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口の中のふわふわの白パンは、神殿で食べていた固いパンとは全く別物だ。神殿から一番近い村で焼いたパンを分けてもらっていたので、どうしても届くまでに水分が失われてしまうのだ。スープなしで飲み込めるのは奇跡のようだとぼんやり思う。
だけど、野菜や果物は味がしなかった。
どんな色のどんな形のものを食べても同じような味しかしない。太陽のにおいがしない。不思議なくらい。
靄のかかった働かない頭で考える。
「あら、お野菜も果物も残されるのですか? お口に合いませんでした?」
アイリスは心配そうに眉を下げた。
何でも申しつけくださいね? と初日に気さくな笑顔を見せてくれた侍女だった。
「いえ……そんなことは」
今まで不満に感じることはなかったのに。
わたし、どうしちゃったのかしら──?
と頭の中を探ったわたしは……真っ赤になった。
突如、頭が叩かれたようで。
ようやく寝ぼけていた頭が働き出した。昨夜の出来事が急によみがえったのだ。暖かく柔らかな感触とともに。
ひっと悲鳴が上がりそうになるのをこらえる。
わたしったら──! 夫がある身であんなこと!
唇を受けた額、そして首筋がカッと熱くなった気がした。
動揺が収まらずにいると、アイリスが不可解そうにわたしをのぞき込み、
「シャーロット様、お顔が真っ赤です! お熱ですか!?」
と大慌てした。
「な、なんでもない! 何でもないわ!!」
とその時、
「──どうした? 朝から大騒ぎをして」
扉が開くと同時に聞こえた声にわたしは固まった。
「じ、ジーク様!」
「シャーロット様の顔が赤くていらっしゃいまして」
アイリスが言い、やめて! と叫びたい気分でわたしは顔を両手で覆って隠す。
今は、顔を見られたくない!
ツカツカツカと足音が近づいてきたかと思うと、白い手袋をした大きな手がわたしの額に触れた。
「…………!」
息が止まる。彼に触れられるのは、結婚式の時の儀式的な頬へのキス以来だった。だがそれ以上に、彼が触れたのがギルバートがキスをしたその場所だったから。
「ん……熱はないみたいだ。この国は君の国より寒いから、気をつけてくれよ?」
ほっとした様子でふんわりとほほえむジークの爽やかな笑顔に、わたしはぼうっとなった。
だけど、同時にあの妙に色気と陰のある笑顔が彼の顔に重なり、胸が変な音をたてる。
申し訳無さと後ろめたさに、わたしは目を伏せる。彼の顔を見ていられなかった。
その日、ジークは仕事の合間にわたしのところへ顔を見せた。
これは結婚してから毎日のことで、忙しい時間を縫っての来訪には心が踊った。
彼の運んでくる、軽やかな空気感がとても好きだったのだ。
「──それでね。今度、城下町に修繕を入れる予定なんだ。大通りの裏がどうしても治安が悪くなるからね、風通しをよくしてやればずいぶん良いと思うんだ。そのための視察もしたいから、少し忙しくなるけれど、終わったらゆっくりできるから」
テーブルの上には香りの良いお茶と、砂糖菓子。
どちらもエリミアではなかなか手に入らないはずの高級品なのだが、彼はわたしに不自由をさせたくないと様々なものを揃えてくれる。
だけど、わたしは菓子に手を付けることができなかった。
「わたしもご一緒することはできませんか? なにかお手伝いさせてくださったら、嬉しいのです」
仕事をしないのに贅沢をしているという状況は落ち着かない。
生活が落ち着くまではこんなものだろうかと思っていたけれど、そろそろ役割を与えてほしいと願う。王妃には統治者の妻としての責任が伴うはず。
「今はまだ危ない場所があるからね。君を危険に晒したくないんだ。君には時が来たら役目を果たしてもらうから、気にしないでもう少しゆっくりとしてくれたらいい。今はここにいてくれるのが一番安心なんだ。もし君になにかあったら光神ソールの怒りを買ってしまうし、なにより僕が生きていけないよ」
