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5.逃げて、追って、捕まえて

 ドアをノックし反応がないのを確かめてから、鍵を差し込む。知らせておいた合鍵はポストから無くなっていたから彼女が持って入ったはず。鍵が開く音がしてほっと息をついた。ノックした時点で出てくることも想定していたからだ。

 室内に入り改めて鍵をかける。念には念を、だ。それから中を見渡してみたが見える位置に彼女は居なかった。


「稲森さん……?」


 名前を呼ぶとソファの後ろに立つパーテーションの向こうで影が揺れ、ひょこっと彼女が顔を出した。へりを掴んで目元だけを出して覗くその様は、こんな状況の中で僕の心を和ませてくれた。しかもその手には箒が握られていて、思わず笑ってしまう。


「危機管理ができていてよろしい」

「だって、あんな中途半端な電話を寄越すから」


 箒を片付ける彼女に、奥の部屋に居てくれても良かったのに、と何気なしに言ってみたが首を横に振られた。他人の生活空間に勝手に入るのは忍びなかったらしい。不用意な自分の発言に熱くなる頬を掻いた。何かを起こす気なんて当然無いけれど、軽く言ってしまう程僕達は子供ではなかった。勘違いするようには思えなかったが、言葉には気を付けなくてはいけない。

 こんな時に何を馬鹿なことを考えているのか。笑ってはいられないんだ。


 彼女を呼ぶ声が何か違ったのだろう。電話での剣幕を思い出したのかもしれない。脱いだコートを彼女のものの隣に並べてから振り返っても、部屋の隅に突っ立ったまま彼女はこちらに来ようとはしなかった。


「稲森さん?」

「……何?」

「こっち、来てよ。話さないといけないことがあるんだ」


 自身の腹の辺りを抱き締めた彼女は、それでもまだそこに居る。困ったような顔で僕を見ていた。


「今じゃなきゃ、駄目?」

「うん。できるなら今すぐ」


 俯き加減にとぼとぼと歩き始めた姿に記憶がフラッシュバックする。何度か見た、こんな姿を。

 彼女は深刻な状況に過敏で、できることならいつだってそれを回避しようとする、そんな子だった。卒業間近になると、卒業という単語を出すだけで逃げるようにその場を離れていって。他の人とはそうでもなかった気がするが、隣の席の僕は迂闊に話しかけることもできなくなった。共通の会話なんて学校のことくらいしかなかったのに、それで二度三度逃げられてしまったから。そして当時の僕は、話すことはできなくても隣の席に居てくれることを選んだんだ。

 向かいのソファに座る。こんなにも早くまたここで会うことになるなんて。その隣に彼が居てくれたなら、どんなに良かっただろう。


「驚かせてごめん。きっとすぐに君の耳に伝わるだろうとは思ったんだけど、僕から君に伝えたくて」

「大丈夫。……何?」


――三条さんが、ビルの屋上から転落した。

 心臓の音で自分の声が上手く聞こえなかった。ただ、彼女の瞳孔が開いたのが光の加減でよく見えて、伝わったのだと理解した。

 彼女は言う、無事なのかと。


「後頭部を打っていて出血がひどかった。脈も、止まっていた。救急車も呼んでるみたいだったけど、もう……」


 答えると、そう、とだけ呟いて動かなくなった。まるでショーケースの向こうで守られる、白磁の人形のようだ。圧倒的な隔たりをまたいで近付くことは、僕でなくても困難だろう。恐らく彼女自身が認めた人でなければ。

 僕が見た状況を今の彼女に話すのが酷なことは分かっていた。でも話さなくてはいけないと思ったし、彼女は聞くべきだとも思った。他に見た人は誰も居ない、たった僕だけがその瞬間に遭遇しているのだから。色味もない硬く凍り付いたその顔に、全てを細かに話していった。


 現場から持ち去った携帯電話を差し出すと、あの人のだと言ってそっと触れた。あの高さから落ちたのに、背面に細かな傷が付いている程度で奇跡的に無事だった。僕の肩に当たったからかもしれない。電源が入るとぼうっとした光と共にふたりの人が浮かび上がった。こちらから逆さに見ても分かる、もう寄り添うことのできない彼と彼女の姿だ。

 隠すように画面が黒くなると、自然と視線がぶつかった。


「持ってきてくれて、ありがとう」


 その言葉に、向けられる頼りない笑みに、僕はもう耐えられなかった。


「どうして……何で怒ってくれないんだっ! 

 僕が救急車を呼んでいれば助かる見込みだってもっと……なのにもう無理だって、諦めて。

 ふざけるなって怒ってくれよ、じゃなきゃ僕、まるで……」


――いいことをしたみたいに、勘違いするじゃないか。

 それ以上言えずに頭を抱えると、息を吐くのが聞こえた。


「怒るはずないじゃない」


 見返した顔は確かに、険しいものではなかった。だけど少しだけ、哀しそうに見えて。蹴躓いて倒れた僕に手を差し伸べた時と同じ顔をしていた。何やってんだと笑う友人達の中でひとり、ただ手を伸ばして心配してくれたその顔で。……あの時の僕はその手を取ったんだっけ?

