カナエちゃん
ばっちゃのことをよく知らない僕。なにしろばっちゃときたら僕が生まれるずっと前に逝去しなさった。写真もほとんど残っていない。じっちゃは頑なにばっちゃのことを秘匿。愛故か。じっちゃの心孫知らず。謎に満ちたばっちゃの生涯を知ることは今や歴史上の戦国武将を知ることより難しい。文献などもあるわけない。ばっちゃなんてもんが本当にいたのかすら懐疑的な僕。いやそりゃばっちゃがいなければ僕はいないからいたんだろうけど。しかして僕が実は孤児であったのだ。というトンデモ起源説があったところで不思議はあるまい。
「だが少年。名前を知ったくらいで協力してくれるというのは一体どんな了見だ。おかしくはないか。名前を知っただけでこの危機的な状況に加担するというは。あれか。個人情報を集める業者か何かか。それとも知り合い名簿を作ってにやにやしているタイプの変態少年か。気持ちが悪い!」
カナエはぺっとその場にツバを吐いて眉間の皺を深めつつ何やら一人でぶつぶつ言いつつ槍はイカに。さすが狩人。獲物から目を離さないなんて見上げた根性ではあるまいか。カナエがこちらを見てないうちにとっておきの変顔をしておく僕! いや変態少年というのもあながち間違ってはいないかもしれぬ。
「カナエちゃん」
「ちゃん! まさかの! ちゃん! 初対面で! この誇り高い雑色一族に向かって! ちゃんとか言われるとぞーっとするんだー!」
「カナエさん」
「それでよし。あるいは様でもいいんだ」
「カナエ様」
「なんだ。用があるなら早く言うんだ。わたしは今ご覧のとおり非常に忙しいわけだ。できれば集中したいところなので早めに用件を言え」
「雑色一兎という名前の僕」
はじめに名乗るのが日本のマナーであったか。少しばかり順番が狂ってしまった。しかして狂ったこの状況においては瑣末なことだろう。今は悠長に自己紹介などしている場合では全く無いのだ。無いのは危機感か。無いのは現実感だ。だからわりと平静な僕。
でもカナエはそうではなかった。
僕の名前を聞いた途端こちらを向いて可愛いくせにニヒルな笑顔を浮かべて言う。
「一兎。お前も雑色の者か。それはまた奇遇だな。宿命!」
「いやそんな大層なものは持っていない僕!」
「お前はまだ訓練を受けていないようだ。いや先ほどのナワを使った運動。あれも訓練の一種か」
「いやただの趣味だ」
「趣味か。それでもきっと雑色の血がそうさせるのだ。意識高い系の血族ゆえにな」
なんだその血族。そんなにプライド高くない僕。
「まあそこで縮こまって震えているのがいいんだ。何度も言うようだがこいつはわたしの獲物だ。見事しとめてみせた暁にはお造りにして一杯やろう」
カナエの目が据わる。