1-1
難読漢字等でルビを多用しています。その為、読み辛いと思われる向きもあるかも知れませんが、ご容赦下さい。
本作は架空の創作物です。文中に登場する人物名、団体名等は、現実のものとは関係ありません。
また文中に、実在する著名人名、企業名、商品名等が描写された場合も、それらを批評・誹謗する意図は一切ありません。
自宅から少し離れた、隣町に在る家電量販店に、今日も1人の少女が遣って来た。2階建て店舗の上階に併設される玩具売り場に向かっている。
小学校中学年程度の少女はエスカレータを昇って直ぐを折り返した、1階の携帯電話販売区画が見下ろせる位置で展示販売されている電子ピアノに歩を進める。3台並ぶ中の最も造りが確りしていて値が張る機種に迷わず向かうと、手慣れた流麗な手付きで其の電子ピアノを弾き始めた。背後には、後から遣って来た彼女の父親と、玩具販売エリアの責任者である男性が立っている。
佳麗な音色に、2階の客だけでなく、1階の家電エリアに居る客迄もが耳を傾けている。間違い無く、唯巧い、と云うだけではない、聴かせる力が宿った演奏だった。
少女は立て続けに3曲を弾いた。有名な合唱曲、誰もが耳にした事の有るであろう洋楽、そして極め付けに人気のJ‐POPアイドルソング。少女の中では鉄板の演目だった。
果たして客達は1曲が終わる毎に拍手を送り、全ての演奏が終了した時には演奏会の終幕の如き拍手喝采が店舗中に響き渡っていた。
「……いやぁ、相変わらず素晴らしいですねぇ」
そう声を掛けるのは、少女の演奏を背後で見ていた、玩具販売エリアの責任者だ。
「あぁ、そうなんですかねぇ……」
曖昧な返事をするのは少女の父親である。
「是非、次回も宜しくお願いしますよ」
「え、でも娘は勝手に展示品を弾いてるだけですが……」
「いやいや、娘さんは確実に何か才能を持ってらっしゃいますよ。実はこの間、娘さんの演奏を聴く為に足を運んで下さった、と仰るお客様が居られまして、娘さんの演奏は我々に取っても大変効果的な宣伝になるんです! 次回からは我々が招待する、という形で、是非お願いしたいんです!」
「いやいやいや、そんな……」
父親は面喰らい、判断に迷った。確かに言われてみれば、少女の演奏が終了した後、客の数は少し減った様な気もする。即ち、其の客達は少女の演奏を聴く事を目的として店に遣って来た、と云う事に為る。
此の娘は、本当に才能を持っているのかも知れない。唾を飲み込み、父親は少女に訊いた。
「茅世はどうだ? お店が呼んでくれたら、弾きたいか?」
少女――棚加茅世は迷わず、物怖じなど欠片も無い、燦然と煌めく眼をして答えた。
「弾きたい! もっとたくさんのお客さんに聴いてもらいたい!!」
其れから凡そ5年が経過した2009年の10月、正式に店舗から依頼を受けて催される様に為った茅世の小規模独奏会は、通算100回を目前としていた。2階の玩具売り場に至るエスカレータの脇に宣伝を貼る等、独自の主力催事と位置付け、店舗はそれなりの力を注いでいた。其の甲斐有って、回を増す毎に観客――即ち来店客の人数も増加していき、其れに比例して売り上げも上昇した。中には茅世が弾いた電子ピアノを買い求めた客もちらほら居た。地元新聞に1度、地元の異なるTV番組には2回取り上げられた事も有った。今や茅世は、家電量販店の当該店舗に取っては欠かせない、広告塔的な存在に為っていた。
「思い返せば、なかなか凄い事だよな……」
エスカレータを昇り乍ら、側面の硝子板に掲示された広告を見て感慨深げに声を上げたのは、茅世の父親、棚加悠志だ。其の数段上の踏み台に立つ茅世は、悠志の言葉には反応せずに沈んだ顔をし続けている。
「……どうしたんだ?」
茅世は悠志の問い掛けにも答えず、憂いの無言を貫く。立ち尽くすだけで数メートル上昇出来る、魔法みたいな全自動階段の先には、玩具コーナーの責任者である大長恭平が文字通り待ち構えていた。
「チセちゃん、毎度ありがとう。今日もお願いします」
「あ、ええ、はい……」
曖昧な返事をする茅世に、恭平は憂いの元凶に直結する話題を振った。
「で、考えてもらえたかな? 歌の方は」
沈鬱な表情で沈黙を続ける茅世は、心の中で舌打ちをした。誰の所為で、あたしがこんなに悩んでると思ってんの?!
勿論、恩人である恭平にそんな暴言を吐く程、茅世は馬鹿ではない。が、心の中で毒突く位は許して欲しい。
「いえ、その……」
「出来れば次回! 来月1日の独奏会で生ライヴと行きたいんだけどなぁ。今月末から各社の新商品が発売されるから、それに合わせてね!」
斯う為ると、恭平を抑えるのは至難の業だ。自分の中で此れ、と決めると、其れを揺るがさない人物なのだ。だからこそ、若くして玩具販売の責任者を任され、未だに現場の指揮を執っているのだろうが。
茅世は猫を連想させる、少々攣り気味の眼を細め、一見気の強そうに見える眉尻を下げ、諦念を伴って言った。
「……了解、です……」
恭平は満足げに2、3度頷き、
「うん、よし! これで月初のセールは期待出来るぞ!」
と自らを激励する様に言い、制服のズボンの尻ポケットからダブルリングのメモ帳を取り出し、愛用する少々値の張るボールペンで何やら書き付ける。
「ありがとう! じゃあ、今日も宜しくね!」
店員同士の連絡用に装着している無線機のイヤホンに応援要請が入ったらしく、メモ帳とボールペンを慌ただしく蔵うと、恭平はそう言い残し、ワイシャツの胸元に取り付けたマイクで応答しつつ、売り場の奥へ去って行った。
所詮、私は客寄せパンダだ。茅世は最近に為って、漸く其の境地に辿り着いた。
私の独奏会は、店の集客力補填の為。私が弾くのは、店が展示するものの中で最も高価な電子ピアノ。私は客寄せであると同時に、如何に綺麗に、耳障り良く、売り物の音色を聴かせられるか、其れが要求される実演販売員でもある。
要するに、割り切りだ。此の世を生き渡る上で最も大切なものの一つだ。茅世はそう考えた。だから茅世は、少し前から此の場に立つ事に過剰な期待、高揚、そんな諸々を抱かなくなっていた。抱かない様にしていた。
だからなのか――ちくりと胸の辺りが痛む。此処最近、嘗て独奏会が始まった頃の様な、純粋に演奏を楽しむ気持ち、1回1回の反省点を修正し、次回はより以上の演奏を、と云う向上心……要は独奏会に対する情熱を、失いかけていた。今回の内容も、素人の客達が聴く分には判らない規模での失敗が幾度か有った。其れには、次回の「歌付き」に対する重圧や不安、動揺が多分に影響されているのだが、どうあれ失敗は失敗だ。10月の祝日、茅世は「歌付き」への懸念と、失敗した事に対する反省を手土産に、99回目の独奏会の会場を後にした。
数日後の朝、茅世は通っている学区の公立中学の制服に身を包み、黒いリュックサックを背負って、ホンダ・ビートとトヨタ・カレン、そしてスズキ・セルボモードが駐車空間一杯に並ぶ一軒家を後にした。
玩具売り場で電子ピアノを弾く看板娘、と云う立場を恣にする茅世も、学校では殊更注目される事も無い、一般的で普遍的な女子生徒であった。茅世が独奏会をする店は隣の市に在り、車で大体30分程度は掛かる距離を隔てている。地理的物理的な隔絶が、茅世をごく普通の生徒たらしめている、とも云える。
正門を抜け、校舎の昇降口へ進入する。数人の同級生と挨拶を交わす。他愛無い。
教室の自席に就く。窓際の前から4列目だ。朝の会が滞り無く終わり、1時間目の授業が始まる。日本史だ。他愛無い。
2時間目に入る。冴えない風体の眼鏡を掛けた数学の教師が入室して来る。因みに、余りの見た目の冴えなさに、坂木と云う名字なのだが「サエキ」と呼ばれている。他愛無い。
3時間目は理科室に移動し、生物の授業だ。正直、板書中心の授業内容なのだから、態々《わざわざ》移動する必然性に欠ける、と思っているのは茅世だけでは無い筈だ。耐火及び耐薬品性を確保し、更に零れた液体や粉末が拭き取り易くなっている、黒い樹脂製の天板にノートを広げ、正面の黒板を見つつ身体の横に在るノートにシャープペンを走らせる。身体を捻る形と為るが、他愛無い。
其の儘4時間目だ。移動教室直後の体育は、正直勘弁して欲しい。一旦教室に戻り体操着を引っ掴み、女子生徒用に設えられた更衣室と云う名の空き教室へ走り、唯一壁に提げられた掛け時計を気にしつつ着替えて、息吐く間も無く校庭へと走るのだ。まぁ、然し何とかなる。不可能ではない難易度だ。肝心の授業内容は、男女別れてのサッカーだった。どうせなら女子らしく、お淑やかに軟式テニスでも嗜みたかったが、いかんせん体育教諭が前時代的で、辛うじて体罰は我慢している、と云う風な強面教師なので、そんな発想は端から期待すらしていない。同級の女子に校外のクラブチームに通う程のサッカー女子が居るのだが、略彼女しか走り回っていないグラウンドの中で、彼女の声が徐々に苛付きを滲ませていくのを、茅世は適度に動き、偶にパスを貰い乍ら不憫に思った。此れも処世術だ。全部引っ括めて、他愛無い。
給食を経て、昼休憩、そして5時間目と、流れる様に滑らかに、連綿と時は続き、連なってゆく。茅世は時折、空恐ろしさを感じる。時間と云う、何人も抗えない、全ての事物、有象無象が打ち克つ事の敵わない、余りにも巨大で、余りにも当たり前な魔物に対して。そして、或る意味で最も恐いのは、其の魔物の存在を当然の物として、取り立てて意識しようともしない人間が大多数である事だ。そんな事を、下から2番目だけ太い4本の横線が幾列も引かれた英語用ノートを見詰めつつ、茅世はぼんやりと考えていた。そして、口煩い中年の女性教諭に眼を付けられぬよう、教室の壁面を切り取る窓を、其の中に拡がる無限の大空を眺めた。全く、馬鹿らしくなる。こんな狭苦しい、檻の様な建物に封じ込められて、私は何をしているんだろう。何がしたいんだろう。直ぐ其処に、漫画みたいに、正しく絵空事みたいな、抜ける様な青空が繰り広げられているのに。茅世は、真っ青な雲量0の空の下、自由に駆け回り、無邪気に燥ぐ自らを空想した。そして癇癪持ちな小母さん教師に設問を解答する様に指名されている事に漸く気付いた。大丈夫、まぁ、他愛無い。
6時間目、他愛無くない。そう、此処が茅世に取って、今日一番の正念場だった。
今日の音楽の授業は、来る学年対抗合唱コンクールに向けての合唱の練習となっていた。勿論、茅世はピアノでの伴奏役だ。至極当然の様に、何の滞りも無く、茅世は伴奏担当に決定していた。茅世も納得の上だ。合唱のピアノ伴奏なんてお手の物で、朝飯前であり、正しい意味での役不足である。此の単調な伴奏をどう料理するか、其れを考えていた程だ。茅世の課題は、他の学級の伴奏者が目指す、弾き間違えない、と云った領域ではないのである。問題は其処ではない。
他愛無くないのは、其処ではない。
茅世には、誰にも打ち明けられない秘密が、有った。
茅世は、ピアノを弾く事、演奏は抜群に巧いのだが、歌う事に関してはからっきし――詰まりは音痴なのだ。
本人が其れを自覚したのは極めて遅かった。繰り返しに為ってしまうが、幼い頃から合唱の際には伴奏でピアノ演奏を担当していた為、抑も人前で歌う機会自体が滅多に無かったのだ。故に、気付かなかった。気付けなかった。
茅世が覚える劣等感は、並大抵のものでは無かった。生来の自尊心の高さもあり、茅世は多分に苦しめられていた。音楽業界従事者ならまだしも、其れ迄、他愛無く思えていた同級生達に、取り分け音楽に関する分野で音楽に関する分野で負けている、劣っている、と云う事実が、我慢ならなかったのだ。
そうして艱難の日々を送ったのち、茅世は一つの回答を編み出した。即ち、眼を瞑るのだ。自分の得意分野で、歌唱面は凡人より劣る、と云う厳然たる事実に対し、蓋をした。
要するに、最も安直な方法で逃避したのだ。但し此の方法は、云わば落とし蓋の様なもので、簡素で手軽な蓋であるが故に、吹き零れが汪溢してしまう割合が高く、茅世は時として意識的に言い聞かせ乍ら日々を送る羽目に為ったのだった。
特に今日の様に、音楽の授業が有る日などは、其れはもう茅世の心理状況は最低等級だ。心模様は底値安定、常に「他愛無い」と云う呪文を胸の裡で唱えていないと吹き零れの劣等感が愈々《いよいよ》鍋から溢れそうに為ってしまい、大層危なっかしい。
とは云え、茅世は飽く迄も伴奏者だ。合唱練習の時間に於いて、茅世が歌う事は無い。万一、茅世が音楽の時間内に歌う事に為ったとしても、学校の授業内で独唱させる事などまず無いだろう。詰まり、究極の恥曝しは回避出来る。然し其れでも、合唱の級友の歌声が耳に入る度に、茅世の心中は漣どころでは収まらない、大波小波がどんぶらこ的な状況に陥ってしまうのだ。
授業は、一度音楽室で全パート併せて1回歌い、定年間近の音楽教師の的を射ているようで射ていない、其れらしい指導の言葉を頂戴してパート別練習に入らせる流れだった。爾後、茅世と相棒である指揮者の士返明照は音楽教師に呼び出され、此れまた分かる様で良く分からない文言を述べられて、練習している各パートを巡回して適宜指示を出せ、と命じられた。
「……つってもさぁ、俺なんかにそんな指導出来る訳無いじゃんなぁ?」
普通教室2部屋分の広さを確保する音楽室内に散り散りに為り、気懈さを隠そうともせず練習に励む級友達を眺めつつ明照は言った。
「棚加とは違って音楽的な何かをやってる訳じゃないしさ。何で俺選ばれたんだろうな?」
「さぁ。お調子者だからじゃないの?」
茅世はぞんざいに答えた。実際、合唱コンクールを催す全ての学校の全ての学年、全ての学級に、30余名の素人集団を見事に指導し束ね上げ、伴奏者との呼吸を合わせられる、指揮者としての秀でた才能を持った人間が必ず1名は居る程、日本は文化的素養が潤沢ではない。では、何が指揮者を選定する際の判断基準に為り得るのか、と云うと其れは即ち、赤の他人程遠くは無いが友人と呼べる程親しくはない者が大半、と云う実に微妙な距離感の級友達の前に立つ事を厭わない人種、詰まる所、目立ちたがり屋のお歴々と為るのである。彼等彼女等は指揮者の才能を持った人材が居る確率より遥かに高く、それぞれの学級に存在するのだから。
「……棚加、怒ってる?」
普段の明るさに似合わず、若干怯えた様子で明照は尋ねてきた。茅世は返答した時点で既に、自分の口調が相手に悪印象を与えるであろう事に気付いていた。然し、茅世は今現在、煮え繰り返る劣等感を吹き零れない様に火加減を調節する仕事で手一杯なのだ。意図せず他人に与える印象に迄は構っていられなかった。
とは云え、其処迄言われて知らんぷりが出来る程、茅世は鉄面皮ではない。
「うぅん、怒ってない。御免ね? でも……」
「『でも』?」
「今はね、悪いけど、ピリッとしてるから」
見た目は一切悪びれず、厳然とした、とも云える表情を崩さず言う茅世を見て、明照は納得行かない様子で、
「うーん……」
と唸った。茅世は憮然とした明照を横目にして、悪いなぁ……と思いつつも威嚇する様な顔付きを崩す事は出来なかった。
音楽教諭の視線を感じた2人は、3つに分けられた各パートの練習風景を視察し始めた。先ずは男子勢の許へ向かう。
「えーと……ど、どうすれば良い?」
一同の前に立ったは良いものの、其処で漸く自分に指導の方針が一切無い事を自覚した明照は、一歩下がって斜め後ろに立っていた茅世に振り向き、指示を仰いだ。
「取り敢えず、先ずは通しで歌ってみて。話は其れから」
「んじゃあ、まずは通しで! 取りあえず歌ってみて!」
茅世が小声で伝えた内容を、操り人形宜しく明照は略其の儘、声量を上げて転写する。黒幕に操られる道化と云う縮図が面白かったのか、男子生徒達は「船場ってるな!」などと挙って笑い声を上げた。明照は何故自分が笑われているのかは分からないが、ウケた事に対しては満更でも無い様で、釣られて笑っている。茅世は一つ溜め息を吐くと、薄く背後を振り返り、芸術的教科に似つかわしくない堅物の音楽教師が癇癪を起こしそうなのを確認し、
「一寸、ブル爺がキレそうだから。早く歌わせて。練習させて」
と明照に耳打ちする。因みに「ブル爺」とは堅物の老頭児音楽教師、犬居の通称で、苗字と皺の多い弛んだ顔面から名付けられた安直な渾名だ。
