しおり、という名前のしるし
第6話:しおり、という名前のしるし
それからというもの、陽輝と詩織は、週に何度か図書室で顔を合わせるようになった。
「また来てる」
「また来てるね」
同じ時間、同じ場所。
でも、前ほど“約束”や“期待”のようなものはなく、ただ自然とそこにいる。
ある日、陽輝が借りた文庫本を読み終えて返却したときのこと。
「この本、どうだった?」
詩織が声をかけた。
「すごくよかった。“人は誰かの物語の途中に立ち会うために生きてる”って一文、ぐっときた」
「……わたしも、そこに折り目つけてた」
驚いて顔を見合わせ、ふたりは小さく笑った。
図書委員の仕事を終えたあと、ふたりはたまに廊下のベンチに座って話すようになった。
「陽輝って、前から本好きだったの?」
「うん。病院にいた頃、毎日読んでた。……いや、正確には“ある図書館”で働いてた」
「図書館で……働いてた?」
「なつひか図書館っていう、病棟の中にあった小さなやつ」
詩織は目を丸くして聞いていた。
「それって、めっちゃ素敵じゃん」
「うん。いろんな本があって、いろんな思い出が詰まってて……今でも、自分の中にある感じがする」
「じゃあ、今度、わたしにも紹介してよ。“陽輝の棚”」
その言葉は、どこか懐かしく、でも新しい響きだった。
ある日。
詩織が紙袋を抱えて図書室に来た。
「これ、よかったら」
手渡されたのは、小さな手作りのブックカバー。
布に刺繍された模様は、栞と、桜の花。
「“しおり”っていう名前の人が作った“しおり”用カバー。ややこしいけど、私なりの“印”ね」
陽輝は少しだけ照れながら言った。
「……じゃあ、大事なページは、これで守ってもらうよ」
ふたりは目を合わせ、また小さく笑い合った。
夜。
陽輝は、病院時代の「なつひか図書館ノート」を再び開く。
夏希の名前が書かれたページを見つめて、静かにページをめくる。
そのすぐ隣に、新しいページを加えた。
「“となり”って、ひとつじゃないんだなと思った。
大切な時間をくれた誰かを忘れないまま、
また新しく“となりに座ってくれる人”がいる。
その人の名前は――詩織。」
ある放課後の図書室。
陽輝と詩織は、読みかけの小説を広げて並んで座っていた。
「……この主人公さ、前の恋を忘れられないまま、新しい誰かと出会ってさ」
詩織が、ぽつりと言った。
「……そういうのって、どう思う?」
陽輝は、本から目を離してしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……俺、病院にいた頃、大切な人がいた」
詩織は、驚いたように目を見開いたが、遮らず、ただ聞いていた。
「白血病で入院してて。図書館を一緒に作って、本を貸し合って、ずっととなりにいた。
その人の笑った顔とか、泣いた顔とか、全部、忘れたくないと思ってた」
「いまでも、覚えてる?」
「うん。きっと、ずっと忘れないと思う」
そこで一度、陽輝は言葉を止めた。
少し考えるように、本のページを閉じる。
そして、静かに言った。
「……でも、“想い出”って、誰かのページにしおりを挟むことだと思う」
「……え?」
「一回閉じても、また読み返せる。忘れる必要はない。
でも、新しい本にも、“しおり”は挟めるんだよ。
今、俺のとなりにいる君が、その“しおり”だって……そう思ってる」
詩織は、少し黙ったあと――目を細めて笑った。
「……じゃあ、わたし、ちゃんとした“しおり”でいなきゃね」
「大丈夫、もうなってるよ」
それは、比べる言葉じゃなかった。
忘れるための言葉でもなかった。
“ありがとう。君のおかげで、ページをめくれた。”
それが、陽輝が見つけた答えだった。
夜、陽輝は久しぶりに「なつひか図書館ノート」を開いた。
夏希のページをそっと撫でて、次のページに一行、こう書いた。
「となりが変わっても、心は本棚の中で静かにつながっている。
放課後の図書室は、静かでぬくもりがあった。
秋が終わりに近づいていて、窓から入る風が少し冷たい。
「ねえ、陽輝」
詩織が、手帳を開きながら言った。
「この前話してた“あの本”って、まだ読める?」
陽輝は少しだけ笑って、頷いた。
「うん。ちゃんと家の本棚にある。病院にいたとき、夏希から借りて――
そのまま自分の宝物になったやつ」
「読んでみたいな、その“宝物”」
陽輝は、少しだけ迷ったあと、そっと言った。
「じゃあ、明日、持ってくる」
翌日。
陽輝は、かつて“なつひか図書館”の貸出カードに使っていたしおりを一枚だけ手に取った。
それには、手書きの小さな言葉が書いてある。
「この本を読んでくれたあなたに、
きっと、やさしい風が吹きますように。」
陽輝は、それを詩織のために、もう一度使うことに決めた。
放課後。
陽輝は、文庫本をそっと差し出した。
「これ、例のやつ。『光の図書館』っていう短編集。
病室で読んだ時、ページめくるたびに心が静かになったんだ」
「ありがとう……」
詩織は、受け取る時、驚いたようにしおりを見た。
「これ、手作り?」
「うん。病院の図書館で使ってた。……“なつひか図書館”のもの」