 膝の上で子猫みたいに丸まった彼女の手は相変わらず眩しい。触れることを恐れてばかりの僕とは違う、勇気を持った手だ。やはり僕はその手を取らなかったのかもしれない。だってこんなにも目に痛い。

「だってそうでしょ?」 続いた声が、僕の顔を上げさせるためだなんて気付いていたのに、性懲りもなく誘われて、顔を合わせる羽目になった。


「あの人が落ちたのは神咲くんのせいじゃないんだから。それにわざわざ屋上まで上がってくれたんでしょ?」

「でもそれは、探偵の真似事みたいなもので……」

「いいの、それでいいのよ。確かめようとしてくれた、その事実だけで十分だもの。

 だけどそれだけじゃない。こうしてあの人のものを持って来てもくれた。それが本当はいけないことだって誰よりも分かっているのに、そうしてくれた。感謝の気持ちしかないよ」



 分かっていた。現場から遺留品を持ち去ることが罰せられるべきことだと、分かっていた。根強く植えられた知識は常識で、今更忘れることはできない。

『俺たち警察は、現場にあるものとないものの両方から、事件を調べなきゃならない。ガラスの破片ひとつだって大事な証拠なんだ』

 幼い僕に語りかける掠れ気味の声が、今の僕を諭してくる。大好きで、憧れで、ずっと目指してきた――大嫌いな声が。

 何度聞いたか分からない。僕が何かを間違う度、失敗する度に自分の職業を引き合いに出して、それを僕は無条件で鵜呑みにして。追ってきたものこそが間違いだったともっと早く気付いていたなら、そうしたら母さんは……。


 よそう、今は。彼女と僕の間にそんなことは関係ない。嫌でもいずれ本気で向かわなければいけない。そのために僕は、今の僕になったんだ。だから彼女と居る今は、ただ彼女のことを考えていよう。

僕は謝らなかった。彼女が僕の未熟な行動に「ありがとう」と返してくれたから。彼女の優しさを踏みにじることはしたくなかった。でも他に言葉は思い付かなくて、これからのことを聞くことにした。


「これから、どうするの?」

「……どうしたらいいかな?」


 警察からすぐにでも連絡がくる筈だ。そうして彼と対面することになる。その死の根底にあるものを警察がどう判断するにしても、何かしら事情を聞かれることになるだろう。自宅の近所で亡くなったのとは訳が違うんだ、何のために来てどこに居たのか、そういった話を免れることはないだろう。もし心情を配慮されたとして、たった数分の会話だったとしても、それが彼女の心に軽い筈がない。できるならそんな彼女の隣に居てやりたいと思う。許される限り、少しでも長く。

 どう伝えたらいいだろう。支えたいと思う一方で、自分でも分からない不純な何かがあるような気もして声が出なかった。



 すると着信音が鳴り始めた。彼女のだ。ぼうっとした様子で辺りを見回してから、コートのポケットに入れたままなのを思い出したようで、足を引きずるように向かって行った。ここからだとパーテーションに遮られて、振り返り身を乗り出さなくては姿を確認できない。途切れた着信音の代わりに聞こえた、もしもしと応じる声を背中で受けて、僕はソファに深く身体を沈めた。

 そのまま見上げた掛け時計は既に一時を越えている。彼は直接警察署に運ばれたのだろうか、そんな気がした。病院に運んで処置するには遅かったように思う。自身を肯定するつもりはないが、僕が通報していても恐らくはそうなったのではないだろうか。頭の損傷もあったし、電線に当たっていたようだから運が悪ければ感電の可能性もある。ゴミ収納庫もクッションにはならなかっただろう。素人目から見ても彼は即死だった……。

 初めは軽かった窓の揺れる音も時折叩きつけるみたいに大きくなって、僕はいつもと同じくひとりきりのようだ。



 足音がして、彼女は座らないまま向かいのソファに手をかける。包み隠す黒いコートは、今では喪に服しているようにも見えた。


「行ってくるね」

「……ひとりで大丈夫? 良ければ一緒に行くよ」

「ううん。一緒に行ったら神咲くんまで色々聞かれちゃうでしょ。同級生だって言っても素直に信じてもらえるとは思えないし」


 申し出を断られて、それもそうだと頷く。婚約者が亡くなっている状況で他の男と行動するのは軽率か。勘繰られても仕方ないかもしれない。自分から事態をややこしくしにいくべきではない、彼女のためにも。その手に指輪がない理由を僕が聞ける筈もなく、大人しく引き下がることにした。

 行ってくるね、と重ねて一度は背を向けた彼女が、またこちらを振り返る。


「もし神咲くんの迷惑にならないなら」


逡巡する表情は強張って、綺麗な眉は苦しそうに歪められた。


「また、ここに帰ってきてもいい?」


 それは過去の記憶からすれば、苦手なことをする時の顔だったと思う。内心は嫌で、だけどどうしてもやらなきゃいけないことを前にした時。そんな時にこんな顔をしていた。

 だから本当は言葉ほどには望んでいないのかもしれない。ただ知らない土地でひとりの時間を過ごすことを嫌がった結果、僕に頼らざるを得なかっただけなのかもしれない。しかし理由はどうあれ彼女の拠り所となれるなら。彼女自身が少ない選択肢の中から僕を選び取った以上、僕も相応のやり方で応えなくては。


「……君が望むなら」


――今だけは僕のエゴで、彼女を縛りつけることを許されるだろうか。


  

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