、叶多の口にした言葉が自身を責めるモノでなかったことに安堵している。


 間違っていたのは全て自分だと自覚しておきながら、咎められるのを恐れていたのだ。

 この有様でどんな顔して帰れば良いというのか。


 その答えに叶多は呆れたように溜息を一つ吐くと、


「何となくそう言うんじゃないかなって思ってたけど、相変わらず意地っ張りだね」


 よいしょと立ち上がり、唐突に部屋の中を物色し始める。


「何してるんだ?」


「うん、広さは大丈夫そうだね。私、今日この部屋に泊まるから」


 夕飯の献立を伝えるくらいに気軽なトーンでそんな事を口にした。


「っ、ダメに決まってるだろ。おじさん達が心配する」


「えー、それ祐樹か言うの?皆、散々心配してたんだけどなぁ」


「…布団から何やら、一人分の生活用品しかないんだ」


「座布団を敷いて寝るから良いよ」


「風邪でも引いたらどうするんだよ」


 そんな言葉に叶多は一瞬、面食らったようにポカンとした後で、


「へー、心配してくれるんだ。でもそれなら尚更泊めてくれないと。あの洗濯機、乾燥出来ないでしょ?しっかり乾ききっていない服で外に出たら、それこそ風邪引いちゃうかもなぁ」


「っ…」


 そう言って不敵な笑みを浮かべた。


 確かに脱衣所の古い洗濯機には乾燥機能はなく、これから干したとしても夜までには乾ききらないだろう。

 そもそも暗くなってから雨の中、叶多を一人で帰らせること自体が論外な訳で。

 彼女がずぶ濡れでこの部屋を訪ねてきた時点で既に選択肢はなかったということ。


「…夕飯、碌なもん作れないぞ」


「お、久しぶりに祐樹の手料理だ」


「一泊だけだからな」


 台所下の戸棚を開き、インスタント食品の山の奥からカレーのルウを引っ張り出す。

 が、冷蔵庫を開けて中に入れる具材がないことに気付いた。

 

