後編
夜が来た。
リビングのドアが開き、世美子が現れる。
「今日も違う服だね」
「そりゃ、女性ですもの。いくら夫が相手とはいえ、気を遣わなくっちゃ」
そう言って笑う世美子。どういう仕組みかはわからないが、そうやって彼女が今までと変わらない姿を見せてくれるのは、この上なく嬉しい事だ。しかし、そこで喜んだあとで我に返った。あと二日でこの姿も見納めになるのだ。
だから私は努めて冷静に振る舞う。それは、別に私の意地っ張りではない。不安そうな顔を見せれば、彼女の顔が曇ってしまう。それは見たくない。
「ご丁寧にどうも。さ、座って」
彼女はいつもの場所に腰を下ろした。
「いろいろ考えて、こういう結論になった」
私が彼女の前に置いた皿には、実に粗末なサンドイッチが乗っていた。
六枚切りの良くある食パンに、これまた何の変哲もないマーガリンを塗り、三パックぐらいで纏め売りされているようなハム二枚と、いわゆるスライスチーズを一枚挟んだだけのもの。
「これ、懐かしいわね」
世美子はそれを見るなり今までにない柔らかな笑みを見せた。
「確か、あなたが初めて作ってくれたサンドイッチだっけ?」
「そうだよ」
「なんか、お腹減ってたのよね」
「うちも君のところも、両親が共働きだったからなぁ」
「普段は私が作ってあげてた」
そうだ。チャーハンとか、ラーメンとか、簡単なものだったけど、世美子は料理が美味かった。
その実力は結婚後もいかんなく発揮されていた。彼女のお蔭で、私の胃袋はどれほどの幸せを感じられたことだろう。
私の仕事が忙しくなって、ほとんど家に戻れなくなるまでは。
「君の作ったサバ味噌は美味かった」
「私の部屋にある料理ノートにコツがメモしてあるわ。作ってごらんなさい」
「いいよ、遠慮しとく。君が作ってくれるから美味しいんだ」
「ええ? そんな特別なものじゃないわよ」
「私にとっては特別なんだよ」
「ふうん、そう」
ロマンチックな回答をしたつもりだが、彼女にとっては詰まらなかったらしい。相槌がため息混じりだった。
「ごめんね、これじゃないの。これも大切な思い出の味だけど、そうじゃないの」
彼女は悲しそうにそう言った。
「あと二日か」
「諦める?」
「まさか、私がそんな性格だと?」
「まさか、そうだと思っていたら最初から来ないわ」
「でも」
「でも?」
「ヒントくれない?」
私の言葉に少し考える世美子。
「ヒントはねぇ……」
世美子さんがさらに何か言おうとするより早く、リビングのドアが乱暴に開かれた。
「おーっと、それ以上は無しだぜ、ミセス世美子」
光を反射する素材がたくさん貼り付けられた悪趣味な銀色のタキシード姿の男がそこにいた。
「ヒントを与えるのは、無しだ。大小に関わらず。本当は日常会話だってなしにしたいぐらいだが、俺様は心が広いからな」
早口でまくしたてる男は、浅黒い肌に赤い目をしている。
寝不足?
世美子さんはすっかり顔見知りらしいが、とにかく気まずそうな顔をしていた。
「ああ、最悪だわ……」
「最悪なのは君だよ、ミセス世美子。あれほど契約書について細かく説明しただろう?」
「わかってる、大丈夫言わないわよ」
「怪しい物だ。大体、君が用意した答えからして、反則気味なんだから」
「でも、認めてくれたじゃない」
言い合う二人。なんとなく声をかけ辛くて咳払いをしてみる。
二人はそれで一度口を閉じ、私の方を見てくれた。
「この、不眠症の派手男は誰?」
「えーと、私の最後の望みを叶えてくれるっていう……人?」
「おたく、どなた?」
世美子自身もよく分かっていないようなので、本人に説明を求める。等の不眠症男は渋い顔つきをしていた。
「まいったねぇ。俺様ともあろうものが、思わず出てきちまうなんてさ。大失敗もいいところだよ」
どうやら、私の前に姿を見せる予定は無かったという事らしい。
「ああ、俺様の事はなんとでも好きに呼んでくれ。神様でも良いし、悪魔でも良い。未練を残して死んだ人に、心残りを解消させてあげる慈善団体のイケメンでも良い」
色具合はともかく、確かに顔立ちは整っている。だが、人種はよく分からない。口調からして男性なのだろう、と言う程度か。
「じゃあ悪魔で」
「はやっ」
「色黒で目が赤いと言えば悪魔だ」
「まあ、良いけど」
自分で言い出したくせに、不眠症男改め悪魔は悪魔と呼ばれることが不本意であるらしかった。じゃあ候補に出すなよ、と言いたい。
「とにかく、助言は無しだ。じゃあな」
「まてまて」
私は去っていこうとする悪魔を引き留めた。
「なんだよ」
「いや、せっかく出てきたんだし、事の詳細を説明して欲しいんだけど」
