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追憶~望みの果てに~

作者: 彩羽

だいぶ前に書いたものがパソコンに残っていたので、少し訂正して投稿しました。一人の女性武士が自分の過去を振り返り、己を受け入れる話です。

 彼女は敷かれた布団の上にいた。

 身体中が熱を持ち、指の先まで痺れていた。

 喋ることすら億劫で、頭痛や吐き気までする。

 思考が定まらず、視界がぼやける。

 意識が遠のいていくのと同時に、誰かが自分の名前を呼んだ気がした。

 あの声は――。



 気がつけば、彼女は暗闇の中にいた。

 どこを見渡しても地平線は見つけられない。

 黒に塗りつぶされた世界に彼女は身を震わせ、その細い体を抱きしめた。

 現在の彼女は、単衣を纏っただけの姿だ。眠っていたのだから当然だが、自分の格好が記憶と同じものであったことに少し安堵した。

 もう一度、周りを見渡してみる。

 そこに、遠くで小さく光が瞬いた。

 ほんの少し躊躇って、一歩を踏み出し、そして止める。

 思いのほか軽く動いたことに驚いたのだ。頭痛や身体の痺れも治まっている。

 そうして、今度こそ彼女は足を進めた。

 歩いた距離は長くない。

 見えたのは美しい女性だ。

 辺りは相変わらず闇が広がるばかりだが、その女性の周りだけ、切り取られたようにはっきりと見える。

 闇の中でも映える豊かな黒い髪を足もとまで伸ばし、肌は対照的に白い。紫色をした着物はあまり質の良いものではないが、女性の美しさがそれを補ってあまりある。

 女性が彼女に気づいた様子はない。彼女とはまるで違う方を向いて座り、手を合わせて何かを祈っているようだ。


 ―― いや、事実、祈っているのだ。夫の無事を。


 彼女は女性のことを知っている。

 この、自分とよく似た面差しの女性を。

 一歩、彼女は足を踏み出したが、見えない壁に阻まれてそれ以上は進めなかった。

 その壁に手を当てる。

 震える唇をゆっくり開いた。

「……母、上……」

 そっと、呼びかける。

 何度か繰り返してみるが、母と呼んだ女性は返事をするどころか、振り返ることすらしなかった。

 彼女は少しだけ肩を落とす。

 だが、女性が自分の呼びかけに応じないことは分かっていた。

 なぜなら、女性は自分の(・・・母親・・ではなかった・・・・・・・・)から。

 女性は確かに自分の母だ。血も繋がっている。

 だが、母は自分の母(・・・・)ではなく、父の妻(・・・)だった。


 母は没落貴族の姫君。父は小さな武家の当主。

 彼女が生まれたのは、激しい天下を奪い合う戦乱の世。

 我こそが、主こそが、天下を取るのだと。毎日国のどこかで戦争が起こっていた。

 己の信じるもののために誰もが戦っていた。

 父もまたそれに違わず、主を敬愛し、信じ、戦場を駆けていた。

 そして、そんな父の無事と帰りを、母は家で祈る。


 ―― 幼い彼女の存在が、目に入らないほど。


 彼女は壁につけた手を握りしめる。

 そこへ突如、男性が現れた。

「……父上」

 背は高いが、柔和な顔立ちと、刀を持つ者とは思えない優しそうな雰囲気が、その威圧感を消していた。

 その男性が現れた途端、今まで何の反応も示さなかった女性は立ち上がり、その胸に飛び込んだ。

 女性は安堵と幸せに微笑み、男性も愛しそうに妻の細い身体を抱きしめる。

 その光景は、何度となく見たものだった。

 しばらくして、視線の先で父は母に口づけると、その姿を消した。母は悲しげな表情でその場に座り、手を合わせる。

 父は戦場へ行き、母は家で無事を祈る。

 見ていることができず、彼女は目をそらした。

 不意に人の気配を感じ、彼女は振り返る。

 そこには眼光の鋭い隻腕の祖父と、神経質そうな印象の祖母が彼女を見ていた。

 だが、それは次の瞬間には幻のように消え、残ったのは果てしない闇だけ。

 育児を放棄した母親の代わりに彼女を育てたのは、同居していた父方の祖父母だった。

 祖父は戦場で利き腕を失い前線を退いた元武士。一時は兵士の育成に励んでいたが、間もなく家督を息子に譲り、早々に隠居生活を始めた。

 祖母は厳しいが優しさも兼ね備えた武家の娘。勤勉で、立ち居振る舞いが美しく、家事や裁縫に長けていた。

 彼女にとっては、祖父母こそが父と母だった。

 彼女の目指す『強い人』だったのだ。



 彼女は再び壁の向こうへ目を向けた。

 そこへ、父とは別の男性が現れるが刀を持って現れる。