 最も近いスーパーでも歩きで三十分は掛かる。

 加えてこの雨と風だ。

 びしょ濡れになりながら往復一時間は流石に勘弁願いたい。


「ちょっと下の階の大家さんのとこ行ってくるから、そこで待っていてくれ」


「はーい」


 アパートの庭には大家の佐田さんの趣味である小さな家庭菜園があり、暇な日はよく手入れや収穫なんかの手伝いをしている。

 普段は料理などしないため収穫した野菜のおすそ分けは断っているが、丁度良い機会だ。

 先週収穫を手伝った人参とじゃが芋を少し分けて貰えないか尋ねてみよう。

 かなりの量を収穫したし、おそらくまだ余っている筈。


 玄関の扉を開け外廊下へと出れば、風に吹かれて雨水が顔を打つ。


 両腕を摩りながら速足で錆掛けの階段をカンカンカンと下り、佐田さんの暮らす一〇一号室のインターホンを押せば、すぐに中からバタバタと足音が聞こえ扉が開かれた。


「あら、祐樹君じゃない。どうしたの?ほらそこじゃ濡れちゃうでしょう、入って入って。そうだ、丁度美味しいお菓子があるのよ」


「あ、すみません。ちょっと今、部屋に来客がいまして」


 温かいお茶を用意するわ、と引き返そうとする佐田さんを引き留める。


 流石に部屋で叶多を待たせている中、のんびりとお茶を頂いていく訳にはいかない。


「珍しいわね。お友達?あ、それとも恋人かしらっ」


「い、いえ、昔の知り合いと言いますか。それでカレーでも作ろうかと思いまして。先週取った人参とじゃが芋が余っていたら一つずつ頂けないかな、と」


「えぇえぇ、良いわよ。まだまだ余っているからいくらでも貰っていって頂戴」


 佐田さんは奥の部屋へ引っ込むと、ガサゴソとスーパーの袋に食材を入れて持ってきてくれる。

 その量は明らかに人参とじゃが芋一つずつよりも多い。


「はい、これ持って行って」


 渡された袋には人参とじゃが芋以外にも玉ねぎと四分の一にカットされた南瓜(かぼちゃ)、それから鶏肉が入っていた。


「あの、流石にこんなに色々と貰う訳には」


「良いの良いの、いつも手伝って貰ってるお礼。それで恋人さんに美味しいもの作ってあげなさいな」


「いや、恋人じゃ…」


「でも女の子なんでしょう?やっぱり、こんな御婆ちゃんでも女の堪ってのは鋭いのよ」


 そう言ってウフフと笑う佐田さん。

 これ以上アレコレ言い訳しても敵わなそうだ。


「…ありがとうございます。明日カレーのお裾分け持ってきますんで」


「あら、楽しみにしておくわ」


 ありがたく食材を頂戴してそそくさと二階へと戻る。

 部屋の扉を開けると、叶多は目を瞑りラジオから流れるクラシック音楽を気持ちよさそうに聞いていた。


「あ、おかえり祐樹」


 今にも消えそうな月ような静やかで印象を伺わせたその横顔が、こちらに気付くと同時に明るく輝き咲き誇る。


 幼い頃から共に過ごし慣れた筈でもこうして一時目を奪われるのだから、初対面の人間など石になってしまってもおかしくない。


 そちらの道を目指せば大女優にでもなれたかも…いや、演技が出来る程に器用じゃあないか。


「…大家さんから食材分けて貰ったから、今日は鶏肉のカレーにするぞ」


「わーい、カレー久しぶりだ!」


 台所に立ってまな板を取り出し、まずは玉ねぎをくし切りにして薄く油を引いた鍋へ投入。

 それから鶏肉、人参、じゃが芋は一口大に、南瓜は弧形の薄切りにしておく。

 玉ねぎに軽く色が付いたら切った鶏肉を皮面から焼き、鶏油の香りが立ってきたら水を加えてひと煮立ちするのを待つ。

 後は人参、じゃが芋、南瓜も鍋へ放り込んで火が通るのを待つだけだ。


 ふと視線を感じ振り返ると、叶多が楽しそうにこちらを眺めていた。


「見てても楽しいものじゃないだろ」


「そんなことないよ。料理の音って聞いてるとワクワクするし、特にトントンって野菜を切る音とか」


「もう切るものはないけどな。パックご飯と食パンはどっちが良い?」


「それならご飯が良いなぁ。カレーはやっぱりライスじゃないとでしょ!」


「それは人によるとは思うけど」


 聞く人によっては激しい論争になりそうなことを口走る叶多。

 まぁかく言う俺もカレーはライスが一番好きではあるが。


 とりあえずもう一つ鍋を取り出して水を強火で沸騰させ、火を止めてからレトルトの白米を二パック放り込む。


 気付けば窓の外は雨雲すら覆い隠す夜の帳が降り切っていた。

 クラシックの流れていた筈のラジオはいつの間にか落語らしき噺へと変わっており、叶多は神妙な表情で耳を傾けている。


 興味の移り変わりもまた早いこと。

 音が聞こえていれば何でも良いのだろうか。

 

 具材を煮込んでいた鍋へカレーのルウを割りお玉で掻き混ぜる。

 だんだんと粘り気が強まり、同時に食欲をそそる香りが部屋へと広がった。

 隠し味なんて繊細なものは無し、具材とルウの味そのままのカレーだ。

 

 湯煎した熱々のパックご飯をどんぶりへと盛り、その上からカレーをたっぷりと掛ける。

 器がどんぶりなせいでカレーライスというよりカレー丼といった見た目だが、まぁ味は変わらないのだから構わないだろう。


「出来たぞ」


 と、スプーンとカレー丼を座卓の上に並べ、叶多の対面に腰を下ろした。


「わ、良い匂い。いただきまーす」


「いただきます」


 スプーンをどんぶりへと捻じ込み、カレーと具材と米を一緒に掬い上げ口へと運ぶ。

 鶏油と香辛料の匂いが鼻を抜けた。

 カレーの尖った辛さを野菜の甘みがまろやかに覆い、そこへ鶏肉の旨味が加わったバランスは白米にぴったりだ。

 

 最近は味気ない食パンやジャンキーなカップ麺ばかり食べていたからか、市販ルウで作った平凡な筈のカレーはあまりにも美味しかった。

 他に並ぶものなど無い世界一の料理なのではないかと思える程に。

 

 対面では叶多がスプーン山盛りに掬ったカレーを冷ますように息を吹きかけパクリと頬張る。

 それでもまだ熱かったのか、ハフハフと空気を含みながら咀嚼し飲み込んだ。


「熱いっ、舌火傷した」


 と言いながらべーッと舌を出すと、時間が経ちぬるくなったコップの水を口に含む。


「けど、美味しい!」


 それでも懲りずに零れそうな程のカレーをスプーンで掬いどんどん食べ進めてゆく叶多。


 細い身体の何処へ入ってゆくのか。

 どんぶりの中身は瞬く間に、綺麗さっぱりとそのお腹の中へ収められた。


 こちらはまだ二割くらい残っているというのに凄まじい食欲だ。


「祐樹、おかわりっ」


 そのくらい自分でやれと言いたいところだが、幸せそうな表情に仕方なく、差し出された空のどんぶりを受け取り立ち上がる。


「パックご飯湯煎するから少し時間かかるぞ」


「食パンで良いよ!」


 結局、パンも食べるのかよ……


 どんぶりにカレーだけをよそいオーブントースターで軽く焼いた食パンを半分に切って乗せ振り返ると、まだ少し残っていた俺の分のどんぶりが叶多の前で空になっていた。


「…おい」

 

