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1-2

 月曜日、賀島中学校2年2組はザワつく事と為った。何せ、級内でそれほど目立つ方ではない茅世ちせと、音楽の授業中に自ら進んで独唱をした得体の知れない転校生が仲睦まじく会話をしているのだから。千県ちよだ姉妹も流石に此処ここ(まで)の展開にるとは読めなかったらしく、2人揃って眼を丸くしていた。

「凄い……進展ぶりだね……」

 朝の会が始まる寸前、とも()が茅世に話し掛けた。隣には当然(もも)()が居る。

「上手くいったんだ? 共通項作戦」

 多少(いぶか)しがる様な雰囲気の有る朋芽に対し、桃芽は満面の笑みでそういた。

「うん、まぁね……。同じアーティストが好きだったりしたし」

 茅世がはにかみつつ答える。

「あんまり有名じゃないアルバムをお互い知ってたりね」

 さり気無く菜津音なつねが付け加える。

「へぇー! そうだったんだ! チセ、良かったじゃん!!」

 心よりの祝福を表す様に、桃芽はパン、と茅世の背中を叩いた。茅世は

「うん、ありがとう。モモのお蔭だよ」

 とはにかんだまま、感謝の意を伝えた。り取りを微笑ほほえましく思って眺めていた菜津音は、ふと朋芽が何かを案ずる様な表情をしている事に気付いた。わずかに左右に揺れた朋芽の瞳から、其の理由を察した菜津音は、

「朋芽さん、後で一寸話が有るんだけど、良い?」

 と小声で呼び掛けた。朋芽は一瞬だけひるむ様な顔をした後、硬い表情で頷いた。

「え、何なに? どうしたの?」

 桃芽が菜津音と姉を見比べていると、教室前方の引き戸が開き、担任が着席を促しつつ入室して来た。茅世も菜津音が何を言いたいのかはおおよそ推測出来ていて、吊り上がった眉尻を下げながら、教壇の方へ向き直った。


 朝の会が終わり、1時間目が始まる間には、菜津音は席から動かなかった。5分其処(そこ)()の短時間では蛇足にしか為らないと判断しているのだろう。茅世もえて背後を振り向いて会話する気には為れず、机の天板の下に備え付けてある物入れから教科書とノートを引っ張り出し乍ら、朋芽と桃芽の様子を視線だけで窺った。2人共、菜津音を気にしつつも直接目を向けない様にしている様子が垣間見え、茅世は小さく溜め息をいた。と同時に、学級内のほとんどの人物に同様の雰囲気が窺える事を悟り、茅世は二度目の溜め息を吐いてうつむいた。


 教室内に漂う空気が普段と異なる色合いで、何やら落ち着かない感覚の儘時間は流れ、昼休みを迎えた。ふと菜津音が立ち上がり、一歩を踏み出す。茅世は慌てて席を立ち、後を追うが、

()(メン)、茅世は待ってて」

 と菜津音に制され、

「……分かった」

 と返事をして、素直に自席に戻った。菜津音の声に硬質な意思を感じたからだ。にわかにザワつく級友達クラスメイトを意に介さず、菜津音は迷わず朋芽の席に向かい、

「今、一寸ちょっと良いかな?」

 と声を掛けた。朋芽はやや間を置いて、覚悟を決めた様に「うん、大丈夫」とつぶやき、席を後にする。教室を出る間際に合流した桃芽を含む3人は、先日茅世と千県姉妹が集まった西側の階段の踊り場に辿り着いた。未だ10月下旬だと云うのに、踊り場は妙に寒々しかった。

「朋芽さん、正直に答えて。私が茅世と桃芽さんと喋るのって、辞めて欲しい?」

 敢えて、菜津音は表情を変えずに淡々と言った。其れはかえって、朋芽が威圧感を覚える結果に繋がってしまった。言葉に詰まる姉の様子を見て、桃芽は反射的に助け舟を出す。

「いきなりそれってどうなの? 脅されてるみたいで聞いてて何か嫌なんだけど」

 臆せず物を言う性格の桃芽は、眉間に皺を寄せて言った。菜津音は無表情で打って出てしまった手前、心底申し訳無い思いを胸に秘めつつも、其れを表には出さずに返答した。

「御免なさい。でも、是非訊いておきたいと思って。朋芽さんは恐らく、教室内で異端扱いされてる私とは積極的に関わりたくないと思ってる筈。まぁ、当の本人わたしの前じゃ答え辛いとは思うけど……でも間違い無いでしょ?」

 朋芽は肯定も否定もしない。否、しないのではなく、出来ないのだ。其れこそが、朋芽の本心がどちらなのかを端的に表していた。ばつが悪そうに黙って俯く朋芽を前にして、菜津音は心の中で溜め息を吐いた。桃芽も流石にえん()しかねて、眉間の皺の数を減らした。

「……私は其れをとがめる心算つもりなんて更々《さらさら》無い。誰しも平和に、穏やかに日々を過ごしたい。面倒事には巻き込まれたくない。……そんなの当たり前の事だからね」

 菜津音は眼をつぶり、僅かに上方を仰いで深呼吸をした。そして、いやに爽やかな笑顔で、

「朋芽さん、有り難う。素直な気持ちを知れて、良かった。桃芽さんも、一緒に居てれて有り難う。2人共、性質たちの悪い接し方をしてしまって、本当に御免なさい。もう《・・》、貴方達と話す事は無い(・・・・・・・・・・)と思うから……」

 と言い放ち、菜津音はきびすを返した。

「え、ちょ……」

 千県姉妹が呆気に取られている間に、菜津音は去って行く。

「は……話って、これで終わりなの?!」

 たまらず桃芽が菜津音の背中に問い掛ける。然し、菜津音は反応しない。其の後ろ姿からは、絶対に振り返らない、と云う頑なで稚拙な意志が感じ取れた。此処で振り返ってしまえば、意思が揺らいでしまう――そんな思いも、菜津音には有ったのかも知れない。

「ふぅん……面白い娘だね」

 取り残され、立ち尽くす千県姉妹の背後から、聞き覚えのある声がした。

「あ……向山さきやまさん……」

 踊り場より数段上に、男子かと見紛う程に短髪の同級のサッカー少女、向山(ゆう)()が居た。

「き……聞いてた、の?」

 良く良く考えると、別段そうする必要性は無いのだが、桃芽は恐る恐る尋ねた。

「あぁ、偶然通りがかって……」

 悠葵は軽い口調で答えた。斯う云う時の「偶然」と云う台詞は、漫画や小説等の創作物フィクションでは信用ならないんだよなぁ……と桃芽は内心思った。悠葵は若干芝居がかった身振りで呟いた。

