あの夏のきみ
あれは青葉茂る八月の初旬、真夏の太陽が隆盛猛々しくこの世の全てのものを焼き尽くさんとばかりに、熱気を放っていたある日の事。
滴る汗にうんざりしながら、目玉焼きが出来そうなほど熱せられたアスファルトの地面を、この先まだ二キロ程離れた駅までの道程を、一歩一歩踏みしめるように歩いていた。
道路を挟んだ向かいの歩道には自動販売機が涼し気な飲み物を販売中で、抗い難い誘惑を放っていた。
「ちっ」
しかし、僕は知っている。今僕の財布の中には必要最低限の金額しか入っていないことを。したがって、この妖艶な機械から清涼飲料水を手に入れることは出来ないのだ。
僕は舌打ちしながらこの歯痒い現実から文字通り目を背け、小脇の垣植えに視線を落とす。
そこでは綺麗な放射線状に張られた蜘蛛の巣に掛かった烏揚羽が一匹、蜘蛛の糸から逃れようと、その大きな青光りする黒い羽根を必死にはためかせていた。
しかし、そのはためきは逆効果で、蝶は逃れることも出来ずに、その巣の主を呼び寄せていることに気付いていないようだった。
端的に考えればこの蝶は間もなく蜘蛛に食われて死ぬ。僕は別段蝶に同情はしないし、自然界では極々有り触れた営みなのだ。
しかし、魔が差すとはこういうことを言うのだろう。もしくは今まさにお預けを喰らった自分に、これ見よがしに餌にありつけそうな蜘蛛への小さな嫉妬心からだろうか。
僕は蜘蛛の巣へと手を伸ばし、手の甲でその大き目の黒い羽根を掬い取った。見事な形の蜘蛛の巣は、僕の手によって大きな穴を残し、巣の主が悔しそうに巣の端へと退散して行くのが見えた。
烏揚羽は僕の手の甲で、その大きく青黒く透き通る羽根をゆっくり開いては閉じ、なかなかそこから飛び立つ気配はなかった。
虫の命の価値をそこまで真剣に考えたことなどなかったが、今救ったばかりのこの小さな命を振り払うことを、どうしても躊躇われて、僕は蝶をそのままに駅への道程を再び歩き始めた。
幾分か進んだ頃にふと自分の甲に目を落とすと、先ほどの烏揚羽が居なくなっていることに気付く。
「礼も言わずに無礼な奴」
期待も意味もない悪態を独り言ちりながら、足を止めることなく炎天下をただ進む。
やがて目的地の駅へとたどり着いた僕は、太陽から建物の影に身を潜め、顔を流れ伝う汗を拭う。どっと全身から汗が噴き出て、肌に張り付く夏服の不快感に思わず眉が吊り上がる。
この後学校で行われる夏期講習の事も考えると、僕の不快感はもう何乗分になるのか、指折り数えたくらいでは指が何本あっても足りないだろう。
駅のホームへ降りていくと、たった今電車が発車したのだろう。心地良い風が吹き込んできて僕の汗を乾かしていく。
僕は無人になったホームのベンチへ腰掛け、次の電車を待つ。僕はこの無人のホームが好きだ。しかし、空間は長くは続かなかった。
ホームへの階段をドタバタと駆け下りてくる足音が僕の隣で止まる。
「あちゃー。電車行っちゃったかー」
同じ学校の制服を着た女子が、息を整えながらベンチの空いているスペースに部活用だろうか。大き目のエナメルバッグを無造作に置く。
「――君だよね。キミもこの時間の電車なの?」
急に声を掛けられて、少し心拍数が上がるのを感じながら、彼女へ視線を送る。
「あれ?キミ、変わったアクセサリーを着けてるんだね」
彼女は僕の肩にそっと手を伸ばすと、彼女の手の甲に大きな烏揚羽。それを見て、彼女は暑さに負けない笑みで優しく微笑んだ。
僕の夏は始まったばかりだ。