「お、何よ何よ、お2人そんな関係な訳?!」
男子生徒の1人が茶々を入れる。全く、此の学級の一部の男子生徒は精神面が子供で困る。本当に中学2年生なのだろうか? と疑いたくなる事も屡だ。昨今の小学生でも、彼等よりは精神面で大人だと思う。……まぁ、其れは其れでどうか、とも思うが。小学校低学年から醒めてマセた子供など、扱いに困るだろうし、苛付いてしまいそうだ。
閑話休題。眼の前の茶々を飛ばしてくる此奴等が余りにもお子様なのだ、と云う事だ。理屈も理論も存在しないお子様に対する唯一の対処法と云えば、其れは詰まり「相手にしない」事だ。
「そんな訳無いでしょ。先ずは1回通しで歌ってみて」
斯う為ったら仕方が無い。茅世が表舞台に立って迷える子羊達を嚮導して遣らねば。茅世は意識的に攣り眼と眉の角度を緩めずにぴしゃりと言った。
「お、おっかねぇよ、棚加……」
男子連中は一挙に畏縮したらしく、一斉に押し黙った。まぁ、余り縮こまられても確り声が出ないので宜しくないのだが。茅世は再びブル爺こと犬居教諭の様子をさり気無く窺った。老教師は近くで練習している女子アルト勢に助言を教授している。どうやら落雷被害は避けられた様だ。備品の若干古いラジカセの再生釦を押下する。
代々使い込まれたカセットテープ音源特有の、空オケが始まる迄の無音部分にザラついた雑音が走る。
混声3部合唱曲「名づけられた葉」――此れが、茅世達2年2組に課された曲だ。
茅世は野太くがさつな同級生の歌声を、眉間に皺を寄せつつ聴いていた。彼等の歌声が聴くに堪えない、と云う訳では無い。寧ろ客観的に見たら、彼ら含む此の学級の潜在能力は高い、と茅世は踏んでいる。では何故、今茅世が険しい顔付きをしているのか、と云うと其れはお察しの通り、自分よりも音程の取れた歌声だから、と云う事に尽きる。劣等感は置いておいて、客観的に見た時に自分よりも上手い、とは思うのだが、其の劣等感を置いておけないのだ。
「えっとー……」
一通り歌い終わった男子陣に何か言おうとして、何を言えば良いのかを把握していない事に再び気付いた明照が言葉に詰まり、振り返った。茅世が代わりに発言する。
「まぁ、未だ未だ全体的に荒いから、兎に角練習を続ける事。息が合って来れば、もっとすっきり聴こえる筈だから。基本的な所は良いと思うから、サボんないで練習してよ?」
言い終わると茅世は其の場を離れ、次のパートの方へ向かう。明照は仲の良い男子達と何やら喋ってから茅世の後を追った。犬居教諭はソプラノパートの方へ指導に向かっていたので、二人はアルトパートの許に歩を進める。
男子パート同様、先ずは通しで歌って貰うのだが、茅世は其の途中、余りの劣等感に表情が曇るのを自覚した。今にも雨が降りそうな、黒雲が立ち込めている、そんな表情だ。成るべく其れを悟られない様に、と俯き加減で聴いていたのだが、そんな茅世の態度が良く見える筈も無く、歌い終わったアルト勢からポツリポツリと声が漏れ出した。
「棚加さん、ちゃんと聴いてた?」
「あたし達、そんなに下手?」
茅世はつくづく辟易した。自分の顔付きは、生まれ持ったものでどうしようも無く、其れを他人がどう感じ取るかは、自分の管轄出来る範囲ではない。況して、自分は今にも暴れ出しそうな劣等感と闘っていたのだ。正直に言えば、真面に歌声を聴ける余裕は皆無だった。
「え、あ、否、そんな事は……」
何とか取り繕おうとした茅世を擁護したのは、午前中の体育の授業で茅世に数回パスを出したサッカー少女、向山悠葵だった。
「止めなよ。棚加さんはそんな娘じゃないっしょ」
悠葵がそう言うと、不満を垂れる声が一瞬にして鎮まった。悠葵は、此の学級に於ける女子軍団の番長的存在で、現状、学級内の女子で彼女に逆らえる者は誰一人居ない。そんな女子生徒に味方されたのだ、茅世に対する小言もあっさり止まった。茅世は感謝の意を込めて悠葵を上目遣いで見た。悠葵は特に表情を変えず、然し茅世にだけ分かる様に返事代わりの会釈を寄越した。
苦心して問題点を挙げ、口早に指導の文言を口にすると、そそくさとアルト勢の許を後にした。残るはソプラノパートだ。
「じゃあ、先ず1回通しで……」
ソプラノ勢に指示を出し、一頻り歌って貰う。が、明らかに声が出ていない。茅世は内心溜め息を吐いた。
日本国内の中学校で主に歌唱される、女子がソプラノとアルトに分かれ、変声期に差し掛かる男子は1つのパートを歌う混成3部合唱は、女子パートの声が確り出ていないと、きちんとした形に為らない。一般的に男子の方が大きく声を出す傾向にあり、尚且つ1つのパートを全員で歌唱する男子に対して2つに分割される女子は、各々のパートがきちんと声を出さなければ男子の声に掻き消されてしまうからだ。茅世の学級は女子の比率が高いのだが、ソプラノ、アルト各パートの人数は男子全員よりは少ない。混成3部として成立させる為には、女子が如何に大きく声を出せるかが重要に為って来るのだ。
古いラジカセが曲の終幕を告げるピアノの音色を奏でて、無音の低周波音を発し始める。茅世が目配せすると、意を汲んだ明照が傍らのラジカセの停止釦を押す。
茅世が何から言えば良いのか、指摘点を考慮していると、
「言いたい事があったら、はっきり言ってくれれば良いのに」
と誰かから冷たい声色の台詞が飛んで来た。先程のアルト勢と同じだ。顔付きがキツい印象を与えるものに為っていたのだろう。
其の言葉が耳に入った瞬間、茅世は凍り付いた。其の後の展開が読めたからだ。
「恐い顔してないで、しっかり指導してくんないと」
「そもそも、棚加さんは伴奏者でしょ? 歌わないじゃん」
「ま、確かにウチ等はピアノ弾けないけどさ。棚加さんは歌の方も歌えるから、指導する訳でしょ?」
「あ、そうだ! いっぺんお手本見せてもらえば良いじゃん!」
「賛成!」
「歌ってみせてよ?」
然程親しくない級友達の眼が恐い。言葉が鋭利に為って突き刺さる。全員、敵だ。集団心理と云うのは恐ろしい。誰か一人のふとした呟きで、其れ迄の自分の立ち位置が一挙に崩れ去る。砂場の城と一緒だ。培って来たものは、余りにも弱く、平等に脆い。
「おいおい、ちょ……みんな!」
明照が瞬間的に悪化した茅世の立場を案じ、仲裁に入ろうとする。が、時既に遅し。一つの達成目標が生まれた際の集団は、そう簡単に止められない。あらゆる所で言及されている事だが、誰か1人が犯人なのではなく、真犯人は其の場の雰囲気なのだ。
茅世としては、どうしても歌う事は出来ない。歌いたくないのではない、歌えないのだ。茅世が音痴である、と云う事を知られてはならない。伴奏者として学級を嚮導していく、と云う役割の為に。指導役として発する言葉の説得力の為に。自分の序列・評価の為に。
そして、自らの自尊心の為に。
「ねぇ、歌ってくれないの?」
「私達に歌わせといて、自分は歌わないんだ?」
「……もしかして、歌えないの?」
思わず茅世の肩がビクッと震える。強張っていた身体に、より以上の力が入る。狭窄し、受光量の減った暗い視野の片隅に、アルト勢を見出す。味方に為って呉れそうな悠葵は、通し練習で歌っていて、此方の厄介事に関与出来なさそうだ。もう一方の片隅では、犬居教諭の指導の下、男子勢が倦厭としつつ歌っている。
もう逃げきれそうにはない。肚を括るしかないのか……。茅世がそう思った時、
「止めようぜ」
「止めようよ」
2つの声が同時に上がった。一つは明照の声。もう一つは、先月転校して来たソプラノ勢の一員、木乃菜津音のものだった。同じく発言してしまった2人は、某老練お笑い3人組の如く「どうぞどうぞ」と譲り合い、そして明照が先に話す事と為った。
「級友同士でそんないがみ合ったって、どうにもなんねぇじゃん。棚加だって好きで指導役買ってる訳じゃないんだからさ。俺から見ても、さっき歌ってる時のみんなの態度はいささか難アリだったと思うぜ」
明照はぴしゃりと言った。単なるお調子者ではなく、言うべき時は忌憚無くものを言う姿勢。此れが学級内で最上級の評価を得る明照の其の人たる所以だ。
弩が付く程の正論は、誰の反論をも抑え込む。ぐうの音も出ない様子のソプラノ勢を前に、明照は何処か悠然とした振る舞いで、菜津音に発言権を譲った。
「殆ど士返君に言われちゃったけど、私も、何もそんなに攻撃的に為る事無いと思う。棚加さんも好きで指導してるんじゃないと思うし」
菜津音は凛然と言った。そして、
「もし、どうしても棚加さんに歌え、って言うのなら、代わりに私が歌うよ」
と言ってのけた。其の場に居る全員が虚を衝かれた様な表情で菜津音に注目する。特に茅世を攻める側だった女子勢は、あらぬ方向から放たれた異次元の掩護射撃に動揺した様で、
「な……何で木乃さんが歌うの?」
「それはちょっと……違くない?」
と一挙に気勢が削がれて、腑抜けた様な声が聞こえ出した。然し、
「じゃあ歌ってみせてよ」
と云う嘲笑を含んだ誰かの一言を皮切りに、
「そこまで言うなら……ねぇ?」
「お手本、見せてもらおっか」
「自分から名乗り出たんだもん、相当自信あるんだろうね?」
と再び活気付いていった。自らの発言で窮地から此の場を救ったと思っていたが、再び場が険悪な雰囲気に包まれた事を察知し、明照は密かに溜め息を吐いた。
「い……否、良いんだよ? なにも木乃さんが歌わなくても……」
自分が救われたのも束の間、庇って呉れた級友が自ら成り代わった事に対して良心の呵責を覚えた茅世は、思わず制止に入った。が、菜津音は茅世の方を向き、他の誰にも聞こえない声で、
「平気。棚加さん、歌いたくないんでしょ? 私は大丈夫だから」
と言って微笑んだ。茅世は其の笑顔に、何故か胸の辺りに痛みを伴う程の哀切を感じた。
「うん、歌うよ。二言は無いし」
前に向き直り、不思議と柔らかさを帯びた眼付きで、菜津音は彼女等を見返した。決して開き直りではない、落ち着き払った余裕さえ感じられた。
「士返君、テープ再生して?」
菜津音は自ら促した。明照は慌てて巻き戻し釦を押下する。C‐10なので、片面は5分ぶん。数秒で巻き戻しは終了し、押下された状態を保持していた釦がパチン、と音を立てて元に戻る。其の後、再生ボタンを押すと、B面に収録された伴奏のみのカラオケ音源版が流れ出す。因みにA面には、歌唱入りのお手本が収録されている。
テープの傷みを意識せずにいられない、無音部分のささくれ立った雑音が耳に付く。軈て落ち着いたピアノの音色が、型落ちのラジカセのステレオスピーカーから流れ出す。菜津音が大きく息を吸い、眼を閉じて、歌い出す。
何て綺麗な、淀み無い声。何処迄も澄んでいて、其れでいて力強い。圧倒的な迄に声が出ている。決して揺らぐ事も、震える事も無い、声。腹から声が出ている、とは、正しく斯う云う事を言うのだろう。潤沢に息を吸い、大きく口を開けて声を出す。其の基本が確立されている。そして、素晴らしく素直で、鮮烈な程に正確な音程と、確りとした発音。
一言で云えば、上手い。そう云う事に為るだろう。
ずっと聞いていたい、と思わせる、魅力の有る声でもある。決して癖が有る声、と云う訳では無い。美しい、と云う褒め言葉が最も適切だろうか。表現力も素晴らしい。
凄く、非常に、とても、尋常でなく、歌が巧い。幼稚な表現に為ってしまうが、そうとしか言い様が無い。御託を無い物として、論理を抜きにして、単純に、巧い。
現に、初めは一見過剰と思える程に目一杯開口して歌う菜津音の姿を見て、反射的に嘲笑する者も、中には居た。然し、楽曲が進行するに連れ、彼女の歌声を聴くに連れ、誰一人として嗤う者は居なくなった。
聴衆を惹き付けてしまうのだ。否、其の声を耳に入れた者を聴衆と化してしまうのだ。曲の中盤から、通しを終えたアルト勢が、そしてブル爺こと犬居教諭の指導の下歌っていた男子勢も、更には犬居教諭迄もが、菜津音に視線を集め、歌声に聴き入った。何とも異様な光景だ。菜津音は其の歌声だけで、音楽室内を掌握した。制圧してしまったのだ。
ピアノの音色が届く。皆が一斉に、我に返る。曲が終了したのだ。ずっと凛として、眼を瞑った儘歌っていた菜津音は、其処で漸く頬を薄く染め、照れ隠しにはにかみ乍ら、少し俯いた。場は只管に沈黙している。誰も、何と発して良いのか判らないのだ。
「うん、素晴らしいな」
最初に口を開いたのは、犬居教諭だった。此の場に居る唯一の大人として、場の停滞を打破する責務を感じたのか、或いは単なる気紛れか。
「皆も見習いマサイ。あの様に、恥ずかしがらずに大きく口を開け、息を吸い込む事で、強く綺麗に発声出来るんだな。木乃君……だったね。皆も木乃君を見習いなさい」
菜津音が独唱していた事には一切突っ込まずに、犬居教諭は称賛した。冒頭で噛んだ事を気にしない素振りで話していたが、最後にそれとなく言い直した所から鑑みるに、案外気にしていたらしい。
……何で此の状況でそんな事が気に為るかなぁ、と自分に呆れつつ、茅世は其処ではたと気付く。
茅世は、菜津音の歌に、劣等感を抱いていなかった。
鍋蓋をぐつぐつと踊らせ、今にも吹き零れそうな嫉妬心は、一切沸いていなかった。
茅世は、菜津音が歌声ひとつで掌握した音楽室が徐々に尋常を取り戻してゆく中で、其の理由に思い至った。
菜津音の歌が、圧倒的に巧いから、ずば抜けて素晴らしいものだからだ。
逆立ちしても、世界が引っ繰り返ったとしても、絶対に追い付かない、と分かるから嫉妬心すら生まれないのだ。
仮令茅世と菜津音の歌唱が同じ俎上に載せられる事が有ったとしても、全く異次元の、比較しようの無いものだから、抑も劣等感が湧かないのだ。プロの歌手に対する其れと同様に。
其れ程迄に、菜津音の歌唱力は群を抜いていた。
「あの、さっきは有り難うね」
最後に、茅世が実際に音楽室の備品のグランドピアノを弾き、全員が声を合わせて歌う通し練習をして、六時間目の音楽の授業が終了し、HRに戻る道すがら、茅世は菜津音に感謝の意を述べた。菜津音は誰とも連む事無く、楽譜が複写された藁半紙が綴じられた薄い黄緑色のA4判ファイルを片手に、黙々と歩を進めていた。
「いや、全然。私は知り合いも居ないから何遣っても平気だし。失う物無いから」
眼を細め、ニカリと笑う其の顔に、茅世は再び哀しさを覚えた。ほんの僅か、哀愁が混入している様な感覚だ。
「……そっか」
菜津音は、1ヵ月程前に2年2組に編入して来たが、積極的に友人関係を築こうとする動向も無く、寧ろ他人を遠ざけようとする素振りさえあった。詳細は誰も知らない。彼女が誰にも話さないから。そんな転校生は、慣れ親しんだ同級生達の中では、溶け合わず馴染まない異質な存在として一種浮いた立場に為ってしまっていた。
茅世は、以前から気に為っていた。彼女は何故、人と交わろうとせず、孤立するのか。然し、誰も彼女と喋らず、彼女も其の状況を受け容れている内に、菜津音には話し掛けられない、話し掛け難い雰囲気が生まれてしまい、茅世も遂に話し掛けられないでいた。
とは云え、菜津音は完全に他人との関わりを排斥していた訳では無い。他の生徒に話し掛けられたら応じていたし、其の時の様子は割と明るいものだった。だが、決して自ら他人に関わる事はして来なかった。適切に云えば、自分を外部から遮蔽している風だった。
そんな菜津音が、どんな形であろうと自ら関わって呉れたのだ。茅世は謝罪の気持ちを抜きにしても、菜津音と友人に為れれば、と思っていた。
「じゃあ、知り合いに為ろうよ! いや、何か斯う云うと上から目線みたいだけどさ……」
茅世は精一杯明るい表情と声で、歩みを止めない菜津音の前方に回り込み、後ろ歩きをしつつ、右手を差し出した。
「あたしと、友達に為らない?」
菜津音は呆気に取られた様にポカンと口を開け、其の場に立ち止まった。一拍遅れて茅世は後進を止め、2歩前に進む。斜め下に伸ばした右手は、今にも菜津音に触れそうな位置に在る。
「……駄目?」
茅世は上目遣いで菜津音を見る。菜津音は依然として唖然とした儘だが、数秒茅世を見詰めた後、「ぷっ」と噴き出し、笑い出した。
「えっ?! な、何で? あたし何か変な事言った?!」
茅世は突如として菜津音が破顔し、笑い始めたので動揺した。
「い……いや、御免ね? 急に笑っちゃって」
笑いを堪えつつ、菜津音が謝った。
「いや、うん……。別に構わないけど……」