「どうしてそこまで、不器用なのかねぇ……?」


 2年2組の引き戸が唐突に開く。ザワついていた教室内に、一瞬の静謐せいひつが訪れる。全員の衆目を集めて、菜津音は独り、教室に戻って来た。茅世は得策ではない、と判断し、駆け寄りたい衝動を抑えて自席に座した儘、背筋を伸ばして菜津音を迎え入れた。

 席に向かう間、菜津音は一瞬だけ、茅世に対して柔和な瞳を向けた。其れは茅世にしか分からないものであり、また茅世も其れを見過ごさなかった。――何か、有ったんだ。茅世は本能的に理解した。

 そして菜津音は着席する。伏し目がちで、先程迄とは異なり、茅世と会話を交わそうとはしない。

「菜津音……?」

 茅世が話し掛けても、菜津音は反応しない。取り立てて用も無いのに机の物入れからノートを取り出し、おもむろにページを開く。茅世が見る限り、其の頁は白紙だった。菜津音は茅世の呼び掛けを無視したきり、何も記されていないノートに眼を落とした儘だ。

 どうして、自ら誤解を招く様な行動を取るのか。どうして、他人の自分に対する心証を悪化させる様な事をするのか。教室内に渦巻き出した無数の囁き声は、大半が菜津音を非難し、茅世を可哀想だ、とする内容だった。

 茅世にも良く分からない。菜津音が、何らかの原因で、何らかの思考に基づいて自分を無視した事。だが其れは、断じて自分との関係性を菜津音が絶った事を意味する訳ではない。

 しばらくして、悠葵が颯爽と教室に現れた。男子からより女子からの人気が高い、女子校に通っていたら一躍注目の的となるタイプだ。一部の女子達が声を掛けるが悠葵は「ゴメン」と適当にあしらい、真っ直ぐに菜津音の許へと進む。悠葵が菜津音に一歩一歩近付く度に、教室内のザワつきが増してゆく。悠葵は所謂いわゆる級内(スクール)序列(カースト)の最高峰であり、謎めいた言動で良くも悪くも(現状では悪い方が圧倒的だが)級内の注目を集め異質の存在の菜津音との対峙は実にゴシップ的だった。此の学校には存在しないが学級新聞の1面トップを飾る程度レヴェルの「事件」であり、2年2組に籍を置く者は注視せざるを得ない出来事であった。茅世は教室内の空気がヒリつく様な張り詰めた感覚を作り出すのを痛感しつつも、眼の前の張本人達は互いに其処迄の緊張感は持っていない事も感じていた。

 教室内に居る全ての人物の注目を浴びている事に自覚的なのか気にも留めていないのか、悠葵は極めて平静に、言い放った。

木乃(きの)さん、ちょっと良いかな? たな()さんも」

「うん、私は別に良いけど」

 何処か泰然と反応を待つ悠葵に、ごく自然に返事をして立ち上がる菜津音。一連の動向に、教室中が騒然と為った。茅世も此の後どうなるんだ? とソワソワしていると、菜津音と悠葵の視線を感じた。2人が自分の同意を待っているのだ、と気付いた瞬間、茅世は弾かれた様に椅子から起立し、謝り乍らいていった。

 教室を出ていく時に、数人の女子が同伴を求めたが、悠葵は級内の頂点トップに君臨する者としての得も云われぬ迫力を醸し出して、烏合うごうの衆を黙させた。


 着いた先は西側の階段の踊り場で、其処には朋芽と桃芽も居た。恐らく此の場所で先程菜津音が連れ出して千県姉妹と話し合いを持ったのだろうと茅世は推測した。然し、何故其処に悠葵が介入したのか、見当が付かなかった。そして、自分が此の場に呼ばれた理由、何故朋芽と桃芽も此の場に残っているのか……分からない事だらけだ。

「あの……此の状況は何?」

 菜津音は険しい表情で口火を切った。茅世は菜津音が対外的な、自分と2人きりで居る時とは全く異なる態勢モードである事を悟り、同時に其の言葉に共感した。

「何で向山さんが出て来るの? 朋芽さんと桃芽さんとの話は終わった筈だけど?」

「申し訳ない」

 一切の質問に回答せず、悠葵は謝罪した。それじゃ答えに為ってないよ、と茅世が声を上げようと思った其の時、悠葵は言葉を(てん)した。

「実は、さっきの木乃さん達の会話、聞いちゃって。別に盗み聞きしたつもりは無いけどさ、たまたま耳に入っちゃったんだよ。だから謝ったんだけどね」

 悠葵に聞かれていた事に対し負い目を感じているのか、申し訳無さそうにする千県姉妹が菜津音は気の毒に為り、

「あぁ、そうなんだ。まぁ偶々ならしょうがないでしょ。だから、朋芽さんと桃芽さんは気にする事無いんじゃない?」

 と返した。臨戦バトル態勢(モード)の為、言葉がぶっきらぼうだが、其れでも千県姉妹の胸を撫で下ろさせるには充分な言葉だった。

「で? 其れだけ言う為に態々《わざわざ》呼び出したの?」

 相変わらず、菜津音は挑発的な言葉選びを続ける。斯う為った時の菜津音の破壊力は、茅世が最も理解している。口を挟めずに、茅世は唯ハラハラしているしかなかった。

「まぁ、そうカリカリすんなって。……いやぁ、木乃さんって不器用だよね。や、別に悪口じゃないんだよ? 響き(きこえ)は悪いかも知れないけどさ。でも、何か木乃さんって、意図的に嫌われようとしてる感じっていうか……。本音は皆で仲良くやりたいんでしょ? でも、何らかの抑制があって、他人を突き放して自分が孤独になる道を選んでる。……どう? 合ってない?」

 悠葵は自分の間で泰然と話した。茅世の眉間に皺が寄っていた。未だに悠葵の真意が分からないのと、其れ以上踏み込むのは、菜津音の禁則タブー事項(エリア)に触れる事に為るからだ。

「向山さん、触れて良い物と悪いものがあるよ……」

 気付いたら、喋っていた。茅世は半ば無意識的にまくし立てた。

「立場とか地位とか、明確あきらかに決まってる訳じゃないけど、でもそう云うのが現実に学級クラス内とか、学校内には、在るよ。実際、さ。でも、其れの上位うえのほうに居るからって、下位したの人間の個人的な事情に迄ズカズカ入ってって良い訳じゃないでしょ? ……誰にだって、誰にも踏み込んで来て欲しくない領域エリアが、在るんだよ。解るでしょ? 貴女も、人間なら」

