記憶を失った君と僕の青春
★ ★ ★
夏の始まりを本格的に感じ始める六月一週目の金、土曜日は高校一年生の僕、相川 蓮にとって初めての体育祭だった。
結果は我ら白組が見事に総合優勝を果たし、僕の青春の一ページに忘れることのない記憶として刻まれた。
体育祭という非日常的なイベントを終えると平常授業という目をそらしたくなるような日常が舞い戻ってきた。
ただ、クラスにとって日常では考えられない出来事が体育祭の翌日から起こっていた。
それは僕の右隣の席の生徒が四日連続で学校を休んでいることだ。
担任教師から具体的な理由は告げられていない。
体育祭の後だから蓄積していた疲労が体調不良を引き起こしたのかもしれない。
クラスメイトが少し長めの休みを取ろうが体調不良かサボりなのだろうと対して気に留めないだろう。
僕が一ヵ月休んだとしてもこのクラスで気にしてくれる人は居ないかもしれない。
さすがにそんなことないと信じたいがまぁ実際はそんなものだ。
だが、今回はそうではなかった。
その対象が海崎 紗良沙だったからだ。
一年二組の学級委員長である海崎 紗良沙はクラスの人気者だ。
人を選ばず誰にだって優しく、親切で思いやりがありコミュニケーション能力が高い。
教室で一人の生徒がいようものなら自ら声をかけ親しくなろうとし、揉め事が起きようものなら即座に仲裁に入っていた。
そんな海崎は僕にだって当然のように話しかけてくれた。
隣の座席だから声をかけてくれていると最初は思っていたが今となってはそうは思わない。
クラスに親しい友達は多くいるだろうし僕なんかに積極的に話しかける必要はないだろうけど彼女の方から話しかけてくれた。
入学当初から彼女の周りに多くの生徒が集まっていたことにも納得できる。
僕を含めクラスの大半の生徒が彼女の休みを気にかけているだろう。
海崎 紗良沙のいないクラスにいつもの活気が感じられなかった。
★ ★ ★
一人の扉を開ける音と共に教室が一気に賑やかになる。
「紗良沙ちゃん!一週間もどうしたの?」
「心配だったよ」
「良かったー!」
多くの生徒が久し振りに登校してきた海崎に駆け寄っている。
「ごめんなさい。心配かけてしまって・・・・・」
俯きながらそう言った海崎はなんとなくいつもの海崎と違う気がした。
関係値が深いわけでもない僕ですら感じたのだから周囲に集まる生徒も当然感じたようで、困惑の表情を浮かべる者もいた。
「あー。話があるからとりあえず皆席ついてくれ」
そんな状況を見かねたかのように担任教師が教室に入ってきた。
担任教師が僕の隣の席を指さし海崎に座るよう言った。
いくら一週間休んだからと言って自席を忘れるわけないだろうに。
海崎は僕の隣の席に腰を下ろすといつも笑顔で挨拶をしてくれていた。
でも今日はそれがなかった。
クラス全員が席に着いたことを確認し担任教師が話を始めた。
「話ってのは海崎についてだ」
誰しもが予想していただろう。
一週間、理由もなしに休むなんてあまり考えられない。
「一週間休んでいたのは海崎が原因不明の記憶喪失になっているからだ。恐らく一時的なものだとお医者さんも言っていたがこのクラスでの出来事もみんなのことも忘れてしまっている」
教室中に驚きと困惑が渦巻く。
「みんなのこと何も覚えてないです。ごめんなさい・・・」
俯きながら直接彼女の口から語られたその言葉はあまりにも信じられない事実だった。
「我々教師陣はもちろんだがどうかクラスの皆も気にかけてあげてほしい」
重く暗い雰囲気になる。
そう思っていたが実際は違った、皆が海崎に駆け寄り声をかけた。
「大丈夫だよ!覚えてなくても友達に変わりないから」
「そうだぜ。記憶が戻るように協力するぜ」
「一時的だってお医者さんがいってたならきっと記憶も戻るよ」
「うん、皆ありがとう・・・」
俯きながらも返事を返す海崎。
この光景も記憶を失う前の彼女が築き上げてきたものなのだろう。
「家族のことも覚えてなくて・・・自分のことも・・・」
「そうなんだね。思い出せるように協力するよ」
この光景を見た誰もが美しい友情であると思うのだろう。
多くの生徒から慕われ、みんなで困難を乗り越えようとしている。
そんな感動の場面に見えるだろう。
でも、僕にはそうは思えなかった。
今の海崎さんは果たしてどう思っているのだろうか。
家族どころか自分のことすら忘れてしまっている彼女は本当に以前の海崎 紗良沙なのだろうか。
★ ★ ★
休み時間のたびに海崎さんの席の周りに集まり、この三ヶ月半の出来事を話している。
海崎さんは当然覚えていないため聞いた話に相槌を打つことしかできない。
放課後になっても集まってくるわけだがその多くが部活のため「また明日」と手を振ると教室を後にしていった。