茅世は僅かに後悔していた。ひょっとして、菜津音は何らかの異常を抱えているのかも知れない。突然、衆人環視の中で独唱するのも、考えてみれば常軌を逸している。何処かズレている人なのかも知れない。が、直後に菜津音の歓笑の意味を知り、其の認識を改めた。
「棚加さん、人と友達に為ろうとする時に『友達に為ろう』って誘うのは、些か不器用だよ」
「な……。しょうがないじゃん、あたし対人能力高くないんだから! どう遣ったら友人関係に為れるかなんて、忘れちゃったんだもん!」
茅世は顔を紅くして言う。菜津音はそんな茅世の反応を見て、再度破顔した。
「あ! また笑った!!」
「い……否、御免ね……。わ、悪いとは思ってるんだよ? でも、棚加さん、反応が面白いから……」
「むうぅ~……」
茅世は少しだけ大袈裟に頬を膨らませ、むくれる仕種をした。其の顔を見て、菜津音の笑みは止まらない。茅世も遂に、其れに釣られて笑いだす。ワックス掛けされた正方形の杢目タイルが敷き詰められた廊下の片隅で、2人は笑い合った。
暫く笑った後、2人はどちらとも無く再び歩き始めた。そろそろ下校前の帰りの会が始まってしまう頃だ。菜津音は緊張が解けた様子の茅世に対して、柔和な表情で言った。
「友達関係ってさ、『為ろう』って言って為るんじゃないよ。切っ掛けなんか覚えてないけど、何時の間にか仲良く為ってる。そう云うものなんじゃないかな?」
穏やかに話す菜津音の横顔を眺めて、茅世は
「……そうだね。そうだよね」
と返して微笑んだ。
「……唯」
不意に菜津音は呟いて、ピタリと足を止めた。真っ直ぐ眼前を見ている。
「え?」
茅世は左を向いて菜津音を見た後、彼女が眼を向けている、目の前に聳える白い引き戸に目線を移した。
其処は、2年2組の教室だ。
「私と友達に為るのは、止めといた方が良いと思うよ」
菜津音は茅世を見詰め乍らそう言い残して、戸を開けて入室していった。
教室の中から聞こえる喧騒が瞬間に色褪せて、暫し茅世は無音の世界に居た。其の顔面から、笑みは消え去っていた。
茅世が、友達に為れそうだと、其の切っ掛けを掴んだと感じた菜津音の眼は絶対零度の様に冷たく、其の表情は超硬合金の様に無機質だった。
帰りの会も恙無く終わり、皆が散り散りに為っていく中、茅世は暫く自席に身を沈めた儘にしていた。菜津音は逸早く、矢張り誰とも連まずに教室を抜け出していくのを、一つ前の席の茅世は視界の隅で捉えていた。
「何でなんだろう……」
俯く茅世は無意識に呟くと、机に突っ伏した。それなりに年季の入った木製天板は少しだけひんやりしていて、知恵熱を出しそうな額を冷却するには丁度良かった。
「「何が?」」
ふと声を掛けられ、其れが自分の漏らした呟きに対する事だと気付く迄に稍時間が掛かった。のろのろと頭を上げると、級友の千県朋芽と千県桃芽の2人が居た。彼女達は双生児なのだが、2人共2組に在籍している。一般的に考えると、双子はそれぞれ学級を分けそうなものだが。
「ねぇ……」
「「ん?」」
朋芽と桃芽の返事が見事に重なった。当人達は別段意識していない様だが、一緒に居ると度々、こんな風に言動が被る場面に遭遇する。
「あたし達って……どう遣って友達に為ったっけ?」
「「はぁ?」」
またしても綺麗にハモった。表情も見事に相似形だ。
「「そんなの……」」
朋芽と桃芽は顔を見合わせ、お目々をパチクリさせた。
「……分かんないね」
「改めて聞かれるとね……」
言いつつ2人は同時に困り顔をした。
「そうだよねぇ~……」
茅世は溜め息を吐いて再び突っ伏した。朋芽と桃芽がもう一度問い詰める。
「「で、何があったの?!」」
「いやね、木乃さんなんだけどさ……」
「「あぁ~」」
千県姉妹は揃ってアルトパートに振り分けられている為、先程のソプラノパートでのいざこざに就いて詳しくは分かっていない。
「どうして木乃さんが歌う事になったの?」
「そうそう、経緯が分かんないからさ。気付いたら木乃さん独唱してたし」
茅世は菜津音が歌う事に為る迄の概略を掻い摘んで話した。
「……へぇ、意外! 木乃さんって揉め事に関わらない印象だったから」
「でも確かに、何で木乃さん歌ったんだろうね? 歌わなきゃいけない必然性は無いよね」
「うん、まぁ確かに……。でね、教室迄戻って来る間に話し掛けたの、木乃さんに。『有り難う』って」
「「うんうん」」
「そしたら木乃さんは『私には知り合いも居ないし失うものも無いから』って言ったの」
「「ほうほう」」
「だから、あたしは『じゃあ、あたしと知り合いに……友達に為ろう』って言ったの」
千県姉妹は一瞬だけ表情を変えないでいたが、間も無く爆笑し始めた。
「アンタ等も笑うんかい!?」
「「だって、ねぇ……」」
笑いを堪えつつも、朋芽が口を開く。
「そんな言い方、ある?!」
笑い過ぎて、桃芽は目尻に涙を浮かべている。
「もうちょっと何か、あるでしょ!」
茅世は顔全体で不快感を表した。唯でさえキツめの印象を与えてしまう其の表情は、得も云われぬ迫力を伴っていた。朋芽と桃芽の笑顔が瞬時に凍り付く。
「「ご、ゴメンゴメン……」」
「じゃあ、何て言えば良かった? 直ぐに答えられる?」
「う……」
「其れで、木乃さんは何て言ったの?」
茅世の問い掛けに、朋芽が言葉に詰まる一方で、桃芽は自然に会話の水先を変える。此の辺り、双子とは云え各々の個性が表れる。
「いや……木乃さんも『そう遣って誘うのは不器用過ぎるよ』って云って笑って呉れてさ。あたしは良い感じ、って云うか……悪くない感触だったと思うんだけどさ……」
茅世の表情が一気に曇る。珍しく眉尻が下降線を描く程に。
「教室に入る寸前に、『私と友達に為るのは、辞めた方が良いよ』って、何か恐い顔で……」
「「うーん……」」
千県姉妹も揃って腕を組み、思案顔に為る。
「過去にさ、何かあったのかもね。そういうトラブルみたいなのが」
「てか、それしか考えらんないよね」
「……だよねぇー……」
茅世は三度、木製の天板に突っ伏した。そんな茅世に、朋芽が声を掛ける。
「そうなると、難しいよね……」
「うん……何処迄踏み込んでも良いのか、或いは踏み込んじゃいけないのか。でも、踏み込まなきゃ距離は縮めらんないし」
重たい沈黙が、3人の間を流れていった。澱んだ停滞が折り重なっていく。
「……まっ、いつまでも沈んでてもしょうがないし! 取りあえず帰ろうよ!」
「そうだね! 大丈夫だよ! 根拠は無いけど」
桃芽と朋芽がそれぞれ茅世に声を掛けた。其の言葉で茅世は
「……楽天家だなぁ、モモもトモも」
と言いつつも、微笑みを取り戻した。机の側方に備え付けられたフックに提げていた黒いリュックサックを手に取り、茅世は席を立つ。
「……まぁ、為る様に為るよね!」
教室を出た3人は、其の儘昇降口へと向かう。白く塗装された靴箱は、賽の目状に各自振り分けられた棚の上段に上靴を、下段に外履きを置く様に為っている。
3人は、何時もの様に談笑しつつ校舎を出て、右手に女子ソフトテニス部の部員達が躍動するコートを、左手には1階に柔剣道場を跪かせている体育館を見乍ら正門へと続く広場を歩く。そして其の儘正門を跨ぎ、市道を歩み進めていく。三人は揃って何処の部活動にも所属していない、所謂帰宅部である。
3人が今、後にした市立賀島中学校は原則、生徒全員が部活動をする、と云う事に為っている。より正確に云えば、生徒全員が何らかの部活動に加入していなければならない、と云う風潮が有るのだが、茅世はピアノの自主訓練に託けて、千県姉妹は揃って何と無く、入学直後に入部届を提出しなかった所、存外お咎め無しで今に至っている。
「そういえば、此の前の独奏会はどうだったの?」
桃芽が茅世に問う。茅世は若干浮かない表情に為り、
「うん……まぁまぁかな」
「何か、あんまり良さそうじゃないね?」
朋芽が話を進める。
「う~ん……。まぁ、目立つ様な失敗はしてないんだけどさ……」
「「ほうほう」」
「一寸ね……悩みが有って、其れがずっと引っ掛かっててさ……。上手く集中出来ないし、気持ちが入んないし」
「「あぁ~」」
「反省する事すら疎かに為っちゃってさ……」
「「うーん……」」
茅世は言い終わると溜め息を吐き、同時に自分の発言の所為で千県姉妹が押し黙ってしまった事に気付いた。
「あっ、ご……ゴメンね? 何か変な空気にしちゃって……」
「いやいや、こっちが振った話題だし……」
「うん……何かそういう、苦悩があったっていうの、知らなかったから……」
桃芽と朋芽が続け様に言う。何だかギクシャクした空気に為ってしまい、茅世は居心地悪そうに俯いた。
暫く無言状態が続き、3人は田畑が点在する暮合前の住宅街を所在無げに歩を進めた。三人が歩く道路は中央線の無い市道で、偶に乗用車や軽貨物車が横を追い越していく。
軈て三叉路に差し掛かり、3人は誰からともなく歩みを止めた。茅世は此処を左に、千県姉妹は右折した方に自宅が在る。
「あ……じゃあ、ね」
茅世は気不味い雰囲気を打破出来なかった自分に対する不甲斐無さから、落胆の色を隠せずに別れの言葉を口にした。
「「あのさぁ」」
背を向けて歩き出そうとする茅世に、千県姉妹の重なった声が飛ぶ。茅世は思わず身を凍らせた。突っ慳貪な台詞に、茅世は最悪の事態を想像する。が、杞憂だった。
「モモ、言いなよ」
「良いよ、姉貴が言って。多分、きっと同じ事だと思うし」
「まぁ、そうだね。じゃあ……」
茅世は千県姉妹の方に身体を向けた。2人は真っ直ぐ茅世を見据えていて、振り向いた瞬間に眼が合った。
「そんなに気、つかわないでよ。もし何か悩みがあったら相談してくれれば良いしさ、わたし達チセのそういう……悩みとか、グチとか聞くから。まぁわたし達じゃ答えは出せないかも知れないけど、相談に乗るくらいなら任せてよ。そんなに心狭くないし」
「……まぁ、あの空気の中で何にもしゃべれなかったウチ等もウチ等だけどさ」
桃芽が付け加える。茅世は全身の緊張が解れていく感覚を味わった。何だか、泣きそうになった。頬が紅潮し、涙が瞳を潤す。
侮っていた。茅世は2人を心の底から信頼していなかったのかも知れない、と痛感した。
茅世と彼女達との付き合いは、実は其れ程長くない。今年の春、中学2年に進級した際のクラス替えで一緒に為ったのが付き合いの始まりだった。其れ迄は、互いに存在を認識している程度だったが、同学級に為り、校内で数少ない帰宅部同士と云う事も有り、急速に仲を深めたのだった。
自分でも気付かぬ内に、茅世は不可視の壁を建立していたのかも知れない。線引きしていたのかも知れない。そう思うと、隔たり無く寛容にこんな自分に接して呉れる彼女達に対して申し訳無い様な気分に為った。其れが涙腺分泌物と云う体裁で可視化されたのが、茅世が涙ぐんだ真相だ。
唇をきゅっと結び、辛うじて涙を堪えた茅世は、温かな気持ちに包まれ乍ら、
「有り難う! 此れからも、宜しくね」
と笑顔で言った。千県姉妹は、揃って満面の笑みを返した。
「……じゃあ、また明日ね!」
朋芽がそう言い、千県姉妹は自宅に向かい歩き始めた。茅世は微笑み乍ら2人の背中を見送っていた。直ぐに踵を返し、立ち去る気にはならなかった。
そして2人が手を振りつつ細い路地を左に曲がり、視界から居なくなった後で、茅世は回れ右をして歩き出した。其の時だ。
「チセっ!!」
桃芽の声だった。遠くから投げ掛けられた其の声に、茅世は驚いて振り向く。桃芽は先程消えていった曲がり角から左半身を出し、口周りに両手でメガホンを作り、斯う言った。
「良い事思いついたっ!! 木乃さんとのキッカケ!! 木乃さん、あんなに歌上手いんなら、多分音楽、好きだと思うから!! それを足がかりにすれば良いんじゃないかなぁ!?!」
成る程、と茅世は納得した。確かに、可能性は高そうだ。
「ありがとぉーー!!!」
茅世は負けじと大声で感謝を伝えた。こんなに大声を出したのは久し振りだ。薄荷脳を嗅いだ時の様に、無条件に胸の辺りがスッとする。胸の痞えが取れた気さえした。此れ以上無い位の笑顔で、茅世は手を振った。西の空が、色付き始めていた。
翌朝、茅世は希望と不安が半分半分に為った気持ちで正門を潜った。其れは勿論、菜津音に対するものだ。
特に問題無く過ぎていく一日の学校生活の中で、茅世は気付いた事が有った。
菜津音に対する周囲の応接が、昨日迄と異なる。
元々、其れ程菜津音と他の生徒の関わりは多くなかったが、其の数少ない中でも如実に分かる位、教室内の生徒達の菜津音に対する態度が、接遇とでも言い表せる様な、より直截に云うなら腫れ物に触る様な、隔壁を間に挟む様なものに為っていたのだ。
此れ迄も、其の様な気配が無い訳では無かった。周囲に馴染もうとしない、かと云って殊更に自分を消して目立たない様に黽勉する訳でも無い、何処迄も自然体に振る舞う菜津音は確かに異質で、同学区の小学校から殆ど生徒の流出入の無い、9割9分が知己か面友と云う環境下の賀島中学に於いて、其れは否が応にも際立っていた。距離感の有る対応も致し方無いだろう。
だが、今日のものは明らかに一線を画している。此れ迄の応対とは露骨に違うのが、傍目から見る茅世ですら理解出来るのだ。茅世は猶、澄まし顔を崩さない菜津音を見て、其の胸中を想い、軫念した。当然、彼女は周囲の態度の変貌に気付いているだろう。だが、其れに就いて彼女に問うた所で、恐らく昨日2度見た、胸を締め付けられる様な切なさを伴った微笑を浮かべて「平気だよ」などと嘯くのだろう。茅世は胸を痛めつつも、未だ大して親しくもない級友に対して何故、此処迄感情移入出来るのだろう、と我乍ら不可思議に思っていた。
給食の時間が終わり、昼休みに入った頃、茅世は千県姉妹を教室から連れ出し、人気の少ない西側の階段の踊り場に屯した。
「ねぇ、何か違くない?」
茅世は眉間に皺を寄せ、何時も以上に鋭い目付きで切り出した。
「「チセ、恐い恐い」」
「いや、だってさ……」
「木乃さんの事でしょ?」
「正確には木乃さんに対するみんなの反応ね」
桃芽が補足する。
「そうそう! 何で?」
「あたしは、何と無く分かるけどな……」
朋芽はそう言った。
「前から、そんな感じはあったじゃん? 近寄りがたい、っていうかさ、一匹狼的な……。その上、昨日歌ったでしょ、みんな見てる前で、特に緊張もせずに。普通恥ずかしがるじゃない? 何か、言い方は悪いけど……得体が知れない、っていうか、理解出来ないっていうか……。何だろう、みんな探ってるんだと思う、木乃さんへの接し方を」
「いや、あれは木乃さんがあたしを庇って……」
「でも、ソプラノチームは分かってても、他の連中は知らないからね、その経緯は。だから尚更なんじゃない? 接し方が分からないっていうのは。何で独りで歌い出したのか、知らないから」
桃芽がそう付け加える。茅世は頭を抱えた。
「うーん……」
其の様子を見た千県姉妹は、例の如く揃ってクスクスと笑い始めた。
「……何が可笑しいの?」
多少ムスッとした声で茅世が問うと、朋芽が
「いやぁ、チセは本当に木乃さんと友達になりたいんだね」
と微笑み乍ら言った。
「……ん」
気恥ずかしくなった茅世は小声で答えた。
「そんなに悩めるんだもん、その気持ちは本物だよね。それだけの想いがあれば、上手く行くと思うんだけどなぁ」
「うん。ちょっと羨ましいもん。妬くぞ? チセ!」
桃芽はそう茶化すと、茅世の身体を擽り出した。
「や……止め……っ、くすぐっ……たいってば……」
「うん~、何かなぁ~? もっとあたし等の事も想えこの野郎っ!」
「ひゃ……ひゃめれ……あはは……」
「チセ、可愛いぞ!」
朋芽は止める所か茶々を入れる始末で、茅世は正しく四面楚歌の状態、桃芽に蹂躙されるが儘だった。
そして放課後。合唱コンクール迄は未だ1ヵ月程有る。帰りの会終了後に各パートが自主練と云う名の強制的な練習を始めるには些か早く、終業の一礼をした後、菜津音は昨日同様、そそくさと教室を後にしようとしていた。
「木乃さん!」
茅世は可及的速やかに自席を後にし、2階から降りる階段を早足で後にする菜津音を捕捉する事に成功した。
「……何?」
5段下から振り向いて茅世を見上げた菜津音は、如何にも面倒臭そうな、厄介事に巻き込まれてしまった、と云う様な表情だった。まるで昨日、少しではあるが親しく話した事実など存在しない風な素振りに、茅世の心は切なさのあまり折れそうに為った。
