出会いと夜の会話
第1話:出会いと夜の会話
病室の窓から見えるのは、灰色の空と小さな中庭だけだった。
人工的な白い光に包まれた二人部屋。そこに、新しい入院患者が運ばれてきたのは午後のことだった。
「……ねえ、そっちのベッド、誰か入るって聞いてる?」
カーテン越しに、先にこの部屋にいた少女が声をかけた。
「……うん。きょうから、ぼく」
少し間をおいて、少年の声が返ってきた。声に、緊張が混じっている。
「そっか。よろしくね。わたし、夏希。十二歳。中一」
「……陽輝。十歳。小五」
「陽輝くん、白血病?」
「うん。急性リンパ性。夏希さんも?」
「うん。同じ。入院して、もう九ヶ月目」
「……長いね」
「そうだね。最初の三ヶ月はずっと点滴刺しっぱなしだったし」
カーテンの向こうで空気が揺れた気がして、夏希は言った。
「カーテン、開けてもいい?」
「うん」
夏希がそっとカーテンを引くと、そこには病衣姿の小柄な少年がいた。腕には点滴のチューブ。髪はほとんど抜け落ちていたけれど、目は驚くほど澄んでいた。
「はじめまして。……ていうか、ほんとに十歳?」
「うん。なんか変?」
「ちょっと大人びてるから。びっくりしただけ」
夏希はベッドを降りて、陽輝のテーブルの上を覗いた。
「マンガ読むんだ。『宇宙ハンターX』じゃん」
「うん。お母さんが持ってきてくれたんだ」
「いいなー。わたし、それ途中で止まってる」
「じゃあ、読む?」
「……いいの?」
陽輝は、1巻から順にマンガを差し出した。
「ありがとう、後輩くん」
「また先輩ぶってる」
二人はくすくすと笑い合った。
その瞬間、病室は少しだけ春の匂いがした。
病室の灯りが落ち、天井の間接照明だけがほのかに灯る。
ナースの足音が遠くを通り過ぎ、静寂が部屋を包んでいた。
「陽輝、起きてる?」
「……うん」
カーテン越しの声。病室は暗く、でも二人の距離はむしろ近く感じた。
「眠れない?」
「ちょっと。夏希は?」
「同じ。明日、採血あるしね」
「針、細いけど地味に痛いよね」
「しかも、あの先生たまに失敗するし」
「マジで!? やめてよ、怖くなるじゃん」
小さな笑い声が、天井に吸い込まれていった。
「陽輝、学校……今どんな感じ?」
「行ってないからわかんないけど、手紙には修学旅行の話が書いてあった」
「いいな……。わたしも行けなかった。京都だったのに」
「京都ってお寺とか?」
「うん。でも楽しみだったのは夜のおしゃべり」
「わかる! 枕投げとか、お菓子持ち寄って話すやつ」
「病気になってからさ、時間の流れ方、変わったよね」
「うん。まわりは進んでいくのに、自分だけ取り残されてる感じ」
しん、と静かになったあと、夏希がぽつりと言った。
「でも、話せる相手がいるの、ちょっと嬉しい」
「俺も」
「……じゃあさ、秘密のゲームしようよ」
「ゲーム?」
「明日までに、“病院でしかできない楽しいこと”を一つ考える。で、明日の夜に発表」
「それ、負けた方がベッドの掃除?」
「いいね。勝負だよ、陽輝くん」
「負けないよ、先輩」
二人の笑い声が、夜の病室にほのかに灯る。
外はまだ冬のままだけど、その小さな部屋には確かに春が近づいていた。
朝の病棟は早い。まだ7時前なのに、カーテン越しに看護師さんたちの声や器具の音が聞こえてくる。
夏希はそっと目を開けた。点滴の液が落ちる音が、時計みたいにリズムを刻んでいる。
「……おはよ、陽輝」
「……ん、おはよう」
カーテン越しの陽輝の声は、少し眠たそうだった。
「今日、覚えてる?」
「うん。“病院でしかできない楽しいこと”発表でしょ?」
夏希はふふっと笑った。ああ、ちゃんと覚えてたんだ。
「先に言っていい?」と陽輝。
「いいよ。聞かせて」
「俺ね、“点滴競争”。左右のベッドで、点滴の落ちるスピード見比べて、どっちが先に終わるか当てっこするの」
「うわ、それ地味だけど……ちょっと面白い」
「でしょ? 見た目以上に熱くなるんだよ」
「じゃあ、私の番ね」
「うん」
「“病室図書館”ってやつ。病院中からマンガとか本を借りてきて、自分たちで貸し出しノート作るの」
「それ……すごい。ていうか、本気じゃん」
「まあね、ちょっとガチで考えた」
「……夏希先輩、すごすぎ。これは俺の負けかな」
「いいの? 掃除してもらうよ、今日の夜」
「いいよ。でも図書カード作るのは手伝って」
「もちろん」
二人は、笑いながら朝を迎えた。
だがその時、足音が近づいてきた。
「おはようございます、陽輝くん、夏希ちゃん」
担当の看護師・井川さんがやってきた。彼女はいつも優しいけれど、手には例のものが握られている。
「あ、まさか……」
「今日は採血の日ですよー。どちらからいきますか?」
「じゃんけんでいい?」と陽輝。
「いいけど、どうせ負けるでしょ」と夏希。
「じゃーんけーん――ぽん!」
陽輝はパー。夏希はグー。
「やった!」
「……うわ、俺からか」
陽輝は顔をしかめながら、袖をめくった。
「ごめんねー、チクッとしますよ」
井川さんが優しく言いながら針を持つ。
