ページをめくる係になった
第5話:ページをめくる係になった
中学校生活が始まって、1か月。
夏希は、希望していた図書委員になった。
「本なら、少し自信があるから」
面接でそう答えたとき、先生は「いいね」と言って笑ってくれた。
委員会の仕事は、図書室の整頓、本の貸し出し、ポップ作り。
どれも、病棟でやっていた「なつひか図書館」の延長線のようで、夏希はどこか安心していた。
ある日、ふと気づいたことがある。
図書室の隅っこに、埃をかぶったまま誰にも読まれていない古い絵本があった。
『つづきは、ここにあります』
そんなタイトルの、装丁の剥げかけた本。
夏希はそれを手に取り、やさしく本棚から抜いた。
「“つづき”……か」
その言葉は、どこかで聞いたことがある気がした。
そう、たとえば――陽輝の手紙の中に。
月に一度、夏希は病院に通っていた。
体調チェックと血液検査。もう点滴はなく、通院で済むほどに回復している。
その帰り、いつものように談話室の前を通った。
「なつひか図書館」のワゴンは、今もそこにあった。
看護師さんたちが守ってくれていた小さな図書館。
だが、今は“貸出中止”の札がかかっている。
「やっぱり、誰かがいなきゃ動かないんだよね」
夏希はバッグから、家で書いてきたポップを取り出した。
「この本は、笑いたいときに読むといいかもしれません」
――元・図書係 夏希より
その札を、未来からもらった星型のクリップで留める。
「月に一回でも、私がここに来れば――きっと“つづき”は止まらない」
夏希はそう信じていた。
その帰り道、スマホに一件の通知が届いた。
差出人は、“陽輝”。
【From:陽輝】
今日、学校の図書館で「なつひか」って書かれた古いメモ見つけた。
誰かが書いたかはわからないけど――
たぶん、夏希だよね。
月末、病院行く。
会えたら、ちょっと話したい。
夏希の指が、ゆっくりと画面に触れる。
【To:陽輝】
図書館の“つづき”、
今度こそ、一緒にめくろうね。
六月の終わり、梅雨の晴れ間。
空はひどく高くて、夏の匂いが近づいていた。
夏希は、いつもの通院日より少しだけ早めに病院に着いた。
談話室の前に、誰かがいる気配がする。
扉のガラス越しに見えた後ろ姿――
「……陽輝」
その名前を口にした瞬間、陽輝が振り返った。
目が合った。
懐かしさが胸にこみあげてきた。
でも、言葉はうまく出てこなかった。
「……久しぶり」
陽輝が、少し照れたように笑った。
「久しぶり。髪、伸びたね」
「うん。陽輝も……なんか、ちょっと背が伸びた?」
「ちょっとだけ。あと、声変わりしそうでしない」
「ふふっ、まだなの?」
二人は、同じタイミングで笑った。
その笑い声が、まるで時を戻すように空間を満たした。
談話室の片隅には、今も「なつひか図書館」のワゴンが残されていた。
陽輝が、そこにそっと手を置く。
「ここ、ずっと気になってた。ちゃんと残ってて、嬉しい」
「うん。私、月に一回だけだけど、ポップ書いてたんだ」
夏希は、小さなノートを取り出した。
「なつひか図書館・外部活動記録」と書かれている。
「……やっぱり、すごいな」
陽輝が言った。
「すごくないよ。ただ――“となりにいた日”を、忘れたくなかっただけ」
陽輝はしばらく黙って、それからポケットから一枚の紙を取り出した。
それは、かつて夏希が病室でくれた、あの小さな紙飛行機の再現だった。
中には、短い言葉。
「また一緒に、図書館やろう。
“未来”も呼んで、三人で。」
夏希の目に、静かに涙がにじむ。
でも、それは悲しみではなかった。
「うん……やろう」
「“なつひか”、第二章」
「じゃあ名前変える?」
「ううん。そのままでいい。だって――」
「“なつひか”って、夏希と陽輝の時間そのものだから」
陽輝はうなずいた。
どこかで、風がページをめくるような音がした。
新しい物語が、また始まろうとしていた。
中学2年の夏。
陽輝は、図書室の窓際の席に座っていた。
かつて、病院の談話室で夏希と並んで読んだ本の続編を、今は一人で読み進めている。
ふと、ページの間から一枚の栞が落ちた。
“なつひか図書館”と、手書きの文字が残っていた。
彼はそれを拾い上げ、そっと胸にしまった。
病院には、ここ数ヶ月行っていない。
通院の間隔はのび、未来も元気に地元の小学校に戻ったと聞いた。
「そろそろ……俺たちは、外の世界に戻っていく時期なのかもしれない」
