第8話
「圭、お前はなんてことをしたんだ」
拓馬の怒号が聞こえた。開けたドアから、二人がもみ合っているのが見えた。驚いた華浦は部屋に入った。
「拓馬、もうあきらめろ」
と圭が言うと、拓馬は圭を殴りつけた。
「やめて」
と華浦は叫ぶと、拓馬の右手を抑えつけようとした。怒りにあふれた拓馬は、その手をふりほどき、華浦を突き飛ばした。
「拓馬やめろ」
と圭は言うと、拓馬の右腕をねじると、殴り倒した。拓馬は床にのめるように倒れ、しばらく痛みで動けなかった。
「拓馬、冷静になれよ。もう、決まったんだ」
と圭は言った。拓馬は泣いているようだった。
「ばかやろう」
と拓馬は言うと、ふらふらと立ち上がり、部屋を出て行った。
圭は、床に座り込み茫然自失の華浦に、手を差し出して起こした。
「華浦、大丈夫か」
華浦はまだ震えていた。圭も息が荒かった。
「圭、どうしたの」
圭が冷静な表情を取り戻して言った。
「社長と僕の株を大倉グループに売った」
大倉グループは、林田工業の競合相手だ。
「それはどういうこと」
と華浦は言った。
「林田工業は今のままでは生き残れないんだ。大手の大倉グループに吸収合併させて、再生させた方がいい。前から考えていた」
「あなたはどうなるの」
「この吸収合併は、林田一族が会社から手を引くのが条件なんだ。僕はこの会社を去る。拓馬もそのうち辞めなくてはならない」
華浦はこれが圭の考えだったのかとようやくわかった。
「華浦、君が拓馬から送りこまれていたことは知っていたよ」
華浦は圭の顔を見た。
「知っていて、私を泳がしていたのね」
華浦の声は微かに震えていた。彼女は圭の手のひらで踊っていたのにすぎなかったのだ。
「ああ、君は拓馬の大学時代の友達なんだろう」
圭の顔には怒りはなかった。
「何でもお見通しね。さすがだわ、私の負けよ」
と華浦は言うと、涙が頬を伝わった。
「華浦、僕は会社を辞めるけれど、君には関係ない。君は会社に残れ」
と圭は静かに響く声で言った。
「そんなこと、できるはずがないでしょ」
と華浦は言うと、嗚咽を抑えて部屋を出た。
それから一週間後、華浦は会社を去った。大倉グループへの吸収合併の話で会社は騒然とし、彼女が会社を去ったことを気にかける人間は誰もいなかった。
彼女が林田工業を去る日、林田圭は大阪支社に行って、不在だった。
彼女は、彼のデスクの前に立ち、圭、さようならとつぶやいた。そして、九階のオフィスを後にした。