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神殿は、王都の外れにある山の山頂にあった。
ちょうどこの時期の満月が山頂にかかるという理由で建てられたらしい。
月の神ルーナを祀るにふさわしい場所だと、山の麓で神殿を見上げたわたしは思った。
山といっても、道が整備されているため登るのにはさほど苦労しない。民が参拝することが多いためだそうだ。この国の神はまだ土地に根付いているのだなと不思議に思った。
月が天頂に届くと同時に儀式は始まるという。今日は満月なのでまだ月は東から昇ったばかりだった。
赤く膨らむ月をみているとどことなく不安が湧き上がる。
隣に座るジークもなんだか張り詰めた様子だった。
もっと口数が多いはずなのに、今日はだんまりだ。
いつもはわたしを楽しませるために話題が尽きないようにしているのだろうか。ジークという人が、どんどんわからなくなってくる。
いつもの優しい彼が人工物のように感じてしまうのだ。あの庭のように、人が丁寧に無駄を削ぎ落としたような……。
最奥に進むと円形の広場に出る。驚いたのは屋根がなかったこと。
「月の光が神体そのものなんだよ」
ジークが説明をくれてなるほどと思う。中央には水盤があり、透き通った水には静かに月光が反射していた。
耳が痛くなるくらいの静寂。
静かすぎる……と振り返ると、先程まで一緒にいた従者たちはついてきていなかった。
「あの、ふたりだけなのですか?」
よそ者は入れないと言っていたが、まさかわたしを含めて二人とは思いもしない。
尋ねると、ジークはうなずく。
「神聖な儀式だからね。ここには禊を済ませた者だけが入ることができる」
「禊」
出る前に水浴びをしたのだ。禊自体はセルディアにいた時、毎日行っていた。
だけど、あちらではお湯なのに、ここでは水だったので驚いた。身も心も清めるためだと言われたが、寒い時期だとさぞかし大変だろうと思う。
やがて水盤の上に月が昇る。やわらかな乳白色の光が水盤に湛えられる。
「始めるよ」
ジークが自分の指先に針で傷を入れた。そして盛り上がった血を杯の中に落とす。
「さあ、君の番だ」
魔術めいた儀式にわたしは戸惑った。
結婚式だと言ったけれど、悪魔でも呼び出しそうな雰囲気を感じてしまったのだ。
「さあ、手を出して」
それに……ようやくわかった気がしたのだ。なぜわたしが彼の結婚相手に選ばれたのか。
わたしは、ソールの娘だと、彼は言った。
「……わたしの血が必要だから? だからわたし、だったのですか?」
取り返しがつかないような気がして、黙っていられなかった。
「それもある。だけど最大の理由は君が聖なる力を持つ聖女だからだよ。美しく清らかな心を持った理想の女性だと今も信じている」
「あなたの理想というのは一体どんな人なのです?」
「僕の理想の女性は君だよ」
ああやっぱり。理解して、がっかりするより納得してしまう。
そして、曇っていた目の前が晴れていくにつれて、恐怖が消えていく。
彼に嫌われたらどうしよう? という恐怖が。
だって嫌われるも何も、ジークはわたしを見ようとしていない。多分、彼の中で、彼に都合の悪いわたしはすでに殺されている。彼はわたしの〝皮〟の下に理想の女性を押し込んでいるのだ。
たどり着いた真実は重かった。
言葉を失うわたしに彼は甘く微笑みかけた。
「君ならば、僕の子を産んでくれると思ったんだ」
まるで意味がわからなかった。
きっと今、わたしはひどく間抜けな顔をしているだろう。
「僕は女性に触れることができないからね。だけど、国の存続のために子は必要だから……。悩んでいたところでソールの娘は、処女のままで受胎が可能だと知った。聖女は神の子を産むと」
この人は、病んでいる。
ぞっとしたわたしは思わず後ずさった。普通に考えればわかることなのに、真実に目をむけようとしない。
「子は、できませんわ。あなたがわたしを抱いてくださらない限り」
することをしなければ、出来るわけがない。常識的な人だと知っているからこそ、本気だとわかって怖い。
きっぱりと言うと、彼は顔をしかめた。
「愛は必要だ。たが、肉欲は愚かしく、汚らわしい。僕には必要のないものだ」
「人が愛し合う行為は、決して愚かでも汚くもありません!」
「清らかな乙女が口にするようなことではないよ」
彼の顔から愛情が剥がれ落ちたのがわかる。すでに要不要でしか物事が判断できなくなっているのだろうか?