そう陽輝は思った。
夏希も同じだった。
図書委員の仕事に追われ、定期テストや部活動、日々はあっという間に過ぎていく。
ふと気づくと、あの病棟の風景も、ワゴンも、少しずつ記憶の奥に霞み始めていた。
ある日、久しぶりに夏希とメッセージを交わす。
【陽輝】
最近、病院……行ってないんだ。
【夏希】
私も。元気になってくると、逆に行くのがこわくなっちゃうね。
【陽輝】
でも、またいつか。
なつひか図書館、何らかの形で再開できたらいいね。
【夏希】
うん。
本はさ、しばらく閉じても、また開けば“つづき”がある。
図書館だって、同じだと思う。
その日、陽輝は夜の机で、小さなカードに文字を記した。
宛名もなく、投函もされない手紙。
「“なつひか”は、今も確かに生きてる。
それは“場所”じゃなく、“心”の中にあるってこと、ようやくわかった」
またいつか。君と、そして未来と。
あの静かなページを、一緒にめくれる日まで。
彼はそっとカードを閉じ、本のページに挟んだ。
なつひか図書館――
そこはもう、誰もいない“場所”かもしれない。
けれど、それは確かに生きている。
あの時間を知る人たちの心のなかでだけ、今もページをめくり続けている。
夏。2年生の終わり。
クラスでは、夏希が「彼氏ができたらしい」と静かに噂になっていた。
部活の先輩で、穏やかで優しい男の子。
同じ本を読んでいたことで意気投合したのがきっかけだったという。
「ふたりで図書室にいたよ」
「なんかお似合いだったよね」
陽輝は、クラスメイトから聞いたその話を、ただ黙って聞いていた。
帰り道。
スマホのメッセージアプリを開く。
最後のやりとりは、春――「また図書館の話しようね」と約束したまま、会話は途切れていた。
画面に表示されたままの名前「夏希」に、陽輝は何も打たずにそっと閉じた。
「……知ってたよ」
心の中でつぶやく。
夏希が前に進んでいること。
もうあの“となり”の時間が、過去になっていること。
でも、それでも――
「好きだったことは、本当だった」
それは、いまの関係に関係なく。
一緒に泣いた日も、笑った日も、手を握ったあの瞬間も。
「全部、俺の中では消えてない」
陽輝はそう思った。
悔しさも、悲しさも、なかった。
ただ、ひとつの物語がページを閉じる音がしただけだった。
その夜。
久しぶりに机の奥から「なつひか図書館」のノートを取り出す。
最後のページには、夏希の文字が残っていた。
「本の“最終巻”が出ても、“読み終えた”って言いたくないとき、あるよね」
「そんなとき、次の本に手を伸ばす勇気をくれたのは、たぶんあなたでした」
陽輝は、ページの隅にそっと書き足した。
「それでいいよ。
君が選んだ未来なら、俺はきっと――祝える。」
物語は、新しい章に入った。
そして陽輝もまた、ページをめくる準備をし始めていた。
秋が深まったある日。
陽輝は、放課後の図書室で一冊の本を探していた。
予約していた文庫――タイトルは『明日もまた、ページをめくる』。
棚をのぞき込んでいると、不意に肩がぶつかった。
「ごめん、あ、先どうぞ」
声の主は、同じ制服を着た見知らぬ女の子。
少し癖のある前髪と、しっかりとした瞳。
手には、陽輝と同じ本の予約票を持っていた。
「……もしかして、同じ本?」
「うん。今日、返却予定だったんだけど、まだみたいだね」
「なんか悔しいね。取りに来たのに、無いって」
ふたりは自然と、窓際の席に並んで座った。
そのまま少しだけ雑談をした。読んだ本の話、好きなジャンル、学校の先生の話――
ほんの20分ほど。
でも陽輝は、久しぶりに誰かと“対等な会話”をしている感覚を持っていた。
「……じゃあ、またこの本、届いたらどっちが先に読むか勝負だね」
「望むところ」
少女が席を立ちかけたそのとき。
ふと振り返って、こう言った。
「ねえ、名前聞いてもいい?」
陽輝は一瞬だけ言葉につまったあと、微笑んで答えた。
「陽輝。ようきって読む。君は?」
少女は笑って――
「詩織。名前が本っぽいって、よく言われる」
「ぴったりすぎて、ずるいな」
ふたりの笑い声が、静かな図書室に溶けていく。
夜。
陽輝は、自分でも驚くほど自然にノートを開いた。
あの“なつひか図書館”の続きのページ。
そこに、こう書き加えた。
「今日は、新しい本と、新しい“しおり”に出会った。」
もしかしたら、また始まるかもしれない。
誰かとページをめくる日々が。