「えへへ、美味しかった」


 そういえば昔から食い意地凄かったなと溜息を吐き、おかわりの分もその前に置く。


「ありがとう。やっぱりカレーにはパンだよね。本場のインドでもそうやって食べてる訳だし」


「さっきと言ってることが違うぞ。そもそもナンってあれパンなのか?」


 幼い頃と何も変わらない。

 普段は自由気ままで適当な癖して変な所で芯が強く頑固で、その笑顔に周りの人間は誰も敵わない。


 こうして一緒にいるとまるであの頃に戻っていくような錯覚すら覚える。

 ただ希望と好奇心だけを胸に、輝く世界を見ていたあの頃に。


「ごちそうさま。こんなに食べたの久しぶりだよ。お腹いっぱい」


 おかわりのカレーもペロリと平らげた叶多は、満足満足とお腹をさすりながら仰向けになった。


「食ってすぐ寝たら牛になるぞ」


「大丈夫!私、食べても太らないタイプだから」


 確かに昔から健啖家な叶多だが、成長期も含めずっと瘦せており体形が大きく変わったのを見たことがない。

 その分、腹以外も色々と控えめだが。


「あ、今何か失礼なこと考えたでしょ!幼馴染だから分かるんだよ、そういうの」


「そんなことより、もうどんぶりは片付けて良いよな」


「流石にもう入らないや。祐樹はおかわりしないの?」


「…これ以上は食べられない」


 佐田さんに持っていくと言ってしまったお裾分けを考えたら、もう食べる分はない。


「えー、少食だなぁ。そんなんじゃ大きくなれないよ」


 誰のせいで食べる分がなくなったと思っているのか。

 そして成長期もとうの昔に終わっている。


 残りのカレーはさっさとタッパーに移して、洗い物を片付けてしまう。


「ザッとシャワー浴びてくるけど、布団敷くか?」


「うーん、まだ良いや」


 そう言って叶多は寝転がったままゴロリと横を向き、眠そうに欠伸をした。


 洗面所へ入ると、洗濯機が終了の明かりをピコピコと点滅させていることに気付く。

 食事に夢中で忘れていたが、いつの間にか脱水まで全ての仕事を終えていたらしい。


 いつのも癖で洗濯機の天板を開けようとして、そこでふと手を止めた。


 中に入っているのは叶多が着て来た服。

 幼馴染とはいえ、勝手に取り出すのは少々アレだ。


「洗濯終わったみたいだから、干しておいてくれ」


「はーい」


 そう声を掛けて、自分の着替えと脱いだ服はラックのカゴへ放り込み浴室へと入る。

 体を洗い、髪を洗い、落ち着いた思考で考え込むのは今後のこと。


 明日、何とかして叶多を帰したとしても、頑固な彼女がそれで諦めるとは思えない。

 一度知った以上、また何度もここを尋ねて来るだろう。

 そうして彼女が何度も来ていれば、そのうち兄貴や工場の皆にも俺がここに住んでいることが露呈して……


 そこまで考えてふと心の何処かに、それも悪くないんじゃないか、などと思っている自分がいることに気付いた。


 本当にみっともないな。


 自己嫌悪に大きく息を吐いて、シャワーを止め体を拭いて浴室から上がる。


 服を着て部屋へ戻れば、叶多は並べた座布団の上で気持ちよさそうに眠っていた。


「ったく、だから布団敷いておくか聞いたのに」


「…もうちょっと、だけ、ね。パン、ケーキは、飛んでちゃった、から……」


 どんな夢を見ているのか、訳の分からない寝言まで呟いている。


「結局、服も干してないし…仕方ないな」


 押し入れから毛布を取り出して彼女にソッと掛け、付けっ放しのラジオを消してもう一度洗面所へ。


 心を無にして洗濯機から服を取り出し、ピンチハンガーへ止めて部屋のエアコンの近くへと掛けた。


 そして振り返れば、薄っすら瞼を開きこちらを見ている叶多。


「…起きてたなら自分の服くらい干してくれよ。ほら、布団敷くからそっちに」


 彼女はエヘヘと笑みを浮かべ今にも溶けそうな声音で、


「ゆうき、さ…あの大きな、くじら…まだ、覚えてる?」


 そんなことを聞いて来る。


「…あぁ」


 今も思い出の中に鮮明に残る、木漏れ日の降り注ぐ大きな公園。

 その一角に鎮座していた巨大なクジラのオブジェ。


「そのとなりの、おっきな建物は?」


