第1話
薄日が差す中、サングラスをかけ、灰色のスーツを着た一人の女がホテルの回転ドアを開けて入って行った。
ホテルのフロントの前にあるエスカレーターに乗り、二階にあるイタリアレストランでの待ち合わせに向かった。
レストランの木の扉を開けると、窓側の奥の席に待ち合わせの人物がいた。
彼は彼女を見ると、席から立ち上がった。
「華浦、久しぶりだね」
彼女もサングラスをとり言った。
「拓馬、元気そうね」
幾分ウエーブのきいた栗色の髪が、彼女の顔を柔らかくみせていたが、引き締まった目元は、彼女の性格を表していた。
「あなたに逢うのは二年ぶりね」
華浦は座ると、ウエイターが持って来た水を飲んで言った。
「君が仕事を辞めたと聞いて、逢いたくなったんだ」
華浦は微笑んで言った。
「よく、私が辞めた事知っているわね」
「僕の情報網は早いんだ」
「林田工業の御曹子は、いろいろと知っているのね」
林田拓馬はにやりと笑った。
「ああ、君がハワイに遊びに行っていたことも知っている」
「あら、いやね」
「今回の旅行は一人だったんだね」
「そうよ。以前付き合っていた人とは、もう別れたの」
「僕を誘ってくれれば良かったのに」
華浦はふき出した。
「いつから私たちそんな仲になったのかしら」
「今、君を見てそう思った」
華浦はさめた目で拓馬を見て言った。
「私をわざわざ呼び出したのは、何か理由があるのでしょう」
拓馬はやれやれといった顔をした。それにしても華浦は以前よりも、魅力的になったと拓馬は感じていた。学生時代は地方出身の野暮ったい女子学生だったが、今の華浦は知的に洗練され、それでいて女らしい美しさがあり、人をひきつけるものがあった。
「君ってひとはおもしろくないね。でも、そのとおりだ」
拓馬はランチのコース料理とシャンパンを注文した。
「久しぶりの再会だから、シャンパンで祝おう」
「仕事はいいの」
と華浦がきいた。
「今日は大丈夫、午後は会社に戻らないことにしておいた」
「用向きは何かしら」
華浦は切り出した。
「実は君に頼みたいことがある。僕の会社のことだ」
彼は声をひそめた。
シャンパンが運ばれ、二人はそれで乾杯した。
「今日の再会に乾杯」
と拓馬が言った。
「実は華浦、林田工業は今大変な状況なんだ」
酒に弱い拓馬は、すぐに顔が赤くなった。
「あの会社は祖父が経営者なんだが、祖父も年なので、会社にはほとんど来ていない。実質的な経営は、僕の親父と、親父の亡くなった兄の息子の圭が取り仕切っている。その圭が問題なんだ。親父とは経営方針が合わない」
華浦は前菜を食べながら言った。
「経営で親族がもめる話はよくあるわね」
「圭は利己的な男だ。従業員のことなど何も考えていない。ただ、自分のために会社を食い物にしている。その圭を親父と僕は追い出したいんだ」
「それが、私と何か関係があるのかしら」
拓馬は、上目づかいの視線を彼女に向けて言った。
「君に圭の秘書になってほしいんだ」
華浦はふうんという顔をした。
「つまり、私はスパイね」
「まあ、そんなところかな」
「私はもめごとに巻き込まれるのはご免こうむるわ」
華浦は拓馬の持ってくる話はこんなことだろうと思っていた。
「そんなに長い期間にはならないと思う。君のような頭のいい女性にはうってつけなんだ。頼むよ華浦。謝礼ははずむよ」
拓馬が哀願するように言った。
「少し考えさせて」
華浦はシャンパンを飲みほして言った。
林田拓馬と吉岡華浦は大学時代の同級生である。林田工業の御曹子である林田拓馬は学生時代から高級車を乗り回し、大勢のガールフレンドに囲まれて、目立つ存在だった。地方出身の吉岡華浦は、こういう人種もいるのかという目で拓馬を見ていた。さほど仲がいいわけでもなく、単なる同級生という程度の付き合いだった。
華浦の学生時代はほぼ勉学一色といっていい。そのおかげで、一流企業に総合職として就職できたが、その会社も十年の間に経営が傾き、華浦は会社に未来がないと考え、早期退職に応じたのだった。
会社を辞め、十年間の仕事の労をねぎらうような気持ちで、ハワイのマウイ島に行って来た。
マウイ島のリゾートホテルに泊まり、ホテルのプライベートビーチで、荒く押し寄せる波をぼんやり見たり、本を読んだりして過ごした。そのホテルの、上層階の部屋のバルコニーから見下ろせる景色は、鬱蒼としたジャングルだった。そのジャングルからは南国の鳥の声が高く響きわたっていた。それはまったくの別世界だった。華浦はそのマウイの大きな自然の中にひたり、時間の流れさえも忘れそうになった。そのおかげで会社であったいろいろな面倒な事、不愉快な思いを一掃することができ、華浦は新しく力を蘇らせた。
日本に帰って来て、今後の事を考え始めたときだった。拓馬から電話をもらった。
華浦は自分のマンションに帰り、拓馬の話を考えてみた。確かに面倒な話ではあったが、さしあたって失業中の自分にとっては、いい話かもしれない。何か抜き差しならぬ事態になったら逃げてしまえばいい、とも考えた。
「拓馬、今度の話受けるわ。ただし、最終的な責任はすべて拓馬にあるってことだけは、はっきりしておいてね」
華浦は長椅子に座りながら、携帯の向こう側の拓馬に言った。
「ありがとう。華浦、助かるよ。もちろん、君にふりかかることは何もないから安心してくれ」
拓馬の声は弾んでいた。
これで契約成立と華浦は思った。