第3話
「吉岡君、僕のデスクの上に、事務書類の入った封筒があると思う。申し訳ないが、それを僕の自宅まで届けてほしい。うっかり忘れてしまったんだ。明日の出張に必要だから、君、これからタクシーに乗って持ってきてくれないか」
内心、華浦は面倒だと思ったが、
「わかりました。すぐ、お持ちします」
華浦は、自分のデスクの後ろの林田専務の部屋に入った。確かに彼のデスクの上には、白い厚い封筒があった。
華浦はそれを持つと、会社の外でタクシーをひろい、林田圭の自宅に向かった。ちょうど、雨が降り始めていた。
林田圭の自宅の前で、華浦はタクシーを降りた。雨足が強く降り注ぎ、雷がなり始めていた。林田圭の自宅は、華浦のため、厚い木の門が開かれていた。門から御影石の埋め込まれた玄関までの経路を足早に歩いた。そして二階建ての大きな家屋のインターフォンを押した。
玄関の扉が開き、いつもと違って寛いだ感じのシャツを着た林田圭が出て来た。
「雨の中すまなかったね」
「いいえ、たいしたことはありません」
とは言ったが、華浦はだいぶ濡れてしまっていた。
華浦は書類を渡すと、帰ろうとした。
「ずいぶん濡れている。タオルでふき取った方がいい。上がりたまえ」
と林田圭が言った。実際、華浦は雨で体が冷えていた。
「すぐにタクシーを呼んであげるから、遠慮しなくてもいい」
林田圭はそう言うと、華浦を家に招き入れた。家には彼しかいないようだった。
玄関から、華浦は応接室に通された。その応接室にはマントルピースがあり、庭に面した大きな窓があった。すでに暗くなっていたため、レースのカーテンからは何も見えなかったが、時々稲光がして、庭木が広がっているのがわかった。きっと美しい庭だろうと華浦は思った。
「タオルを持ってくる」
と林田圭は言うと、応接室を出て行った。華浦は、その日はピンクのブラウスを着ていて、それが雨で体に張り付き、多少気恥ずかしさを感じた。
やがて、林田圭がタオルと温かい飲み物を二つ持って、部屋に入って来た。
「これでふき取るように。飲み物はブランデーだから、体が温まる」
華浦はタオルで髪と体を軽くふき取った。
「気をつかって頂いて、ありがとうございます」
と言うと、華浦はテーブルに置かれたブランデーの入ったグラスを手にした。テーブルをはさんで、林田圭がすでにブランデーを飲んでいた。目が何かしら好奇心に輝いているように見えた。
「君は、今の仕事では物足りないんじゃないか」
と林田圭は言った。華浦は飲み込んだブランデーが胃を刺激しているのを感じていた。
「いいえ、そんなことはありません。失業しても、こうして仕事にすぐに就けたことはラッキーだったと思っています」
「オフィスでの君、何だか退屈そうに見えるよ。営業の仕事をバリバリやっていたんだろう。君のキャリアからすれば、今の仕事はつまらないんじゃないのかな」
彼はうがったように彼女を見た。
「以前の仕事はそれなりに頑張ってやってきましたけれど、それはそれ。今現在は専務の仕事を一生懸命にやって、認められたいわ」
空腹のままブランデーを飲んだため、華浦は少し酔ってきた気がしていた。
「なぜ、林田工業を選んだんだ。君にとってどんな魅力があったのかな」
と林田圭は言った。華浦は、まるで入社試験のような質問だと思った。
「私は林田工業が好きになりました。活気もあるし、将来性も感じています。専務がそんな事おっしゃるのはおかしいわ」
一瞬、沈黙してから林田圭は言った。
「君が興味あるのは、会社なのか。それとも僕か」
華浦は顔が紅潮してきた。この男何を言っているのだろうか。
「私が興味あるのは会社です」
「それは残念だ」
と林田圭は言うと笑った。
華浦がブランデーを飲み干すと、林田圭はタクシーを呼んだ。
インターフォンがやがて鳴った。
「タクシーが来た」
二人が応接室を出たときだった。激しく雷鳴が鳴り、突然停電で灯りが消えた。その瞬間、恐怖で華浦は思わず体を林田圭によせた。そのとき、林田圭は華浦を抱き寄せると、すばやくキスをした。華浦はその突発的な出来事に体を震わせた。体を離そうとして、強く彼の体を押したが、彼の腕はほどけなかった。
「やめて」
ようやく彼女が顔をそらし、彼の唇から逃れたとき、灯りがついた。林田圭は彼女を離した。
「すまなかった」
彼は詫びた。息づかいが荒かった。彼は気持ちを落ち着かせようとしいるようだった。
「気をつけて帰るように」
と彼は言うと、玄関の扉を開けた。