僕と先生とCコード
思い返してみても、僕は地味で暗い生徒だった。
特別仲の良い友達が居るわけでもなく、かといってクラスで浮くほどの個性もない僕は、ほどほどの数の友達を作り、ほどほどの距離感でクラスの中に埋没していた。
僕の通う高校は田舎に立地しているだけに、全校生徒で四百人にも満たないほどの小さな学校だった。
地元に大した娯楽もなく、かといって元気に野原を駆け回る年頃でもなくなった僕は、ただ学校へ行って、終われば家に帰る。それだけの日々を過ごしていた。
先生との出会いは高校一年生の春。選択授業の音楽で教鞭をとっていらっしゃった先生は、他の先生方とは違い、薄いベージュのブラウスに紺色のカーディガン、淡い青のプリーツスカートでとてもお洒落に見えたものだった。
僕たちにとって先生は少し高根の花な印象で、個人的に関わろうとする生徒も特に居ないようだった。
「今日はみんなでギターを弾いてみましょう」
先生は授業中、そう言ってアコースティックギターを数本、準備室から引っ張り出してきた。
僕にとってそれはテレビの中の歌手が持って弾きながら歌うものだったので、とても魅力的に見えた。
数本のギターを生徒間で回しながら数分掻き鳴らしてみる。弦を押さえる手は滅茶苦茶で、リズムもあったものではない。それでも僕はまるで自分がテレビの中の有名人にでもなったかのような妙な興奮を今でも鮮明に思い出すことができる。
ある生徒は先生の声も聞こえないほど破茶滅茶に。ある生徒はそもそもギターに触れることすら遠慮がちに。そんなごった返した授業だったが、僕がギターに興味を持つに至るのには十分な時間だった。
放課後、僕は誰も居ないであろう音楽室へと足を運んだ。我ながら大胆な事をしたと思う。しかし、僕はそれでも、もう暫しギターに触れてみたかったのだ。
「あら、桜井君。何か忘れものかしら?」
思い返せば、音楽の先生が音楽室に居たことは至極当然の事で、その時、なぜそんなことにさえ気が回らなかったのか不思議なほどだった。
「あ、あの、先生。そ、その、昼間のギターをもう少し触らせてもらえないかなって……」
音楽室に来た言い訳など少しも考えていなかった僕は、挙動不審に目を泳がせ、どもりながら答える。
先生はそんな僕ににっこりと微笑みながら、音楽室の中へ招き入れてくれた。
「桜井君のように少しでも興味を持ってくれる子が居て、先生嬉しいわ」
先生はそう言いながら、慣れた手つきでアコースティックギターの音程を調律していく。細い指先が弦を押さえながら丁寧に一音一音確認していくその様はとても官能的に思えた。
「はい。できました」
そう言って先生は、調律の終わったアコースティックギターを僕に手渡した。
「せっかくだから……」
そう言って先生が出したのは手作りのプリントだった。きっと授業で使おうと作ったのだろう。そこにはギターのコードが並んでいた。
「最初はCコードから始めましょう。慣れてきたらいっぱいコードを覚えましょう」
先生はそう言って一つのコードを指差す。僕はたどたどしい手つきで図面通りにネックを押さえる。
「上手ね。そのままゆっくり鳴らしてみて」
昼間に掻き鳴らした時とは全然違う、整った音色がギターから溢れてくる。
「上手ね。次はGマイナーを押さえてみましょう」
先生が次に指差したコードをじっくり見ながら、ネックの指をゆっくりずらす。小指が弦に届かず、もどかしい位置で止まる。
「そこじゃないわ。こっちよ」
先生の指が僕の指を掴んで正解の位置まで持ってくる。恥ずかしさと緊張できっと、僕の顔は林檎の様に真っ赤に染まっていただろう。それでも僕は気にしていない振りをしながら、先ほどと同じように弦をゆっくり掻き鳴らす。
先生は小さく拍手をしながら、また次のコードを指差した。
僕が初めてまともに先生と話したのはこんな感じで、見た目の印象よりも遥かに優しくいくつかのコードを教えていただいて、その日は家路に着いた。僕は自宅に帰ってからも程よい太さの定規をネックに喩えて、先生から教わったコードを確認するように反芻していた。
翌日から放課後に音楽室へ行くことは、僕の日課のようなものになっていった。先生もそんな図々しい僕の事を邪険にされることもなく、音楽室をノックする僕を、優しく迎え入れてくださった。
「今日は実際に譜面を弾いてみようと思うんだけど、この中で桜井君は弾いてみたい曲はある?」
僕が音楽室に通うようになって数日が経ったある日、先生は数枚の譜面を僕の前に並べて尋ねた。
「この曲を挑戦してみたいです」
僕が指差したのは少し前に流行った歌謡曲だった。
先生は少し譜面を眺めると準備室に向かい、もう一本アコースティックギターを抱えてこられた。
「先生も一緒に、いい?」
微笑みながら先生は僕の隣に椅子を並べ、慣れた手つきでギターの調律を始める。
僕は先生の見様見真似で、先生が鳴らす音階の音を一緒に鳴らす。そんな僕を一目見て先生はにこりと微笑むと……。
「音の違い、わかる?」