でも、こんな事で諦める訳にはいかない。最早、茅世は或る種の使命感に突き動かされていた。
「あ……あの、昨日言ってた事なんだけどね」
「止めとけ、って言ったでしょ。私とは、関わらない方が良い」
茅世の言葉を遮る様に言い放ちつつ、菜津音はくるりと背を向け、残りの段を降り始めた。
「どうして?」
茅世は一拍遅れて、昇降口に消え行く其の背中を追った。
「其れは……言いたくない」
菜津音は上靴を脱いで靴箱の上段に突っ込み、下段の外靴を手に歩いていく。
「あたし、誰にも言わないよ?」
負けじと茅世も上靴を急いで靴箱へ放り込み、白基調の運動靴を引っ掴んで玄関へ向かう。
「そう云う問題じゃない。兎に角、私には近寄らない方が良いの!」
靴の踵部分を踏み付け乍ら、菜津音は少し声を荒げた。茅世は菜津音の苛立ち混じりの声を初めて聞いた。爪先を舗装された地面に打ち付け、蹈鞴を踏みつつ菜津音を追う。
「ま……待ってよ! 此れだけ聞いてよ!」
茅世は先程の菜津音の発言で確信していた、切り札と為るであろう言葉を口にした。
「木乃さんは『関わらない方が良い』って言ったけど、昨日木乃さんから助けて呉れたでしょ?」
菜津音は正門を前にしてピタリと歩を止め、微動だにしなくなった。其のお陰で茅世は漸く競歩の国内代表選手かの様な驚異的早歩きで独走、元い独歩を決めていた菜津音に追い付く事に成功した。
「あの……木乃さん?」
菜津音は首が折れた様に俯き、押し黙っている。茅世は自分の発言を後悔し始めていた。
茅世は、先程の“切り札”が場合に因っては菜津音を抉ってしまう可能性を孕む、諸刃の剣である事にも思い及んでいた。菜津音が自分で其の矛盾に気付いていた場合は彼女の自尊心を、或いは本気で自分に誰一人近寄らせない方が良いと考えていて、自分の行動が裏目に出た、と悟って懺悔する程の繊細な思考の持ち主だった場合は彼女の感受性を、粉々に打ち砕く事に為ってしまう。当然そうなれば、菜津音との交友関係は結べないであろう。
然し、菜津音が話を聞いて呉れなくては元も子もない。危険な博奕ではあるが、菜津音を振り向かせる為だったのだ。
「ん……そう、だよね。矛盾……してるよね。御免なさい」
菜津音は言い終えるかどうかの頃合いで舗装路を蹴り、其の場からの逃走を試みた。茅世が走り去る菜津音の右の手首を咄嗟に掴み取れたのは、偶然としか言い表し様が無かった。
或いは、結果論で捉えれば、全ては彼女達が出会う為の予め構築された、運命と云う名の必然なのかも知れない。
「ちょっ……待ってって!」
「離してよ!! 私と一緒に居ると不幸に為るの! 絶対、良い事なんて無いんだから!」
「其れは……誰かにそう言われたの?」
茅世は自分でも驚く程冷静な声音で訊いた。菜津音も驚いたのか、
「い……否、そう云う訳じゃないけど……」
と素直に答える外なかった。
「何だ。じゃあ、あたしが木乃さんと一緒に居ても不幸にならない、って証明すれば良いじゃん?」
「……まぁ、そう……じゃない!! 兎に角駄目!!」
「木乃さんって、割と強情だよね」
「悪かったね強情で!! 良いじゃんか貴女には迷惑掛けないし!!」
菜津音が此処迄感情を露わにするのは相当に珍しい事だった。其れだけに、茅世の説得が効いている、と云う顕れでもあった。部活動への参加を終え、受験を控えた3年生や、校外のスポーツクラブ等へ通う数少ない生徒達が、口論する様な状況の2人に視線を集め乍ら下校していく。
「……あたしはね、迷惑掛けられたくない訳じゃないんだよ」
「棚加さん、被虐趣味なの? どうして自分から面倒な方に行こうとするの?」
「そんな事言ったら、人間関係なんて築けないよ……」
「う…………そう、だね。だから、私は誰とも親しく為りたくないの。人間関係とか、もう面倒臭いし。傷付くだけだし」
菜津音の表情は悲痛で歪んでいた。嘗て甚大な哀しみが菜津音を襲った事は、此の顔を眼に入れればどれだけ鈍感な人物でも容易に理解出来る筈だ。茅世は誰よりも、其の痛みを感じた。自然と、茅世の頬を涙が伝っていた。
「え?! 否、どうしたの行き成り? 何で泣くの?」
「あ……ゴメン、良く分かんないんだけど、自分でも……。その……木乃さん、凄く辛い思いをしたんだろうな、って思ったら、何か……」
不意に溢れ出た涙は、自分では制御出来ない。汪溢する涙腺分泌物を、茅世は止められないでいた。
「な……泣かないでよ……。私が泣かせてるみたいじゃん……」
「そ……う、だよ、ね……。ゴメンね……」
茅世はしゃくり上げ乍ら答えた。耳に入った自分の声が、あからさまに泣いている時の其れで、情けないやら何やらで、余計に泣けてしまった。
菜津音は心苦しそうに、付け加えた。
「今、棚加さんが泣いてるのって、同情でしょ? 私が何かしらの辛い目に遭ったから、憐れんでるんでしょ?」
斯う為ると、最早言葉の戦争だ。如何に相手を鋭く抉る単語を用意出来るかの勝負だ。
全ての言葉は、遣いように因って一撃必殺の凶器と為り得る。感情を載せて、意図を込めて、そして放たれた言葉は、時として人に致命的な傷を穿つのだ。菜津音は言葉選びの難しさを、此の時理解し始めていた。
「ど……同情、なんかじゃ……」
「ほら、言い切れないでしょ?」
茅世は継ぐ言葉を失くし、俯いた。眼から流れる涙が、絶妙な曲線を描く頬から伝い落ち、洗い出し工法が施された地面に一滴、染み入った。初秋と云うよりは未だ晩夏の風情が残る10月中旬の陽光も、流石に一瞬で零れた涙を乾かす程の威力は持っていなかった。
「……御免。結局、棚加さんを泣かせてるのは私なんだよね。全部私が悪い。うん。辛いでしょ? だから駄目なの。私は不幸にするの。……今後は、一切関わらないから。棚加さんとだけじゃなく、学校の誰とも。迷惑掛けて、御免なさい……」
菜津音の腕を掴む茅世の握力は疾うに形骸化しており、軽く振り払うだけで菜津音はあっさりと自由の身に為れた。其れがほんの少し、寂しくもあったのだが。
「……じゃあね」
菜津音は踵を返して、靴を諦観しつつ歩き出した。
「あたしはね……」
菜津音が4、5歩離れた所で、茅世が不意に呟いた。
「……え?」
菜津音は嫌な予感を覚え、歩みを止め、振り返った。論理的な説明など出来ない、云わば直感が働いたのだ。
「歌が歌えないの。……ううん、歌が下手なの。音痴なんだ」
「……え?」
菜津音は当初、茅世の台詞を、其の意図を理解出来ず、呆気に取られた。
「けどね……あたし、ピアノは弾けるから、伴奏者だから、って済し崩し的に歌唱の指導役にされちゃってね。本当は、そんな事出来ないのに……。皆の方が、あたしよりずっとずっと、歌えてるのに……」
菜津音は、本能的に思った。茅世を、此の儘喋らせてはいけない。自ら離れていった数歩分の距離を詰めていく。
「言えないんだ……。皆に、自分は音痴なんだ、って。指導する時に説得力が無くなっちゃうし、馬鹿にされるのも嫌だし」
「棚加さん、もう良いよ……」
「でも、あたし下手なんだよ? 本当に音痴なんだよ? 皆の方が歌えるんだよ?!」
「棚加さん!」
「本当は全部ぶっちゃけたいの!! あたしはおんぷっ?!」
菜津音は黙って茅世の唇を親指と人差し指で撮んで強制閉鎖した。茅世は予想だにしなかった菜津音の蛮行に眼を白黒させ、閉じられた口腔内でもがもがとくぐもった声を上げた。菜津音は黙って茅世の唇を物理的に封じ続けている。但し其の眼に、悪戯っぽさは微塵も無い。茅世は半ば諦め、涙に濡れた目許で「どうして?」と訴える。菜津音は茅世の唇から指を離さず、顔を茅世の頬と触れそうな程に近付け、
「棚加さん、私なんかと共倒れしちゃ駄目だよ。他人に言えない事は簡単に公言しない。分かった?」
と諭した。取り敢えず、口を解放して欲しい茅世は、こくこくと頷き、指を離すよう訴えた。意を汲んだ菜津音は、顔を接近させ、眼を合わせた儘、唇を撮んでいた指を離した。
「……止めて呉れて有り難う」
「うん。でも、どうして私に言っちゃったの?」
菜津音の問いに対する茅世の回答は、余りに幼稚で、余りに不器用なものだった。
「辛いのは、木乃さんだけじゃないよ、って。あたしの辛い思いを聞いて貰えれば、少しでも共有出来れば、って思ったから……」
言い終えて茅世は自分の発言の不備に気付く。
「あっ、あたしの悩みを押し付けたい訳じゃないんだよ? あたしも辛いんだって喧伝したい訳でも無いし。唯、何て云えば良いんだろう……」
「自分から告白すれば私が暴露し易くなる……って事?」
「いやっ、うーん……。んん……。そう云う、事、なのかな? 何かそう言われると我乍ら凄く狡賢な人間みたい……」
茅世ががっくり肩を落とす向かい側で、菜津音は今日初めて微笑んだ。
「棚加さんってさ、本当、不器用だよね」
台詞だけ追うと誹謗的だが、処置無しと云った風情で微笑む菜津音に、茅世は攻撃の意を受けなかった。
「……また笑った」
「……御免ね」
茅世も負けじと笑顔を返した。菜津音は其の顔を見て、表情を改めた。
「私こそ……酷い事言った。何回も。……許して呉れる?」
おずおずと訊く菜津音を見て、茅世は不思議と温かい気持ちに為った。
「もちろん!」
満面の笑みで答える。然し、未だ菜津音の表情は晴れない。
「其れでも未だ……私と友達に為りたい……?」
「……もちろん!!」
普段、素顔が険しい茅世が見せると一層映える、曇り一つ無い、無邪気な笑顔。菜津音は今迄の人生の中で、此れ程迄に澄みきった笑顔を、見た事が無かった。
……信じても、良いかも知れない。否、心の中ではもう既に信じている。
菜津音は溢れる涙を堪え乍ら言った。
「……本当に、馬鹿なんだから……」
十字路に差し掛かった。車道側を歩く菜津音は右を、路肩を歩く茅世は左を見て走行車両が無い事を確認し、次に菜津音は左、茅世は右を確認しようと首を向けた。自然と顔を見合わせる形と為り、二人はどちらとも無く笑い合った。
涙に塗れた口論の末、心が通い合ったのは僅か数分前だ。なのに、ごく自然な友人の様に他愛無い事で笑い合える。何故かは知らない。分からない。けれど、互いに一緒に居て心地良い、此の感情だけは、確かなものだ。再び左右を確認し、並んで横断歩道を渡る。
「あ、そうだ」
不意に茅世は呟いた。桃芽が、2人の共通項として音楽の話題を出してみては、と提案して呉れたのを思い出したのだ。
「木乃さんは、歌、好きなの? あれだけ歌が巧いし……」
「えぇ……?!」
菜津音は急速に顔を紅くして、不自然に視線を前方に固定して、手をブンブンと横に振った。茅世はそんな菜津音を可愛らしく思った。
「う……巧くないよ!! 全然褒められた事も無いし……。でも、音楽は好きだよ。何でも聴くし」
「へぇ……意外! あんなに巧いし、全然臆せずに歌ってたから……」
「いやいや……。声大きいだけで……」
「ううん。凄かった。ずば抜けてる。凄い才能だと思うよ」
菜津音は真っ赤に為って俯いてしまった。少々煽て過ぎたか。茅世としては、率直な感想を述べた迄なのだが。
「所で、音楽はどんなの聴くの? 何でも聴くって云っても、好きなジャンルとか無い? あたしも色々聞く方だけどさ」
菜津音は赤面した顔を徐々に元に戻しつつ、答えた。
「うーん……拘って聴かないからなぁ……。洋楽も聴くし、J‐POPも割と好きだし……。ロックは好き、かな」
「そうなんだ! あたしもロック好きだよ! じゃあ、洋楽だと誰良く聴くの?」
「えっと……多分解らないと思うんだけど、ティアーズ・フォー・フィアーズとか」
「ティアーズ・フォー・フィアーズ?! 知ってるよ! てか、めっちゃ好きだよ!! 『シーズ・オブ・ラヴ』とか!!」
TFFは、80年代に世界的なヒットを記録した、イギリスのロック及びポップジャンルの二人組だ。
「私も『シーズ・オブ・ラヴ』大好き!! 凄い、棚加さんがTFF知ってるなんて! でも、全然世代じゃないでしょ? 私もだけど。どうして知ってるの?」
「いやぁ、昔三菱自動車工業のCMで『レイラ』が掛かってて、其れが気に為ってさ。CD屋さんに行ったら、そう云う車のCMで使われた曲を集めたコンピアルバムが出ててね。其れを買って貰ったの。そしたら、其れに『シーズ・オブ・ラヴ』が入ってて。其処から知ったんだ」
菜津音は歩みを止め、呆然とした表情で茅世の顔を見詰めている。
「ど……どうしたの?」
思わず茅世は尋ねた。菜津音は譫言の様に、
「『ドライヴィン』……」
と呟いた。
今度は、茅世が驚く番だった。
「え? ……ま、まさか……」
『ドライヴィン』は、大手レコード会社のユニバーサルが2003年5月に発売した、自動車のTVCMに起用された洋楽曲を収録したコンピレーションアルバムだ。発売当時は多数のコンピレーションアルバムが企画され、飲料のCM曲や特定企業のCMソングを蒐集したCDが世に出始めた時期である。そんな中、『ドライヴィン』は其の後数年間流行る「ドライブのお供」的洋楽コンピレーションアルバムの先駆で、本作の好調な売れ行きに因り競合他社が追随した、と云う、其のジャンルでは有名なCDである。然し斯う云ったCDは、大概が収録曲を懐かしんで購入する年齢層に向けて企画されており、茅世も其れを重々承知で、自分と同様に斯う云ったコンピレーションを音楽世界への入り口とした同年代など、まず居ないと思っていたのだ。
ところが眼の前の菜津音は、剰え『ドライヴィン』と口にした。
「木乃さんも、『ドライヴィン』持ってるの?!」
「うん、まぁ……私が洋楽聴きだした切っ掛け……」
「嘘でしょ?! 『ドライヴィン』知ってて聴いた事有る同世代の女の子が居るなんて!!」
「うん、私も信じられない。況してやそんな娘に出会えて、今目の前に居るなんて……!」
其れは、矢張り運命的なものを感じざるを得ない、限りなく奇跡に近似した邂逅であった。
興奮の儘に、手近だった茅世の家に行く事に為った。音楽を媒介して親交を深める、と云う桃芽の狙いは実に的確で、ものの見事に奏効した。音楽を好きに為る糸口が全く同一である、と云う事は矢張り相応の仲間意識を呼び起こし、況してや其れが世間一般に有名ではない企画もののCDであるならば、其の仲間意識は少数派特有の強固なものと為り、菜津音と茅世は、数分前迄傍から見れば口論を繰り広げている様に見えた2人と同一人物とは微塵も思えない程、親しく喋る様に為っていた。
「ただいまー」
「お邪魔します……」
返事は無い。一戸建ての前の駐車場には、家族共用の銀色のセルボモードが中央に寂しく置かれているだけだ。
「あぁ、誰も居ないから気ぃ遣わなくて良いよ。父さんも母さんも仕事してんだ、ウチ」
「へぇ、そうなんだ……」
「そう。父さんは運送会社でトラックの運転手してて、昔は20tとかの大型を日本全国転がしてたらしいんだ。で、母さんは子供の頃から何故かタクシーの運ちゃんに憧れてたみたいで、高校卒業して直ぐタクシー会社に就職して、二種免許取れる様に為ったら運転手として再入社したらしいよ。木乃さん家は? 共働きとか……」
言い終わって茅世は、菜津音の表情が険しく為っている事を察した。
「あ……ゴメン! つまんなかったかな? ウチの家庭事情なんか語られてもね……」
「いや、違うの!」
菜津音は茅世に気を遣わせてしまった、と後悔しつつ、釈明した。
「その……私が話したくない、辛い過去って云うのが……両親とか、家族に関する事だから……。気難しい顔しちゃってたかもだけど……。こっちこそ、御免ね?」
「そう、なんだ……」
茅世は正直に言って、訊きたかった。其の過去が、一体どれ程辛いものだったのか、尋ねたかった。純粋に、其の痛みを共有したかった。然し、其れを口に出すのは身勝手だ。独り善がりだ。そう思ったから、口を噤んだ。そして、自分達が三和土を上がった先の廊下で立ち話をしている事に思い至り、
「あ……、ゴメン、階段上がって折り返して奥の部屋があたしのだから。何か飲み物でも持ってくね」
と言って奥の台所へと歩き出した。
「あ、いや、お気遣いなく……」
「家に友達が来てそんな事言われたの初めてだよ。木乃さん、育ち良いね」