 キッと悠葵を見据え乍ら、言い切った。悠葵は想定外の反論に驚いた様子で、

「……うん。確かに、そうだよね。それは、ごめんなさい。あたしにも、多少(おご)りがあったのかも知れない。でもね……」

 悠葵は一転、厳しい視線を茅世に向けた。

「あたしには、あたしの役割・・があるんだよ」

 誰にも口を挟ませない。そう云った凄みが、悠葵の全身から滲んでいる。

「あたしは、級内クラスを治めなきゃいけない。誰に乞われた訳じゃないけどさ、担任からも、周りの娘達からも、そういう雰囲気を感じてる。それ自体があたしの驕りなんじゃないか、って思う時も、あるよ。そりゃ、ね……。あたしだって(・・・・・・)人間だから(・・・・・)。でも、あたしはあたしなりの、周囲まわりから望まれた役割にまってるの。演じてるの。好きで、棚加さんや木乃さん達と口論こうしてる訳じゃないよ」

「だ……だからって!」

「……うん。回りくどいのは辞めた。あたしがここに、この4人を集めた理由を言うから。

 まず、転校生の木乃さんが、級内で孤立してる。これは、由々しき問題として、あたしは解決しなきゃならない。で、木乃さんこの前音楽の授業中に歌ったでしょ? 独りで。……凄かったよ。上手いなんてモンじゃない。聴いた事ないレベルだった。で、合唱コン。これは学級クラスが1つになれる数少ない好機チャンスだから、これを機に木乃さんを上手い事クラスに馴染ませられれば良いかな、と。これを逃したら、もうその時は無い、とも考えてるから、あたし的には。で、2年2組(ウチのクラス)って、今年の体育祭2位だったじゃん? 合唱コンで1位を取って、雪辱リベンジを果たす、みたいな。こういう筋書き(シナリオ)なら、充分あたしの役割が果たせるのかなぁ、とか、考えたんだよね。

 何よりもさ、みんなが合唱コンに対して何のやる気も無いのが、嫌なんだよ。やるからには、何事も本気で挑んだ方が気分良いでしょ? クラスが一丸となって、何かに向かって努力するのって、凄く……美しいしさ。物凄く貴重な体験だと思うんだよね。

 だから、あたしが言いたかったのは、この5人で、合唱コンに向けて盛り上げていこう、って事。協力して欲しいんだよ。木乃さん、棚加さん、朋芽、桃芽、どうかな?」

 茅世は、素直に感心した。今迄、正直に言うと少なからぬ高飛車な言動の目立つ上層の同級生としか思っていなかった。まさか、級内の統治に就いて此れ程思索を練っているとは、到底考えられなかった。菜津音、朋芽、桃芽も同様に驚きと感心が入り混じった表情をしている。

「あたしの顔を立てる意味でも、お願い。みんなで一緒に、盛り立てていこうよ」


 自身の主張だけ置いて悠葵が立ち去り、4人は踊り場に取り残された。どう動いたら良いのか、何と発したら良いのか、誰も分からないでいた。

「……取り敢えず、協力する様な形で良いのかな?」

 茅世は意を決して口を開いた。

「そ……そうだね。合唱コンに向けてクラスが一丸になるのはいい事だしね」

 朋芽も同調した。茅世が頷きつつ菜津音を見遣ると、菜津音は浮かない表情で押し黙った儘だった。

「木乃さんさぁ、こうなった以上、もう難しいこと考えなくてもいいんじゃないかな?」

 そんな菜津音に、桃芽が鋭い言葉を投げ掛ける。

「木乃さん、多分あえてクラスに馴染まないようにしてる、っていうか……突き放すような取っ付きにくさをあえて出してるような気がするんだ、ウチにも。それがどんな考えにもとづくものなのか、別にほじくり返すような事はしないけどさ。でも、向山さん言ってたじゃん。『木乃さんには歌でクラスを引っ張ってもらいたい』って」

 ――木乃さんの歌には、人を引き付ける何かがあると思う。だから木乃さんには、技術面、というか歌唱面で、クラスを引っ張っていってほしいんだ。別に統率力リーダーシップを出せ、って言ってる訳じゃなくて、木乃さんがマジメに歌う事で、周囲まわりのみんなもそれに引っ張られてちゃんと歌っていく、みたいな感じに導きたいと思うんだ。アルトはあたしと朋芽桃芽で持ってくから。ソプラノを木乃さんと棚加さんとで何とかそっちに持っていってくれるとありがたい。もちろんあたしも協力するから。男子は士返とあたしで仕向けるし、女子の方で流れを作っちゃえば、男子はいくらでも乗せられるから。だから木乃さん、もうわざと孤立するのはやめてよ――去り際、悠葵はそう言い残した。

「確かにおせっかいだよ? ウチもそう思う。でも、向山さんがああ言った以上、多分クラスはそういう流れになるんだと思うから……。だから、あえて嫌われるような事、しなくてもいいんだよ。むしろ、そうなるんなら(・・・・・・・)そうしない方が良い(・・・・・・・・・)。それなら、やたらに木乃さんが嫌われなくても良いし、姉貴だって木乃さんと気がねなく付き合えるでしょ?」

 口調は柔らかいものの、桃芽の正鵠せいこくを射抜く発言は、実姉である朋芽にも突き刺さった。

「う……うん……」

 自らの懸念事項を言い当てられ、朋芽はぎこちなく頷いた。其のぎこちなさに何かを感じ取った菜津音が口を開いた。

「……さっきも言ったけど、朋芽さんの心配は、至極真っ当なものだと思うよ。学級内で孤立した、異端の存在と仲良くしたって、大概良い事は無い。そんなの、言う迄も無い常識だから。だから……何て言うのかな、気に病む事は無い、って云うか……。張本人わたしが言うと偉そうかも知れないけど、恥じる事は無い、って云うか……。うん、当たり前の事なんだから、気にしなくても良いよ?」

 菜津音が言葉を紡ぐ度、朋芽の眼が見開かれていく。正確無比な迄に自分の発想を解読された事に驚いているのだろう。

「……そう、確かにわたしは……巻き込んで欲しくない、って……思ってた。そんなわたしが……木乃さんに合わせる顔なんてないよ……」

 朋芽はじわりと涙を其の眼に浮かべ乍ら、胸の裡を吐露とろした。

「……大丈夫だよ! 私は、平気だから。そんな事よりも、茅世の友達と、私も親しくなりたい……本音を言えば、ね」

 茅世は数日前に感じた、菜津音の痛切な哀愁を(たび)気取(けど)り、胸が詰まる思いに為った。どんなに鈍感な人物だってきっと、自らを邪険に思われて心痛まない訳がないのだ。

