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動物園へようこそ

作者: 三矢 由巳



トントントン。

まな板の上で何かを切る音が聞こえる。

鼻腔をくすぐるのは、ご飯の炊けた匂い。

目を開けると、見慣れた天井板の模様。

朝が来た。

子どもは跳ね起きた。

今日は動物園へ行く日。

ゆうべ、おとっつぁんが言っていた。


「坊、明日は動物園へ行こうな」


もうおっかさんもおとっつぁんも起きている。

布団を小さな屏風の後ろに片づけた子どもは障子を開けた。

竈の前でおっかさんがたすき掛けで朝飯の支度をしていた。


「おはよう、おっかさん」

「おはよう。顔、洗っといで」

「うん」


子どもは戸を開けて井戸端に走った。






コーヒーの香りで目が覚めた。

はっとして枕元の時計を見る。


「おはよう」


ベッドサイドのテーブルに彼がコーヒーカップを二つ置いた。


「ごめん、寝過ごしちゃった」

「いいよ。ゆうべ、無茶した俺が悪い」


そう言うと彼はにっこり微笑んだ。


「シャワー浴びといで。その間に飯用意しとくから」

「うん」


彼女はゆっくりと身を起こすと、バスルームに向かった。

今日はデート。動物園に行く。






「父上、早く」

「もう少し寝かせてくれ」

「父上」

「父上」


父親の床のまわりには十人余りの子どもが群がっていた。


「殿、いい加減になさいませ」


二人の子どもの母親の声で、やっと父親は起き上がった。


「わかった、わかった」


わーい、父上が起きたと子どもらは駆けまわった。


「はしゃいではなりません」


別の母親が子どもらを睨むが、効果は薄い。


「まあ、よいではないか。今日は動物園じゃ」


父親の言葉に、子どもらはまたもわーと叫んで走り回った。






動物園の門の前には大勢の家族連れやカップル、子どもの集団が並んでいた。


「間もなく開園です。走らなくても動物はみなさんを待っています。ゆっくりとお楽しみください」


アナウンスの声に並んでいた若い男性がおやっと耳を傾けた。

聞いたことのあるアナウンサーの声だった。

懐かしいと感じたのも束の間、門が開き、男性は前に進んだ。


「いらっしゃいませ。ようこそ、イエロースプリング動物園へ!」


門の脇に立つスタッフは揃いの黄色に黒いストライプの入ったスカーフとシャツを着ている。

人々はゆっくりと門をくぐって中へ入ってゆく。その表情は皆幸せそうだった。

そう、ここは人々を笑顔にする場所。

悲しくつらいことばかりで、楽しいことを知ることのなかった人生を送った人々のための場所。






園長は園長室にはいない。

開園すると、園内を巡回し、動物たちに異常がないか、お客様に困り事がないか、見て回るのである。

事務主任の越前君は、そこまで園長がしなくてもいいと言うが、やはり責任者としては気が済まないのである。

キリンの展示スペースの前でカップルがカメラを構えていた。


「写真撮りましょうか」


そう言うと、彼らはお願いしますと言った。


「さあ、お二人並んで。あ、ちょっと待って。今、キリンがちょうどいいところに。撮りますよ。はい、チーズ」


ちょうど、カップルの背後でキリンが顔をこちらに向けたタイミングでシャッタ―を切った。

 

