6
しっかりして、シャーロット。
あれは気の迷い。わたしはすでに夫のある身なのだ。もう二度と彼に会ってはいけない。
幸い、ギルバートは次の約束をしていかなかった。彼もきっとわきまえたのだろう。これ以上は不毛だと。だってわたしがこの国の王であるジークのものであることは、どうしようもないことなのだから。
そう思い込もうとするものの、甘い口づけの記憶はわたしを苛む。ジークといてもあれほど幸せな気持ちになったことはなかった。
ジークはわたしに触れないけれど、もしキスをしてもきっとあんな気持ちにはならないだろう。
忘れなければ……。
わたしにはジークがいる。だから、絶対に駄目。この想いだけは絶対にありえない。
胸が切り裂かれていく。とめどなくあふれる涙が枕を濡らしていく。
ごめんなさい。
今日だけ許して。今日だけだから。失った恋を想って泣くのは。
翌朝のわたしは、ひどいものだった。
「一体どうなさったのです⁉︎」
鏡を見ると目は赤く腫れてしまっていて、モリーに驚かれてしまう。
「色々考えてしまって眠れなかったの。モリー、急いで氷を」
このままではアイリスのときの二の舞だ。モリーまで罰せられたら大変だ。
午後にはジークがやってくるはず。それまでには何事もなかったように振る舞えないと。
「氷でございます。あ、でも、今日は陛下は夕方までは儀式のご準備でお忙しいのでこちらには来られないとのことですよ」
「そうなの?」
儀式とはなんだろう? 考えながらも、わたしは渡された氷嚢でまぶたを冷やしながらホッとする。このひどい顔はさすがに見られたくない。
それに、心の整理には時間が必要だ。何しろ同じ顔なのだ。きっと動揺してしまう。
いっそジークをギルバートだと思えれば……そんな最低な考えが浮かび、わたしは自己嫌悪に陥る。
あれは、夢だ。忘れるしかないのだ。
堂々巡りする思考にけりをつけたくて、わたしは言った。
「モリー、散歩に出かけたいのだけれど」
庭にはやはり塵ひとつ落ちていなかった。
完璧に整えられた直線的な垣根は病的な印象さえ受ける。昨日と今日で世界の見え方が変わったような気がする。
完璧は美しい。だけど、省かれたものは本当に無駄だと言えるのだろうか?
わたしの目はいつのまにか探していた。ギルバートの秘密の花園を。
あれ?
ここのはず……。
迷路のような庭をぐるぐると巡るけれど、扉もあの庭も見つからなかった。
どういうこと?
本当に夢だったのだろうか?
と思ったけれど、わたしの手には鍵がある。これはあの庭が、そしてギルバートが幻ではなかった証拠である。
夢だったと思うことにしたというのに、実際に夢だと言われてしまうと納得いかないのはなんでだろう。
次第にむきになる。
わたしの部屋は宮殿の東側のはず。そして月はあちらの噴水側から昇ってきた……。ってことは、こちらの道で間違いないと思うのだけれど。
渦巻き状の通路をぐるぐると歩いていると、庭師の青年が必死で石畳の上の葉を掃き清めていた。
ちょうどよい。聞いてみよう。
「おはようございます」
声を掛けると庭師はびくりと体をはねさせる。
「も、申し訳ありません! まだ掃除が行き届きませんで……!」
庭師はそのまま地面にうずくまる。
「え、ええと、いいのよ。葉が落ちるなんて当たり前のことでしょう? それより、聞きたいことがあるの。あのね……この辺に小さな庭があるでしょう? ギルバートという人が管理してる──」
頭を地面につける庭師を起こそうとしたとき、ふわり、とアゲハ蝶が花に舞い降りる。
「うわあああ、申し訳ありません!! 昨日駆除したはずなのに!」
「く、駆除!?」
庭師が血相を変えて蝶を叩き潰そうとしたので、わたしは仰天してそれをとめる。なにするの!
「ど、どういうこと? 蝶まで殺してしまうの!? 虫がいなければ、実りもないのに!?」
行き過ぎている。徹底した行為にぞっとして固まっているうちに、庭師の青年は逃げるように去ってしまった。
「待って!」
追いかけようとした、わたしは固まった。
すぐ近くの建物の二階に、探していた人の姿があったのだ。
「ギル──……」
呼びかけようとしたわたしは慌てて飲み込んだ。その人の瞳の色が、赤ではない事に気がついたのだ。
わたし──どれだけ馬鹿なの……!?