 他方、朋芽は笑顔で言う菜津音の意図した通り、救われた様な、縋り付く様な眼を向け、「ごめんね……」と涙声で言った。

「ま……まぁ、せっかく木乃さんもチセと仲良くなったんだし! みんな仲良くしようよ! ね?!」

 沈み込んだ湿っぽい空気を入れ換えようと、桃芽は威勢良く声を張った。朋芽は目尻を拭い、菜津音は意図的に穏やかな顔付きを作り、場は急速に明るさを取り戻してゆく。

「それにしても……向山さんの『盛り立てて』って、具体的に何をどうすれば良いのかな?」

 昼休みも終わりに近づき、踊り場を後にし始めた時、菜津音はふと呟いた。

「あぁ、あはは! 確かに」

「ふふふ。あいまいな言葉だよね」

 ふとした自分の発言が桃芽と朋芽にウケて、僅かばかり気を良くした菜津音は茅世の表情を盗み見た。先程から言葉を発さない茅世を、菜津音は内心気にしていた。

「……茅世?」

 呼び掛けられて、茅世は反射的に笑顔を作ってしまった。

「……ん? 何でも無いよ?」

 其の返事に菜津音と千県姉妹は取り敢えず胸を撫で下ろしたらしく、茅世から注目を逸らした。

 ……何でも無い、筈が無かった。茅世は誰にも悟られない様に、深く沈みゆく心中をひた隠した。


 茅世に取って其の後の授業は、あっと云う間だった。胸の奥底ボトムに、おりの様に停滞したモヤモヤの理由を追究していると、時が過ぎるのは数瞬の内だった。茅世と菜津音、そして今日は朋芽と桃芽も加わり、一層楽しく賑やかに為る筈だったのだが、茅世の心は相変わらず沈降した儘だ。

 三叉路に辿り着き、朋芽・桃芽と菜津音・茅世は二手に分かれた。去り行く千県姉妹に対し、無邪気に手を振る菜津音を横目に、茅世はどうも素直な気持ちではいられなかった。

「……ねぇ、菜津音」

「ん?」

 後ろ歩きをし乍ら一頻り手を振った後、進行方向に向き直った菜津音に、俯く茅世は語り掛けた。

「あたし、朋芽の事、嫌いになりそう」

「え……」

 唐突な茅世の爆弾発言カミングアウトに、菜津音は思わず怪訝な表情を見せる。

「……どうして?」

「だって……朋芽は、菜津音と関わりたくない、って思ってたんだよ?!」

「……うん。でもほら、言ったでしょ? 其れは一般的に、常識的に考えれば当然なんだって。元々学級(クラス)に馴染まない様に、突き放す様な態度を取ってたのは私なんだから。そんな級友クラスメイトに関わったら、周囲まわりの眼とか、色々面倒臭いって思うと思う、普通は。だから、朋芽さんは別に悪くないんだよ。それに、結果的には仲良く為れたんだし。ね?」

 駄々っ子をあやす様な口調で、菜津音は言い含めた。

「でも……菜津音は傷付いたでしょ? なのに、朋芽は」

「茅世」

 菜津音は茅世の言葉を遮る様に、僅かに声を張って、呼び掛けた。

「朋芽さんとは、私とよりずっと親しい期間が長いでしょ? 仲の良い友達を、簡単に『嫌いになりそう』なんて言っちゃ駄目だよ。そんなの……絶対駄目。……もし茅世がそんな事言ったのが私の所為せいなんだったら、私も悲しいから。……私は、別に大丈夫だから。茅世は優しいから、私の事をおもんぱかって呉れてるんだと思う。けど、私なら平気だから」

「『平気』ってさ」

 今度は茅世が菜津音の言葉尻を捕まえる番だった。

「平気じゃない時にしか、出なくない? 其の言葉自体が。……平気じゃないから、平気って言うんだよ。何て云うか……難しいけど」

 茅世の言わんとする所を理解したのか、菜津音は黙り込んだ。

「……此処何日か、菜津音を見てて、菜津音と話してて……菜津音と接してて分かった事なんだけど……。菜津音が大丈夫、とか平気って言う時って、本当は大丈夫じゃないんだと思うんだ。その……大丈夫じゃないけど、辛いけど、闘う為……立ち向かう為に――。それか、自分が我慢すれば丸く収まるから……って、自分に言い聞かせてるんじゃないかな?」

 菜津音は俯いてしまい、其の横顔は綺麗な黒髪で遮られて、表情を窺う事は出来ない。しばし沈黙の儘、2人はゆっくりと歩みを進めていく。茅世は然し、此の重苦しい沈黙を後悔してはいなかった。

 そうせざるを得なかったから。其れしか道は無かったから。

 菜津音の心が軋む音が、また耳に入ってしまったから。

「……ねぇ、菜津音?」

 とは云え菜津音が余りにも沈黙を続けているので、流石に話を前に進めようと思い、茅世は菜津音の顔を覗き込んだ。

 瞬間、茅世は息を呑んだ。

 菜津音は、涙していた。

 眉尻は涙に反比例して吊り上がり、眉間に皺を寄せて落涙に抗しようとしているが、意思に反して涙滴は止まらない、と云う感じだ。

「あ……ご、ゴメン!」

 多少の覚悟はしていたとは云え、菜津音を泣かせてしまった事に対して茅世は狼狽ろうばいした。茅世が狼狽うろたえるのに比例する様に、菜津音は肩を震わせ、歩みを止め、嗚咽おえつは激しくなり、遂には道端にくずおれてしまった。菜津音を支える様に、共に舗装路に膝をいた茅世は、自分の眼にも分泌液がにじみつつある事に気付き乍ら、菜津音の顔を覗き込む。

「菜津音……」

 菜津音は堅くつぶった其の眼から大粒の涙を流し、食いしばった歯の間から声に為らない声を漏らしていた。

「わた……私、はっ……、確かに…………我慢っ、してるよ……っ……。そうすればっ……解決、するっ……から……。でも……、でもっ、…………其れしか、知らないんだもん……。わっ、かんないん、だもん……っ!」

 途切れ途切れにつむがれた菜津音の言葉は、嘘偽りつくろいの無い本心の吐露だ、と茅世は感じた。同時に、胸の間の辺りが内側からぎゅっと掴まれる様な感覚に襲われた。

 菜津音は、途轍もなく、不器用なのだ。小手先の小細工を知らない、選べない、不器用な人間なのだ――。

 そう気付いた後、茅世は無意識に落涙し乍ら茫然と前方に視線を彷徨さまよわせつつ、たった一つ考え付いた対処法を口走った。

「あたしの前では、我慢しなくて良いから。世界中のなかで、あたしの前でだけは、なんにも我慢しないで――」

 切れ長で凛々しい印象の眼も瞑られて見当たらず、涙とはなと唾液でぐしゃぐしゃに為った菜津音を抱き寄せ、其の後頭部を脱力した儘、茅世は撫で続けていた。


「また、泣いちゃった」

 茅世の部屋で、菜津音は部屋の中央で膝を抱え込んでいる。其の傍らには茅世が居て、菜津音の背後から腕を回し、菜津音の胸の前で自らの右手首を左手で掴んでいる。端的に云えば、菜津音を後ろから抱き留めている形だ。