思わず立ち止まって振り返り、微笑んだ。と同時に「育ちが良い」と云う言葉が彼女の家庭事情の禁断領域に触れる可能性が有る、との考えが後れ馳せ乍ら脳裏を過ぎったが、
「え、いや……そんな事無いよ……」
と僅かに照れた素振りを見せる菜津音を見て、杞憂に終わった思考を安堵と共に捨て去った。
「んじゃ、悪いけど先に上がってて?」
菜津音を促すと、茅世は台所へと向かい乍ら、目ぼしい飲料は無いか、と脳内で冷蔵庫の中を物色し始めた。
取り敢えず、2LのPETボトルに充填された茶飲料があったので、手近な硝子製のグラスに注いで持っていった。
「いやぁ、ゴメンね。若々しい飲み物が無くって……」
茅世が自室に入ると、菜津音が立ち尽くしていた。視線の先は、茅世が特に気に入っているCDを収納している棚だ。茅世の声に気付き、振り返ると、菜津音はこそばゆい様な表情で突っ込みを入れた。
「『若々しい』って……。お茶なんて若者でも飲むでしょ」
「いやぁ、何かジュースとか、炭酸とかさ。若人が好き好んで飲みそうな物が悉く無くてね」
「別に何だって構わないよ。寧ろ私、お茶とかの方が好きだし。お祖母ちゃんっ子……って云うか、今お祖母ちゃんの家に住んでるし」
「あ、そうなんだ! じゃあ、最近お祖母さんの家に越して来たんだね?」
「うん、まぁ……」
菜津音がそう言う時の表情を見て、茅世は内心後悔した。また、見ている此方の胸が引き攣れそうに為る程の切なげな顔をしている。恐らくは、祖母の家に越してきた事が、菜津音の過去の痛みに繋がっているのだろう。茅世は邪推だ、と自覚しつつも、脳内で展開する推理を止める事が出来なかった。
「あの……ゴメン」
「え?」
「いや、お祖母さんの家に引っ越したのって、木乃さんが傷付いた出来事と関係あるんだろうな、って。少なくとも今は、木乃さんを悲しませたくはないから。もし話して呉れるとしたら、其れに相応しい時がきっと来ると思うし」
「あ……私、顔に出てた?」
「う……ん、まぁ……」
「御免ね、また気を遣わせちゃって……。でも、大丈夫だから。平気平気!」
そう言って笑う菜津音の笑顔には、先程以上の哀切が混淆していて、茅世の方が泣きそうになってしまう程だ。そんな茅世の心情を察したのか、菜津音は其の笑顔から切なさを廃し、今迄眼にしていた棚の陣容に関する話題に移行した。
「あ、そう云えば、棚加さんもUVERworld好きなの?」
「あ、うん、まぁ。邦楽の中では一番気に入ってるかも。木乃さん、UVER知ってるの?」
「うん。私も結構好き。本格的に聴き出したのはAwakEVEからだけど」
UVERworldは、2005年にメジャーデビューしたロックバンドであり、AwakEVEは2009年に発表された4枚目のアルバムである。
「そうなんだ! あたし来週出る『哀しみはきっと』も楽っしみで楽しみで!」
「うんうん!」
菜津音は其処で部屋を見渡し、壁際に安置してある電子ピアノに眼を付けた。
「あぁ、やっぱり在るんだね、ピアノ」
「あ、うん、まぁね。昔、親に買って貰ったんだけどね」
「へぇ~」
菜津音はピアノに近付き、しげしげと眺め始めた。
「弾いてみる?」
茅世が問うと、菜津音は首を横に振った。
「うぅん。私は弾けないから。ド素人が触って故障させちゃっても嫌だし」
「そう簡単には壊れないよ。……じゃあ、あたし弾いてみようか?」
「えっ、弾いて呉れるの?」
「うん、別に家では大体毎日弾いてるし」
「凄いね! 流石! どんなのが弾けるの?」
「う~ん……どんなのでも。あたし、アレンジするのが好きで、色んな歌を聴いては自分で弾けないかな、ってアレンジするのが楽しいんだよね」
「へぇ、凄いね! じゃあ、折角話題に出たから、UVERの曲で!」
「分かった! どれにしようかな……」
暫し思案したのち、茅世は其の曲の冒頭で流れる特徴的な5音を鍵盤で奏でた。菜津音も直ぐに理解して、
「『GO‐ON』!!」
と曲名を答えた。茅世はその正答を聞いてニコリとし、続きを弾き始めた。
原曲に忠実な、それでいて「其処を表現するか」と唸る原曲の音を拾ったり、或いは諄くならない程度にメロディを改定してみたりと、茅世の奏でる曲は、独自性と再現性が絶妙な按配で表現された、其の感性が冴え渡ったものだった。
何時の間にか、極自然に、菜津音は歌詞を口遊み始めた。透き通った、澄み渡る様な声が、出色の才能を伴った演奏に乗り、何処迄も世界が拡がっていく――。そんな気さえ、した。最後のギターリフ部分を弾き終え、曲が終了すると、2人の間に気恥ずかしく、其れでいて名残惜しい様な、こそばゆい雰囲気が、確かに流れた。
此の瞬間、ヴォーカルと鍵盤楽器から成る一組の女子デュオが、誕生した――。
「――ね、もっと、弾いても良い?」
「うん! 私も、歌ってみたい」
2人は眼を合わせ、ニコリと笑い合った。こっ恥ずかしさよりも、もっと2人で此の楽しさを味わいたい、そんな貪欲で自然な衝動が上回ったのだ。
「じゃあ、何にする?」
「何でも! UVER以外でも、最近のとか、有名どころの曲だったら大抵歌えるし!」
「其れ、凄いね! うーんと……『ステレオポニー』って知ってる?」
「うん、分かるよ! 『泪のムコウ』とか」
「じゃあ其れで! いくよ? 1、2、3……」
ステレオポニーは2008年にメジャーデビューしたガールズバンドで、「泪のムコウ」は2枚目のシングルだ。此の曲はヴォーカルから始まるので、茅世がカウントを取って演奏を始めた。
心地良い。何処迄も抜けていく様な、軽やかな解放感が、其処には在った。何だろう、此の感覚は――。茅世は電子ピアノを弾き乍ら、思案を巡らせた。思案を巡らせ乍ら、ふと菜津音の歌に、声に聴き惚れている自分に気付いた。途端に、疑問は解決した。
菜津音の歌と、茅世の演奏が絶妙な均衡で合わさっているのだ。此の均衡が、果てしないと思える程の軽やかさと拡がり――自由な感覚を与えているのだ。
何処迄も、行ける――。少々臭い事は自覚の上だが、茅世は漠然とそう思った。
演奏が終わり、茅世と菜津音は自然に顔を合わせる。互いに、亢進する心拍数に呼応する様に頬が紅潮している。
楽しい。純粋に楽しい。
2009年10月23日、金曜日の茅世の部屋。其処には昂揚と愉悦しか無かった。
翌日は土曜日で、学校は休み。茅世は改めてゆとり教育に感謝しつつ、濃紺に染められた骨組を持つ自転車を漕いでいた。午前9時を回ったばかりの町は人影も疎らだ。空気は澄んでいて、気温は少々肌寒い位だが、雲量0の晴れ渡る青空と相俟って、寧ろ清々しい。地毛で濃い茶色のボブヘアが風に乱れるのも気にせず、茅世は何とも言えない心地良さを感じつつ大気を切り裂いていった。向かう先は、菜津音の家だ。昨日、陽が暮れて菜津音が帰宅する事に為った際、大まかな場所は聞いていた。
こんなにも気持ちが良いのは、気候の所為だけではない。茅世の気分的なものが最も作用している。
昨日、以前から仲良く為りたいと思っていた級友と、友達に為れた。然も、唯一無二とも思える共通項も発見した。そして何より、2人でセッションすると、最強に楽しいと云う事を発見した。
未来がどんなものに為るのか、此の時の茅世には見当すら付かなかった。
唯、得も言われぬ期待感だけが溢れていた。
黄色い自動販売機の前で、茅世は自転車を停めた。
「此処等辺だよね……」
菜津音は昨日、待ち合わせの場所を黄色い自販機の前に設定した。此の自販機は、飲料メーカー専用の物では無く、複数社の飲料を扱う補充業者独自の自販機で、小さなスナック菓子も併売している、特殊な種類だ。此の学区には、同社の黄色の塗装の自販機は此れしか無い。
「……へぇ~」
通学行程からは若干離れているので、茅世は此の自販機をまじまじと見た事は無かった。小分けのグミのパックが2袋セットで100円だったり、500ml缶に充填されたメロンクリームソーダも100円で売られていたりして、経済状況に明確な復調の兆しが見えない情勢の中、斯う云った廉価販売の需要は衰えないんだろうな、とか、菓子を併売する、と云うのは販売戦略的に秀逸だな、とか、大きなお世話と言われそうな事を考えていたら、背後から突如、首根っこを掴まれた。
「はわ!!?」
思わず滑稽な声を上げてしまった茅世であったが、振り向いて安心した。
「き……木乃さん……。吃驚させないでよー」
其処には、満面の笑みの菜津音が立っていた。
「棚加さん、可愛い声だね?」
「や、止めてよ、もう! 茶化さないで!」
赤面する茅世を見て、菜津音は更に意地悪を言う。
「何て言った? 今、『はわ!!』って言った?」
「はわ」の部分を強調して茶化す菜津音に、茅世は冗談で鋭い眼光を呉れた。
「あ……ゴメン、言い過ぎた……」
途端にしおらしくなる菜津音を、茅世は可愛らしく思った。そして、自分を茶化す発言をしてくる程に、菜津音が心を許して呉れている事が嬉しかった。
「……冗談だよ。遣られっ放しは性に合わないからね」
眼差しを緩めて微笑む茅世に、菜津音も安堵の笑顔を見せる。
どちらとも無く、菜津音の家に向かい出した。菜津音は徒歩で来た様で、茅世も自転車を押して隣を歩いた。
1分も歩かない内に、菜津音は足を止めた。
「此処だよ。今は此処に住んでるの」
茅世は菜津音の言い回しに違和感を覚えつつ、眼の前の生け垣に囲まれた日本家屋を眺めた。
「へぇ……此処なんだ」
「うん。想像と違った?」
「いや、まぁ……。越して来たんなら、一般的には新築の一戸建てとか、マンションとかかな、って勝手に思ってただけ。ほら、此のお家、昔から在ったし」
他人の民家など、同じ学区内に在っても特には意識しないだろう。茅世もそうだ。だが、此の家は比較的立派な生け垣と趣のある和風の見た目から、何と無く見覚えがあった。他の有象無象の一軒家に比べると、茅世の脳内に存在感を植え付けていたのだ。
「お邪魔します……」
10歩程歩いた先に、重厚な木製の年季が入った引き戸が現れ、菜津音の後に続いて敷居を跨いだ茅世は鋭い目付きにそぐわない、おどおどした素振りで辞儀をした。
「おや、いらっしゃい。菜津音、お友達かね?」
一足先に靴を脱ぎ、板張りの廊下に立っていた菜津音の背後から、優しげな老婆が現れた。
「……ん」
祖母と思われる老婆に問われた菜津音は、ぎこちなく頷き、ごく小さな声で答えた。茅世は其の反応に酷く違和感を覚えた。自分が菜津音に友人だと思われていないのではないか、と云う点ではない。菜津音が「友達」と云う単語に過剰反応している様に感じられてならなかった。
「あの方、お祖母さん?」
茅世は菜津音の後に付き従い、廊下を歩み進めつつ訊いた。
「うん。父方の、ね」
「そうなんだ……」
何処と無く、菜津音の声が硬い。後ろ姿しか見えないので表情は窺えないが、恐らく頬が強張っているのだろう。そう推測出来る声色だった。
暫く廊下を歩いた。相当大きな家だ。市道に沿った間口は広いと思っていたが、奥行きも可成りの物である。茅世は感心しつつ、菜津音の祖母は此の辺りの地主なのか、と下世話な事を考えていた。すると、先導する菜津音が障子張りの襖に手を掛けた。
「此処、私の部屋」
菜津音はそう案内しつつ、室内を露わにした。
「……凄い」
先ず眼を惹くのは、室内向かって左側に設置されている、キラキラしたパール塗装が施された青色のドラムセットだ。
「木乃さん、ドラム持ってるんだ!?」
「うん、まぁ……タキさんの弟さんの息子さんの物みたい……。私からしたら叔父さんに当たるのかな? 違うか」
菜津音が戸惑う中、茅世は前段階でこんがらがっていた。
「あ……あの、タキさんって云うのは……?」
「あ……ほらあの、さっきの。私の父方の祖母に当たる人」
「あぁ……」
茅世は先程の老婆の顔を思い出す。然し……。
「普通、お祖母ちゃんって言わない? タキさんって、何か他人行儀な気が……」
「あ、分かった。はとこの親、だね。特に呼び名は無い、筈」
菜津音は敢えて茅世に構わず脳内に家系図を完成させ、疑問の解答を得た事に満足した様にニコッと笑って言った。
「あ……ゴメン、お節介だよね。家族関係に言及するなんて……」
茅世は眉尻を下げて申し訳無さそうに言った。すると、其れ迄笑顔だった菜津音は急に顔を曇らせ、一言呟いた。
「お節介……して呉れないの?」
「えっ?」
思わず茅世は聞き返した。
「私、今迄……お節介、って云うか、こんなに干渉して呉れる人って、1人位しか居なくて……。拒んでた……否、拒まなきゃ、って自分に信じ込ませてた。でも……」
菜津音は茅世を見た。直視した。茅世は視線を逸らしかけた。其の眼に籠もる余りの切実さに、怖じ気付いた。だが、それでも菜津音と仲良く為りたい。辛い過去を背負うであろう菜津音を支えてあげられるのは自分だけだ……と云う、一種思い込みの様な使命感に後押しされ、直截な菜津音の視線に真っ向から対峙した。
「嬉しかったの……。私に関わろうとして呉れる事が……。私を、知ろうとして呉れる事が……。だから……お願い。もっと、お節介して? もっと、私と居て? もっと……仲良く、して……」
菜津音は涙を流していた。其の雫の一滴一滴が、菜津音の抱える壮絶な痛みを表している様に、茅世は思えた。
もう、尻込みはしない。する必要も無い。今と為っては最早、する気は毛頭無い。
「うん、傍に居る。あたしも、もっと木乃さんの事、解りたい。ずっと思ってた。木乃さんの事、知りたいな、仲良く為りたいな、って」
茅世は菜津音の眼を見返して、言った。其れは、最早宣言に近似したものだった。
「……本当に?」
菜津音は自ら願望を口にしたにも拘らず、茅世に確認を求めて来た。其れは大した意味を持たない、単なる相槌の様なものなのだろう、とは茅世も理解していたが、敢えて
「木乃さんが言ったんでしょ? あたし、木乃さんと友達に為りたいの。あたしの意志だから。大丈夫、一番仲良しに為ってみせるんだから」
茅世は吊り上がった眉尻を下方に緩め、最大級優しく微笑んだ。「意思」よりも強い「意志」と云う単語に乗せた想いが届く様に、願いを込めて。
次の瞬間、菜津音の流す涙の色が変わった様に、茅世には見えた。哀しみから、嬉しさへと、色相と温度が変化した、そう茅世には思えたのだ。果たして菜津音も、
「有り難う……ありがとね…………」
と、歓喜と感謝に満ち溢れた声を発した。茅世はごく自然に、
「おいで?」
と両腕を広げ、菜津音を呼び寄せた。
「ふぅ……っ」
菜津音は素直に茅世の胸に収まり、只管、ただひたすら、温かな涙を流し続けた。
「人間って、多分独りじゃ生きれない様に出来てるんだろうね」
菜津音は茅世の胸の中に収まり乍ら、ふと呟いた。
「んー……そうかもね。あんまり詳しく考えた事無いけど」
茅世は菜津音の背を軽く撫でつつ、穏やかに答えた。
「私は、必死で『独りで生きなきゃ』って云い聞かせてたから」
「そっか……」
どうして、と単刀直入には訊けなかった。憚られた。迂回路を探す様に、茅世は他の質問を向ける。
「……所で木乃さん、お祖母さんの家に暮らしてる訳だけど、他のご家族はどうしてるの?」
瞬間、茅世の腕の中の菜津音の背中がビクッと跳ねた。茅世が知る由は無いが、其れこそが菜津音に取って最大の不可侵領域なのだ。菜津音はゆっくりと、名残惜しそうに茅世の身体から身を離すと、
「其れを知ると、貴女はもう二度と、安穏とした暮らしは送れなくなるかも知れない。私は、貴女の平和な生活をぶち壊してしまうかも知れない……」
茅世の眼を見て話した後、哀しそうに視線を伏せる。そんな菜津音に茅世は言った。
「自分の事、知って欲しいんでしょ? 誰かに、打ち明けたいんじゃないの? 大丈夫、あたし、案外頑丈だから。それに……」
茅世は菜津音を見据えた儘、優しい表情で言葉を紡ぐ。
「何があろうと、あたしは木乃さんと仲良く為りたいし、木乃さんの話を聞きたいから。覚悟は出来てるよ。だから、話して? 知りたいよ、木乃さんの全てを」
優しく、穏やかな茅世の表情の中でも、其の眼は強さを感じさせた。菜津音は呼吸を一瞬止め、意を決した。茅世に、全てを話そう。そう決めた事で、菜津音は停滞した過去からの脱却を明確に意図したのだった。
「暫く、私話しっ放しになると思うけど、聞いてて?