一緒に帰ろうかと聞く生徒もいたが海崎さんは家までの道は覚えているから大丈夫だと断った。
教室から人が消えていき、彼女の周りからも人がいなくなる。
帰宅部である僕は放課後特にやることがない。
さっさと帰って最近発売されたゲーム攻略でもしよう。
荷物を鞄にしまい席を立ち海崎さんの後ろを横切る。
「海崎・・・さんは記憶思い出したいの?」
自分でも驚いたが海崎さんの後姿をみていきなりそんなことを口に出してしまった。
「え、う、うん。もちろんだよ」
背後から突然声をかけられ振り向いた海崎さんの表情は悩みを抱えているように映った。
「急に変なこと聞くかもしれないけどいいかな」
「うん。いいけど・・・」
「海崎さんは以前の海崎 紗良沙の記憶を本当に取り戻したいと思っているの?」
「・・・・・・」
「ごめんね。急に意味の分からないこと聞いちゃって。忘れてくれ。また明日」
僕の考えすぎだったのだろう。
先に変なこと聞いてもいいか保険掛けておいてよかった。
まぁ、海崎さんには変な奴だと思われてしまっただろうな。
「なんでそんなこと突然聞いてきたの?」
当然の疑問だろう。
ここは噓偽りのない本音を言うべきだろう。
「僕には海崎さんが孤独に見えたから、だからそんなことを聞いてしまったんだと思う」
「・・・・・・」
再び沈黙が訪れる。
二度も余計なことを言ってしまった。
僕はゆっくりと扉に向かって歩きはじめる。
「まって・・・。この後時間あるかな」
「特に予定はないよ暇も暇。超暇人だ」
ゲーム攻略という予定?はあったけど。
「相談とかしてもいいかな?」
「僕が相手でいいのなら」
夕陽が差し込む放課後の教室、遠くから聞こえる掛け声や演奏をバックサウンドに海崎さんは重い口を開く。
☆ ☆ ☆
深い眠りから目覚め朝を迎える。
重たい瞼をゆっくり開き辺りを見回す。
頭を預けていた枕の周りに可愛らしい人形たちが並び、本棚には見たことのない小説がぎっしりと置かれている。
こだわりを感じる水色で綺麗に統一された部屋には塵一つ落ちてない。
日当たりの良い窓から覗いた景色は記憶のどこにもない見知らぬ場所だった。
何がどうなっているのか自分でも理解できない。
私はここで何をしているのだろう。
そもそも私は誰なのだろう。
何一つわからなかった。
部屋の扉を恐る恐る開けて廊下に出ると下へ続く階段を見つけた。
階段を降りて一番近くにあった扉を開けると洗面所にたどり着いた。
スイッチ式の電気を発見し押すと当然明かりがつく。
正面の洗面台の鏡には容姿の整った少女が映っていた。
濁りの一切ない透き通った美しい海のような青髪には寝癖が少しついている。
初めて見るその少女は、”私”だった。
顔に手を伸ばせば鏡に映る少女も真似をした。
少女が真似をしたのではない自分がそう動作しただけだ。
鏡は私を映しているだけだ。
「紗良沙ー!朝ごはん出来てるから早く支度しなさい」
扉の向こうから誰かを呼ぶ声がした。
そういえば私の名前は・・・わからない。
頭が混乱する。
自分自身の名前が分からないというのは恐怖以外の何物でもなかった。
考えても考えても答えは見つからない、思い出せない。
起きたと錯覚しただけでまだ夢の中なのだろうか。
きっとそうに違いない夢とは理解できないことの連続なのだから。
その時、洗面所の扉が開けられた。
「もう。いつまでやってんのご飯冷めちゃうでしょ」
たぶんこの人は私に向かって言っているのだろう。
私にとって当然の疑問を目の前の人物に伝える。
「あなたは誰ですか?」
☆ ☆ ☆
洗面所で私に話しかけていきた人物は母親だった。
私の名前は海崎 紗良沙というらしい。
最初は母親も私が寝ぼけているかふざけているかだと思って相手にしなかったが私が何も覚えていないということを訴え続けると、少しずつ理解してもらえた。
そして今、病院で診察を受けると記憶喪失であると診断された。
頭部に外傷的なダメージが加わることで記憶障害が起こることもあるが検査の結果、異常は見当たらなかった。
それらを踏まえ、精神的ストレスなどから引き起こされたのだろうと診断された。
病院で両親のことも覚えていないと伝えると母親は堪えていたであろう涙を流した。
自分の娘に覚えていないと言われたら涙を流すだろうと私も思う。
少しの間様子を見るべきということで病院に入院することになった。
お医者さんや看護師さんにきっと記憶が戻るから心配はいらないと言われ、母親や仕事を急遽早退して駆けつけてくれた父親もきっと大丈夫だと言ってくれた。
一週間が経過したとき、学校に復帰することを選んだ。
今の私が学校を休み続けてしまったら出席日数が足りなくてとか勉強についていけなくてとか不都合が起こると考えたからだ。