 逢引き、という考えは浮かばなかった。そういう関係でないことは、二人の様子を見れば分かる。とても甘い雰囲気には見えない。

 それよりも、現れた男性が手に持つ刀の刃が根元近くから折れていることの方が問題だ。

 何が起こったのか、すぐに察しがつく。

 男性は母に折れた刀を渡すと、闇に溶けて消えた。

 その刀を胸に抱き、最愛の人を亡くした女性は、床に突っ伏した。

 慟哭。

 無音の闇で、女性の深い嘆きが空気を震わせて、彼女の肌を痺れさせる。

 この日のことを、彼女はよく覚えていた。

 この後すぐに母は体調を崩し、床に臥せた。

 瞬く間に母は衰弱していき、その美貌も見る影を失くしていく。

 そうやって父の後を追うように母も死んだ。

 最期まで父の名を呼び続け、とうとう彼女の名を呼ぶことはなかった。



 父は『弱い人』だったのだ。

 力が足りず命を奪われ、大切なものを守ることもできず、何を果たすこともできずこの世を去った。

 そして母も『弱い人』だった。

 何の力も持たず、力を得ようともせず。力がないから祈ることしかできず、大切なものを亡くしてただ泣くことしかできない。



 いつの間にか握りしめていた手のひらに血が滲んでいた。それでも痛みを感じないのは、これが夢だからだろうか。

 父母を亡くしたとき、彼女の中には確かに虚無感があった。だがそれを煩わしく思っても、悲しいと思うことはなかった。

 思ったことはただ一つ。


 ――父のような、母のような、『弱い人間』にはなりたくない。


 それだけだ。

 彼女は母が死んだ日から一層武術に励んだ。

 護身用ではなく、実際に戦で使える(すべ)を。

 幸い、師は近くにいた。

 武家の娘であった祖母からは、今まで通り女として必要な知識や教養、そして護身術として祖母が習得している薙刀を。

 数多の戦場を経験した祖父からは、刀や槍などの武器の使い方、戦略や戦法、より実戦に近い稽古をつけてもらった。

 自分が女であることは変えられないし、彼女自身それに不満はなかった。

 そして、力で男に勝てないことも理解していた。

 だからこそ、自分の長所を活かし、女としての弱さを補う戦い方を学んだ。


 すべては大切なものを護るために。


 それが何なのかはまだ分からない。

 けれど、もしそれに出会ったとき、何もできなかったら後悔する。

 出会う前に命を落とすなどは論外だ。

 母のように祈るだけで何もできないなんて嫌だった。

 父のように何もできずに死ぬのも嫌だった。

 彼女は確信していた。

 自分の大切なものは『武士』であると。

 己の道を、志を掲げて戦うものであると。

 いつ死ぬと知れぬ身。

 ならば、その背を傷つけるものがないようにただ祈るより、傍らで共に戦った方が確実だ。

 彼女はその力を手に入れた。

 戦場において、己の力を活かし、補い、窮地を切り抜ける術を。



 壁につけていた手が感触を失い、空を切った。よろめく身体を、足を踏みしめることでどうにか保てたのは、日ごろの鍛錬の成果だろうか。

 視線の先には、未だに泣きじゃくる母の姿がある。

 不可視の壁は消えた。もう、何も自分を隔てるものはない。

 その姿をしばらく見つめ、彼女は意を決して足を進めた。

 一歩、二歩と距離を詰めていく。

 黒い髪に隠れて顔は見えないが、その背中が思いのほか小さいことに違和感を覚えた。

 膝を折り、躊躇いながら母の肩に手を置く。

 微かに肩が跳ね、母が振り向く――はずだった。

 だが振り返ったのは、母よりもずっと幼い女性、いや少女だった。

 長い黒髪に大きな瞳を潤ませて泣いている母ではない少女。

 さすがは夢であると、彼女は心の中で苦笑した。

 改めて自分の容姿は母に似たのだと思う。

「……どうして泣いているの?」

 先ほどまでの緊張が嘘のように、彼女は穏やかな気持ちで語りかける。

「……だれも、わたしをみてくれない」

 少女の答えに彼女は目を丸くした。

 答えの内容ではなく、答えが返ってきたことに驚いたのだ。

「ちちうえも、ははうえも、わたしをみてくれないの。なまえをよんでくれない。あいしてくれない。だったらわたしはなんのためにうまれたの? わたしはどうしてここにいるの?」

 おおよそ、子どもが考えるには早い疑問だと思った。

 彼女は静かに少女を見つめる。

 手で顔を覆って少女は泣き続けていた。

 ここまで感情をむき出しにしたことはない。

 実際泣いたことすらなかった。

 父を亡くしたときも、母を亡くしたときも。

 辛い稽古の日々でも、祖父母を亡くしたときも。


 ……ならば、この目の前の少女は何だ?