先ず、私が此処に居る理由、親元を離れた理由なんだけど。あの……私の家族って、その…………宗教、遣ってるんだ……。ヒかないでね……。まぁ、所謂『新宗教』って奴で、戦後に開祖したんだけどさ……。否、全然立派なモンじゃなくて。ぶっちゃけた話、営利集団な訳。もうね、糞が付く程腹立たしい奴等でさ。もう……自分の肉親である事を信じたくない位。…………あ、ゴメン、行き成り重過ぎたかな? 大丈夫? そう……。
で、私はもう……小学校に入る前から見切ってて。何て云うか……人を盲目に騙くらかして、信じ込ませて付け込んで……そう遣って私の家族は商売をしてる、飯を喰ってるんだ、って。だってさ、未だ物心付かない頃から矢鱈スタジオとかで写真撮られたりしてさ。まぁ……要は、私は家族である以上、其の宗教の物語に組み込まれる運命なんだよね。宗教って……物語性を演出してナンボの世界だから。如何に奥深く、如何に真実味を持たせて物語を構築させられるか……。そう云うものだから。最も効果的、且つ安易にそう云う演出を活かせる『家族』と云う要素を使わない手は無い。それで、兎に角、私は餓鬼の頃から嫌で厭で、嫌いでしょうがなかった。自分が信者のお布施とか、関連商品とかの売り上げでご飯を食べてる事自体が我慢出来なかった。でも……諦めてたの。家を飛び出してみた所で、自分独りで暮らしていける年齢でもないし、って。今思えば、そう云う甘えが、ああ云う事態を引き起こしたのかも知れないけどね……。うん……やっぱり私が全部悪いんだよ。環境の所為にして漫然と過ごしてた、あの頃の私が……。……否、大丈夫だよ。御免ね。私、初めて他人に話すから、今一つ整理しきれてなくて……。
それでね、去年からだったかな……。新規の入信者数が減少傾向にある、って事で、今迄私の以前住んでた本拠地には敢えてそんなに布教して来なかったんだけど、地盤を固める、って事で積極的に布教しよう、って為ったんだ。多分……誰にも分からないと思う。級友や教師陣が、だんだん自分の家の宗教に染まっていく、あの言い知れない気味悪さは……。何か、分かっちゃうんだよね。誰がウチの宗教を信仰してるかって――眼付きとか、雰囲気とか。眼の色が変わってく、って云うのは大袈裟かも知れないけど……。で、私はずっと、背いてたから。家の方針、と云うか、家業に対して。だから、どんどん外堀が埋められていく感じ、って云うか、逃げ場が無くなっていって追い詰められていく様な……。真綿で首絞められてるみたいな、四面楚歌な感覚が……背筋が凍る程に気持ち悪かった。
そんな中でもね、1人だけ、私に臆する事無く普通に接して呉れる娘が居てね。私、人懐っこい感じじゃないし、況してや地元じゃ『そこそこ大きい新興宗教の一人娘』って云う途方も無い色眼鏡が付くでしょ? だから話す子なんて数人だし、仲良いって言える子なんて其の娘位しか居なくて。其の娘もウチの宗教の在り方、って云うか、遣り方には懐疑的だったのね。そう云う所も私と凄く合ってたんだけど。
でね、誰がそんな指示をしたか、って云うのは未だに……分っかんないんだけど……。まぁ、親族から見たら、私は後継者な訳じゃん? だから四の五の言ってないで、とっとと運営側へ来なさい、と。でも、そんな事言っても私が素直に聞いて従う訳も無い。だから、強硬手段に出たの。其の娘――顕木麻帆って云うんだけど、麻帆を取り込もう、って本人や家族に集中砲火を掛けたらしくて。……でも、麻帆もご家族の方も新興宗教に入る気なんか無い、って云う意思の硬い人達だったの。それに……麻帆はそんな状況下でも……私に、変わらず、接……して、呉れ……て…………。ごめ……ちょ、と…………う、ふぅう……っ……。
……ごめん。それでね、取り込めないのなら引き離そう、って考えたのかな……? もう、其の発想が良く分かんないし、考えたくも無いんだけど。麻帆にね、途轍もない打撃を与えてしまおう、と。ウチの宗教さ、青年部って云うグループが在るんだけど、其処の若い衆が、麻帆を…………。皆迄言わないけど、結果麻帆は入院する羽目に為って。で、怪我自体は軽傷だったんだけど、その…………女性として最悪の事態に為ってしまって……。其の儘にする訳にもいかなくて……手術する事に為って……。私はお見舞いに行きたかったんだけど……当たり前だけどさ、麻帆の親御さんから…………っうえぇ……。……うん、そう…………『お前の所為で』みたいな事をね、言われて……。そりゃそうだよ。私が居なければ……麻帆と話してさえいなければ、ああ云う惨い事態に為る事も無かったんだもん。私が……っ、麻帆を……、……っくう、うぅ……。
でも……麻帆は私を赦して呉れた。否……赦す、って云うのは一寸違うけど……麻帆だって少なからず私に対する憎しみみたいなものは、ね…………有った、筈……だから……。
結局、麻帆は退院後に家族と一緒に引っ越しちゃうんだけど……、最後の日、麻帆が学校に置いてあった荷物を纏めに来るんだけど……其の時、私はどうしても、謝りたくて、居残ってたの。夕暮れの教室にね、独りで居て。もう直ぐ下校時刻って時に、教室の引き戸が開いて。
麻帆はね。怪我は治ってたから、包帯とかそんなんは無かったんだけど……、やつれてて、眼の下に隈が出来てて……。髪も長かったのを男の子みたいに短く切ってて……。麻帆、拘って髪伸ばしてたの、私以前に聞いてたから……。其れに何より、眼に光が無いんだ……。精気が無いって云うか……。あぁ……私は、此の娘にとんでもない事をしてしまったんだ……って、改めて実感したの。そしたら……、声、出なくなっちゃって…………謝りたいのに……。詫びなきゃ……いけない、のに……。うぅぅ……っ。
わ……たしっ、話せなく、なって……、麻帆の顔っ……見て直ぐ、眼……逸らしちゃって……。そしたら、麻帆は……っ、斯う……言って呉れたの…………。
『わたし、後悔してないよ』って……。『菜津音と仲良く為れて、今でも良かったと思ってるよ』って……。うえぇぇ…………。っく、すん……。『だから、責めないで。自分を、責めないで』ってぇぇ…………。ふううぅぅん……。んくぅぅ…………。『今お別れすれば、わたしは菜津音を、ずっと、好きでいられるから』…………。だ……『だから、お別れしよう?』ってぇ…………。わだしっ、頷く事、しかっ……出来なぐて……っ。椅子に座っだまま……っ、頭下げだの……っ。だっで、其れしかっ……出来ながったん、だもん……っ。んうぅぅ…………。
そしたら、麻帆はね……、『今迄、有り難う。御免ね』って、言ったの……。其れってさ……私の方の、台詞、じゃ……ない? 麻帆は、教室を出てって……それっきり……。
…………きっと……麻帆も、内心では『菜津音と出会った所為で』って……。多少は、そりゃあ……思ってたと思うんだ……。でもさ……汚くて、穢らわしくて反吐が出るけど……それで私は……少なからず、救われたんだ…………。罪の意識が……多少は……薄らいだんだ。麻帆は…………私が楽になる、為なら……そうやって……自分を、曲げる様な……そんな…………優しい、娘だがらっ…………。
だから、ね……私が関わった人は不幸に為るの。仲良くすると、駄目なんだよ……。
みんな……居なくなっちゃうんだよ…………」
「あたしは、居なくならないからね」
菜津音を胸に包み込み、嗚咽する其の背中を擦り乍ら、茅世は自分でも驚く程の優しい声音で言った。
「……ふぇ?」
「あたしは、居なくならないから。ずっとずっと、木乃さん……否、菜津音が嫌がっても、ずっと傍に居るから。約束する」
「やく……そく……?」
「うん! あたし自身『約束』って言葉は大っ嫌いだからさ。守れない約束はしないし、不確かな事は『約束』って呼びたくない。だから、敢えて此れは『約束』する。あたしは、菜津音とずっと一緒に居て、其の間は不幸にも為らない、ってね!」
茅世は左腕を菜津音の背に回しつつ、右手の小指を胸の中の菜津音の眼前に差し出した。菜津音は左方向に身を捩り乍ら、赤く潤んだ瞳で其の指を見詰めた後、上目遣いに茅世の顔を覗き込みつつ、おずおずと左手を伸ばし、茅世の小指と自らの小指を結んだ。
「……御免ね、有り難う……」
暫く茅世の胸の中ですすり泣いていた菜津音は、名残惜しそうに身体を離し、立ち上がった。
「……そう云えば、飲み物も出してなかったね。気が利かなくてゴメン。今、持って来るから!」
菜津音はそう言って部屋から飛び出して行こうとした。茅世は咄嗟に、
「あ、いや、お気遣いなく!」
と、昨日菜津音が言った台詞を返して遣った。菜津音は其れに気付き、未だ泣いた痕跡の色濃い眼を緩ませて、部屋を出て行った。
襖が閉まった途端に溢れ出した涙を、茅世は止められなかった。声も上げず、涙を拭う事もせず、唯々泣いた。
菜津音の背負う、余りにも強烈で重い、過去。然も其れは、未だ風化し始めてもいない、ごく最近の出来事だ。――彼女は、途轍もなく辛い思いをしている。そして、其の最大の要因は、自らの生まれた血筋に起因するのだから、彼女の艱難は測り知れない。
茅世は、泣いていた。然し、其の涙は、同情でも憐みでもなく、況してや後悔でもなく、此れからを共に歩む事を覚悟した者としての、共有した痛みに因るものだった。
鶯張りの如く、近付いてくる床の軋みに、茅世は急いで服の袖で眼を拭い、涙を消し去った。菜津音に、此の涙を悟られない様にしなければ、と反射的に感じたからだ。
「いやぁ、ウチも若々しい飲み物は無かったよ」
苦笑しつつ襖を開けた菜津音が手に持つ盆には、2つのグラスに注がれた水出し緑茶が在った。
「やっぱそんなモンなんだね」
一礼してグラスを受け取った茅世は早速口を付け、喉を潤した。ふと菜津音を見ると、先程迄たっぷりと泣き明かした所為か、ごくごくと喉を鳴らして緑茶を飲み干していた。
「一口飲もうと思っただけだったんだけど、止まらなくて……」
苦笑いで釈明する菜津音に、茅世はそりゃそうだ、と内心突っ込みを入れた。茅世が着ているセーターの胸の部分は菜津音の涙で濡れそぼっている。其れが不快な訳では決して無いし、諫める心算も毛頭無い。其れだけ菜津音が涙を流した証である。彼女の身体が水分を求めたのも当然、と考えていると、菜津音がグラスを握り締め、口を開いた。
「あ、ねぇ……私の事、知って呉れたからさ、今度は棚加さん……じゃないや、茅世……の事、訊きたいんだけど……良い?」
菜津音は茅世を呼び捨てにする事を一瞬躊躇い、茅世を上目遣いに窺ってきたので、茅世は頷いて、菜津音の背中を押した。と同時に、互いに名前を呼び捨てに出来る関係性を築けた事が嬉しくて、つい頬が緩んだ。
「もちろん!!」
「へぇ、じゃあ今もその、玩具売り場で演奏してるんだ?!」
「うん、まぁね……」
とは云え、いざ自分の番に為ると、矢張りどうも気恥ずかしい。茅世は掻い摘んで一通りの自己紹介をした。
「だからあんなにピアノ巧いんだ! 凄い、才能有ると思ったもん!」
「いやいや……そんな事無いよ。まぁピアノは、多少は自信有るけどミスも多いし……、歌はからっきしだし……」
茅世が、菜津音の方こそ歌唱の才能に溢れている、と褒め返そうとした矢先、菜津音は「否、そんな事無いと思うよ?」と言った。
「え? だってあたし、人前で歌わない様にしてるし……。況してや木……菜津音の前じゃ歌ってないよね?」
「ううん。昨日、棚……茅世がピアノ弾いて呉れて、私が歌った時、茅世口遊んでたでしょ? 其の時の感じだと、其処迄下手じゃない様に聴こえたけど」
「え、えぇ……?」
出し抜けに自分が劣等感を抱いている箇所を褒められたのと、自分の無意識的な歌声を菜津音に聴かれていた、と云う事が綯い交ぜに為り、茅世は頬を紅潮させた。
「うん。絶対、茅世は音痴なんかじゃないよ! 間違い無い! 何なら今から、カラオケ行こうよ?」
「いやっ、カラオケは……」
何を隠そう、茅世が自身の歌唱力が劣っている事を自覚したのが、友人達と訪れたカラオケだったのだ。成るべくなら、忌まわしき場所に足を踏み入れたくはない。
「あ……、茅世が嫌なら行かないから……。茅世の気持ち考えないで御免……」
しゅんと萎れた菜津音は、何故か無性に茅世の母性本能を掻き立てた。
「……ううん。ねぇ、菜津音はカラオケ行きたい?」
「……ん。茅世と一緒に行ったら楽しいだろうな、って……」
茅世は自らの心に巣食う嫌悪対象からの逃避心理を日向に引き摺り出し、菜津音に応えたいと思う明るい陽光の様な気持ちで浄化してやった。
「菜津音が行きたいんなら、あたし、行くよ」
「え? いや、そんな無理して迄……」
「無理してなんかないよ。あたしも、菜津音と一緒なら行きたいもん。菜津音と一緒なら、色んな所へ行きたいし、行ける気がする」
「茅世……」
心が繋がっている。互いに、そう感じた。
善は急げ、思い立ったが吉日。言い回しは色々有るが、兎にも角にも発意は実行しなければ机上の空論に留まってしまう。菜津音の祖母の家を飛び出した2人は、自転車で15分位の格安カラオケ店にやって来た。平日であれば1時間10円と云う最早価格破壊の極北的な金額を掲げる其のチェーン店は、休日は混雑が予想されたが、土曜の午前と云う事も有り、辛うじて空いていた一室に待ち時間無く入る事が出来た。因みに此のチェーン店は会員証の提示が必須なのだが、菜津音は何の淀みも無くレジの店員に自らの財布から取り出した厚紙のカードを示して見せた。
「此処、良く来るの?」
格安故に禁煙室が無く、宛がわれた空室も例に漏れず煙草臭さが染み付いてしまっており、茅世は元来キツい眼差しを更に険しくしつつ、菜津音に訊いた。
「うん。毎週来る位だから、安い方が良いしね。何かね、実家を出る寸前位から、カラオケとかで歌うのに凄く快感、と云うか……スッとする感じがあって。歌うのが好きに為ったんだよね。まぁ、其の前も別に歌うのが嫌いな訳じゃなかったけど。だから、何て云うか……茅世にも『歌う事の楽しさ』って云うか、何かそう云うのを知って欲しいな、って思ったの」
菜津音はニコリと微笑んで、茅世を窺った。茅世は素直に、菜津音が可愛いと思った。そして同時に、今迄はぐらかして逃げ回っていた己のコンプレックスと向き合う為に、あの落とし蓋を取り去る決意をした。
価格破壊の弊害と云うか、必然と云うか、ほぼ選択肢の無い中から選んだプランには、ドリンクバー1杯が必須条件だった。激安の部屋代にドリンクバーの料金を上乗せして利益回収を図ろう、と云うものである。プランに従い、一旦煙草臭い部屋から出て、先程来た通路を戻り、其の突き当たり――即ちレジの脇に設置された飲料供給機へと向かう。
「どれにしよう……」
幾らかの選択肢が提示された際、暫し思案してしまうのは、茅世の悪い癖であった。さっぱりしたお茶系の飲料が良いのか、折角なら甘い清涼飲料系が良いのか、将又喉に負担を来すかも知れないと云う懸念も有るが爽快感は魅力的な炭酸飲料にしようか……。菜津音は早々とスポーツドリンク的な飲み味の清涼飲料をグラスに注ぎ、微笑みを絶やさず此方の動向を窺っている。茅世はそんな菜津音を見て焦り、結局は菜津音と同じ飲料の釦を押した。
「……茅世って、ああ云う時結構迷う方?」
部屋に戻った菜津音は、未だに慣れない臭気に鼻梁を皺寄せる茅世に笑顔で訊いた。
「うん……、何かね、決めらんなくて……。御免ね、選ぶの遅くて」
「いやいや、別に全然だよそんなの! 私が見てたのは、その……何か、新鮮で。私、本当に麻帆しか友達って居なかったから。茅世の行動が新鮮なんだよ」
途端に、茅世の心中に安堵が拡がった。心の何処かでは、菜津音が催促の念を込めて自分を見ていた訳では無い事は、解っていた。けれど、其れを言葉として表現して貰えると、格別の安心感が得られる。安堵と同時に、何故だか照れ臭くなった茅世は、菜津音と同時に手にしていたグラスに唇を付け、喉を潤した。
「な、菜津音は何歌うの?!」
グラスを据え置きの机に置き、照れ隠しに茅世が尋ねた。菜津音も、
「そうだね! どうしよう、取り敢えずUVERかな?」
と努めて明るく返した。菜津音はレジで渡された、100円均一店で売っていそうな細長のプラスティック製の籠から、無造作に放り込まれた2本のマイクとタッチパネル式のリモコンを取り出し、もう1本のマイクを茅世に手渡した。