 公園には昔使われていたという建物跡が幾つも残されており、クジラのオブジェの隣にも一際大きなレンガ造りの廃墟が立っていた。

 外壁の一部は崩れており、危ないから立ち入るなと口酸っぱく言われていたため、中に入ることは無かったが。


「それも覚えてる」


「えへへ…その、奥にね…灰いろの……」


 もう眠気が限界なのだろう、何度も瞼が落ち、言葉もたどたどしい。


「続きは、明日聞くから」


「そう、だね…待って……」


 そうして完全に瞼を閉じ、またすぐにスースーと寝息を立て始めた。


 一体なんだというのか。

 まぁ何にせよ、言った通り明日話を聞けば良い。

 寝ぼけていただけかもしれないし。


 結局、敷布団は余っている訳だが、叶多を座布団で寝かせて自分は敷布団でぬくぬくとなんてのは落ち着かない。


 一つだけ残っていた座布団を枕に畳へ横になり、部屋の電気を消す。

 いつの間にか外の風雨は止んでいた。


 ――――――――――


 ピンポーンとインターホンの音に目が覚める。


 時間は明け方、陽も登っていないようで外はまだ薄暗い。

 暖房を付けたままだった部屋の空気は、酷く乾燥していた。


 再度ピンポーンと鳴るインターホン。


 掠れた声で「はーい」と返事をし、寝ぼけ眼を擦って玄関のドアを開ける。


「お前、祐樹かっ?よく無事でっ……」


「兄貴!?」


 記憶より随分とやつれ、目の下に濃い隈を張り付けた兄は、そう泣きそうに表情を歪めた。

 それから、すぐ取り繕うように表情を引き締め、


「っ、祐樹、叶多ちゃんについて何か知らないか。五日前から行方不明なんだ」


 そんなことを口にする。


「…は?何言って、」


 五日前?行方不明?

 だって叶多は昨日この部屋に押しかけてきて、今もそこで……


 そう視線を向けた部屋は、ガランとして人の影一つない。


 起きがけの思考が上手く働かず、理解出来ないままに茫然と何度も部屋を見回す。


 皺一つ無く重ね置かれた座布団に、何も干されていないピンチハンガー。

 台所の水切りのどんぶりとコップは一人分。


 何も残っていなかった。

 叶多がこの部屋にいた痕跡が、何も。

 昨日という時間から彼女だけが、抜け落ちてしまったかのように。


「叶多ちゃん、三ヶ月前に蝋化病で倒れて…来年を迎えられるかどうかって話だった。先月からは延命治療を止め緩和ケアを優先していて、とても自分で動けるような状態じゃなかった筈なんだが…五日前、病院から姿を消したんだ」


 そんなこちらの混乱を知ってか知らずか、兄は言葉を詰まらせながらも話を進めてゆく。


「手紙が届いているだろう。行方を捜す中で、叶多ちゃんが先月誰かに手紙を出してたってのが分かった。それを調べたら送り先がこの住所だったんだ」


 そうだ、手紙。

 封も空けずに仕舞い込んだ手紙があった。


 縋るように箪笥へ駆け寄り便箋を取り出し、素手でビリビリと封を切る。

 中に仕舞われていたのは、丁寧に二つ折りに畳まれた手紙。

 広げればそこには震える文字で、


『てぃらのさうるすをさがして』


 そんな一文だけが書かれていた。


「あったか!じゃあ手紙と最低限の荷物だけ持って降りて来い。下に軽トラを停めてるから、続きは車の中で話そう」


 焦りの滲む兄の声も耳には入らない。


 俺は手紙に書かれたその一文から目が離せなかった。


 ふと、昨日の夜の叶多の言葉が蘇る。


「クジラの隣の、大きな廃墟。その奥の、灰色の……」


 不思議と確信があった。

 そこにいる筈だ、と。


 靴だけ履いて部屋を飛び出し、階段を転がり下りる。


「おい、待て祐樹っ、何処に……」


 ただ、一秒でも早くあの場所へ。


 薄明の空の下、寂れた家々が立ち並ぶ細い住宅街を駆け抜け、冷えた空気に息は切れ肺が乾く。

 古い廃線跡の鉄路に躓いて転び、掌に血が滲んだ。

 何度も縺れる足で、無機質なコンクリート群の大通りの崩れかけた高架を辿る。


 そうして、あの公園へと辿り着いた。


 記憶より緑の生い茂った公園を一歩一歩と進んだ先、あの頃と変わらず静かに佇むクジラのオブジェとレンガの廃墟。

 