「ありがとうございます」

「どういたしまして。このカメラはいいカメラですね」


園長に就任した頃はカメラなんて使ったこともなかった。最近やっと慣れてきた。


「いいでしょ。ボーナスで買ったんですよ」

「それはよかった。たくさん彼女を撮ってあげてください」


ベルボトムのジーンズの青年は嬉しそうに笑った。






象のスペースには子どもたちがたくさんいた。

飼育担当のスタッフは質問を受けていた。


「この象はなんという種類ですか」

「この象はね、アジアゾウというの。アフリカゾウに比べると耳が小さいの」

「マストドンはいないの」

「詳しいのね。残念なことに、少し前に退園してしまったの。でも北側のスペースにマンモスがいるから、比較してみると面白いよ」


アジアゾウの牡と牝は仲良く互いの鼻で水を掛け合っていた。

牡の象が園長をちらっと見た。園長は満足そうにうなずいた。






ピクニックエリアでは早くも弁当を広げている家族がいた。

大勢の子どもに囲まれた殿様は幸せそうだった。

長屋暮らしの三人家族もおいしそうにおむすびをほおばっていた。

幸せそうな人々を見ていると、園長も心が温かくなってくるようだった。






午後、イノシシ舎の近くを通ると、悲鳴が聞こえた。


「イノシシが逃げた」


園長は急いだ。早く捕獲しないと、お客様に被害を与えてしまう。

このあたりは人通りが少ないが、少し手前にパンダ舎がある。

そこに迷い込んだらおおごとになる。


「園長!」


血相変えて凄まじい勢いでこちらへ走ってくるのは、二ホンカワウソ担当の小笠原君だった。


「助けてくださーい」


彼の後方には雄のイノシシの姿が見えた。

いつも脱走する大イノシシだった。

相変わらず、イノシシに好かれる男だと園長は思ったが、今は捕獲が第一である。


「横へのけろ」


小笠原君ははっとして左の通路へ入った。

急な動きだったので、イノシシは左折できずにこちらへ向かって来る。


「いい加減にせぬかあ!」


園長はどこから出したのか、木の棒で立ち向かった。


「覚悟せい」


園長は間合いを測り、イノシシの頭を狙った。

が、イノシシは園長の気合に驚き、足を止めた。


「少しは学習したようだな」


園長はほっとした。

毎度毎度、同じイノシシを叩きのめすのは可哀想だった。

イノシシは申し訳なさそうに頭を垂れた。

そこへ飼育担当のスタッフらが軽トラックでやって来た。

彼らは手際よく、イノシシを荷台の檻に入れた。

責任者が頭を下げた。


「すみません。新人が柵開けっ放しにしてしまって」

「気を付けてくれ。いつも、わしがここを通るとは限らんのだから。あ、閉園後でいいから、新人君よこして」


軽トラックがイノシシ舎に戻ると、小笠原君が申し訳なさそうな顔で出て来た。


「いつも助けていただき、ありがとうございます」

「気にするな」


園長も毎度のことで慣れていた。


「それに、なんとなく、わしは君を助けないといけないような気がするんだ」


以前も似たようなことがあった気がする園長だった。

けれど、ここに来てから、年々記憶が薄らいでいる。

一体、自分は以前は何という名前で、何をしていたのだろうか。


「園長、こちらにおいでだったんですか」


越前君が駆けて来た。


「役所の方がお見えです。例の予算案の件です」

「わかった、今行く」


役人との交渉は面倒だが、やらねばならぬ仕事だった。

園長は越前君と管理棟へ向かった。






役人は角を生やしていた。

別に怒っているわけではない。

文字通りの意味である。

頭の左右に角が生えているのだ。

角以外は紺色の背広に黒地に黄色いシマのネクタイという、役人のごく一般的なスタイルである。

園長が入ってくると、慇懃に頭を下げた。


「こんにちは、お疲れのところ申し訳ありません。先日提出された動物園の予算案について、上の者と協議しましたので、その結果をお伝えに参りました」

「わざわざありがとうございます」

「単刀直入に申し上げますが、ご提案のピーコックカフェについては、許可ができません」

「なぜですか。孔雀を見ながら茶を飲むというのは、優雅ではありませんか。新たな客層の開拓も期待できます。それにこれを提案した職員は以前、孔雀茶屋を経営していた経験がありますので、経営ノウハウは持っています」