「有り難う」
茅世がマイクを受け取ると、菜津音は
「最初は私が歌うよ。茅世は歌いたくなったら言って?」
と言い、1曲目を大型の液晶モニタの下に横たわる本体に送信した。
UVERworldの「儚くも永久のカナシ」の音源が、6人掛けの個室には過剰と思える程の音量で天吊りされたステレオスピーカーから流れ出すと、茅世は再び舌を巻いた。
菜津音の常人離れした、圧倒的な迄の歌唱力は、疾走感溢れるテンポの速いロックでも微塵も陰りを見せなかった。寧ろ、此の前聴いた合唱曲に合わせた伸びやかな歌唱も良いものの、力強くリズミカルに歌うロック系統の曲の方が、菜津音には合っている気がした。昨日の「GO‐ON」のセッションでは茅世自身余りの愉悦に頭が真っ白で、其れに気付けなかった。
「やっぱり、人前で歌うのは恥ずかしいね……」
茅世から見たら、何の気負いも無く歌っている風だったのだが、間奏に入った所で菜津音は照れ臭そうに苦笑して茅世を見た。言われてみれば、僅かに菜津音の頬は上気している様だった。先日の公開独唱と云い、傍目から見ていると堂々としている様に思えるのだが、矢張り菜津音も人の子と云う事なのだろう。菜津音にも宿る常人並みの羞恥心を想い、茅世は優しい気持ちで微笑んだ。
其の後、菜津音はUVERworld以外の邦ロックバンドの曲、J‐POP、流行りのアニメソング、アイドルソング等、様々なジャンルを聴く茅世も目を見張る程、新旧硬軟織り交ぜた多岐に渡る選曲をしつつ歌った。茅世は聴き入るだけだったが、遂に菜津音から声が掛かった。
「茅世も歌ってみる? 絶対、言う程下手じゃないから!」
カラオケとは云え、相変わらず口を大きく開け、一曲一曲綺麗に歌う菜津音は、其れ故に頬を上気させ、心做しか息吐きも若干荒く、心拍数の亢進に呼応したかの様な活発な声で茅世を誘った。茅世は一瞬ギクッとしたが、一旦肚を括ったのだ、と開き直り、
「うん。歌う!」
と宣言した。菜津音の歌唱力が余りにも常人離れしているが故に、全く劣等感が湧かなかった事実と、此れからずっと傍に居る友人相手に羞恥心など不必要だ、と云う思いの二つが、茅世の宣言を後押しした事は間違い無い。
「何にする?」
菜津音は独占状態だった選曲用端末を茅世に差し出した。茅世は、此処は迷わずに選曲し、押し黙った儘覚悟を決めた表情で、聞き覚えの無いメーカー製の液晶モニタの下に鎮座する親機に送信した。
「あぁ!」
モニタに表示された「激動」と云う曲名を見て、菜津音は声を上げた。昨日から共通の好きなアーティストとして其の名が挙がっていたUVERworldの此の楽曲は、TVアニメの主題歌タイアップが付いたシングル曲で、茅世が選んだ曲としては妥当であると思われた。然し、当の茅世に取っては、一曲目の選曲は此れ以外考えられなかった。何せ茅世は、此の曲以外をカラオケで歌った事が無いのだから。
茅世は極度の緊張で全身が強張っていた。其れは菜津音から見ても明らかだった。
「リラックスして! 気楽に歌えば良いから!」
思わず発せられた菜津音の声も茅世には届いていないのか、モニタに穴が開くのではないかと思う程注視した儘、少々長いイントロが過ぎ去るのを身構えている。特徴的なギターリフが打ち込みで再現された安普請な音源が個室に鳴り渡る。もうそろそろだ。
茅世が口を開く。すうっと息を吸う。
歌が始まった。茅世はモニタから視線を外せなかった。菜津音がどんな反応をするのか、覚悟を決めた心算だったが、矢張り恐かった。天吊りされたスピーカーから聴こえる自分の声が、何時も脳内で響いている自分の声よりも少し高くて、薄気味悪い様な違和感がある。
自分では、其れなりに歌えている心算だ。然し、自分以外にどう聴こえているかは、自分では判定出来ない。否応無く曲は進み、中盤のラップ的に早口で捲し立てる部分に差し掛かる頃には、最早開き直りの感覚で、それっぽく歌って遣った。其れが功を奏したのか、以降は少し肩の荷が下り、多少は気楽に歌えた気がした。
曲が終わり、幕間を埋める売れなそうな新人歌手の宣伝が流れ出す頃、菜津音は口を開いた。
「うん、やっぱり……」
マイクを切って両手で握り締めた儘俯いていた茅世は顔を上げ、恐る恐る菜津音を見た。
「言う程下手じゃないよ、茅世は。寧ろ歌えてる方だと思う。偉そうな言い方で悪いけど」
「そう、かな……? 否、でも……」
「茅世、他の曲歌った事、有る? もし茅世が『自分は音痴なんだ』って思ったのが『激動』だったとしたら、他の曲歌ってみたら?」
「うん……。去年、学級内で何人かと少し仲良くなって、夏頃かな? 皆でカラオケ行こう、ってなって。あたし、其の時初めてだったの、カラオケ。で、出たばっかの『激動』歌ったら、何か皆微妙な感じの顔してる様に、あたしは見えて。其れ以来、強迫観念みたいな、人前では歌いたくなくて……。結局其の子達とも学級替えで疎遠になっちゃったけど」
菜津音は清涼飲料を一口飲んで、言った。
「そりゃあ、『激動』は難しいから」
「まぁ、確かに難易度は高いけど……」
茅世もコップに口を付け乍ら返した。
「寧ろ『激動』を外さないで歌える人の方が少ないと思うよ。キーは高いし早口で息継ぎし辛いし転調激しいし。……まぁ転調に就いては茅世はピアノ弾けるから問題無く掴んでると思うけど。それに其の子達も多分、茅世が上手くないって思った訳じゃない様に思えるけどな」
「そう、なの……かな?」
「……例えばさ、同じUVERでも、此れなら断然歌い易いと思うよ?」
そう言いつつ菜津音はタッチパネルを操作し、UVERworldの「just Melody」を選曲した。
「ねぇ、『ジャスメロ』歌ってみて?」
既にイントロは始まっている。茅世は半ば強制的に挑戦する事と為った。
歌ってみると、確かに「激動」よりも歌い易い。無理なく歌えているのが自覚出来た。菜津音に勇気付けられているからか、スピーカーから聴こえる自らの歌声が少し上手に思える。案外、気の持ちよう次第かも知れない、そう思えた。
曲も終盤に差し掛かった頃、マイクを通っていない菜津音の口遊む歌声が、茅世の耳に届いた。2人の声が合わさって、重なって、所謂ハーモニーを形成した瞬間、茅世は嘗て無い心地良さを体感した。緊張と恥ずかしさで紅潮した頬が一層熱を帯びるのを自覚した。
何なんだろう、あの心地良さは? 一種の快楽に囚われた茅世は、もう一度、一瞬だけだったあの快感を味わってみたい気持ちで一杯だった。
「どう? こっちの方が歌い易くなかった?」
「う、うん……」
「やっぱさ、歌い易いと歌うのも楽しいじゃん? 上手く歌えてるって感じ易いし……」
「ね、ねぇ、菜津音?」
「ん?」
茅世は眼をぎゅっと瞑り、頬に斜線が何本も浮かびそうな表情で言った。其の台詞を口に出すのは、とても勇気が要った。
「あの……一緒に歌って欲しい、んだけど!」
数分前迄歌う事に嫌悪感すら抱き、躊躇していた茅世の余りの鞍替えぶりに、菜津音は唖然として反応出来なかった。茅世は構わず言葉を続ける。
「さっき、『ジャスメロ』の最後で菜津音が口遊んだでしょ? あの時、自分の歌声と菜津音の歌声が揃った時、何か、物凄い気持ち良かった、って云うか……。あたしが音痴とか、そんなの気に為んなくて、兎に角滅茶苦茶爽快で……。うん、もう一回、あの感じが欲しいんだ」
「そっか……そっか!!」
自分の適当なハモりの何処に、其れ程迄茅世を開花させる魅力が在ったのだろう、と不思議に思いつつも、茅世を“歌う事の喜悦”へと導く第一歩が刻めた事に、菜津音は素直に喜ぶ事にした。茅世の要請に応えたい一心で、菜津音はタッチパネルの端末を手に取り、
「茅世なら歌えると思うんだけど……」
と言いつつ一曲を選び出した。ORANGE RANGEの「*~アスタリスク~」が端末の液晶画面に示され、茅世は自分が或る程度歌える事を表す為に二、三度頷いた。
「茅世は自分の好きな様に歌って呉れて良いから! 私は其れに合わせてハモるよ!」
茅世は「そんな器用な事が出来るのか?」と疑問に感じたが同時に、菜津音ならそんな芸当を遣ってのけるかも知れない、とも思っていた。
曲が流れている間、茅世は未だ体感した事の無い気持ち良さに心を躍らせた。何故、こんなにも爽快なんだろう。何故、唯2人で歌うだけで此れ程迄に清々しいんだろう。
茅世は自らが音痴である、と云う観念めいた思い込みも忘れて、脳を緩ませる愉しさに身を委ねて、菜津音に言われた通り自分が思う様に、パートも一切気にせず歌っていた。辛うじて液状化せずに残存していた脳裡で、茅世は理由を探っていた。正解に行き着いたのは、曲が終わった瞬間だった。
「そっか……」
茅世が呆然として呟く。余りにも楽しくて、心地良くて、腑抜けてしまったのだ。
「ち……茅世、大丈夫?」
「菜津音が、あたしに合わせて呉れるから、だね……。其れも、完璧に……」
茅世が何も気にせずに歌っても、臨機応変に茅世の選ばなかったパートを歌って呉れる。だから再現率の高い、複数のパートが絡み合った見事なハーモニーが形成されるのだ。
自分達の声ではあるのだが、原曲の音源に忠実に歌えた様な心算になり、其の満足感も頭脳を蕩けさせる新しい快感に繋がっているのだろう。
「え……? いやいや、またまた! そんな……褒めたって何も出ないよ?」
「ううん、本当に、思った事を言ってるだけ。菜津音と出逢わなければ、歌う事がこんなに楽しいんだって事も、きっと分からなかった。本当に、有り難う」
一度、脳髄が融けた茅世は羞恥心が振り切れていて、感謝の言葉も臆せず伝えられた。其の所為で余計、菜津音の方が赤面する羽目に為ったのだが。
「ねぇ、他にも一緒に歌ってよ!」
茅世は再び、新たな快感を貪る欲深き獣と為ってタッチパネル式端末の液晶画面上に指を躍らせる。
「此れは?!」
「うん、歌えるよ!」
大型の液晶モニタに映し出された曲はYUIの「Rolling star」だった。
矢張り茅世は音痴なんかじゃない、と菜津音は声を合わせて歌いつつ改めて思った。確かに此の曲も、テンポが速くリズム良く歌わないとモタついて聴こえてしまう箇所がある。「激動」にしても然りだ。そう云った、大多数の人が苦手とする箇所に就いて言えば、茅世は世辞でも巧い、とは言い切れない。然し、其れは極々一般的な程度であって、其れ以外に於いては、流石ピアノ弾きとでも云おうか、却って確り音が取れていて、世間一般の平均よりも秀でていると断言出来る。
茅世、やっぱり貴女は歌が下手なんかじゃないよ――。曲が終わり、菜津音がそう言おうとした時、茅世が先に声を上げた。
「凄い! 面白い! 楽しい!!」
心底楽しいのが、其の姿を見れば誰にでも伝わってくる。そんな満面の笑みだった。
茅世の笑顔を見て、菜津音は溢れんばかりの幸福を感じた。他人が喜んで呉れる事が、自分の喜びに繋がるのだ、と知った。日頃自分が感じている音楽の愉悦、歌う事の欣快が、此れ程の笑みを人に与えるのなら、自分は其れを広めたい――。漠然と、そう思った。
其の後も、茅世と菜津音は声を合わせて歌い続けた。デュエット用の曲も、そうでない曲もお構い無しに歌った。茅世は菜津音と一緒に歌う事で得られる爽快感と自分を散々悩ませていた劣等感が融解した事に対して、菜津音はそんな茅世の姿を見て、邪気の無い笑みを浮かべ合っていた。
空腹を感じ、時計を見遣ると午後3時を回っていた。カラオケ店に訪れたのが午前10時過ぎだった筈なので、足掛け5時間程歌いっ放しだった計算に為る。流石に料金も予想以上だったが、其れでも他店の相場よりは安価に済んだ。
「ねぇ、茅世の家寄っても良い?」
途中、ファストフード店に立ち寄って腹拵えをして、自転車で家路に就く道すがら、菜津音が尋ねた。
「うん、良いよ! どうする? 何する?」
「いや、カラオケも良いんだけど……私はもう一回、茅世の伴奏で歌いたいな、って思ってて……」
気恥ずかしいのか、俯き気味に言う菜津音にいじらしさを感じた茅世は即答した。
「勿論! 嬉しいよ! 有り難う! あたしのコンプレックスを吹っ飛ばしてくれたお礼……に為るかどうか分からないけど、兎に角弾くよ、何でも! 菜津音の歌いたい曲!」
久方振りの酷使の所為で、微かに痛む咽喉を妙に快く思い乍ら茅世が言うと、菜津音は此れ以上無い程の笑顔で、
「やったぁ!」
と茅世が聞いた事も無い明るい声を上げた。茅世は悟った。菜津音に取ってあたしが演奏した曲で歌う事が、あたしに取って菜津音と声を合わせて歌う事と同じ様に幸福な事なんだ、と。
「あ、今日は他にも車が在るんだね! 2台も!」
菜津音は茅世の家の駐車場を見て、声を上げた。
「そうなんだよ! 今日は両親が両方共休みなんだ! 此の黄色いホンダのビートが父さんので、奥の青いトヨタのカレンが母さんの車なんだ!」
「そうなんだ! 車の名前って面白いね。ビートにカレン……」
「うん。あたしも親の影響か分かんないけど、クルマ好きでさ。車名とか詳しいんだよ!」
「あ、そうなんだ?! 御両親のお仕事って、運転手さんだっけ?」
「そう。父さんがトラックで母さんがタクシー。どっちも就業時間が変則的だから、2人共休暇で、尚且つあたしも休日ってのは意外と稀なんだよね」
「そうなんだ……。御免ね、折角の家族水入らずの日に……」
「うぅん。あたし、もう別に『家族団欒!』みたいな年齢でもないしさ」
茅世は苦笑しつつ言った。
「それに、菜津音と居た方が楽しいし! ……今は、菜津音と居たいよ、居られる時は出来るだけ」
「え……?」
菜津音は不意に飛び込んで来た茅世の台詞に心拍数が亢進するのを否が応にも意識しつつ、訊き返した。
「あ……嫌だった?」
「嫌だったら、今此処に一緒に居ないよ!」
菜津音は心臓が高鳴った儘、喰い気味に答えた。茅世は玄関扉の前のポーチに続く段差を上りつつ、
「……ん、何か実際そう言われると照れるね……。さっきさ、菜津音あたしと両親の関係を配慮して呉れたでしょ? 有り難うね! あたし、菜津音のそう云う所、凄く好きだよ!」
鼓動が昂っている最中に、そんな事言われたら……。菜津音は思わず赤面した。
「あれ? 菜津音顔赤いよ?」
そう云う茅世の頬も、心做しか紅潮している様に見える。誰の所為だよ、と思い乍らも、菜津音は満足に返事出来そうになく、唯頬に幾本かの斜線を入れ乍ら、俯いた。
「さぁ、菜津音! 演るよ!」
恨めしげに上目遣いを送る菜津音を意に介さず、ポーチの上に立つ茅世はガチャッと威勢良く自宅の扉を開けた。菜津音に背を向けた茅世も、嬉しさとこそばゆさの混淆した赧面をしていた。
茅世に誘われ、玄関を上がって左手の方に在る居間に菜津音は先ず通された。正直な所、早く茅世の伴奏で歌いたいと思っていたのだが、居間で相対した茅世の両親を前にして、急速に浮ついた感情は霧散した。
「あら茅世、珍しいわねぇ。お友達を連れて来るなんて」
茅世が菜津音を伴って部屋に入ると、茅世の母親である奏多がそう言いつつ立ち上がり、奥の食堂兼台所へ消えていった。菜津音は自分を持て成す為だと想定し、咄嗟に声を掛けた。
「あ、いや……お気遣いなく!」
「ほぉう、殊勝だなぁ。最近の若い子でそんな言葉遣いが出来るとは」
茅世の父、悠志がソファに腰を据えた儘、菜津音を褒め称えた。茅世が鼻高々に言う。
「でしょー?」
「何でお前が誇らしげなんだ?」
至極御尤もな突っ込みを悠志が入れる。そんな有り触れた父子の遣り取りが可笑しくて、菜津音は思わず微笑んだ。直後、失礼だと思い、
「あ、いえ、済みません!」
と居住まいを正すも、茅世も悠志も笑顔で、
「いやぁ、礼儀正しい娘だなぁ。真面目だねぇ」
「いやいや、其れ程でも……」
「お前に言ってるんじゃねぇんだって」
と応酬を繰り広げており、全く気にしていない様だった。
「お構いなく。飲み物くらい出すのは当然でしょ?」
奏多が小さな盆にグラスを2つ載せて、台所から出て来た。グラスには、黄色の強いオレンジ色の液体が注がれている。若々しい飲み物だ、と菜津音は横目で見て思った。
「そうだぞ。お客さんなんだからもっと気楽に持て成されれば良いんだよ、えぇと……」