 幼い頃は気にも留めなかったが、廃墟の脇には確かに草木に覆われた暗く細い道が奥へと伸びていた。

 通路屋根から垂れる昨日の雨水を、登り始めた陽の光が輝かせる。


 きっと、この先だ。


 茂った草木へ分け入り、服を濡らしながら十メートル程進んだ先。

 そこにはコンクリートで作られた箱型の廃墟。

 大きな窓はほとんどが割れ落ち壁面には苔や蔦が這っているが、建物自体に罅や崩れている箇所は見られない。


 廃墟の中は窓の穴から差し込む朝焼けの明かりが、白亜の壁を照らし出している。

 昨日の雨が風に煽られ吹き込んだのか、土や砂埃が薄く積もった床はほんのりと湿っていた。

 そして、微かに残る何かを引き摺ったような跡。

 

 心臓が早鐘を打ち、一度は落ち着いていた息が荒くなる。


 その跡を辿り、壁に区切られた隣のフロアへ足を進めれば、薄暗い広間の真ん中に()()はいた。


 高い天井に向けて大きく口を開くティラノサウルスの骨格標本。


――あの大きな雲のふもとには森があって、()()()()()()()()が雲にむけて大きな鳴き声を上げてるんだ。


 あぁ、そうか。

 そんな言葉のために。


 その足元で眠るように横になった彼女の元へと歩み寄る。


――いつか祐樹にも見せてあげる。約束ね。


 あの他愛ない幼い頃の口約束のために。


「ハハッ。なんだよ、ただの骨じゃないか」


 悔しいけれど、どこまでも頑固な彼女らしくて……


 呆れたような笑いが溢れる。

 ボタボタと涙が床を濡らす。


 その冷たい頬に触れ、泣いて、泣いて、笑って、泣いて。

 涙で水溜りが出来る程に泣いて、気が付けば鬱蒼とした森の中に立っていた。


 湿気の纏わりつく暑さに、苔生した背の高い木々。

 生い茂るシダ植物のような低木。


 遠くから、


 クルルルルゥッ


 と空を震わすような咆哮が響く。


「ね、凄いでしょ。ティラノサウルス」


 そう言って笑うワンピースの幼い少女。

 あの頃と同じ、夢を包み込んだガラス玉のような瞳で、無邪気に楽しげに。


「いや、ただの骨じゃんか。あれじゃあティラノサウルスがいたとは言えないだろ」


 そんな彼女に、少し大人ぶってわざとらしくため息を吐いて見せる。


 そして、


「だから今度は俺がもっと凄い、本物のティラノサウルスを見つけてやるよ」


「へぇ、恐竜はもう絶滅したんじゃないの?」


「いるさ。だって、その方が()()()()()()()()?」


「…ふふっ、そうだね。じゃあ約束だよ」


 彼女は、吹き抜けた風に髪を靡かせながら、暖かな木漏れ日のように笑ってみせた。


 ゆっくりと瞼を開く。


 フロアの入り口から差し込む朝の光。

  

 いつの間にか右手に握っていた固い何かの感触に気付き視線を向ければ、それは土に塗れた小さなきょうりゅうの牙だった。


 ――――――――――


 木々がその鮮やかな葉を落とし、無色透明な風が冬の始まりを告げた頃。


 子供の背丈くらいはありそうな大きなバックパックを背負い、空っぽになった部屋を後にする。


 階段を降りアパートの門を出れば、すぐ前の道路には軽トラックが一台。


 その運転席の窓から兄が顔を出す。


「もう出発か?」


「あぁ、行ってくるよ」


 叶多の葬儀を終えて一ヶ月。


 やっておくべきことは済んだ。

 挨拶回りに身の回りの整理、三年間先送りにしていた不義理への謝罪や後悔の清算も、全て。


 だから、もう残っているのはあと一つだけ。


「体、壊さないようにな。辛くなったらいつでも帰ってこい」


「兄貴こそ、体調に気を付けて」


「あぁ、じゃあまたな」


「うん、また」


 踵を返し、走り出した軽トラックのエンジン音を背に、大きく息を吸って一歩踏み出す。


「よし行くか」


 とりあえず、まずはあの雲の麓まで。


 ティラノサウルスを探しに。

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もしかしたらそのうち、ティラノサウルスを探す旅路を描いた短編を投稿するかもしれません。

構想だけ頭の中にあります。

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