「いいぜ。お前はこのミセス世美子が食べたがっているサンドイッチを七日以内に用意する。できればお前の価値、できなかったらお前の負け。それだけだ」
拍子抜けするほどあっさりと、悪魔はそう教えてくれた。
「できたらどうなる?」
「彼女は笑顔で天に召される」
「できなかったら?」
「この魂は俺様のものだ」
にやにや笑う悪魔の隣で、世美子がぎゅっと目をつぶった。あれは怖がっているときにする仕草だ。そりゃそうだ、得体のしれない奴に俺様の物とか言われたって怖いだけに決まっている。
「こんな高貴な魂は最近見たことが無い。実に上質で価値が高い」
「それをどうしても手に入れたいってわけか」
「そういう事」
「じゃあ信用なんてできないじゃないか。彼女欲しさにお前がデタラメする可能性だってある」
「そんな事は無い。俺様はルールは守る。そういう生き物だ」
悪魔の赤い目をじっとのぞき込む。この得体のしれない生き物を今は信じるしかないのだろう。
「お前のレシピはいくつある? 百か二百か? 多いほどいいな。選択肢が増えて、お前は迷うだろう」
あと二日、楽しみにしてるぜ。
そう言って、男は入ってきたときと同じようにリビングのドアから出て行った。
「それじゃ、また明日ね」
いつもは力強い瞳に涙をためながら、世美子はそう言って悪魔に続いて出て行った。
六日目。
いつものように世美子はリビングにやってきた。
「らっしゃい」
「居酒屋か」
「それは、らーしゃーっせー!!」
「一人ですけど」
「おひとり様っご案内しゃっす!!」
世美子はやや呆れつつもいつもの場所に腰を下ろした。
「今日はこれ」
世美子の前に置いた皿には、ローストビーフサンドが乗っている。
「四年前の結婚記念日に作ってくれサンドイッチね……」
「そう、君に向けて作った最後のサンドイッチだ」
肉は最上級の和牛。パンは軽くトーストしてから発酵バターを塗る。味付けはグレイビーソースとホースラディッシュ。シンプルだからこそ難しい。自分でも自信の一作だった。
「これ、本当に美味しかった」
味を思い出しているのか、目を閉じてうっとりとした口ぶりになる。
「でも、違う……」
「だと思った」
「え?」
「ん?」
ぽかんと口を開けたまま、私を見つめる世美子。いやまあ言いたいことはわかる。
「つまり、昨日の会話で何となく理解したんだ、君の選んだサンドイッチ」
「じゃあなんで?」
「そりゃあ……」
さっきまで開いていた口はきゅっと結ばれている。目も真剣だ。はぐらかせば逆鱗に触れることは必至。
「今日正解を出しちゃったら、明日は君と会えないじゃないか」
「あ……」
「ほんと、一週間なんて短すぎるよ」
「そうね……」
呟くように言ったきり、世美子は黙り込んでしまった。
「ねえ、確認していい?」
「あの人になら、指一本触れられていないわよ」
「ああ、それは安心した。でも、聞きたいことはそうじゃない」
「じゃあ何?」
「まあ、あの悪魔に関係はしているんだけど。その……君は怖がってたよね。でも、彼と契約した。なぜ?」
私の質問に、世美子はしばらくは指先で遊びながら黙り込んでいた。しかし、やがて大きく深呼吸をした。
「嫌だったの。あなたとあのままお別れするのが」
「え?」
「擦れ違いばっかりで、最近じゃろくに話もしてなくて。ずーっと寂しかったの。そのままでさよならなんて、いくらなんでもあんまりだと思わない?」
「すまない……」
「違うの、あなたは謝らないで。あなたは私を粗末にはしない。そんな事、わかってる」
ひんやりとした世美子の手が、私の手を握った。
「あなたはいつか私の隣に座ってくれる。その時には、ひょっとするとすっかり年寄りになっているかもしれないけれど、それでも良いの。そこからまた私達を始めるの。いろんな話をしたり、旅行に行ったり、プレゼントを貰ったり、あげたり。それから、あなたの作ったサンドイッチを食べたり」
世美子はそこまで言い終えて一つ息を吐く。
「まさか、私が死んじゃうなんてね」
「世美子……」
「まだまだ私たちの先は長いって、信じてたのよ。未来は、明るいって」
「私もだよ、世美子」
「ごめんね」
「私の方こそ。本当にすまなかった」
しばらくは二人とも言葉が無かった。
やがて私の手を握っていた世美子の手が緩む。
「明日、期待しているわね」
「ああ」
世美子は立ち上がり、リビングから出て行った。
ついに最終日が来た。
世美子はすでにいつもの場所に座っている。
緊張しているのがありありと見える。何しろ、簡単な挨拶以外全く喋っていないのだ。
「世美子、大丈夫?」
「ええ、平気よ。何しろ、あなたは正解を出してくれるんだもの。そうよね?」
最後のそうよね、には縋り付くような響きがあった。
