婚約解消をお望みでしたよね? 今さら追いかけてこないでください
「冬の童話祭2026」参加作品です。
むかしむかし、あるところに、アリシアという娘がおりました。
アリシアは辺境の公爵家に生まれ、育ちました。お父様は領地を豊かにし、お母様は人々に慕われ、アリシアもまた、聡明で優しい娘に育ちました。
アリシアが十六の歳になったとき、王都の侯爵家から縁談が届きました。
「政略結婚ではあるが、悪い話ではない」
お父様はそうおっしゃいました。アリシアは頷いて、遠い王都の侯爵家へと参ったのでございます。
さて、アリシアの婚約者はクロードという青年でございました。
クロードは美しい顔立ちをしておりましたが、心は冷たい氷のようでした。アリシアが挨拶をしても目を合わせず、話しかけても素っ気ない返事しか返しません。
「辺境の田舎者め」
クロードは陰でそう言っているのを、アリシアは知っておりました。
それでもアリシアは腐らず、お屋敷のために働きました。散らかった帳簿を整え、困っている使用人を助け、お客様をもてなしました。誰も気づきませんでしたが、お屋敷がうまく回っていたのは、アリシアのおかげだったのでございます。
三年の月日が流れました。
ある夕暮れのことでございます。
クロードがアリシアを呼び出して、こう言いました。
「婚約を解消したい」
アリシアは、驚きませんでした。クロードが別の娘に心を寄せていることを、とうに知っていたからでございます。
「承知いたしました」
アリシアは、静かにそう答えました。
「泣かないのか」
「泣いてほしいのですか」
「いや、そういうわけでは……」
クロードは、戸惑った顔をしました。アリシアが取り乱すと思っていたのでしょう。けれどアリシアは穏やかに微笑んで、こう言いました。
「三日のうちに出てまいります。書面をご用意くださいませ」
そうして、アリシアはお屋敷を去ることになったのでございます。
三日後、アリシアは荷物をまとめて馬車に乗りました。
見送りに来たのは使用人たちだけでございました。クロードは、姿を見せませんでした。
「アリシア様、どうかお元気で」
馬車が走り出しました。アリシアは一度も振り返りませんでした。
故郷に帰ると、お父様とお母様が門の前で待っておりました。
「おかえり、アリシア」
お父様は、アリシアを抱きしめました。
「つらかったね」
お母様が頭を撫でてくださいました。
「ただいま戻りました」
アリシアはそう言って、やっと涙をこぼしたのでございます。
さて、故郷での暮らしは穏やかでございました。
アリシアは畑を手伝い、帳簿を整え、村の子どもたちに読み書きを教えました。辺境の地は静かでしたが、アリシアの心は少しずつ温かくなっていきました。
ひと月が過ぎた頃、お客様がやってまいりました。
「アリシア、会ってほしい人がいる」
お父様に連れられて応接室に行くと、一人の青年が立っておりました。
「お久しぶりです、アリシア」
青年の名はレオン。隣の国の王子様でございました。
アリシアは、目を丸くしました。幼い頃に一度だけ会ったことがある泣き虫の男の子。その子が立派な青年になって、目の前に立っていたのでございます。
「レオン様、お久しぶりでございます」
「様なんていらない。昔のように呼んでおくれ」
レオンは、優しく微笑みました。
「今日は頼みがあって来たんだ」
「頼み、でございますか」
「うん」
レオンは、まっすぐにアリシアを見つめました。
「僕と結婚してくれないか」
アリシアは、言葉を失いました。
「驚かせてしまったね。でも聞いてほしい」
レオンは、一歩近づきました。
「昔、僕が迷子になって泣いていたとき、君が見つけてくれた。手を引いて、丘の上に連れていってくれた。覚えているかい」
アリシアは、覚えておりました。泣き虫の男の子を慰めようと、満天の星を見せた夜のことを。
「あの夜、星がきらきら輝いていた。でも僕には、君のほうがずっと輝いて見えたんだ」
「レオン……」
「君が嫁いでいったと聞いて、諦めるしかなかった。でも今、君は自由になった。だから来たんだ」
レオンの目は、澄んでおりました。嘘のない、まっすぐな瞳でございました。
「少し考えさせてください」
「もちろん。いくらでも待つよ」
その夜、アリシアは丘に登りました。
幼い頃、レオンを連れていった場所でございます。見上げると、満天の星がきらきらと輝いておりました。
三年間、私は何をしていたのだろう。
愛されない場所で、報われない努力を続けて、何を得たのだろう。
「馬鹿みたい」
アリシアはつぶやいて、笑いました。涙が頬を伝いましたが、不思議と心は軽くなっておりました。
次の朝、アリシアはレオンに返事をしました。
「お受けいたします」
アリシアとレオンの婚約が発表されると、国中が大騒ぎになりました。
辺境の娘が隣国の王子と婚約。その噂はたちまち広がり、やがてクロードの耳にも届いたのでございます。
十日後、クロードがアリシアの屋敷を訪ねてまいりました。
応接室で向かい合うと、クロードはやつれた顔をしておりました。
「アリシア、頼む。考え直してくれ」
「何をでございますか」
「婚約だ。隣国の王子との婚約を取り消して、俺のところに戻ってきてくれ」
アリシアは、静かに首を振りました。
「婚約を解消したのはあなたです、クロード様」
「あれは間違いだった。君がいなくなってから、屋敷は滅茶苦茶だ。帳簿は合わない、使用人は辞めていく、何もかもうまくいかない」
「そうでございますか」
「君がどれだけのことをしてくれていたか、やっとわかったんだ。だから戻ってきてくれ」
クロードは、身を乗り出しました。
けれどアリシアは、ゆっくりと立ち上がりました。
「クロード様、私は道具ではありません」
「そんなつもりで言ったんじゃない」
「いいえ、そのつもりでしょう」
アリシアは、窓の外を見ました。青い空に白い雲が浮かんでおりました。
「あなたが必要としているのは、私ではありません。帳簿を整え、屋敷を回す、便利な何か。私の心には興味がなかった。三年間、ずっと」
「アリシア……」
「私は辺境の田舎者でございます。あなたがおっしゃった通りの取るに足らない娘です」
アリシアは振り返り、穏やかに微笑みました。
「もう遅いのです。クロード様。私には、私を見てくれる人がおります。今さら追いかけてこないでくださいませ」
クロードは、何か叫びましたが、アリシアはもう聞いておりませんでした。
一年後、アリシアはレオンと結婚いたしました。
お式は隣国のお城で盛大に行われ、たくさんの人々が二人を祝福いたしました。
夜、バルコニーで星を眺めていると、レオンがやってまいりました。
「何を見ているの」
「星を。昔、あなたに見せた星を」
「覚えていてくれたんだね」
「ええ。きらきら輝いて、きれいだった」
「今も輝いているよ。君も、星みたいに」
レオンがアリシアの手を取りました。アリシアは微笑みました。
クロードのお屋敷はその後傾いて、クロードは爵位を継げなかったそうでございます。けれどアリシアはもう、そんなことは気にしませんでした。
過去は過去。今は今。
レオンと手を繋いで、アリシアは幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。