学校側も事情を考えてこの一週間を欠席ということにはしないでくれるみたいだけどこれがもし数ヶ月も続いてしまったとしたらどうなるか分からない。
勉強だって追いつけなくなってしまうかもしれない。
私が授業を受けるべきだとそう思った。
でも、この考えは今の私の記憶が残っていたらの話だ。
本当の海崎 紗良沙が戻ったとき私の記憶が一切残らない可能性だって考えられる。
根拠は無い、だけどなんとなくそうなる気がした。
☆ ☆ ☆
教室の扉の前に立つと新入生のような緊張をしていた。
それも当然で私にとっては初めて来た場所なのだから。
扉を開け見慣れない光景に立ち尽くす私を見つけたクラスメイトの多くが駆け寄ってきて話しかけてきた。
心配や疑問など様々投げかけられたが私は答えることが出来ずただただ困惑していた。
休み時間のたびにクラスメイト達が体育祭で優勝したこと、私とのエピソードやクラスでの出来事など多くのことを話してくれた。
どうやら海崎 紗良沙は多くの人から慕われる人気者みたいだ。
両親もクラスメイト達も全員、本気で私のことを心配してくれているのだとヒシヒシと伝わった。
私の記憶が戻ることを願っている。
いや、私、という表現は正しいようで間違っている。
今の私ではなく記憶を無くす前の海崎 紗良沙へのものだということ。
なんだか今の自分は必要とされていない気がした。
実際そうなのだと思う。
誰もが求めるのは以前の海崎 紗良沙であって私ではない。
こんな事考えても仕方がないのに。
誰も私のことを見てくれていないそんな”孤独”にさいなまれていた。
放課後、帰宅の準備をしていると左隣の座席の男子生徒、相川 蓮に質問を投げかけられた。
彼の質問は他の人たちからすれば当たり前で何を聞いてるんだと言うであろうものだった。
だけどその質問は今の私にはとても答えにくい質問でもあった。
それは当然、肯定するべき問なのだろうけど。
彼はなぜそんなことを聞いてくるのだろう。
素直に彼の問いの意図が気になって仕方がなかった。
「僕には海崎さんが孤独に見えたから、だからそんなことを聞いてしまったんだと思う」
彼には今の私がそう映ったらしい。
私にとって初対面であるはずなのに彼になら今の思いを話せる気がした。
教師にもクラスメイトにも、両親にでさえ話せなかった”私”の本心を相川 蓮になら話せる気がした。
★ ★ ★
「なんで記憶喪失になっちゃたのかな」
僕は医者ではないから専門的なこととかは全く分からない。
ただ、なんとなく海崎の抱えていた精神的ストレスの原因に心当たりがあった。
「海崎はクラスのために身を粉にしすぎていたと思う。学級委員長だからとかそんな枠組みを超えて一年二組を良くしようと奮闘していた」
それは賞賛されるべき素晴らしいことなのだろう。
海崎がそこまでする行動理由が気になるが今となっては聞くことができない。
「他人のことばかりで自分のことは後回しだ。皆から信頼される海崎 紗良沙だけどそんな海崎 紗良沙に信頼できるような友人は少なくともクラスには居なかったような気がする」
誰に対しても公平、平等に接するが故の孤独そんな風に見えた。
広く浅い関係性を築くことは決して悪いことではない。
むしろ凄いことだと僕は思う、誰にでもマネできることじゃないから。
でも、たった一人、深い関係性の友人が海崎に居たとしたら今回の記憶喪失は起きていなかったと思う。
「前の私も孤独を感じていたのかもしれないってことだよね。なんだか初めて親近感が沸いたかも。自分のことなのにね」
「まぁ、僕の勝手な妄想だから真実かは分からないけど。それに海崎を語れるほど僕は親しくなかったし」
原因を解明すれば記憶を取り戻す鍵にはなるのかもしれない。
「私はどうするのが正解なんだろう。皆の期待に応えるために少しでも早く記憶を取り戻すべきなのかな」
実際にそんな方法があるかと言ったら不明瞭だが気持ちの問題だろう。
海崎さんが記憶を取り戻せば多くの人は幸せになるんだと思うし問題の解決という面で見ても正解なのかもしれない。
でもこの考えに今の海崎さんの気持ちは含まれていない。
「両親と話をしてるとこの二人が両親に違いないってすぐに確信できたの。私に向けてくれている愛情が紛れもない本物だと伝わってくるから。でもそれと同時に以前の私に向けている気持ちで今の私にではないのだとも考えちゃうの」
そんなことはない、と軽々しく無責任に伝えることが僕にはできなかった。
本人にしか感じられないことだと思うから。
「それに記憶を思い出すことも怖い・・・今の自分が、存在が消えちゃうような気がするから」
自分の存在が消えてしまうかもしれないなんて僕は一度だって考えたことがなかった。
相談に乗るとは言ったが僕に彼女の気持ちを理解することは到底できないだろう。