「じゃあ、3つ数えるよ。1、2――」
「うわっ、もう刺した! ずるい!」
「フフ、作戦勝ちだね」と井川さん。
その後、夏希の番になったときも、彼女は腕を出しながら言った。
「“1、2、チクッ”じゃなくて、“0.5秒でチクッ”なんだもん」
「名人芸だよあれは」と陽輝。
朝の空は、少しだけ雲が切れて陽が差し込んできていた。
注射もゲームも、本を集める計画も、今日という日をちゃんと刻んでくれていた。
午後、夏希と陽輝は病室のテーブルに紙を広げていた。
タイトルは手描きのマジックで「なつひか図書館」。
「“なつひか”ってなに」
「夏希と陽輝の頭文字。いいでしょ?」
「ちょっと恥ずかしいけど……まあ、いいか」
貸出カードの台帳、手書きのポスター、「読むと元気が出る本ベスト3」など、準備はどんどん進んでいた。
そこへ、病室のドアがノックされた。
「こんにちはー。えっと、陽輝くんと夏希ちゃんのお部屋……あ、いたいた」
看護師さんに付き添われて、小さな女の子が顔を出した。年はふたりより少し下だろうか。
「この子、新しく小児病棟に入ったばかりでね。ちょっと部屋に馴染めてないみたいなの。よかったら、一緒にお話してくれる?」
「うん、いいよ」と夏希。
「こんにちは。わたし、夏希。こっちは陽輝」
「……み、未来。9歳」
未来は、おとなしくて目を合わせるのがちょっと苦手そうだった。でも、手には一冊の本を握りしめていた。
「それ、なに読んでるの?」陽輝が覗き込む。
「『星の王子さま』……おかあさんが、持ってきてくれた」
「名作じゃん! それ、俺たちの図書館にも入れたい!」
「……としょかん?」
未来が首を傾げると、夏希がやさしく笑って説明した。
「“なつひか図書館”っていって、病院の本やマンガを集めて、貸し出すの。退屈な時間がちょっとでも楽しくなるように」
「……未来ちゃん、もしよかったら、“図書係”やってみない?」陽輝が言った。
「……わたしが?」
「うん。“星の王子さま担当”とかどう? その本、すごく大事そうにしてるから」
未来は、少しだけ目を見開いて、そしてゆっくりうなずいた。
「……やってみたい」
「よし決定! 図書係・未来ちゃん、誕生!」
陽輝と夏希が拍手すると、未来は思わず吹き出し、そして初めて、小さな笑顔を見せた。
その日、病棟の廊下には「なつひか図書館 近日開館!」の手書きポスターが貼られた。
病室の外にも、やさしい時間が、少しずつ広がりはじめていた。
病棟の掲示板に貼られた「なつひか図書館 本日開館!」のポスターは、意外にも評判を呼んでいた。
「ヒマな時間がちょっとでも楽しくなるかもね」と、看護師さんたちも微笑んで見守っている。
病棟の談話室の一角。折りたたみテーブルの上に、手書きの貸出ノートとマンガ、絵本、小説がずらりと並んだ。
夏希は開館時間ぴったりに言った。
「本日、“なつひか図書館”、開館しまーす!」
「おー!」と陽輝。
「……ようこそ、未来担当“星の王子さまコーナー”もあります」と未来。
そのとき、勢いよくドアが開いた。
ズカズカと入ってきたのは、短髪でやや背の高い男の子。年は陽輝と同じくらいか、少し上に見えた。
「おい、ここって本読めるんだって? マンガだけなわけ?」
「え、うん。いろいろあるけど……」陽輝が答えた。
男の子は無言で机の上のマンガを手に取り、パラパラとめくると――
「なんだ、最新刊ないのかよ。ダセー」
「え、まだ全部は集まってなくて……」夏希が言おうとした瞬間、彼は雑に本を置き、次の本に手を伸ばした。
その手が、**未来の『星の王子さま』**に触れた。
「ちょ、やめて!」
未来が思わず声をあげて、本を引き寄せた。男の子が睨む。
「は? 触っただけじゃん」
「それ……わたしの……おかあさんがくれた……」
「だったらこんなとこ置くなよ」
空気が一瞬で凍りついた。
陽輝が立ち上がる。
「おい、それは言いすぎだろ」
「なんだよ。お前ら、ガキの遊びみたいな図書館で偉そうにしてんじゃねえよ」
陽輝の手が、ぎゅっと握られた。
でも、彼はぐっと飲み込んで、強く言った。
「ここは“遊び”じゃない。退屈な時間をちょっとでも楽しくしようって、俺たち一生懸命考えたんだ」
「……」
「未来だって、勇気出して参加してくれた。大事な本を持ってきてくれた。
それを“ダセー”とか“置くな”とか、言うなら……もう来なくていい」
男の子は黙ったまま、しばらく陽輝をにらみつけ――そして舌打ちをして、無言で出て行った。
静寂。
未来は唇をかみしめていた。
夏希が、そっと彼女の背中をさすった。
「大丈夫。ちゃんと守れたよ。ね、陽輝」
「うん。未来の本は、“なつひか図書館”の一番大事な宝物だから」
未来は、静かにうなずいた。
そしてポケットから、一枚の紙を取り出した。
「……図書カード、つくった。自分の名前と、“星の王子さま”って書いた」
その文字は少しふるえていたけれど、はっきりと丁寧に書かれていた。
なつひか図書館に、新しい物語が、また一つ加わった瞬間だった。