目を覚ましてほしい、わたしは願う。
「満月だけが月ですか? 欠けていても、月は美しいではないですか!」
「欠けたものなど、不良品だよ。王にはふさわしくない」
ジークが笑う。完璧な笑顔だ。だけど、完璧すぎてわたしは怖かった。
わたしは思い出した。ギルバートが言っていたことを。ジークは不要なものを削りすぎて、大切なものまで捨ててしまおうとしているのだ。
だけどジークは拒絶を許してくれそうになかった。
じりじりと追い詰められる。針の先端がギラリと光る。
命を吸い取られそうな気がしてわたしは後ずさるけれど、やがて壁際に追い詰められた。
「早く。次の満月までは待てない。ソールとルーナが再び結ばれるためには必要なんだ。僕の中の魔を消し去るために」
「何を……!?」
今なんと言った?
目を瞬かせるわたしに、ジークは微笑んだ。
「僕の父は、魔に取り憑かれ、放蕩の限りを尽くして国を荒らした。僕はそうなりたくなくて、ルーナに願った。けれど、ルーナの力だけでは、僕の中のもうひとりの僕を完全に切り離すことができなかった。僕が眠っているときに現れるんだ。そのせいで、僕は妻を持てなかった。ずっと『あいつ』を消したくて仕方なかった。だから方法を探していたんだ。そうしたら、ソールの力を手に入れられれば、それが叶うと知った」
まさか、と思う。
「だから、君でないとだめなんだ。君は理想の女性だ」
そして、わたしは見つけた。
彼の右腕にある細い傷。
それは昨日ギルバートがバルコニーに飛び移る時についた傷。わたしがハンカチを巻いた、傷とまったく同じものだ。
雷に打たれたかのように真実がひらめいた。
彼が、消そうとしている魔というのは──
「母は僕に言い続けた。王は完璧でなければならない、と。君だって、夫に少しの瑕もあってはならないと思うはずだ。さあ、協力してくれるだろう?」
わたしは注意深くジークを見つめる。
そして少し考えたあと、精一杯の力で笑う。
「わかりました。わたしも一緒に祈りますわ、愛するあなたのために」
そう言うと、ジークはホッとしたように頬を緩める。
だけどそのあどけない笑みを嫌うかのように笑みを消した。
その笑顔はギルバートのかけらだ。
大丈夫、まだ残っている。彼の中には、ギルバートが。だからわたしは願うのだ。
ジークがわたしの手をとる。そして一瞬怯えたような顔をした。
そういえば彼が触れる時いつもこういう顔をしていた。触れるのをいとうているのだ。
排除したその部分が、捨てられた彼の一部が、ギルバートなのだ。
わたしはあなたを消させはしない……!
チクリと銀の針が指を刺した。
赤い雫が水盤に落ち、ふわりと広がり、映り込んだ月を赤く染めていく。
「『完璧な、ジークフリート王子を、私の前に!』」
わたしの知る完璧な彼を強く思い描く。神に思いが届きますように──かつて聖女だったわたしは、生まれて初めて国のためではなく、誰かの──ただ一人のために祈る。
水盤の月が金色に輝き、光がジークの身体を包み込む。
やがて、彼が目を開ける。わたしはハッとする。
澄みきった空のような青だった瞳の色が、紫色に変化していたのだ。