「借りてもいい?」
「ううん、これは**“貸す”んじゃなくて、“預ける”**んだよ」
「……それって、すごく重たいようで、すごくうれしい」
詩織は、しおりを本に挟んで、両手で抱きしめるように本を持った。
「読み終わったら、感想ノートとか書いて返してもいい?」
「もちろん。“しおり返却ノート”ね」
ふたりは笑った。
でも、それはただの笑いではなかった。
その日、陽輝ははっきりと感じた。
“新しい図書館”が、自分たちの間に生まれつつあることを。
夜、久しぶりに夏希のSNSを覗いた。
そこには、一枚の写真がアップされていた。
図書室の写真。
そして、そこにこう書かれていた。
「“なつひか”は、今も誰かの心で、静かに本を貸し続けている。」
#私たちの図書館 #続いていく場所
陽輝は、スマホを胸にそっと当てて、目を閉じた。
夏希は、図書委員室の片隅で一人、椅子に座っていた。
開いたままのノート。机の上には貸出記録。
でも視線はどこにも向かっていない。
部活の先輩――彼と付き合い始めて半年。
優しかった。気が合った。
けれど、言葉は突然だった。
「ごめん。気持ちが、続かなかったんだ」
何が悪かったのかわからない。
だけど、何かが終わったことだけは、ちゃんとわかっていた。
その日の夜、夏希はひとりベッドの上でスマホをいじっていた。
ふと、トークアプリを開く。
「陽輝」と書かれたトークルームは、もう数ヶ月動いていなかった。
でも、消せなかった。
送りかけて、やめたメッセージが、ひとつ残っていた。
【入力中】
「……なんでもない」
消そうとしたそのとき、ぽん、と別の通知が入った。
【未来】
「なつきちゃん、元気? 最近、なつひか図書館の夢見たよ? ̄タヘ
夏希は、それだけで、少し涙がにじんだ。
「そうだよ。
私たちは、あんなふうに毎日ページをめくってたじゃん……」
翌日。
図書委員の仕事を終えた後、夏希は一人、校舎裏のベンチにいた。
誰かの足音が聞こえる。
振り返ると、そこに――陽輝が立っていた。
「……なんで」
夏希は思わず声を詰まらせる。
「未来が教えてくれた。“最近、夏希がちょっと元気ない気がする”って」
陽輝は、何も言わずにとなりに座った。
「……振られた」
「うん」
「平気なふりしてたけど……全然平気じゃない」
「……うん」
「でも、もっと嫌なのは、こんなことでページを閉じたくなる自分」
陽輝は、ポケットから小さな紙を出した。
折り畳まれた、古い貸出カードの端っこ。
「読み終わっても、閉じなくていい。
何度でも開いていい。
だって、心の中の図書館は、誰かの“好きだった”でできてるんだから。」
夏希は、それを見つめて、小さく泣いた。
でも、それは過去を取り戻す涙じゃなかった。
自分の中の「好きだった」を、許すための涙だった。
陽輝は、ただ隣で言った。
「……泣き終わったら、また何か貸してよ。“夏希セレクション”で」
夏希は、うなずいた。
「じゃあ、今度こそ“本当に元気出るやつ”、選んでみせる」
ふたりの関係は、戻らない。
けれど、壊れていない。
それは“過去の延長”ではなく、“新しい静かな章の始まり”だった。
「それ、すごくいい」
その声に、ふたりはハッと振り返った。
校舎の影から現れたのは、詩織だった。
制服のまま、手には文庫本。
そして表情には、微笑みと少しだけ迷いの混ざったもの。
「“三人図書館”、って言ったよね?」
夏希は一瞬、言葉を詰まらせたが、すぐに笑った。
それは、まっすぐな笑顔だった。
「うん。言った」
詩織はゆっくりと歩み寄り、ふたりの前に立った。
「実は……今朝、未来ちゃんから手紙が届いたの」
「え?」陽輝が驚いた声を出す。
「“なつひか図書館の物語、わたし以外の人にも教えてあげて”って書いてあった。
たぶん……未来ちゃん、あの時間を“物語”にしようとしてる」
夏希は、そっと息を呑んだ。
「本に、するってこと……?」
詩織は頷く。
「“図書館がくれたやさしい時間たち”って仮タイトルだった」
陽輝も言葉をなくす。
「……それって、私たちの記憶そのものじゃん」
詩織は一歩近づき、ふたりの目を見て言った。
「だから私も、ちゃんと知りたいと思ったの。“夏希ちゃん”と“陽輝”の間にあったもの。
比べたり奪ったりじゃなくて、ただ、同じページの“隣”をめくる人として」
沈黙。
風がふわりと吹いて、ベンチの上の紙片が一枚、舞った。
夏希が拾いあげ、それを手渡した。
それは――かつて病院で使っていた、あの貸出カードの複製だった。
「じゃあ、渡すね。これ、“なつひか図書館”の新しい貸出カード」
詩織はそれを受け取り、笑った。
「じゃあ、まずは一冊。“夏希セレクション”、貸してもらおうかな」
陽輝は、黙ってノートを開き、ページのすみにこう書いた。
「物語の続きを、一緒に読もう。
誰の“となり”にもなれる図書館を、今ここから始めよう。」
三人は、ベンチに座って並んだ。
過去と今が、違うページにあっても、
同じ“本”の中にいられるという奇跡のような優しさの中で――
“なつひか図書館・ふたたび”は、静かにその扉を開いた。