「相談に乗っておいてこんなこと言うのもあれだけどわからないと答えることしかできない。申し訳ないけど」
海崎さんの話を一通り聞いての素直な気持ちだ。
見栄を張って僕が何とかするから・・・なんて耳障りのいい言葉を投げかけることも出来ない。
「大丈夫って励ましてもくれないの」
「それが海崎さんのためになるのなら幾らでも言うけど」
「冷たいね相川くんは」
そんな海崎さんの言葉にトゲは感じない。
「私が記憶を取り戻すために協力してほしいって言ったら相川くんは手伝ってくれるの?」
「それが海崎さんの相談で本心からの願いだって言うならそうするよ」
その場合僕が適任ではないと思うが。
海崎とだって隣の席だからそこそこ話す機会はあったけどなにか思い出すきっかけになるような大きな出来事は海崎と僕の間にはない。
それに記憶を取り戻すことが海崎さんの本当の願いだったなら僕が声をかけることはなかっただろうし。
「やっぱり僕には海崎さんの抱える問題とか悩みとかを解決することはできないんだと思う」
「うん。そうだよね・・・」
「でも、話を聞くことぐらいなら僕にもできる」
彼女の抱える不安や悩みをほんの少しでも緩和させられるかもしれない。
「僕を海崎さんの友人第一号にしてくれないかな」
「う・・・うん。ありがとう!嬉しい!」
僕が差し出した手を取る海崎さんの表情は曇りのない綺麗な笑顔を浮かべていた。
目尻に溜めた涙が夕日を反射して輝いていた。
海崎さんの記憶喪失がどんな結末を迎えるか僕には想像もできないけれど、今の彼女が少しでも前向きになってくれたのなら幸いだ。
★ ★ ★
相談から翌日の昼休み、海崎さんに頼まれて学校案内をすることになった。
「やっぱり不思議な感じがするんだよね。初めて見るはずなのになんか懐かしさを覚える感じ?」
各階の教科教室や特別教室を中心に散策する。
記憶にはなくともどこか潜在的意識の中に残っているのかもしれない。
海崎さんの感じるものとは違うが僕も不思議な感覚はあった。
一緒に入学したはずの海崎さんに学校を案内している不自然さだ。
それこそ転校生に学校案内するのとは少し違っている気がする。
「なんかこうやって思い出の場所?を歩いていると思いだしそうな気もする」
「思い出って言っても僕たちはまだ三ヵ月半しか通ってないんだけどね。でもあと二週間で七月って考えると時間が過ぎるのが早く感じるな」
学校案内をしていると僕も行ったことがない場所がいくつかあった。
「今日は天気もいいし体育館の方にも行こうか」
「うん!そうしよう」
体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下、六月下旬で梅雨の真っ只中だけれど今日の天気は雲一つない快晴だ。
体育祭で校長先生が開会の言葉で述べる雲一つないではない。
正真正銘、空のどこを見ても透き通るような青空。
照り付ける陽光とセミの鳴き声が本格的な夏の訪れを感じさせる。
「ふぅ~~~ぅう。なんかほのぼのするね」
渡り廊下に設置されたベンチに座ると海崎さんは両手を天高く掲げ背伸びをした。
青空と彼女の透き通るような青髪が奇跡のマッチングをしている。
今日のような天気が訪れた日には海崎さんのことを頭に思い浮かべることになりそうだ。
「飲み物買うけどなにがいい?」
「う~ん。どれも飲んだことないな~。相川くんと同じのにしようかな」
そう言うと海崎さんはポケットに手を入れ財布を探した。
「私、お財布持ってきてなかった・・・」
「いいよ。もとから僕が出そうと思ってたから」
「いやでも申し訳ないよ」
「う〜ん、じゃあ今度来たときはジュース一本、海崎さんにおごってもらうとかでもいいかな?」
「うん!もちろんだよ」
二人でベンチに戻り買った超甘口のサイダーを開ける。
やっぱりこの甘さがたまらない。
授業で酷使したせいで脳に回らなくなった糖分が一気に補充されていくこの感覚。
一度中毒になったらやめられない。
「甘っっ。このサイダー甘すぎない?」
「海崎さんも飲み続ければわかるさ。いつか手放せなくなる日がくる」
「ふふっ。なにそれ変なの」
海崎さんと笑いあう。
以前では考えられない光景かもしれない。
「そういえば前の私とは仲良かったりしたの?」
「席が隣だし多少交流はあったけど仲がいいってほどではないよ。なんなら今の海崎さんとの方がすでに親しいまである」
「そうなんだ。じゃあ相川くんのこと蓮くんって呼ぶから私のことも紗良沙って呼んでよ。友達なんだからさ」
「そうだね紗良沙。確かにこっちの方がいいかもな」
なんてことない日常、今はただこんな日々が続けばいいとそう思う。
★ ★ ★
六月、最終週の土曜日。
僕は紗良沙と駅で待ち合わせをしていた。