低くて甘い声で諭される。優しく甘い眼差しには愛がこもっている。胸が暴れて仕方がなかった。ただでさえ精悍な容貌なのだ。これでときめかない乙女はいないだろう。
だけど、わたしはどうしても気後れしてしまう。
なぜわたしを? という疑問が消えないのだ。
人が人を好きになるのには理由があると思うのだ。わたしがジークを好きになる理由はたくさんあると思うけれど、逆の理由がわたしには思いつかない。
だって、わたしの姉たちはわたしよりもずっと美しいし、父にも気に入られていた。政略結婚を申し出るのであれば、わたしのようなみそっかすよりも姉たちを妃にしたほうがずっと国のためになるはずで。
内面を気に入ってくれたのかも? と前向きに考えようとしても……内面を知ってもらえるほどの時間は経っていない。そもそも、初めて出会ったときからあの態度だった気がする。
そんな疑問に加えて、今日、わたしの頭の中はギルバートのことでの後ろめたさが半分以上を占めていた。
こんな素敵な夫がいるというのに、わたしったら、なんて馬鹿なんだろう。
わたしがもう少し賢く、注意深ければ、あんなことにはならなかった。
情けなくてしょうがない。あれだけ王妃にふさわしい行動を、と言い聞かされていたのに。
『シャーロット様は、普段はおしとやかであられますのに、突然突飛な行動をされることがございます。これからは身を滅ぼすことになりかねませんから、十分ご注意をおねがいいたしますよ?』
と何度言われたことか。
心の中が曇ったとたん、ジークがふと話を止めた。
「どうかした? 朝から変だ。疲れているのかな」
わたしははっとする。顔に出てしまっていたらしい。彼はわたしの変化に目ざとかった。
「……まだ少し顔が赤いな……? アイリス」
ジークの静かな声にアイリスが背筋を伸ばした。彼女の顔はこわばり、足は細かく震えていた。
「やっぱりシャーロットは体調が悪いみたいだね。なにか心当たりはないかな?」
「も、申し訳ありません! これからはこのようなことがないようにいたします。ですからなにとぞ──」
アイリスがひどく怯えている。わたしは驚いて思わず話を遮った。
え、なんでそんなに怯えてるの?
「あ、あの、お待ち下さい」
ギルバートの事を言う訳にはいかないけれど、アイリスが責められるのは困る。後ろめたさを隠しながらも、わたしはわざとらしくならないようにゆっくりと言う。
「アイリスは悪くないのです。ええと……わたしが昨夜、風に当たりすぎただけで」
ジークは驚いたように片眉を上げる。今までに見たことのない表情にわたしはひるんだ。
「夜? 風?」
「あの、あまり眠れなかったので、バルコニーに出ていたのです」
「……バルコニー、か」
ジークは探るようにわたしを見つめ返した。
隠し事がバレてしまわないかハラハラしたが、目を逸したら余計に怪しい。お腹に力を入れて微笑む。
ジークはやがて安心したように、いつもの愛情のこもった笑みを返してきた。ほっとしたとたん、
「眠れないって何か悩み事でも?」
わたしはぎくりとする。頭の中のギルバートを探し当てられたような心地がした。
「……い、え」
彼はわたしの目を見つめてくる。その眼差しは甘いのだけれど、細かな変化も見逃さない、とでも言うような鋭さをはらんでいた。
嘘をつくのには慣れていない。顔が引きつらないようにするのが精一杯だった。
「困ったことがあったら、なんでも言ってくれよ? あなたは、僕の大事な人なのだから」
「……ジーク様…………」
ジークの目が緩んだ。温かい笑みにわたしは泣きたくなった。
だって、そんなふうに言うのなら、……態度でも示してほしい。
問題の根はジークにこそあった。ジークがわたしのところに来てくれていたら、こんなことにはならなかったのだ。
夜の庭に出ることもなかったし、ギルバートに会うこともきっとなかった。
どうして──。
喉元まで上がっていた言葉だが、わたしは飲み込んでしまった。
「いえ、大丈夫でございます。わたし、本当に幸せですわ」