気持ちはわかる。だが、私が世美子をおめおめと他の奴に渡す人間かどうか、そこを考えて欲しい。
もちろん、答えはノーだ。
誰が世美子を渡すものか。
「それじゃお願いするわね。あなたの作る最高のサンドイッチ」
「ああ、これさ」
私は持っていた皿を彼女の前に置いた。
「ちょっと待ったぁ」
私や世美子が何か言う前に、大声でそう言いながら悪魔が入ってきた。
「俺様も立ち会わせてもらうぜ」
「え、なんで?」
私の問いかけに悪魔はにやりと笑った。
「そりゃ、俺様も見たいからさ。普段ならグッと我慢するところだが、今回は俺様の存在も知られちまってるしな」
「……いいだろう」
「一応正解はこの封筒の中に入っている」
悪魔は懐から横長の封筒を取り出した。
「封がきちんとされていることを、確認しろ」
渡された封筒を確認する。きちんと封はされており、隙間はどこにもなかった。
「よし、それじゃこいつはここに置いておくぜ」
そう言ってテーブルの端に封筒を置く悪魔。
どうでも良い事だが、手品でもはじめそうだなこの悪魔。
「と言うことで、改めてサンドイッチの説明を願おうか」
なぜか場を仕切りだす悪魔。お前のイベントではないのだが。
「これは……馬肉のサンドイッチだ。ローストして、少し醤油を入れたマヨネーズを塗ってある。野菜はからし菜。パンは米粉のパンを軽くトーストしてみた」
「どうしてこれが、私の食べたいサンドイッチだと?」
「新作だから」
世美子はその瞬間、満面の笑みで頷いた。対して悪魔はつまらなさそうに顔をしかめ、舌打ちをした。この瞬間、勝負はついたのだ。私は封筒を手に取り、その封を破った。中には見慣れた世美子の字で「新作」と書かれた一枚のカードが入っていた。
「君が死んだって事に執着しすぎて、君が元来どういう人間だったかってのを忘れていた」
うんうん、と世美子は更に二度頷いた。
「思い返せば、君はサンドイッチをもう一度食べたいと言ってなかったんだ。そこで気付くべきだった」
世美子は死んだということに縛られ過ぎて、私は思い出の味ばかり探していた。
「記念日にはいつも新作のサンドイッチを作ってきたんだから、今回だって新作を食べたがっているに決まってるんだ」
「ええ、その通りよ。もちろん、過去に作ってくれたものはどれも美味しかった。けど、最高ってのは常に更新されているものよね」
「そういうこと。わかる?」
苦虫をかみつぶしたような顔の悪魔に問いかける。
「けっ、つまんねぇの。帰る」
荒っぽい足取りで悪魔は立ち去ろうとする。その背中に私は声をかけた。
「ありがとう」
「礼を言われる覚えはねぇな。俺様はその女の魂が欲しかっただけさ」
こちらを向かずに悪魔はそう言い、今度こそリビングを出て行った。
「行っちゃった」
「とりあえず、君を奪われなくて良かったよ」
「うん」
頷いてから、世美子は改めてサンドイッチに目を向けた。
「いただくわね」
「もちろん、召し上がれ」
これを世美子が食べ終わるとき、私達には二度目の別れがやってくる。それは世美子もわかっているはずだ。それでも私はこのサンドイッチを世美子に食べて欲しかったし、世美子は迷いなくサンドイッチに齧り付いた。
「うん、美味しい。ローストされた馬肉のクセをからし菜と醤油がうまく消してくれてるわね。それにからし菜のピリリとした刺激のおかげで馬肉とパンの甘味が引き立ってる。しっかりした味がありながら、さっぱりと食べられて後を引く味だわ」
そんな解説を入れながら、世美子は瞬く間に馬肉のサンドイッチを食べ終えた。
「どうだった?」
「もちろん、最高のサンドイッチだったわ」
そう言って、世美子は満面の笑みを見せてくれた。
その後すぐに、世美子は去った。来た時と同じようにリビングのドアをくぐって出て行った。
僕は思わず後を追ってリビングを出たけれど、そこには薄暗い廊下があるだけだった。
彼女はもうここには来ない。それは寂しい事だけど、不思議と泣きたくはならなかった。最後に見た世美子の笑顔。それを思い出すと、むしろ元気になるような気すらした。
去り際、世美子は言っていたのだ。
「またね」
次会う時までに、もっともっと腕を磨かなければならない。
彼女に最高のサンドイッチをご馳走するために。
長かったので分けました。
結局「悪魔」がなんなのかはぼやかしました。
やってる事的には「悪魔」がしっくりくるんじゃないかなと思い、そういう呼び方をしています。
食べることが好きなので、食べ物を軸にした小説と言うのはこれからも書いていければなぁと考えています。
今後の参考にするためにも、感想など頂けましたら幸いです。
ありがとうございました。