都会という訳ではないけれどそれなりの人口の街の駅は休日ということもあって多くの人が行き交っている。
僕たちの待ち合わせの目印になっているこの猫の像。
この駅周辺の待ち合わせスポットと言ったらまずここが上がるだろう。
待ち合わせの時間の十五分前に到着した僕はスマートフォン片手に紗良沙の到着を待っていた。
ボーとしていると後ろから肩をつつかれた。
「お待たせ。蓮くん着くの早いね、関心関心」
「いや、僕もちょっと前に着いたばかりだから」
待ち合わせの十分前に到着した紗良沙。
格好つけて言いたかったセリフだったのだけど事実としてちょっと前なわけでなんとも格好つかない。
今度こういう機会があったら三十分前に到着しておこう、などと考えていると紗良沙がクルリとゆっくり一周した。
「私服を見るのは初めてだけど、とても似合ってるよ」
喫茶店とかにいたら雰囲気がピッタリであろうレトロなワンピース。
服装やファッションに詳しくないから上手く表現できないことが難点だ。
「ありがとう!蓮くんも似合ってるね。今時がどんなのかわかんないけど今時な気がする」
今年の夏にピッタリの服装をネットで調べた甲斐あり紗良沙から高評価を貰えた。
「おっと、そろそろ電車来ちゃうね。ホームいこっか」
僕らがどこに向かっていたかというと、そうここ水族館だ。
どうやらこの水族館には以前、海崎家で訪れたことがあるらしい。
もちろん紗良沙はそのことを忘れてしまってはいるが両親に見せてもらったアルバムに残っていたみたいだ。
それを見てなんとなく印象に残ったらしく休日に訪れたいと考え、友人第一号の僕を誘ってくれたみたいだ。
僕も特に予定があったわけでもないし断る理由もなかった。
チケットを購入し入館する。
ゲートを潜るとたちまち異世界に迷い込んだかのような神秘的な道が伸びている。
ここの水族館は残念ながらジンベエザメは居ないもののかなり有名な水族館らしい。
休日ということも相まって館内は大勢の人で溢れている。
「ねーねー!このクラゲ、触手すっごくながいよ」
「本当だ。えーとアカクラゲだって」
最初に僕たちを出迎えたのは多種のクラゲが展示されたエリアだ。
海洋生物の知識がない僕にとって驚きの連続だった。
巨大な水槽はまるで海の一部を切り取って持ってきたようで、大小様々な魚たちが優雅に泳いでいた。
館内に展示された水槽を一つ残さずじっくり眺めていると僕は衝撃の出会いを果たした。
「あいつは・・・ダイオウグソクムシじゃないか!!」
その姿はまさに巨大な海のダンゴムシ。
中世の甲冑のようなその姿に素直に格好いいと思ってしまう。
「蓮くん今日一テンション上がってるね」
「今日は誘ってくれてありがとう紗良沙。僕は憧れの存在に合うことが出来たよ」
「ふふっ!面白いこと言うね蓮くん。それに今日はまだまだこれからだよーーー!」
紗良沙に手を引かれ人混みの中へと進んでいく。
こっちを振り返り楽しそうに笑う彼女から目が離せなかった。
水族館を満喫していると夕方になっていた。
水族館を退館した僕らは少し歩いた先にある砂浜を歩いていた。
「なんか夏を先取りしてるきがするね」
「確かに少し早い気もするかも。まぁ、言っても後三日もすれば七月に入るけどね」
なんとなく僕の感覚では七月からが本格的な夏だ。
夏休みが近くなってくるからかもしれないけど。
「それにしても最後に見たイルカショーはすごかったよね。なんか飼育員さんとイルカの一体感とか絆みたいなのを感じたよ」
「あと少し前の席に座ってたらずぶ濡れだったけどね」
レインコートを着用してなかったから大惨事になるところだった。
「それにいっぱい写真も撮れたし大満足だよ!ほら、ペンギンと蓮くん」
そう言って差し出されたスマートフォンに映し出された写真にはペンギンとそれを眺める僕が映っていた。
「ペンギン、可愛かったよな~」
「そうだね。同じくらい蓮くんも可愛かったけどね」
なんとも反応しずらいことを言ってくれるものだ。
「そうだせっかくだし二人で写真撮ろうよ」
「そうだね。景色も綺麗だし」
水平線に浮かぶ夕日を背景に写真を撮ろうとしたが逆光になるから諦めた。
ただ、写真を撮る僕らの視線の先にはその美しい光景が広がっていた。
この一日を忘れることは無いだろう。
「おお~。結構きれいに撮れてる。蓮くんにも送っとくね」
「うん。ありがとう」
写真を撮り終え、最寄り駅に向かいながら砂浜をのんびり歩く。
少しずつ夕日が海に沈んでいく光景は一日の終わりを告げているようだった。
「私さ前の自分のことやっぱり思い出すべきだなって考えてたの」
「それで思い出の水族館に行こうと思ったんだな」
「うん。確かに最初は記憶のことに前向きじゃなかった。今の自分が否定されている気がしたから」