悠志が菜津音の名を口に出そうとした所で、茅世も菜津音の紹介が未だ済んでいなかった事に思い至った。
「あ、そっか。えっと、此の娘は木乃菜津音ちゃん。夏休み明けに転校して来たんだけど、此の間……てか昨日仲良くなったの」
「初めまして。木乃菜津音と申します。訳有って、祖母の家へ越して来ました。茅世さんとは昨日意気投合しまして……。此れから度々お邪魔させて頂く事に為ると思いますが、どうぞ宜しくお願い致します」
「あ、あぁ……そりゃ丁寧に……。茅世の親父です。茅世と仲良くして遣って下さい」
「茅世の母です。こちらこそ、此れからもよろしくね」
菜津音の挨拶が、其の年齢に似合わず余りに流暢且つ丁寧だった為、悠志は面喰らって若干ギクシャクした受け答えに為ってしまった。
「今日は飲み物若々しいね」
「あはは、そうだね! 炭酸かな? 此れ」
茅世が盆を持って先導し、菜津音はくっ付く様にして話し掛け乍ら階段を上がっていった。仲睦まじい我が子と友人の姿を見送り乍ら、悠志と奏多は、
「……しかし、珍しいな。仲良くなったばっかりの友達を連れて来るなんて……」
「ええ……友達なんて、千県の双子ちゃん達位しか連れて来た事無いのにねぇ……」
と首を捻りあった。
「あぁ、ジュースだね。オレンジジュース」
「うん、まぁ咽喉には刺激に為らないから良いかも知れないけど」
「あぁ、そっか。そうだね! ナイス母親!」
「もう少し敬ったらどう? 茅世」
苦笑しつつ菜津音が言うと、茅世もばつが悪そうに笑った。
「さ、演ろうか!!」
どちらからとも無く号令を発し、曲目を決める。1曲目は矢張り、互いに好きなバンドに挙げるUVERworldの曲から、と為った。
「UVERで菜津音に歌ってみて欲しい曲はね、幾つか有るんだけど……」
「任せて! 大概の曲は歌詞覚えてるから!」
「じゃあ、マニアックな所で……『SORA』とかは?」
「歌える! 私も好きだよ、『SORA』!」
「じゃあ、決まりね!」
澄んだ音が、部屋中に鳴り渡る。茅世の手は、特徴的なイントロのロングトーンを再現する為、鍵盤を長く押さえている。一方の手は、リズムを刻む為に、忙しなく動き回っている。菜津音は電子ピアノの横に立ち、菜津音の手捌きに見入っていた。此れこそが、茅世の秀でた点の一つである、卓越した表現力の源だ。そして、其の表現力に直結しているのは、限られた電子ピアノの音、そして2本の腕10本の指のみと云う制約の中で多彩な音色を再現するアレンジ力だ。
そんな事を数瞬考えている内に、イントロが終わろうとしていた。菜津音が息を吸い、口を開く。
浮遊感さえ伴う様な清々しさが、其処には在った。
抜群の肺活量から来る、安定した力強さ。然し、闇雲に力感溢れる訳では無い。伸びやかな高音、煌びやかな声質、早口な箇所でも確りした発音。其れ等を、盤石な発声が下支えしているのだ。
やっぱり正解だった、と茅世は自画自賛した。1枚目のアルバムが発売された直後のシングルの2曲目と云う若干存在感の薄まってきた曲であるが故に、茅世はマニアックと評した「SORA」だが、其の伸びやかで解放感に満ちた曲調は、菜津音の声に絶対嵌まると茅世は踏んでいた。演奏に気を取られ乍らも、極力菜津音の歌声に耳を傾ける。ピアノを弾き終えた茅世は、鼻高々だった。
「どう?! 良くない?!」
茅世は揺るぎ無い確証を胸に、菜津音に問うた。所が、菜津音は押し黙っている。俯き加減で立ち尽くす菜津音の横顔は、肩迄伸びる緑の黒髪に因って隠され、茅世が窺う事は出来なかった。
「……あれ?」
確かに在った自信が、忽ち萎んでいく。急転直下の勢いで不安に塗り潰された確信を宥めつつ、茅世は菜津音の顔を覗き込む。
「ねぇ、菜津音……?」
「凄い……」
「え……?」
相変わらず、菜津音の表情は視界に捉える事が出来なかったが、どうやら小刻みに身震いする菜津音は怒っている訳ではなさそうだ、と判断し、茅世は内心胸を撫で下ろした。次の瞬間、
「此れ……凄いよ、茅世……!!」
呟いた菜津音は顔を上げ、ぐるんと茅世の方に向き直り、珍しく眼を大きく見開き瞳を輝かせ、
「物凄いよ!! 其処等辺の職業音楽家なんかより!! よっっぽど!! 凄いよ!!!」
茅世の両手を掴みブンブンと上下に振り、自身の感動を表現した。
「あっ、ゴメン……痛くない?」
昂ぶりが収まり、我に返った菜津音は一転して心配顔に為った。
「ううん、全然平気! 寧ろ、菜津音もそう思って呉れてて本当に良かった!!」
「え……じゃあ、茅世も?」
「うん! 凄いよ、あたし達……! 自画自賛してるだけみたいで気持ち悪いけど、でもきっと、此れは絶対、凄い!! ……筈」
台詞とは裏腹に、徐々に語気を落としていく茅世が可愛らしくて、菜津音は図らずも微笑んでしまう。
「さっきから『凄い』ばっかり連呼し過ぎだよね、私達」
「……確かに」
互いに笑い合う。西日の射し込む部屋の中は、充実と可能性に彩られた多幸感が膨れ上がっていた。
「さっき私黙ってたでしょ? あの時思ってたの。此れは唯物じゃない、って」
「あたしも、滅茶苦茶可能性を感じたよ! ひょっとするとあたし達、本当の本当に『凄い』かも、って」
「ねぇ、もう一曲、演ろう? 此の『凄い』が、本物なのかどうか、確かめる為に」
「勿論!!」
次は女性ヴォーカルモノが良い、と云う事に為り、宇多田ヒカルの「This Is Love」を演奏する事に為った。日清食品カップヌードルのCM曲で、アルバム「ULTRA BLUE」の1曲目に収録された此の曲は、菜津音も茅世も共に好みの曲であった。デジタリックなイントロは、茅世が電子ピアノで再現するのは朝飯前だ。そして、菜津音が息を吸い込む。歌唱が始まる。ピアノの音色と、歌声が一体に為る。
其の瞬間、2人の身体に衝撃が走った。間違い無く、微弱だとしても電流が駆け巡った。
感動と快感に打ち震え乍ら、菜津音と茅世は5分弱を駆け抜けた。どちらからとも無く、顔を横に向け、視線を合わせる。其の時だった。
「いや、大したモンだ」
何時の間にか、悠志と奏多が部屋の入り口に立っていた。演奏に夢中で、菜津音も茅世も其の存在に全く気付かなかった。
「えぇ。親の贔屓目抜きにしても、凄く完成度が高いと思うわ」
「俺は音楽に関しちゃド素人だが、巧い下手とか凄い凄かない位は分かる。菜津音ちゃんと茅世、お前達そこいらのアマチュアより抜群に巧いわ。凄かったよ、マジで」
客観的な視点から絶賛を受け、気恥ずかしいやら誇らしいやらで、菜津音と茅世は顔中を真っ赤にして俯いた。
「そうだ、茅世! お前、菜津音ちゃんと一緒にやれば良いじゃねぇか? 次のリサイタル」
「そうね、菜津音ちゃんさえ良ければね。茅世、自分で歌うのは気が進まないんでしょ?」
「う…………うん……」
菜津音と歌うのは、楽しかった。自分の中に在る悪しき記憶を塗り替えて呉れる程に。然し、自意識の中に長期間抱え込んだ劣等感と云うものは、誠に根深く、しぶとい。
「そうだったの、茅世?」
「う、うん……。店長さんに『歌付き』を頼まれてて……」
茅世は何処か申し訳無さそうだった。菜津音はそんな茅世の素振りに構わず、
「そう云う事なら、言って呉れれば良かったのに! 私、茅世の為なら何処へだって行くし、何だってするよ?」
と言ってみたが、茅世は未だに眉尻を下げた儘だった。そして、ポツリと呟いた。
「あたし、菜津音を利用する為に友達になったんじゃないから……」
消え入りそうな声で言う茅世の其の声は、皮肉にも彼女が、あわよくば菜津音の力を借りられれば……と云う本音を孕んでいる。菜津音はくすっと笑い、言った。
「そんなの良いよ」
茅世は不思議そうに菜津音の顔を窺う。悠志と奏多も同様に訝しげな表情をしている。
「分かってるから」
さらりと菜津音は言い放ったが、茅世は一挙に頬を紅潮させ、俯いてしまった。
「私、昨日茅世さんと親しく為らせて頂いたばかりですが、茅世さんの為人は其れなりに把握している心算です。茅世さんは、そんな打算的な人間ではありません。其の程度は心得ています。だから茅世、私も一緒に立たせて? 其の舞台に」
前半は悠志と奏多に向けて、最後は茅世に向けた菜津音の言葉は、有無を言わせぬ説得力を伴っていた。
「おい茅世、こりゃ百人力だな! 恐いモン無しだ!」
「自信持ってやりなさい、茅世も菜津音ちゃんも。あなた達、本当に凄いから」
両親は囃し立てるが、当の茅世は相変わらず浮かない表情をしている。菜津音はそんな茅世を見て、
「私も、歌いたいんだよ? 茅世と二人で、観衆の前で演ってみたいんだよ! 茅世の為に仕方無く協力するとか、そんなんじゃ絶対無いから!!」
と訴え掛けた。其処迄言って漸く茅世は俯いていた顔を上げ、
「本当……?」
と、不安に支配された眼を菜津音に向けた。
「本当。嘘吐くと、思う?」
敢えて冷静に、然し威圧的に為らない様に気を配り乍ら、菜津音は声音を抑えて言った。茅世は首を横に振る。菜津音は笑みを浮かべ、
「私が、歌うよ。茅世は弾いて?」
と諭す様に言う。茅世は小さく頷いた。そうあっさりと不安感が吹き飛ぶ事は無いのだが、幾分か其の表情は明るくなった風に思えた。
「そうとなりゃ、沢山練習しないとな!」
気を利かせたのか、悠志が話の締めに入った。奏多は其の意思を汲み、言葉を継ぐ。
「完成度は充分高いけど、上を見れば限が無いからね。合わせる分だけ、本番での緊張も解れるだろうし」
「色々得意曲増やして呉れよ? んで、また俺等に聴かせてくれな?」
「はい!」
「……分かった」
菜津音と茅世がそれぞれ返事をして、部屋の扉を閉めた。悠志と奏多は眼を合わせ、
「あの娘等、昨日仲良くなったって、本当か? 完っ全に信頼関係が出来てるけど……」
「うん……。それに、菜津音ちゃん、凄く上手いね……。きっとああ云うのを『才能』って言うんだろうね」
互いに思った事を口にし、
「「ビックリだ」」
同時に呟いて、娘達の邪魔をしないよう、抜き足差し足で階下へ降りて行った。
「じゃあ茅世、次は何の曲にする?!」
悠志と奏多が退室し、菜津音は逸る気持ちを抑えきれずに茅世を促した。然し、茅世の表情は雲がかった儘だ。
「……何か言いたい事、有るの?」
菜津音は尊大に聞こえない様に最大限の注意を払って、茅世に訊いた。茅世は暫し黙った後、口を重たそうに開いた。
「しつこいかも知れないけど。諄いかも知れないけど。でも、菜津音には絶対、分かってて欲しいから」
「うん」
「……あたしは、断じて、菜津音を利用したいが為に仲良くなった、とかそう云うんじゃない、って事。其れだけは、誤解しないで……」
「…………ふふふっ」
「な、何で笑うの!?」
菜津音は自然と茅世の頭を撫で乍ら、答えた。
「もし、今迄の茅世の言動が、本心からのものじゃないって言うんなら、茅世はきっと大女優に成れるよ」
「うぅ~……」
笑いつつそう言う菜津音を茅世は恨めしげに見遣った。
「確かに、そうかもだけど……」
「大丈夫。私は、ちゃあんと、分かってるから」
菜津音は茅世の不安を解きほぐす様に、ゆっくりと言った。
「……なら、良いけど……」
茅世は膨れつつも、満更でも無さげに応じた。菜津音は胸が締め付けられる様な感覚に襲われ、
「可愛いなぁ、茅世は」
と心から言った。当の茅世はからかわれたと思ったらしく、
「もう良いもん! 早く演るよ!!」
と、菜津音の手からすり抜け、電子ピアノの前に立った。菜津音は掌に残る茅世の柔らかな頭髪の感覚を惜しみ乍ら、セッションしたい楽曲を幾つか挙げた。
数曲合わせている内に、ふと気付けば窓の外は陽が落ち、夕闇混じりと為っていた。
「そろそろ帰らなきゃ」
菜津音が壁掛け時計を一瞥して言うと、茅世は何とも寂しそうに、
「そっか……」
と呟いた。菜津音は困った様に眉尻を下げ、
「私だって、許されるならずっと茅世と一緒に居たいよ? 歌ってたいよ? でも、そう云う訳にもいかないでしょ?」
と茅世に言い聞かせた。茅世は暫くしゅんとしていたが、
「今度、泊まりに来てよ。朝迄一緒に居て、夜中迄演ろう?」
と菜津音に問うた。菜津音が拒否する筈も無く、頬を紅く染めた菜津音と茅世は、近い内のお泊まりの約束を交わして、部屋を後にした。
「お邪魔しました」
階段を降り、居間を通過する際、菜津音は悠志と奏多に声を掛けた。
「おう、また来てな」
「これからも茅世と仲良くして遣ってね?」
「はい、勿論!」
菜津音は会釈して、三和土へ向かった。見送りの為にサンダルを突っ掛けた茅世は、通り過ぎた居間から「律儀だなぁ」と菜津音を称賛する声を耳にし、誇らしげな気分で微笑んだ。
薄灰色の玄関扉を開け、ポーチを並んで歩いた所で、菜津音は訊いた。
「ねぇ、例の『歌付き』っていつ演るの?」
「あぁ、11月の1日。日曜日だと思った」
「そっか。割と迫ってるんだね」
茅世はふと気に為って、菜津音に問い掛ける。
「菜津音が一緒に演って呉れるんなら、コンビ名決めないとね」
「あぁ、そうだね! うーん、『ビート』と『カレン』って凄く良い響きだと思うんだよなぁ……」
菜津音は眼前に停まる車を見渡し、特に悩む素振りも無く、言った。
「『カレンビート』って、どうかな?」
あっけらかんと世に生まれ出た運命のユニット名は、脳内で反芻すればする程に、実にしっくり来た。
「……良いね、其れ!! じゃあ、今日からあたし達『カレンビート』だね!!」
「うん! ……我乍ら気に入ってきた!」
あはは、と笑い合った。夕陽が名残惜しそうに、未練に満ちた橙色で辺りを染め上げている。
「じゃあ!」
菜津音は自転車に跨り、笑顔で手を振りつつ、走り出した。茅世は喜びに溢れた表情で、
「また月曜日、学校でね!!」
と声を掛けた。
其の日の夜、茅世は「カレンビート」と云う奇跡的な単語を脳内で繰り返しつつ、愛用のウォークマンで菜津音の歌声に合いそうな曲を探しては電子ピアノでアレンジする作業を繰り返した。無論、近所迷惑と為るのでピアノの音はイヤホンジャックにヘッドホンを接続し、外部に流れ出ない様にしてある。ウォークマンを聴いてはイヤホンを外し、ヘッドホンに取り替えて試行錯誤しつつアレンジを固める――。其の行為は、正しくカレンビートの音楽活動の為の「作業」であった。自発的な行動である為に、作業とは云え義務に発生する億劫さは其処に無く、唯音楽に触れる愉しさ、菜津音とセッションする機会への期待感に満ち溢れた、実に幸福な時間だった。
深夜3時。菜津音は祖母の家の蒲団の中で魘されていた。そして、まるで再放送の如く、吐き気を催し便所へと駆けていく。
吐瀉物を流し去る清水を暗い眼で眺め乍ら、菜津音は絶望に似た思いを味わっていた。
……あぁ、まただ。また、未だ襲って来るのか。
こんなにも楽しいのに。こんなにも充実して、新たな喜びを見付けられたのに。
未だ、私は、あの呪縛から、逃れられないのか――……。
此処迄閲覧下さり有り難う御座います。
本作は某小説賞に投稿すべく書いていたもの、と前回の後書きで明かしました。なので僕個人の中ではまるっきり新鮮味の無い文章なのですが(なんせ数年前からちょこちょこ書き進めていたので。基本僕の作品はそんな、自分の中で新鮮味が薄らいだものばかりです)、今回の菜津音の独白シーンの描写は賛否分かれる文章かなぁ、とも思っていて、皆様にどう云った風に受け止められるだろうか、と公開する時を或る種楽しみにしていました。いかがでしたでしょうか?
さて、もう暫くは書き溜めていたストック分が続きますので(とはいえWordで振っていたルビをアジャストしなければいけない等、若干の作業が伴いますが)、さほど間を空けず1-2の方を投稿出来るかと思いますが、其れ以降リアルタイム執筆と為ると途端に更新速度が鈍ってしまうと思われます。今の内に謝罪しておきます。お待たせしてしまい、申し訳有りませんm(_ _)m
なお、なろうの他にも、thebluefieldの名義でカクヨム(最近はこちらもメインです)及びエブリスタ(暫く放ったらかしになっていますorz)でも執筆しております。暇で暇で仕方無い際には、検索頂けると幸いです。以上、宣伝でした。
それでは、また次回更新の際には宜しくお願い致します!