「……ゴメンね」

「いや、何て云うか……茅世の前だと色々(さら)け出しちゃうんだ……。普段泣かない分だけ、余計に茅世の前だと泣いちゃうんだと思う」

 菜津音は振り返り、直ぐ其処に在る茅世の顔を見詰めて、微笑んだ。

「……泣くとさ、何かすっきりするんだよね。ぐしゃぐしゃに泣いて、嗚咽して声上げて、終わった後は凄くすっきりしてるんだ、今も。何か、漠然と『生きてける』って思える様な。明るく為れるって云うか……。だから、茅世には感謝してる。有り難う」

 不意打ちに感謝されたので、茅世は思わず赤面した。此れ以上、頬が熱を持つのを避けたくて、菜津音から眼を逸らす。

「い……いや、どう致しまして?」

 菜津音は外方を向き乍ら照れ隠しをする茅世を見て、一つ、取って置きのアイディアをひらめいた。然し、余りにも気恥ずかしいし、実現可能かどうかさえ判然としないものだったので、取り敢えずは心の中に留めておく事にした。

 ただ、其のアイディアは菜津音の心境を好転させるには充分過ぎる代物だった。

「私はね?」

 浮上した心持ちに引っ張られる様に、明るい声で菜津音は話し出した。

「茅世の前では、もう何も我慢しない。其れは決めた。それでも、良いんでしょ?」

 茅世は未だ引かぬ頬の火照りを意識しつつ、こくりと頷いた。

「ありがと。でね、其の前提の上で、だよ? 其れでも、私は、朋芽さんと桃芽さんと、友達に為りたい……って、思う」

「…………そっか」

「うん。せ我慢とかじゃなくて。だって、敬遠されてた人と仲良く為れる事って、普通に良い事じゃない?」

「……まぁ、そりゃそうだよね」

「そう。で、今迄はそう云う考え方出来なかったの。茅世と出逢って、前向きな思考に為った、って云うか……。うん。閉じてたから、今迄。此れからは、もう一寸ちょっと、開いてっても良いんじゃないかなぁ、って」

 真っ直ぐに、確たる芯を持って発言する菜津音の横顔を背後から見る茅世は、気恥ずかしさを誤魔化す為におちょくってみた。

「菜津音、あたしと出逢って変わり過ぎじゃない?」

 斯うでも言わなければ、照れ臭くて正気ではいられなくなってしまいそうだから。

「……茅世、言わせるの?」

「へ?」

「…………それだけ、私に取って茅世が……大きな存在だ、って事……だよ」

 つぶやいた菜津音は、俯いている。茅世は、自分の頭から白煙が上がっているのを実感した。

「うぅぅ……歌遣ろ?! 歌!! あたしねっ、色々考えたんだよ!! 菜津音に歌って欲しい歌、出来る限り格好良く弾ける様にアレンジしたんだ!!」

 目が回る様な錯覚を覚えつつも、茅世は何とか方向転換を図った。菜津音も、此の気恥ずかし過ぎる状況を続ける勇気は無いらしく、

「あっ……あ、有り難う!! 歌うよ! 何でも歌う!! 茅世がアレンジして呉れたんなら!」

 と茅世の自棄やけっぱちに近似したテンションに追従し、パッと立ち上がり、制服のブラウスの袖を捲った。茅世は違和感溢れる挙動の菜津音を見て、少し心拍数が落ち着いたのを実感した。そして、自分も白いブラウスの袖を捲ると、部屋の壁際に安置された電子ピアノの電源を入れた。


「茅世、凄いよ! 格好良いよ!! ピアノ1台なのにあんなに沢山のメロディとリズムが表現出来るなんて……。茅世、本当に凄い!!」

「ううん! 菜津音の方が凄いって!! あたしの想像より絶対上回って来るんだもん! テンポ速いのも遅いのもどっちも本当に巧いのは、やっぱり凄いって!!」

 茅世の用意した数曲をセッションした所で一旦休憩する事になり、どちらからとも無くめ殺し合戦と化してしまった。だが、単に自惚うぬぼれ合っている訳では無く、客観的に評価しても、彼女等はそれぞれ卓抜した才能を持っているのだ。

「一寸テレビでも観よっか?」

「うん、そうだね」

 茅世が何気無くけたテレビでは、日曜の夕方に放送されているアニメ番組の再放送が丁度始まった所だった。

「あ……」

 今や長寿番組と化した国民的アニメ番組の初期シリーズの再放送で、オープニング曲は其のアニメの代名詞と言って良い程有名なアニメソングではないものだった。爽やかな印象イメージのオープニング曲はキャッチーで、本放送時から時間が経過した今や、一般的な知名度は決して高くはないだろうが、其の曲は2人の耳にはとても新鮮に聞こえた。

「あの歌じゃないんだ、オープニング」

「ね、知らなかった! 結構良い曲だったね」

「うん、確かに! ……あっ!」

 菜津音は思い付いた。

「どうしたの?」

「あの曲さ、演ってみたらどうかな? 『歌付き』で」

「……良いかも!!」

 他局が帯枠でローカルのワイドショーや時代劇の再放送を繰り広げる中で、唯一此のテレビ局だけが、過去のアニメ番組の再放送をオンエアしていた。故に、娯楽を追求する子供達の中ではアニメ再放送枠は重宝されており、仕事の合間に点けている様な、或いは束の間の家事の休息中に眺めるテレビとして、少なからぬ大人の視聴者も獲得していた。再放送といえども、此の帯アニメ枠はあなどり難い注目度を、其の放送局の可視聴範囲エリア内、詰まり此の県内では誇示しているのだ。

 そんな、話題性にも恵まれた楽曲、更に曲自体の持つキャッチーさを上手く表現出来れば「歌付き」は間違い無く盛り上がる筈だ。茅世は瞬発的にそう考え、決めた。

「じゃあ、此の歌演ろう!! 明日迄にフルサイズの音源と歌詞、調べとくよ! で、アレンジも練っとく!」

「有り難う! 絶対、良いと思う!!」

 其の日は更に数曲演奏して、解散した。菜津音を玄関先で見送った後、茅世は早速家に在る唯一のPCを立ち上げて、検索エンジンを起動した。

 一方菜津音は、夕方茅世の家で着想した“取って置きのアイディア”を実現する為に、帰宅し夕食を取ると自室にもり、シャーペンを相棒にして愛用のメモ帳と格闘した。普段より1時間就寝が遅れる程、菜津音は作業に熱中した。