「でも今は違う。前向きに思い出そうとしてるの。蓮くんのおかげで不安がなくなったから」
「僕は何もしてないよ」
「そんなことないよ。私が前を向けたのは蓮くんが友達になろうって言ってくれたからなんだよ。あの時欲しかったのは、悩みの解決策じゃなくて寄り添ってくれる友達だったんだと思う」
「そっか、少しでも紗良沙の力になれたならよかったよ」
心の底からそう思う。
横を歩いていた紗良沙が急に走り出したと思ったら僕の方に振り返り止まった。
その表情からは緊張感が伝わった。
深呼吸をする紗良沙。
意を決した様子の彼女は再び僕と目を合わせた。
「好きです。蓮くんのことが、友達として・・・異性としても」
僕は人生で初めて告白をされた。
予想していなかった告白に驚き、すぐには返事をできなかった。
「えっ・・・と・・・・・」
「ご、ごめんね返事はいいの」
告白の返事をしようとすると紗良沙がそれを遮った。
「この好きの気持ちは今の私のもので以前の私のものじゃないと思う。だから今の私の勝手でこれ以上進むのは違うから・・・」
以前の海崎が僕に告白をするか、といったら全く考えられない。
「それに本当はこの気持ちも伝えるつもりなかったんだけどね。なんだか記憶が戻った時に今のこの気持ちも忘れちゃう気がしたから、後悔したくなかったの」
紗良沙は記憶が戻った時のことを考えて常に歩いているのだろう。
全てを思い出したその時に今の記憶を覚えているかはわからないから。
この告白が成立しても忘れてしまうかもしれない。
今日のこの思い出も忘れてしまうのかもしれない。
「そっか。ありがとう。気持ちを伝えてくれて」
僕が歩みを進め横に並ぶ。
再び駅に向かって歩き始める。
もちろん今日の思い出を語りながら。
忘れたくないから何度も。
忘れないように何度も。
★ ★ ★
週明け月曜日、今日で六月も最終日だ。
普段と変わらない時間ギリギリでの登校。
夏の暑さの中、坂道を上るのがしんどくなってきた。
今日も紗良沙の周りにはいつもどうり多くのクラスメイト達が集まっている。
いや、普段以上に集まっているかもしれない。
紗良沙に挨拶をしたいところだけど朝から盛り上がっているその集団についていける気がしないのでやめておく。
紗良沙も随分クラスに馴染んできたと思う。
僕以外から見れば元からそうなのかもしれないが。
持っていた鞄を机のサイドフックにかける。
改めて時間割を考えると月曜日からなんてハードな一日なのだろう。
息抜きになるような科目が一切ない。
強いて言えば体育が息抜きになるのだろうがこの猛暑の中運動することは拷問以外の何物でもない。
「あ!おはよう。”相川くん”いっつも時間ギリギリだね」
そんなことを一人考えていると紗良沙の方から挨拶をしてくれた。
いつもと変わらないはずの朝の何気ない挨拶。
だけれど僕にとってその挨拶は決していつもと同じではなく、確かな違和感を覚えた。
「・・・・・・おはよう。”海崎”」
★ ★ ★
結末はこうだ。
今朝、目覚めた海崎は記憶を思い出した、というよりも取り戻したみたいだ。
その代わりに失っている間の記憶を一切覚えていないようだ。
僕の友人である紗良沙のことを彼女自身が忘れてしまっている。
紗良沙の危惧していた考えが当たってしまっていた。
紗良沙は記憶を取り戻すことになることを察していたのだと思う。
あの浜辺での出来事もそうだけど、僕のスマートフォンに登録されていた紗良沙の連絡先が消えていた。
そんなものは最初からなかったように。
きっと紗良沙は記憶が戻った時に海崎が混乱してしまうのではないかと考えたのだろう。
彼女はとても思いやりのある人だから。
確認は出来ないけれど水族館での写真も消去しているのだと思う。
連絡先は消すのに写真は残しておくなんて考えられない。
僕と紗良沙との思い出は僕だけのものになってしまった。
スマートフォンに映るツーショット写真を眺めながら僕は涙を流していたんだと思う。
☆ ☆ ☆
————ピッピッピ ピピピピ
耳元で鳴り響く高音のアラーム。
スマートフォンの振動が枕越しに伝わり無視できるはずもなく深い眠りから目を覚ます。
騒音を停止させるために握ったスマートフォンに映る時刻は六時半を指している。
「あれ?私こんな早い時間に目覚まし掛けてたっけ?」
眠い目を擦り、両腕を高く伸す。
アラームを掛けなおし二度寝するか悩んだけど起きられなくなりそうでやめる。
それにしても何故か頭の中がスッキリしないし身体も少し重いように感じる。
いや身体が重いのは昨日までの体育祭で動き回っていたからだろう。
熱があるわけでもなさそうだから疲労が溜まっているのかもしれない。
えーっと、昨日何時に寝たっけ・・・?