正直、音の違いなんて分からなかった。ただ先生の笑顔に見惚れていて……。ただその先生の所作があまりにも絵になっていて……。返事をすることも忘れてただ先生に見惚れていた。
「桜井君?」
気が付くと、先生が僕の顔を覗き込んでいた。顔がぼっと熱くなるのがわかった。僕は慌ててネックへと視線を逸らす。
先生は口元を押さえながら軽く笑って、同じようにネックに視線を送り、次の音階を鳴らす。僕も同じように音を鳴らす。
「少しだけ……わかる気がします」
呟くように僕が言うと、先生は嬉しそうに頬を染めながら、また次の音階へと調律を進めた。
調律が終わって二人で譜面のコードを辿っていく。幸い譜面のコードは特段として難しくはなかったが、僕は先生のリズムから外れてしまわないように必死だった。
「桜井君。上手よ」
一緒にギターを鳴らしながら、先生が言ってくれた一言が、ただ嬉しくて。その日は二人で何度も同じ譜面を弾いた。
失恋曲のゆっくりとしたリズムが音楽室に鳴り響く。先生との蜜月にも似た甘い時間。「このまま時が止まればいい」なんて言葉が頭の中を通り抜け、思わず赤面する。
だけど、時間は無情にも過ぎ去っていく。じきに下校時間がやってきて、僕はその日も先生に礼を述べて家路に着いた。
ふわふわと、夢見心地とはまさにこういうことを言うのだろう。
先生と過ごす放課後の時間。遠くて近い未来にこの習慣は必ず終わる。だけど、この時はまだ、そんな未来の事は見ない振りをして。この時間をただただ享受することに夢中になっていた。
僕は先生からいろんな楽曲を教わった。一年が経つ頃には弾ける楽曲も増えていった。
ある時は先生と二人で。ある時は先生の弾くピアノに合わせて。ある時は二人で歌いながら。ある時はピアノを弾いて……。
野に芽を出した花が、やがて蕾を膨らませるように……。
僕は先生の事が好きだった。
そして僕が三年生になった春。先生は転勤になった。
放課後、今までの習慣に任せて音楽室の前までやってきた僕は、音楽室の扉に手を掛け、その手を止める。
やっぱり……やめよう。
そう思い、扉から手を放して踵を返す。もう、ここに先生はいない。
きっと空っぽのその空間に、足を踏み入れることが妙に怖くて……。
一歩、また一歩、音楽室から遠ざかる。その足は妙に重たくて、そんなぐずぐずした調子だったからだろうか。
「もしかして、桜井君。」
音楽室の扉が静かに開かれ、新しく着任された講師の方が顔を覗かせながら声を掛けられた。
「そうですけど……」
なんとなくの気まずさから歯切れの悪い僕を、その講師の方は手招きで音楽室の中へと招かれた。
「前任の先生から色々聞いてるよ。熱心にここでギターを弾いていたんだってね」
ここでの時間を他人から客観的に聞かされるのは、気恥ずかしさと居心地悪さでどうにも居心地が悪くなる。
「先生に色々教えていただいていましたから」
だからだろうか。僕の返事はあまりに素っ気なかった気がする。そんな僕に講師の方は気を悪くされることなく、準備室から一本のギターを持ってくる。
「これなんだけどね」
講師の方は一本のギターと一通の手紙を僕に手渡した。
僕は半ば流されるようにそれらを受け取る。先生が僕に渡すようにお願いをされていたらしい。
ギターはとても使い込まれていた物だろう。ネックの部分が少し黒ずんで、ピックガードの塗装がところどころ剝がれてしまっていた。しかし、それは綺麗にワックスが塗りこまれ、弦も新品に取り換えてあった。
「それ、持って帰ってもらって、いいみたいだからね」
講師の方はにこりと笑いながらおっしゃった。
僕はどんな表情をすればいいのか。なんて返事をすればいいのか。わからず、手紙とギターを持ったまま放心状態でしばし立ち尽くし、講師の方に形ばかりの礼を述べて音楽室から立ち去った。
「いつでも、前みたいにここに練習しに来てもいいからね」
きっと無表情で、無気力に僕は会釈だけを返して家路へ着いた。
それから僕は音楽室へ足を運ぶことはなかった。ギターの練習は止めなかった。先生が残してくれたギターを毎日家で弾いた。先生との日々を噛みしめるように、そこの残滓を掬い取るように。
でも、先生の手紙は未だに開いていない。そこにあるだろう言葉を確認するのが怖かったから。
弾ける曲はたくさん増えた。でも僕はきっと一歩も前に進めていなかった。その一歩をどう進めればいいのか、それすらもわからなかったから。
ただ、小さな夢が僕の中に芽生えたことが、僕の毎日を辛うじて彩った。
そして、季節はまた廻り、僕は今日、高校生ではなくなった。まだ受験が全て終わったわけじゃないけど、進学先は都会の音楽大学。先生のような音楽の先生になりたい。
そうやって、一歩一歩僕なりに前に進んでみようと思う。あの毎日の記憶が遥かに霞んで、だけど、とても輝いて思える日がきっと来るだろう。あの日初めて先生とCコードを弾いた日のように。
だから、先生の手紙を開けるのは、まだ先でもいいと思う。