 其の夜、菜津音が悪夢にうなされおう()する事は、無かった。明くる朝、寝惚ねぼまなこを擦りつつ蒲団ふとんから上体を起こした菜津音は、其の段に為って漸く其の事実に気が付き、嬉しくも何故吐き気を伴う悪夢から解放されたのか、と疑問に思い、晴れやかになりきれない気分で朝食が並ぶ卓袱台ちゃぶだいに就いた。

昨夜(ゆうべ)は、ぐっすり寝られた様だねぇ」

「……はい……」

 毎晩、うし三つ時に手洗い場迄バタバタと駆けずっていたのだ、同居している祖母が気付いていない筈が無かった。勝手に転がり込み、非常に世話に為っている祖母の安眠を妨害してしまっていたのだ、と云う事実に菜津音は今更乍ら思い至り、申し訳無くなった。

「まぁ……菜津音ちゃんも苦しいし、思い悩んでいると思うけども……、何か斯う……夢中に為れる様な事を見付けて欲しいなぁ、と婆さんは思うよ、うん……。菜津音ちゃんは未だ未だ若いんだから、しがらみとらわれて、がん()(がら)めに為るのは勿体もったい無い。菜津音ちゃんは、何一つ悪くないんだから…………。さぁ、温かい内にお食べ」

 突然身を寄せてきて、迷惑しか掛けていない自分を慮り、朝餉あさげを勧める祖母の姿に、菜津音は胸が熱く為るのを抑えられなかった。辛うじて落涙は免れたものの、其れは菜津音が只管ひたすら、涙を堪えるのに(しん)した賜物たまものだった。


 茅世が教室に入ると、既に菜津音は登校していて、千県姉妹と談笑していた。心()しか、菜津音の頬に精気が宿っている様に思えた。端的に云うと、顔色が良い様に見受けられたのだ。

「あ、茅世! おはよう!」

 茅世が今迄見た中で最高(クラス)の笑顔で、菜津音は挨拶して来た。何だか事情は良く分からないが、茅世も無条件で嬉しくなる。

「菜津音、おはよう! どうしたの? 機嫌良いじゃん」

「あぁ、うん……えへへ……。昨夜よる、久し振りに良く眠れてさ!」

 すこぶる満面の笑みを見せる菜津音の一言に、茅世は言い得ぬ重さを感じ取った。菜津音が茅世だけに打ち明けて呉れた艱難辛かんなんしん()。穏やかな睡眠さえも奪い取るであろう、途方も無い懊悩にずっとさいなまれていたのだ。他人からすれば「たかが安眠出来ただけでしょ」と一笑に付されそうな事柄だが、茅世は当人以上に、菜津音が昨夜快眠した、と云う事実を重く受け止めた。

「そっか……良かったね!!」

 思わず感極まりそうになり、言葉に詰まってしまったが、辛うじて涙は堪え、茅世は代わりに万感の想いを込めて微笑んだ。茅世と菜津音の間にまた一つ、決して肉眼では見えない温かな絆が架けられた。

「えっと……ぐっすり寝たって事、だよね?」

「あぁ、大した事じゃないはずだよなぁ……」

 朋芽と桃芽は、揃って首を傾げつつ、半ば2人だけの世界に入っている菜津音と茅世を眺めていた。


 朝礼の後、2年2組はざわついていた。先程、悠葵がした宣言が元凶だった。

「あたし等、体育祭で2位だったよね? 悔しかったよね? 合唱コンで、その悔しさを晴らそうよ。絶対、1位()るんだよ! 今度こそ! だから……今日から放課後の練習、やろう。早すぎる、って言いたいのは分かるよ。けど、負けらんないんだよ。もちろん、まだ通常練習に充てる(そういう)時期じゃないから、部活とか色んな事情には配慮する。……他にどのクラスもやってない今の時期から始めよう! さきがけよう! ……まずは、今日集まった人数で、全体の合わせ練習から。なるべく、最初からみんな、参加してもらいたい」

 悠葵の緩急に富んだ熱い呼び掛けに対して、級内は総じて「幾ら何でも未だ早過ぎる」と云う見解だった。通例として、学級毎の居残り練習は、合唱コン本番の2週間程度前から始められ、其の期間中は部活動の参加が遅れても居残り練習が優先される。だが、合唱コンの本番は11月20日、今日は10月20日。幾ら熱心な学級でも、流石にまる1ヵ月前から放課後の居残り練習を行う事は無い。居残りに参加したからと云って各々の部活動に遅れても、いささか早過ぎて対応されないであろう事は目に見えている。そもそも、比較的合唱には力を入れている方の学校ではあるが、1ヵ月前から学級全体で課題曲を歌い込む程、生徒達自身は熱心ではない。

「どうなるのかねぇ、あれ……」

「未だ上手く行かなそうだけどねぇ、時期的に……」

「だよねぇ……」

「一寸先走ってる感が有るよねぇ、向山さん」

 桃芽、茅世、朋芽、菜津音は西階段の踊り場で井戸端会議をしていた。

「……そうかな?」

 4人は揃って、肝を潰す様な思いをした。当の悠葵が踊り場の上方から現れたからだ。

「さ……向山さん……」

「……そりゃ、正直あたしだって早すぎるとは思ってるよ。部活との兼ね合いで、参加出来ないヤツの方が多いとも思う。今日のところは、良くて10人……もいかないかも知れないね」

「じゃあ、どうして……」

 朋芽が訊く。悠葵はふっとわらうと、階段を下りつつ呟いた。

「アピール」

「……え?」

 四人が悠葵の発言の意図を読み取れず、首をかしげていると、悠葵は踊り場に降り立ち、踊り場の隅に居る4人にぐっと顔を近付ける。

教師(センコー)連中(ども)主張アピールするんだよ。……木野さん、合唱の巧い下手ヘタって、どう決める?」

「え…………いや……」

「そう」

 とっ()の返答にきゅうした菜津音を待つ迄も無く、悠葵は予め決めていたであろう自説を唱えた。

「巧いか下手かなんて、審査員の主観にすぎない。体育祭とかと違って、合唱なんて、カラオケマシンでも持ち込まないかぎりは明確に数値化できないからね。じゃあ、何で順位づけされてるのか。……これはあたしの勘だけど、教師連中が打ち合わせでもして決めてるんじゃないかな?」

 何処かで納得する茅世が居た。合唱コンで、全学級が披露し終え、結果発表の時迄の僅かな待ち時間、あの短時間で全ての観点から厳密に審査して…‥と云う手筈を踏んでいないのは、茅世も何と無く感じていた。披露された合唱の良し悪しに関係無く、結果は決まっているものなのではないか――。