「だれも、わたしをあいしてくれない……」

 これは自分じゃない。

 昔の自分ならそう言っただろう。

 だが今の彼女には、目の前の少女を認め、受け入れることができた。

 彼女は手を伸ばし、少女の涙を優しく拭ってやる。

「愛されていたわ」

 少女は泣くのを止め、彼女を見る。

「両親に愛されることが全てなの? 両親に愛されなければ、貴女は愛されたことにはならないの?」

 父母に愛情を向けられなかった自分は、心のどこかで思い込んでいたのだろう。

 自分は誰にも愛されない存在だと。

 まるで独りで生きてきたというように。

 しかし、もしかしたら自分が覚えていないだけで、記憶のどこかで愛されていたのかもしれないと、今ならそう思える自分がいた。

「そうじゃないわ。だって、私は愛されていたもの」

 それに気づかせてくれた人がいた。

「私は愛し合って生まれ、愛されて育まれた。両親がどう思っていたかは今となっては分からない。けれど、それ以上に私を大切に想ってくれていた人を……人たちを、私はもう知っている」

 彼女が言葉を区切ると、少女は不安そうに口を開いた。

「ほんと、に……?」

「本当よ」

 大きく頷いて答える。

 すると、少女の足もとが光り、少しずつその姿が透けていく。

「……あなたも?」

 彼女は目を瞠った。

「あなたも、わたしをあいしてくれる?」

 問いを重ねる少女に答えられないでいると、脳裏に一人の人物が過った。

 力強い腕、まるで太陽のような爽やかな笑み、温かな声……その腕に引き寄せられ、少しだけ目を細めて微笑みながら、その声で、名前を呼んでくれる。

 この気持ちを何と呼ぶのか、彼女はもう知っていた。

「……あの人が、私を愛してくれるなら……私はあなたを……私を……少しは好きに、なれるかもしれない……」

 どう表現していいか分からず、遠慮がちに紡ぎ出された言葉であったが、少女にはそれで十分だったようだった。

「……よかった……」

 少女の顔が喜びに彩られた。

 それと同時に、身体が闇に透ける。

 やがて、闇に一瞬の光を灯して、少女の姿は闇に溶けて消えた。



 身体中の熱がわずかに和らぎ、身体の痺れが少しずつ解ける。

 頭痛も鈍い痛みを残すまでに回復していた。

「――――……っ」

 自分の名を呼ぶ声が聞こえ、彼女は重い瞼を持ち上げる。

 ぼんやりとしが視界が次第に開け、そこに声の主を見つけると、彼女は自然と微笑んでいた。

「よかった、気がついたか。……このまま、死んでしまうのではないかと……」

 本気でそれを言っているのだと分かって、彼女は呆れた声を出す。

「これでも鍛えているのよ。風邪程度で死んだりしな――……っ」

 上体を起こそうとしてふらついた彼女の身体を相手が支える。

「まだ熱が下がっておらぬのだ。無理をするな」

 思うように動かない身体に舌打ちしたくなりつつ、相手に促されて再び布団に入る。

「このままでは、身体が鈍ってしまうわ」

「そう思うなら早く治せ。お前がおらねば、鍛錬にも身が入らぬ」

 眉を下げて心配そうに彼女の顔を覗き込んでくる。

 こんな顔をさせたいわけではないのだが、心配してくれているということが、素直に嬉しかった。

 だが、そういう気持ちを言葉にするのは苦手で、彼女は自分の精一杯の言葉で返した。

「……次の戦までには、必ず治すわ」

 自分たちの主が、天下を取れるように。

 彼と、共に戦いたい。

 思いがけない彼女の言葉に、相手は一瞬驚いた顔をした後に破顔した。

 あの、温もりに満ちた笑顔で。

「ああ、待っている。だから、今は身体を休めよ」

 彼は彼女の頭を撫で、その額に口づけを落とす。

 それを合図に、彼女は静かに微睡(まどろ)んだ。

 私は、あの頃より強くなれたのだろうか。

 あなたと出逢う前の、自分より。

 そうだといいと、思う。

 でも、それでもまだ。

 もっと、強くなりたいと、思う。

 貴方を、ちゃんと護れるくらいに。

「……私が、護るから……」

 無意識に伸ばした手が相手の着物を弱々しく掴む。

 それを見た彼は、今度は優しく微笑んだ。

「ああ。俺も、お前を護る」

 その手に新たに重ねられたものは冷たく、それは次第に温もりへと変わった。



 そう。

 貴方が武士として戦うならば、私も刀を取りましょう。

 貴方が戦場で果てるならば、私も共に果てましょう。

 貴方に寄り添い、共に生き、共に行き、共に逝きたい……。


 それが今――、私の中にある、ただ一つの願い……。


最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

気ままに書いておりますので、シリーズの続きや新作は、いつになるか約束できません。どうぞご了承下さい。

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