人影があるのは西側の建物だ。そしてそこは、わたしの夫の住処。
衝撃を押し隠して微笑もうとするけれど、口元だけの笑みはさぞやぎこちないことだろう。
わたしはごまかそうと手を振る。
するとジークはふ、といつもの柔らかな笑みを浮かべて手を振り返した。ほっと胸をなでおろすけれど、直後ヒヤリとする。
彼の口元は微笑んでいたけれど、目が笑っていないような気がしたのだ。
ジークは庭へ降りてきた。
「お忙しいってモリーが」
「ん。今日の夕方の準備でね。だけどやっぱり君に会えないのは寂しいから」
「ありがとう、ございます」
相変わらずジークは優しいと思う。すべてはわたしの気のせいではないかと思えるくらいに。
だって、懸念の一つ一つは大したことではないのだ。外側からかけられた鍵。塵一つない完璧な庭。虫を殺す庭師。
彼が完璧を求めるだけであって、そこにわたしを害しようという意図は感じられない。
彼はわたしを大事にしてくれている……?
アイリスのことだって、わたしを大事にするあまりの事なのかもしれない……?
そんな風に考えてしまえたら楽なのに。何かが違うとわたしの心のどこかが叫んでいる。
「君もそろそろ準備した方がいいかな」
「え?」
「言っていなかったかな? 夕方から神殿で儀式をするんだ。君にも参加してもらうんだよ」
そういえばモリーが儀式がなんとかと言っていた。
「え、でも、わたし、何をすれば……」
何の準備もなく妃としての仕事を求められたらこなす自信がない。慌てると、ジークは微笑んだ。
「僕の隣で座って見ているだけだから大丈夫」
ホッとする。だけど、不審に思った。
今の今までどうして知らせてくれなかったのだろう? この間、わたしが仕事をさせてほしいと言ったからだろうか?
「どういう儀式なんですか?」
「結婚式だよ」
「結婚式……?」
意味がわからずに首を傾げる。どなたかが結婚するのだろうか? それこそ聞いていないとおかしい情報だ。何も聞いていない。
「君と僕の結婚式は先日済んだ。けれど神と神の結婚が終わっていないんだ」
「神と、神……?」
「太陽神ソールと月の神ルーナのだ」
頭の中を疑問符が舞う。
「月の神……ルーナ」
神話は学んでいる。
ソールとルーナはもともとは夫婦だったという。だが、ある時仲違いをしてしまった。昼の国と夜の国とを分け、別々に暮らし始めた。
その後、神は人と結婚するようになり、神性と力を徐々に失い、人に近づいていったという。
その果てが今の王族だ。セルディアの建国史にも神話として書かれている。
「二人の神が仲違いをやめるということですか?」
理解が正しいか確認すると、
「そうだよ」
ジークは力強く頷いた。
「そして神代の力を取り戻す。闇に巣食う魔を倒すための」
彼の顔は真面目そのもので、おとぎ話を聞いていた気分だったわたしは面食らう。
神の力を取り戻す? 魔を、倒す?
「ソールを失った夜の国エリミアには魔が巣食ったんだ。ルーナだけでは御しきれず、魔は国を荒廃させるばかり。エリミアは長い間苦しめられている」
そんな物語みたいなことをジークが言うのが不思議だった。
わたしの知るジークは現実的で、夢見がちなことは言わなかったからだ。と言っても、まだ出会って少ししか経っていないけれど……。
ぽかんとしたわたしに彼は苦笑いをした。
「君は神の血を引くソールの娘だ」
「ソールの娘……」
確かに神話ではそう言われている。だけどそれは物語の中での話という認識なので、実感などまるでなかった。わたしには、特別な力はない。
「そして僕はルーナの息子。僕たちの結婚で、二つの国は再び一つになる。魔を追い払い、真の平和を取り戻す……と考えるとなかなか面白いだろう?」
ジークがそこで笑ったのでホッとする。
やはりこれは単なるおとぎ話なのだろう。神話になぞらえた儀式を伝統的に伝えることはよくあるし、セルディアでも神代の名残はどこかしこに残っている。
「そうですね」
だがどこか腑に落ちなくてわたしは尋ねた。
「でも、わたしたちの結婚式は儀式そのものではないのですか?」
王族の結婚なのだ。なぞらえるにはうってつけの神話だと思った。
二人の神が仲違いをやめ、そして国がまとまる──まさに政略結婚で同盟を結ぼうとしているのだから。
「それは対外的なものだったからね。今日のは満月の日の神聖な儀式だし、よそ者は入れない。限られた人間だけで行うんだ」
「そうなの、ですか」
よそ者、という響きは冷たい。
じゃあわたしは? という疑問が浮かぶ。心を読んだかのように、ジークは言った。
「君はもちろん関係者だ。僕の妻なのだからね」
でも……本物の夫婦とは言えない……のに? わたしは顔がこわばるのを隠すように俯いた。