価値観は断定できるものではない
病んでた時のエッセイです。今も病んでます。
世の中には様々な人がたくさんいて目まぐるしくて仕方がない。それは十七の軟弱な私でさえも嫌でも悟ってしまうほどわかりやすいものだ。十七というまだ短い人生の小道を歩いている最中でも、私の歩んだ小道は他の人と比べてきっと、少し、入り組んだ砂利道だろうと思う。中でもたった今通ってきた、十七の一月から四月にかけての道はかなり荒れて、歩いている最中は、大雨が降って道は氾濫していたことだろう。それでも、その氾濫した小道をもがきながらも歩き続け、私はしっかりとコンクリートで舗装された小道にやっと足を踏み入れることができたと思っている。
その氾濫した小道にはたくさんの人々が横たわっていた。横たわった人たちは狭い空間の中で互いを励ましあいながら、一日一日をやっとの思いで生き抜いているようだった。そして、私もその中に入った。同世代から、二十、三十、四十から百の歳を生きた人と接触しあい、私は彼らを励まし、小さな勇気や希望を与え、その供給として、私自身様々な人から、助言を頂き、励まされ成長することができたと思っている。
この狭い空間でだけでも、これほどの濃密な人生を歩んだ人が多数いるというのに、私は、今まで、入り組んだ小道を見ようともせず自分の道筋だけを思うがままに歩んでいたことは少しもったいないと感じた。それでも、今になって、考え方や見方を百八十度変え直し、視野を広くすることができたということは素晴らしい経験値となったと思っている。
例えば、「普通」という言葉や「当たり前」という言葉。これらは断定できるものではない。人それぞれの価値観の違いというものがあるから、それを相手に普通じゃないと断定した言い方で押し付けるような行為は相手を軽蔑しているといっても否定はできなくなってしまうだろう。当たり前という感じ方も、相手の価値観に委ねられる。
しかし、全て価値観の違いだと言い切ってしまえば何でも良しとなってしまうが、世の中は普通だとか普通じゃないだとか断定できるくらいの狭い範囲ではない。世の中は様々な考えを持った人々が四方八方、入り組んだ場所に足を踏み入れてみれば、うようよと面白い発想や思考を持った人々がうんと存在するのだ。
高校という本当に狭い空間で生きる人々は周りに流されて、入り組んだ小道を見落としていることがたくさんあるはずだ。入り組んだ小道には毛細血管のようにアンダーグラウンドな小さな道が何万と入り組んでいるのだと思う。
最後まで読んでいただきありがとうございます。