第2話
「君にやってもらう事は、君専用のパソコンのドキュメントの中に入っているので、それをよく読んでおくように。前任者の加藤君が秘書のやるべき事について、すべて書いておいてくれてある」
大きい窓を背にしたデスクから、林田圭は簡潔に言った。
「前任者の加藤君はよくやってくれた人だったが、ご主人がニューヨークへ転勤になったので、いたしかたなく仕事を辞めることになった。吉岡君には、いろいろと忙しいと思うが宜しく頼む」
林田圭はメガネに手をかけながら言った。
「私こそ宜しくお願いします」
吉岡華浦は、林田圭に頭を下げた。
「君のプロフィールを見させてもらったが、実に優秀な人だね。期待しているよ」
「専務のご期待にそえるように努力していきたいと思います」
華浦は白いスーツ姿で、伸びやかな姿勢が美しいシルエットをえがいていた。
挨拶を終えると、華浦は林田専務の部屋を出た。林田専務の部屋は、応接セットと彼のデスクと事務書類を入れる本箱があるだけの、重役室にしてはいたってシンプルなものだった。部屋を出るとブースになっていて、そこに華浦のデスクがある。
それにしても、あれが林田圭か。
華浦は自分のデスクに戻ると、さっそくパソコンを開いた。前任者の加藤は有能だったらしく、実に細かく仕事について書き込んである。
拓馬の話からの想像と違い、林田圭は三十代後半の実務的なビジネスマンに見えた。拓馬の従兄であるが、拓馬とは違ったタイプである。拓馬は御曹子らしい華やかさがあり、社交的な人間だった。それに比較すると、林田圭は必要以上に話をするようには感じられなかった。それにメガネの奥の目が人を見透かすようだった。その一方、地味な細見のスーツが似合い、スマートな印象を与えていた。
林田工業の本社は、オフィス街にある十階立てのビルである。その最上階は、拓馬の祖父の社長室と、父の林田副社長の部屋がある。九階が林田専務のオフィスがある場所だった。拓馬は営業本部長であり、八階に彼のオフイスがあった。
本社ビルは地下鉄から10分程歩いた距離にあり、周りには同じような会社のビルがひしめいている。
久しぶりに、ビジネスの世界に戻ってきた華浦には新鮮に思えた。それと同時に、活力が戻ってくるような実感があった。
華浦が初出勤を終えて、マンションのキッチンで夕食を作っているとき、華浦の携帯が鳴った。拓馬からだった。華浦と拓馬は、会社ではまったくお互いを知らないということにして、話をしない約束になっていた。
「華浦、会社はどうだった」
「想像したよりも、いい環境の会社に思えたわ」
「それは良かった。圭はどうだった」
「拓馬の話よりも、実務家という感じだったけど」
「そう見えても、圭はなかなかのくせものだ。やがてわかるよ」
「まあ、初めて会った人だから、よくはわからないわね。あまりしゃべらない人ね。拓馬とは違うわよ」
「圭と僕は気が合わない。ああいう人間は好かない」
相変わらず、拓馬は林田専務の悪口を並べていた。
1ヶ月ほどたつと、華浦も会社のこと、林田圭のこともいろいろとわかるようになった。
林田社長は高齢のため、ほとんど会社には来ない存在である。以前は林田専務の父親が社長で、現社長は会長だったが、林田専務の父親が昨年急死したため、会長が急きょ社長に帰り咲いたのだ。
しかし、実質的な経営は拓馬の父親の副社長と林田専務が行っている。そして、この二人の間に確執があるということも、拓馬の言うとおりだった。
林田圭は独身だった。会社から車で30分ほど離れた場所に自宅があり、朝は8時頃出社して来る。華浦は8時半の出社なので、華浦が九階のオフィスに入ると、すでに林田圭は仕事をしている。帰りも華浦は7時に退社するが、林田圭は会社にいる。だいたい帰るのは8時過ぎらしい。
華浦の仕事は、さほど内容があるものではなかった。林田専務の経理関係の書類の処理をするとか。林田専務のアポイントメントの取次をするとか。専務に頼まれたビジネス書類を作成するとかいったもので、華浦には物足りない仕事だった。それに今のところ、拓馬が期待するような林田圭についての情報は得られなかった。
林田専務が、翌日シンガポールに出張するということで、仕事を午後すぐに引き上げて、帰って行った日だった。
夕方6時過ぎだった。林田圭から電話があった。