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 わたしは、寝台の上でぼんやりと膝を抱えていた。

 左手の薬指には華奢なデザインの金の指輪。そっと撫でるとため息が漏れた。

 フリルとレースで飾られた、気合いの入ったシルクの寝間着も、最初に袖を通したときからずいぶんとくたびれてしまった気がする。

 新品の調度品に囲まれ、咲き誇る薔薇の花の香りの中で、幸せな時を過ごすはずだった。――はずだったのに。

 薔薇はしおれて、よどんだにおいさえ混じる。これはきっと死のにおいだ。花は摘んだとたん、死をその身に纏うのだから仕方がないのだけれど。

 ここはもう神殿ではない。だから自生する野の花もないし、リスも駆け回らないし、鳥だってさえずらない。わかっているけれど、まだ慣れない。

 そしてこんな風にじっとしているのも、だ。

 足が歩こうと訴える。外へ出て、裸足で駆けようと誘う。誘惑にむずむずと足の指が動く。だけどだめ。わたしはもうお嫁に行ったのだから、妃にふさわしい行動をとらねばならないの。

 でも……本当に、そんなふうに演じることは必要なの? だって。

「ジーク様。また、来られなかった……わ」

 つま先を丸めて、誘惑をやり過ごすとため息が床に落ちる。乾いた冷たい風がそれをさらって外へと運んでいく。あの方のもとへ嘆きをと届いてくれたら。そうして彼を連れてきてくれたらどれだけ嬉しいだろうか。




 わたし──シャーロット・セルディアは、セルディア王国の末の王女であり、光神であるソールを祀る神殿の聖女でもあった。

 セルディアは広大な領地を持つ農耕の国だ。だが、大規模な灌漑事業を行った矢先の干ばつは痛かった。水が足りなくなり、水源地となりうる新しい領地を欲しがっていた。

 狙ったのは、大河を有する東の隣国ガーディア。

 セルディアは戦の準備に入った。だが、突如として北の隣国エリミアが水源地を一つ渡す代わりに聖女──わたしを差し出すという協定の条件を出してきた。

 高原の国であるエリミアの有する水はガーディアに比べると少ないが、戦のリスクを考えると十分なものだった。エリミアにとっても、この協定でセルディアとのつながりを持てるのは大きなメリットだと言えた。

 青天の霹靂とも言える和平案に、セルディアはあっさり乗っかった。

 わたしは平和のために、父の命令に従うしかなかった。

 急遽施されたお妃教育は、田舎娘であるわたしにとっては苦行意外の何でもなかった。

 あれをしてはだめ、これをしてはだめ。お妃にふさわしく、ソールの娘として恥ずかしくない女性を演じていただきます、と徹底的に矯正された。

 そうしてなんとか嫁いできたものの……結婚式から十日経つというのに、夫、ジークはわたしの部屋を訪れない。

 いや、昼間は訪ねてくれるのだ。花やドレスなど、大量のプレゼントを持って。そして温かい言葉をかけてくれる。疲れていないか? 退屈していないかい? とたくさんの気遣いの言葉をくれる。

 ジーク、ジークフリード王は、白金の髪に青色の瞳をした、壮絶な美貌を持つエリミアの若き王だ。

 整いすぎた美貌のせいもあって一見すると氷のような冷たい印象を受けるのだけれども、ほほえむとまるで春の野にいっぺんに花が咲いたように雰囲気が華やかになる。

 立ち振る舞いにも少しの隙がなく、田舎娘であるわたしは最初気後れして言葉を発せられないくらいだった。

 そんなわたしに、あなたはそのままでよい、そのままを大事にしたい、と言ってくださった。そんな穏やかで優しい印象の方だった。

 男の人どころか、人に免疫のないわたしはジークに一目惚れしてしまったのだけれど、日に日に、さらに彼に惹かれていくのがわかった。戸惑っていた結婚だというのに、三日も経つと、わたしはとても幸運なのだと思えるほどになっていた。

 だけど、未だ夜の訪れだけがない。

 それどころか彼はわたしに指一本触れてこない。

 まるで、そのような行為など存在しないとでも言うように、まったく自然体でいるのであった。

 本物の夫婦とは何かくらい、いくら世間知らずのわたしだって知っている。

 花嫁修業でもしっかり言い聞かせられたし、それに、生きとし生ける物がどうやって命をはぐくんでいるのか、自然から学んでいるのだ。人間だけが特別なわけがない。わたしは妃として務めを果たせていない。

「ジーク様……どうして?」

 わざわざ指名されたのだ。求められてやってきたと思っていた。

 だからこの差違には驚くと同時に落ち込んでしまう。

 もしかしたら、会ってみたら想像と違ったとか? あるいは、聖女と言うからには清らかで美しいと想像していたのかもしれない。

 だけど実際のわたしは──

 壁にはめ込まれた鏡を見つめる。背の中程まである赤髪は猫っ毛のくせっ毛だ。日に焼けたせいで、肌には薄くそばかすが浮いている。健康的な美しさだとばあやは褒めてくれたけれど、自信を持って美しいといえない容貌だった。

 姉妹の中でも美しい方ではないし、城での教育係も期待はずれという顔をしていた(もちろん言いはしないけれど、態度からにじみ出るものがあった)。

 父だってそうだ。父はきっと、姉たちに劣るわたしの容貌を恥じてあのような辺境に追いやったのだと思う。

 わたしの育ったのは辺境のエガタという村だ。険しい山に囲まれた小さな盆地にある白い岩で作られた神殿は荘厳で、人気ひとけがなかった。

 かつてのソールは強大な力を持っていたという。だが神が人になり千年。すでに力を失った神は形式的に祀られるだけで、神殿は国内でも要所と言える場所ではなかった。

 そのため、わずかな騎士たちが交代で赴任してきては、暇を嘆き、短い務めを果たしたあとは晴れやかな顔で都へ戻っていく。年老いたばあや──乳母だけがいやな顔一つせず、ずっとわたしの世話をしてくれていた。

 聖女は、神話では神の娘とも言われているけれど、実際は政治の駒として漏れてしまった姫が”嫁ぐ”場所だった。選ばれたわたしの務めと言えば、身を清めて朝と夜の祈りをささげること。あとは野を駆け回ることだけだった。

 神殿の周囲には草原が広がっていて、わたしの友人はもっぱら野の花と蝶、野ウサギや野ねずみだった。

 つつましいけれど、不自由はなく幸せだった。それでも、いつも人恋しかった。

 だからこうして人のいる世界に返してもらえてわたしはうれしいのだ。うれしかったのだ。

 なのに。

 このままじゃ、わたし、ずっとひとりぼっちなのかもしれない。

 人がいるのに関われないのなら、昔と一緒。いや、ここには愛すべき大地もないのだからそれより悪い。

 薔薇の花びらがはがれ、ひらりと床に落ちていく。それは朽ちていくわたしの未来のようで。

 そんなの、いや。

 突如わき上がった嘆きがわたしのどこかに火をつけた。出番を待っていたかのような足がはね、寝台から飛び降りる。そして寝静まった廊下へ飛び出すと、衛兵が見張りをしていた。後ろを向くのを見計らい、足音を忍ばせてリスのように駆け抜けると、そのまま中庭へと飛び出した。

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