園長の熱弁に、役人は顔を少々しかめた。


鳩摩羅天(くまらてん)様から反対意見が出ております。ご存知のように、孔雀は鳩摩羅天様が乗り物に利用しております。それを見せ物にするのは承服しがたいとの仰せです」

「象はお許しがあったではありませんか」

「あれはガネーシャ様からのお許しがあったからこそ。今回も同じようにとは参りません」


園長はうーんと腕組みをした。


「孔雀が許されないなら、尾長鳥はどうでしょうか」

「上に伺いを立ててみますが、期待はしないでください」


役人はそう言うと、図書館長との約束の時間があるのでと、出て行った。


「恐らく、孔雀ではなく、カフェが問題なのでは」


越前君は言う。


「カフェが?」

「はい。カフェは湯を沸かすのに電力が必要。焦熱地獄発電所の施設の老朽化で最近停電が頻繁に起きておりますから、上はこれ以上施設に負担をかけたくないのではありませんか」

「そういえばそうだな。いっそのこと、自家発電施設を作ったほうがいいかもしれんな。風力か、太陽光か。あ、太陽はないから、御仏の後光発電だな」

「それなら許可が出るかもしれませんね。それに発電所の負担も減らせる」

「よし、そうしよう」

「早速、調査します」


越前君は園長室を出て行った。

相変わらず行動力がある。

昔からそうだった。

昔? いつのことだ。

園長は首をかしげた。






園内に「別れのワルツ」のメロディーが流れた。

間もなく閉園である。

家族連れもカップルも、名残惜し気に門へ向かう。


「次はいつ来れるかな」

「来年かな」

「ライオンの子ども大きくなってるかな」


そんな親子の会話が交わされている横では、カップルが幸せそうに手をつないでいた。


「この後どうする?」

「海岸まで走ろうか。しゃれたシーフードレストランがあるんだ」

「あ、知ってる。この前テレビで見た。でも多いんじゃない、有名になったから」

「予約してる」

「うっそー!」


やがて客が全員出て、門が閉まった。

園長室では新人が緊張の面持ちで立っていた。


「申し訳ありませんでした。二度としませんから、どうか、元の地獄に戻すのだけは」


園長は厳しい顔で言った。


「一つ間違えば、お客様に怪我をさせることもあるんだ。皆、緊張感をもって仕事をしている」

「はい。僕には緊張感が足りませんでした」

「わかったら、明日から、いや今からは気持ちを引き締めて欲しい。それがお客様を、ひいては君の身を守ることになる。動物は、人をよく見ている。緩んだ気持ちでいれば、それを見抜かれる」