考えられる線は睡眠不足だけど自分が何時に就寝したかはっきりと覚えていない。
それに睡眠不足どころか長い時間眠っていた気もする。
久しぶりに起きた、そんな可笑しな感覚。
自分で言ってて意味が分からないけれど実際そうなのだから仕方ない。
「顔洗えばスッキリするよね」
カーテンを開けていない薄暗い部屋で独り言を呟く。
ベットから立ち上がり一階の洗面所に向かう。
我ながら危なっかしいおぼつかない足取りで階段を下っていく。
蛇口を捻り冷水を両手にすくい顔全体に浴びる。
さっきまでの眠気が嘘だったかのように目がさえる。
だけど頭にかかる靄は消えない。
若干の不快感を残しつつもいつも通りの身支度を進める。
「よし!今日も一日頑張ろう!」
軽く頬を叩き自分に言い聞かせるように前向きな言葉を発する。
一日頑張るためにも朝食が必要だ。
リビングに続くスライド扉を開けるとお母さんが朝食を作っていた。
「お母さんおはよう!」
「おはよう紗良沙。あら、今日は髪結んだのね。なんか少し懐かしいかも」
「懐かしいって毎日この髪型だよ~お母さん寝ぼけてるの~?」
冗談めかしてツッコミを入れる。
懐かしいもなにも後ろ髪をハーフアップで結ぶなんて毎日のことで珍しいことではない。
「そうだ、昨日のお弁当美味しかったよありがとう。お母さん体育祭だから少し気合入ってたでしょ」
普段のお弁当も当然おいしいけど体育祭の時はまた一段と美味しかった。
たくさん運動した後に食べたからっていうのもあるかもだけど。
「体育祭っていつの話してるのよ。もう何週間も前じゃないの」
「何週間ってまだ一日しかたってないよ何言ってるの?」
こんな朝早くから真剣な顔で何を言っているのかだろう。
ジョークにしてはあまりにも雑だ。
「それより紗良沙・・・今、体育祭って言ったよね・・・覚えてるの・・・?」
「当たり前だよ一日前の記憶だよ。忘れるわけないじゃん」
私を鶏か魚だとでも思っているのだろうか。
クラス、学年が一丸となって果たした優勝。
そんな青春の一ページ、何年経っても忘れるはずない。
「お、お母さんとお父さんのことも・・・お、覚えてる?」
さっきまで笑顔だったお母さんが突然涙を流しながら答えるまでもない質問を投げかけてくる。
「いきなりどうしたの?覚えてるに決まってるじゃん。忘れたことなんてないよ」
生まれて初めて見る母親の涙を流す姿。
あまりに突然の出来事で困惑することしかできない。
「紗良沙!!・・・・・」
「本当どうしたの急に怖いよ」
涙を流しながら駆け寄ってきたお母さんは優しく包み込むように私を抱いた。
訳が分からないけどとりあえず両腕を回すことにした。
☆ ☆ ☆
お母さんをなだめ事情を聞くと私の方に、問題があったのだとわかった。
私はどうやら記憶喪失で両親のことすら忘れてしまっていたようだ。
最初は半信半疑で聞いていたが日付のずれが嘘偽り無い事実であると証明していた。
私の最後の記憶は体育祭で止まっている。
六月に入ったばかりのはずなのにあと数日で七月だ。
その間何があったのか全く覚えていない。
私の知らない空白の数週間が確かにあった。
お母さんの携帯で撮影された記憶を失っている時の私の写真を見せてもらった。
そこに映っているのは確かに私でそのこのとに間違えはないけれど・・・なぜだか自分ではない、そんな気がする。
もう1人の私が生きている、あえて言うならドッペルゲンガーのようなものだろうか。
自分の知らない自分が存在したという事実に恐怖を抱かずにはいられなかった。
「今日は学校をお休みして病院に行かないと」
「病院は行くけど学校終わった後じゃダメかな?久しぶり?に学校行きたいし、クラスのみんなも心配してくれてるかもだし・・・なぜかわからないけど行かなきゃいけない気がするの」
正直私は学校が好きじゃない・・・いや・・・好きじゃなかった・・・?
今は学校に行くのが楽しみ・・・なんでだろう。
そんなこと思ったこと無かったのに。
この感情の答えを探すためには学校に登校するしかないだろう。
数週間ぶりの学校生活は特に変化があるわけではなかった。
教室の扉を開ければたくさんのクラスメイトが挨拶をしてくれるし隣の席の相川くんも素っ気なくはあるけど挨拶を返してくれた。
私に対するクラスの雰囲気が変わっていないことを見るに記憶を失っていた時の私は上手くやっていたんだと思う。
人間関係には何ら変化は起きなかったけれど学習面では大きな打撃を受けることになった。
どの教科の授業も当然進んでいて、数週間の差は大きなものだ。
記憶を取り戻せたのに次は勉強の遅れを取り戻さなくちゃいけない。
自主学習地獄が私を待っていた。
記憶を取り戻してから数日が経過した。
遅れていた勉強もなんとか追いつき安堵している。
ただ、記憶を取り戻した日から頭、心の中で渦巻く霧が晴れない。
最初は脳が混乱してとか久しぶりだからとかそれっぽい言い訳で深く考えないようにしていたがどうやらそんな単純な理由じゃないようだ。
まだ何か思い出していないことが私にはあるのかもしれない。
「思い出さないといけないのは・・・記憶を失っている時の私のこと・・・」
ベットの上で横になりながら独り言を呟き考える。
思い出すと言ってもきっかけになりそうな材料が全くない。