「そう。出来レースなんだよ、きっとね……。あたしの読みだと、体育祭で3位(ビリ)だった1組が、今度の合唱コンでは1位になる。で、体育祭で1位を獲った3組は、今回は3位。そうすると2組(あたしたち)は……両方とも1位を獲れない」

「そ……そんな……」

 桃芽が悲しげに呟く。朋芽も歯噛はがみしている。

「だから、今からやるんだよ」

 悠葵は両の瞳をギラつかせた。

「あたしだって、結果そうなるのが分かりきってるのに何もせず、ただ2位に甘んじたくなんかない。せめてあがいて、『でも2組はがんばってたし、優勝させないのはちょっと』って思わせるくらいやれば、既定路線シナリオを崩せるかもしれない。その為には、本気でやるのはもちろんの事、効果的に喧伝アピールしていかないといけない。カタチだけでもこんな、まだどこも始めない頃から放課後の練習を重ねてたんだ、っていう……実績? が、欲しい。だから、今日からなんだ。いや……もう今日からじゃなきゃダメなんだよ」

 通り掛かりの生徒達に配慮して声量ヴォリュームは絞っていたが、学級を束ねる責務を果たしているだけある説得力で、悠葵は力説した。其の熱量が、手に取る様にでん()してくる。

「……で、木乃さん。協力してくれるかな? あたしに」


「……何か、鬼気迫る感じだったね、向山さん」

 悠葵が去り、朋芽は呟いた。菜津音が返事をする。

「うん」

「でも、木乃さん……大丈夫? 強制されるみたいな感じなら、別に無理しなくても……」

「そうだよ。さすがにきっと、まだ早い、って意見が多いだろうし、そんな状況で向山さん側に付かなくても……」

「朋芽さん、桃芽さん、心配して呉れて有り難う。でも、私はきっと、後悔しないから……。あそこ迄剥き出しに本気だと、協力したくなる、って云うか……。其の気持ちに、嘘は無いって云うのは、伝わって来たから」

 朋芽と桃芽は眼を見合わせた。

「……木乃さんって、強いんだね……」

 桃芽は小さく言った。かさず朋芽が補足する。

「うん! 一本、ずぶとい芯が通ってる、って感じ?! 他人の意見に流されない、みたいな! カッコいいよ!!」

 茅世は菜津音が褒められて、自分の事の様に嬉しく思いつつも、一抹のうら寂しさも感じていた。其の温度差は、自分の中のものなのに、何処か捉え所が無く、不思議なものだった。


 下って放課後。悠葵は首尾良く、2年生の教室が在る校舎の2階の角に設えられた、絨毯タイルカーペットが床一面に張られた多目的スペースの利用許可を取り付けていた。此のスペースに上がる為には上履きを脱がなくてはならない。

 当然乍ら、悠葵が此のスペースを練習場所に選んだのには訳が有った。ず大前提として、放課後の部活動に支障を与えない場所である事。普通教室が並ぶ先に在る、此の多目的スペースの周辺の教室は全てが、いずれの部活動にも用いられていない。こんな可笑おかしな時期に合唱練習をしたとしても、誰にも迷惑が掛からない。何処かの部活に苦情でも出されようものなら、折角せっかく心象向上作戦(キャンペーン)が台無しだ。そして、オープンスペースであるが故に、人目に付き易い。自分達の教室(ホームルーム)もって練習するよりは、開かれた場所で行った方が確実なアピールに繋がる。

 指揮者である(ぞり)明照(あきてる)と伴奏で実質歌唱指導役の茅世、そして菜津音と千県姉妹、言い出しっぺの悠葵、此の他にはソプラノの、級内では大人しく目立たないタイプの女子が3名、アルトの悠葵の取り巻き2名、男子は文化部所属でサボる口実に丁度良かった、と云う2名が参加し、悠葵の予測を上回る計13名が集まった。とは云え、明照と茅世は歌わない為、正味11名と考えれば、良くも悪くも誤差範囲内である。

 茅世は悠葵の顔色を窺って、「やっぱり此の人数じゃ満足出来てないんだな」と推察した。其の証左に、悠葵の口許は小さくうごめいて、

「……まぁ、こんなモンか……こんなモンか? こんなモンだよな……」

 とブツクサ呟いていた。

「……じゃあ向山、そろそろ始めようぜ」

 頃合いを見計らって、(ぞり)が悠葵に声掛けをする。斯う云った辺り、士返は本当に雰囲気くうきを的確に読む。

「……そうだね。じゃあ、まずは一回通しで歌ってみる?」

 悠葵はそう言いつつ茅世の方を見遣った。茅世は首を縦に二度振り、促す。士返が学級の備品であるラジカセの再生釦を押下する。

 かすれた無音部分が数秒続き、低音質ローファイな前奏が始まる。そして――。


 独り、菜津音の声だけが際立っていた。他のメンバーが合唱練習に消極的だったから、だけではない。大きな開口と確りした腹式呼吸に裏打ちされた、豊かでいてうるさくない声量が光っている。思わず他のメンバーが歌うのを躊躇ためらってしまう程に。

「み……皆、もう一寸声出そう! 取り敢えず声出すだけで良いから! 巧く歌おうとか、良いから! ……こ、此の人数だし、恥ずかしがらなくても、良いんじゃないかな?!」

 歌いだしから2分30秒程経った頃、歌詞がスキャットに入る手前辺りで、茅世は思わず声を上げた。皆の歌声は一瞬止まってしまったが、頃合い(タイミング)を見計らったので、再び歌詞が戻る部分パート迄に台詞を言いきる事は出来たし、カセットテープからの音源は流れ続けているので、曲が盛り上がる後半部分からは歌声が戻り、茅世は胸をで下ろした。

 そしてその、菜津音をえん()したとも取れる茅世の発言の後、主にソプラノパートから、確実に声量が上がってきた。菜津音の他には、生気すら感じられない様な存在感の薄い面子メンツしか居ない筈のソプラノパートが、である。無論、彼女達が「普段目立たないが、実は人並み以上に合唱コンに思い入れがあり、ここぞとばかりに遣る気を表出させてきた」と云う様な特殊な人格バックボーンを持つ訳では無い。誰にも説明が出来ない現象ではあったのだが、兎に角此れは“収穫”であった。


 自らの練習も兼ね、一応見様見真似の指揮(もど)きをしていた士返は、ラジカセの巻き戻し釦を押す茅世に「助かったよ、棚加」と声を掛けた。茅世は振り向きつつ表情で続きを促す。