「はい」

「この本を読んで、もう少し動物の勉強をするといい」


園長は本棚から専門書を出した。

手渡された新人は、驚いてありがとうございますと言って受け取った。

新人が出て行った後、越前君が入って来た。


「発電の件ですが、極楽に問い合わせたところ、太陽光発電に詳しい技術者があちらに何人かいるようです。今特に仕事がないので、こちらに回してもらえそうです」

「そうか、よかった。早速修正した予算案を作ろう」

「私がやります。園長は少しお休みを」

「君のほうが働き過ぎだと思うのだが」

「これくらいは仕事のうちにも入りませんよ」


昔からよく働く男だった。


「しかし、防火対策計画もあるだろう」

「そちらはほぼ終わりかけています。昔も同じような仕事をした覚えがありますから」


まったく何をさせても卒のない男である。


「わかった。任せよう。だが、若い者にも少しはまわせよ。仕事を教えておかないと、転勤の命令が出た時に困るからな」

「畏まりました」


越前君は勢いよく出て行った。

転勤の話はこれまでも上から打診されている。

長官が秘書官に欲しいと言っているとも聞く。

長官の秘書ともなれば、待遇は現在と格段に変わる。

だが、越前君は断っている。

園長の下で働きたいと言って。

昔、自分は彼に何か恩を売るようなことをやったのだろうか。

覚えていないのだが。

彼は昔やっていた仕事のことを覚えているようだが。





退勤時間になった。

宿直のスタッフを除いて、皆通用口から出て行く。

園長も出た。

越前君は書類を入れた風呂敷包を抱えている。

家で仕事をする気らしい。

止めてもやると決めたら必ずやるのだ。

園長は歩いて家に向かう。

家では妻が待っている。

少し前まで子どもらもいたが、皆出て行った。

ドアを開けると、エプロン姿の妻が奥から出てきた。


「ただいま」

「お帰りなさい」


昔、妻の一人だった女である。

他の妻たちは出て行ってしまった。

彼女だけが残っている。

出て行ってもいいのだと言うが、一緒にいたいと言う。

出て行けば新しい人生があるのにと言うと、あなたのいない人生は考えられないと言う。

嬉しい言葉だが、申し訳ない気がする。


「今日もお客様が大勢おいでだったよ」

「よかった。象は元気ですか」

「ああ」

「お隣から、歌舞伎のチケットをいただいたんですけど」

「珍しいな」

「成田屋祭。團十郎が初代から全員勢ぞろいなんですって。でも、公演日に急に仕事が入ってしまって、勿体ないからって」

「それは凄い」

「仮名手本忠臣蔵の大星由良助を誰がするかでもめて一時は中止じゃないかって噂もあったそうよ」

「忠臣蔵か」

「今もお嫌いなの? 心中物じゃないからいいかなと思ったんだけど」


園長は考える。

なぜか、自分は歌舞伎があまり好きではない。

心中物は勿論、忠臣蔵もいまいち好きになれない。

どうしてなのか。


「だったら、これ返すわね」

「いや、いい。勿体ないだろ。それにたまには見るのもいいかもな。いつだ」

「今度のお休みの日」

「わかった」


動物園の仕事も最初はどうかと思ったが、今は天職に思えている。

歌舞伎も見れば楽しいかもしれない。

落語も近頃、面白いと思えるようになってきたし。

不思議なものだ。

もしかすると、こうやって以前の自分が失われて、やがてはここを出て行くことになるのかもしれない。

息子たちもそうだった。

長男と次男は仲が悪かったのに、出て行く前は、和気藹々と仲良く酒を呑んでいた。






湯船に浸かって考える。

次第に過去の自分の記憶が消えていく。

動物園に来る人々も以前の自分のことを忘れて、やがてここを出て行くのだろう。

以前の悲しみを動物園で少しだけ癒してもらって、次に向かっていく手伝いをする。

そういう仕事だと赴任する前に閻魔庁長官に言われたことを思い出す。

今日やって来た人々は少しでも心穏やかになってくれただろうか。

貧しさで子どもにひもじい思いをさせて死なせてしまった家族、愛し合っていたのにいつしか憎しみを募らせ死ぬまで心安らぐ日のなかった男女、跡目を争って親子兄弟が血で血を洗うように争い合った家族……皆生きている時は不幸だった。

自分もあまり幸せではなかったような気がする。

記憶は定かではないが、親兄弟との縁が薄かったような。

今はそれほど寂しさは感じない。

妻がいるからかもしれない。

それに、なんとなく動物たちにも癒されているような気がする。

彼らの食や住まいをあれこれ充実させる仕事はやりがいがある。

たぶん、自分は以前彼ら動物たちを苦しめていたのかもしれない。

だから罪滅ぼしをここでしているのかもしれない。

罪滅ぼしにしては楽し過ぎて申し訳ない気もする。

とはいえ、自分もいつかここを出るに違いない。

息子たちのように自分の意志で出て行く者がほとんどだが、園長のように責任ある仕事を任されていると、簡単には出て行けないらしい。

時が来ると、長官に呼び出され、この世界から別の世界に移動するらしい。

らしいと言うのは、ここを出た者がどこに行ったかは誰も教えてくれないからである。

その時が来るまでは、職務に精励するだけだ。

前の人生でも、恐らく自分は今のように生きていたような気がする。

己に与えられた運命を受け止め、課せられた義務を果たしてきたことだけはおぼろげながら覚えている。

趣味嗜好が変わっても、今更生き方を変えようとは思わない。

なんだかぼっとしてきた。

のぼせるとまずい。

風呂からあがると、妻がビールジョッキと枝豆を持って来た。

園長はぐいっとビールを一口飲んだ。


「ああ、極楽、極楽」


妻が笑った。


「あなた、ここは極楽じゃないわよ」


妻の決まり文句だ。

園長もいつものように笑った。

ここがどこであれ、今の自分には極楽だから、これでいいのだ。



おしまい


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