数週間経過していたはずなのに学校にも家にも部屋にさえ彼女の生活していた形跡が一切ない。
意図的に消していたようにさえ思える。
考えれば考えるほど空白になった記憶のことが気になる。
私の知らない私のこと・・・知っているとしたら両親だろう。
思いついたら居ても立っても居られなくなり部屋を出ると一階にいるであろう両親の元へ向かう。
「お母さん、記憶を失っている時の私のこと教えて欲しい」
「突然どうしたの?」
夕飯の支度をしていたお母さんはその手を止めると驚きながら振り向いた。
「知ってるならやっぱりお母さんかなって思って。なんとなく気になったってだけで深い意味はないんだよ」
お母さんは「そうなのね」と言うと鍋の火を止めつけていたエプロンを脱いでたたむとダイニングテーブルに腰掛け話を始めた。
「記憶を無くして最初の頃はとても生きづらそうだった。家では常に気を遣っていたし、毎日悩んでいるみたいで。親としてできる限り支えたつもりだったけど・・・本当にあの子のためになっていたか自信がないわ・・・」
私を見つめるその優しい目は少し潤んでいる。
記憶をなくして別人のように見えてしまう私との接し方を悩みながら私の支えになろうと模索していたのだろう。
その時のことを覚えていない私にはお母さんに掛けるべき言葉が出てこない。
「でもね、学校に登校するようになってから表情が明るくなったの。前までの取り繕った私たちに心配をかけないための笑顔じゃなくて、心から笑っていたの。先週の土曜日もクラスの友達と出かけるって楽しそうにしてた。仲のいい友達がいるようで安心した」
「そうなんだね。私の知らない私が楽しそうに生活できてたなら良かった」
話のすぐ後に帰宅したお父さんと三人でいつも通りの夕飯を囲んだ。
翌日の昼休み、どうしても先週の土曜日のことが気になってクラスメイトに尋ねることにした。
「先週の土曜日?私は部活だったから違うよ」
「私も家から出てないから違うかな」
数名のクラスメイトに尋ねてみたが結果は分からず。
クラスの友達とは言っていたが念のため他クラスの友人にも話を聞いてみたが誰も心当たりがないようだ。
「誰と遊びに行ったんだろう私・・・」
未だ頭の中の霧はかかったまま。
スマホアプリのメッセージのやり取りに手掛かりがあると踏んで探したものの出かける約束をした形跡は一切出てこない。
「なにか別の手掛かり・・・出かけたなら写真を撮ってるかも」
ひらめいた私はフォトギャラリーを開きライブラリーを見回した。
「ないか・・・」
ライブラリーには一枚も写真が増えていない。
最後の写真も自分が体育祭の時に撮影したもので覚えている。
名案だと思ったがまたもや振り出しに戻ってしまった。
――――ドン
一度諦めて昼食を取ろうとすると横からクラスメイトがぶつかってきた。
「あ、ごめんね紗良沙ちゃん」
「うん!大丈夫だよ」
握っていたスマホが宙を舞い床に落ちた。
拾い上げ、袖を使って付着した埃を払う。
先程まで開いていたライブラリーが下方にスライドされ別の画面を映していた。
普段あまり気にしたことのない欄の中に一つ目を引くものがあった。
「最近削除した項目34・・・」
私にはここ数日で写真を消した記憶がない。
では一体誰が削除したのだろうか。
教室の喧騒を掻き消すほど心臓の音がうるさい。
「これは・・・水族館の写真・・・」
恐る恐る開いた先は一面が青色で埋め尽くされている。
先頭の写真を開くと見覚えのある水族館入り口の風景で記された日付は先週の土曜日。
間違いなくこの写真は私が記憶を失っている時のものだ。
一枚一枚噛み締めるようにスライドさせていく。
少しずつ剥がれ落ちていた記憶のピースが埋まっていく。
触手の長さも色も様々なクラゲ、巨大な水槽を優雅に泳ぐサメ、岩穴から顔を覗かせるウツボ、ペンギンを眺める・・・。
「相川く・・・違う、蓮くん・・・」
ダイオウグソクムシに興味津々の蓮くん、イルカショーで濡れそうになって焦っている蓮くん、水平線に落ちる夕日を眺めながら思い出を語った私と蓮くん。
「なんで私・・・また忘れちゃったんだろう・・・」
堪えられるはずない涙でスマホが見えない。
両手で目を擦り涙を拭う。
左の座席の方に向くと彼の姿はない。
だけど私には心当たりがある。
真面目な私が廊下を走るのは初めてだ、通りすがりに先生に止められるのを無視して進み続ける。
★ ★ ★
体育館につながる渡り廊下、心地のいい風が吹いていて暑さもあまり感じない。
少し前までは隣が埋まっていたけれど今となっては一人でベンチを占領している。
僕だけのものになってしまった思い出を振り返るとセンチメンタルな気分になってしまう。
「ここで何してるの?」
「ちょっとね、自販機に飲み物買いに来たついでに休憩してたんだ」
あの日と同じ青空の下、印象深い青髪の彼女が僕の隣に座った。
「海崎こそどうしたんだ外は暑いだろ」
「私も飲みものを買いに来たんだよ。はいこれ、蓮くんに」
海崎から手渡されたのは一缶の超甘口のサイダー。
「これ・・・・・・」
「忘れちゃったの?約束したでしょ、今度は私が奢るって」
結んでいた髪を解きながら笑いかけてくる紗良沙に答えるよう僕は最大限の笑顔を返す。
「忘れないよ。紗良沙との記憶」