「いや、本来俺が言わなきゃかなぁ、って思ってたんだけどさ、『もっと声出せよ』って」

「あぁ……」

「でも俺、上手く言えそうもなかったし……実際、ほら! 後半、声出てたっしょ?! ソプラノの方! あれは完全に棚加のおかげだって!」

 士返の言葉は、語気は強いが、声量自体は抑えている。

「ま、まぁ……あれは何か……反射的に口走った、と云うか……実際の効果は期待してなかったんだけどね」

 茅世も、自分が咄嗟とっさにあんな事を言うとは思っていなかった。言い返されるのが怖くて各パートに対して通り一遍の指摘しかしなかった数日前が嘘の様だ。孤軍奮闘の様相をていしていた菜津音を援助バックアップしたかったからなのか、それとも「(ダル)いけど練習に参加くらいはしても良いか」程度だとしても、決して合唱に対して後ろ向きではない(ニアリーイコール)茅世に向ける悪意が少ない相手だったからなのか、単に対象が少人数だったから言い易かっただけなのか、判然とはしない。が、兎にも角にも練習中に意を決して注意をし、最終的に良い方向に向かった、と云う事実は、士返の賞賛と相俟って、茅世の自信が僅か乍ら上積みされる結果と為った。

 物事が首尾良く行くか否かの分岐点は、其れを為す人物の成功体験に懸かっている。如何いかに成功体験を積み重ねられるか、其れに因り過信ではない、経験に裏打ちされた確固たる自信をより多く身に付けられた者が、大成に結実させられるのだ。

 此の日の茅世の成功体験は、ちっぽけだが今後無視出来ないものと為る。

「そうだよ! 棚加さん、良く言ってくれた! 結果出てるし、何か弾み付いた気がするよ! このまま良い感じにノってこう!」

 悠葵も茅世をたたえる。此処へ来て茅世は、はにかんだ照れ笑いを見せた。

「いやいや……。じゃ、じゃあ……取り敢えずもう一回、通しで行こうか? 今日の所は何回か合わせるだけでも良いと思うし。向山さん、どうかな……?」

「良いんじゃない? 初日だしね」

 ザラついた無音が数秒続き、ピアノの短い前奏が流れてくる。二度目の通し練習が始まった。

 矢張り、明確にソプラノメンバーの声が出ている。各パート抑もの人数が少ないので、ソプラノの声量にアルトと男声が埋もれてしまっている。

 茅世は持ち前の吊り眼が他人に鋭い印象を与えない様に留意しつつ、何故ソプラノの声量が増大したのかを探る為に観察した。

 全員の口が良く開いている。大袈裟オーヴァーな程に大きな開口は、はた目には滑稽こっけいだが、そんな難点デメリットをものともしない実利が有る。

 茅世は更にしょう(さつ)した。菜津音は兎も角、普段もの静かで無表情な印象の強いソプラノメンバーが、頬を赤らめ、目尻を緩ませ、何とも楽しそうに歌っている。まるで、此れ以上無い程の愉悦を全身で浴びているかの様な……。

 茅世は“理由”を掴んだ気がした。丁度、カセットの再生が終わる頃だった。茅世はラジカセの巻き戻し釦を押下すると、急ぎ菜津音の許へ駆け寄った。小声で話し掛ける。

「ね、ねぇ、菜津音……」

「ん?」

「菜津音さ、一回目(さっき)あたしが声出す様に、途中で皆に言ってから、歌い方とか、変えたりした?」

「……んー、いや? ただ、せめてソプラノだけでも一緒に歌って欲しいな、とは思い直したけど」

「じゃ……じゃあ、二回目(いま)も特に変えた自覚は無いんだね?」

「え……うん。いや……むしろ歌い方変わってた?」

 きょとんとする菜津音を余所に、茅世は驚愕に打ちひしがれていた。菜津音には(・・・・・)自覚が無い(・・・・・)のである。

 数日前、茅世は菜津音とカラオケに行き、音痴である自認から歌うのに消極的だった筈が、菜津音が声を合わせて一緒に歌って呉れたお陰で、ハモって歌う事への愉悦を感じる程に迄なった。あの時は、唯単に菜津音が自分に歌う事の楽しさを享受させて呉れたのだ、と理解していた。だが、今に為って茅世は、そうではなかったかも知れない、と思い始めていた。


 菜津音の歌は――正確には菜津音と声を(・・・・・・)合わせて歌う事(・・・・・・・)は、快楽的な中毒性を備えている――。


 今は飽く迄も仮説である。また、もし此の仮説が真実だったとして、菜津音が意図して使いこなしていない限りは、本人にも口外すべきではないだろう。茅世は背筋があわ()つ様な感覚がした。

 此の能力は、使い方を誤るととんでもない事に為ってしまう――。

 茅世は、仮設を立証したい気持ちに駆られた。そして、今日此処に居る少数の参加者達をにえに捧げる選択を取った。

「――ねぇ、茅世。私、歌い方変だったの?」

「……うぅん。菜津音、もう一回通しで歌うからさ、今日参加してるメンバー全員、アルトも男子もソプラノも、全員が一緒に声出して欲しい、と思って歌ってみて?」

「え……うん、分かった……」


「棚加、木野がどうかした?」

 茅世が定位置に戻ると、士返が不思議そうに訊いてきた。

「うぅん、何でも無い。あと一回、通してみよう?」

「あ、あぁ……。おーい、んじゃあ、もう一遍遣ってみようか!」

 雑談をしていたメンバーが、号令を掛けた士返に注目する。士返は右手を顔の高さ迄上げ、指揮の構えを取る。茅世はラジカセの再生釦を押下した。


 ――結論から言って、此の日最も良い出来だったのは、此の三回目であった。ソプラノだけでなく、各パート途中から声量が増していき、少人数を感じさせない程の勢いの有る、素晴らしい合唱に為ったのだ。ラジカセの音源が終わり、茅世が巻き戻し釦を押しつつ皆の様子をうかがうと、皆一様に楽しみを味わった爽快な表情をしている。茅世は自らの仮説が立証された気がして、頬を上気させ乍らも、何処か自身に起こった事が腑に落ちていない様子の悠葵に声を掛けた。

「今日は、取り敢えずこんな所じゃないかな? 余り最初から飛ばし過ぎても良くないと思うし……」

「あ……あぁ、うん……そう、だね……」

 菜津音の能力は、別にフィクション染みた異能ではない。単純に、一緒に声を合わせて歌う人間が気持ち良くなるだけの事で、本質的に他人を統御コントロールする様な代物ではない。だから、仮令此の能力に勘付いた者が居たとしても、外側から影響を与えている訳では無いし、して悪意も無いのだから、そしりを受ける必要も無い。

 茅世は菜津音の“異能”とでも呼ぶべき厄介な力に対して「面倒だな」などとは露程も思わなかった。何故なら、彼女とずっと(・・・・・・)一緒に居る者(・・・・・・)として、今後此の“或る種麻薬的な”能力と自身がどう向き合っていくべきか、其の未来を考えるのに思考能力(キャパシティ)を傾けていたからだ。




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