しがみ(改稿ver)
※残酷な描写、性的描写がお嫌いな方は読むのをお控えいただくようお願い致します。
1
赤く赤く滲み出る血が、俺の体を震え上がらせる。
この震えは恐怖からではない。
今までに感じたことのない快楽が、この俺を震え上がらせているんだ。
心地の良い感覚に浸っていると、俺のことを凝視してたそいつと目が合った。
そいつは瞳を潤ませながら、まるで助けを求めているみたいに甲高い声を上げる。
「痛いよな」
俺はそう言うと、そいつの頭を優しく撫でてやる。すると、その触れた手からはそいつの恐怖がひしひしと伝わってきたのだ。
そいつががたがたと震え、恐怖に支配される姿を眺めていると、自分の口元が自然と歪んでいった。
「恐いのか」
声を低くして言うと、そいつは声もなくさらにがたがたと震えだす。
「もう震えなくていい。痛いのもすぐになくなるからな」
次に優しく囁いてやると、そいつは何かを察したかのように瞳孔を大きく見開いてから騒ぎたした。
そいつの恐怖に支配された行動を見ていると、俺の心は癒やされれていくようだった。
この一年で荒んでしまった俺の心を解放してくれるような、そんな感覚であったのだ。
例えようもないこの心地良さは、俺をさらに過激な行動へと駆り立てた。
「……本当に、本当に飼い主想いの犬だよ。お前は」
そう呟いてから、俺は利き手に持っていた包丁を犬の腹部に突き立てる。
刹那、断末魔の叫びが俺の家に響いた。
鼓膜が破けそうなくらいの声量で叫び暴れる犬。
こいつなりに、必死に抵抗しようとしているのかもしれない。
だが、俺は渾身の力を込めてさらに包丁を犬にめり込ませていく。
その瞬間、犬は悲痛な声をあげて暴れていたが、次第に弱々しくなっていった。
その様子を確認した俺は、犬から強引に包丁を抜き取る。すると、包丁を抜き取った部分からは湧き水のように血が溢れ出てきた。
鼻につく血の臭い。白目をむきながら、だらしなく舌を出してビクビクと痙攣している犬。
それを見た俺の体に、痺れるような震えが走った。
びりびりと全身に走る痺れは、気持ちい、と言い表すほうがあっている。
気付くと、俺は体をくねらせながら、何度も何度も犬の腹部に包丁を突き立てた。
「もっと、もっと、だ。もっと、もっと、もっとォォッ! ――いひ……ひいぎぎ、イヒひひィいひひひヒぎぎぎぎギギィ!!」
息を切らしながらも落ち着きを取り戻した俺は、何事もなかったかのように動きをピタリと止める。
血の臭いが充満した俺の部屋で、五年も家族として暮らした犬の無残な亡骸を見つめた。
「どうしてこうなっちまったんだろうなァ」
俺はぽつりと呟く。
「もう、全部壊れちまったんだよ」
すると、無性に笑いが込み上げてくる。
「壊れちまったもんは、直せるわけねぇもんなァっ! なあ、なあっ!! ひひひ、ひひ、ヒヒひヒ、あひひヒひィ!!」
俺は亡骸に包丁を突き立てると、涙ぐみながら腹を抱えて笑い続けた。
2
今日もまた、くだらない一日が始まった。
俺はやる気なく靴を履くと、薄暗い玄関の扉に手を掛ける。
「いってきま――」
無意識でそう言いかけると、俺は重大なことに気が付いた。
「――……っていうか、この家に暮らしてるの俺一人だけだったわ。ははは」
感情のこもっていない声で笑うと、そのまま扉を開ける。
開けてすぐに目に入ってきたのは、もう何年も手入れのしていない荒れきった庭であった。
大きな木々に覆われた家を後に、無駄に広い庭を少し歩く。そして、敷地から外に出れる門にたどり着くと門の重たい扉を開き、敷地から出るとまだ舗装されていない道をそのまま真っ直ぐ進んだ。
真っ直ぐ五分ほど進むと、道も綺麗に舗装されてはじめる。
そして、それから二分もしないうちに住宅街へと差し掛かった。
「ちょっとぉ、奥さんっ! あそこの坊や、また一人でしょ」
「親は何しているのかしらねぇ」
「なんでも、旦那さんは海外に出張が多くて、奥さんの方は男を作って毎日家に帰らず遊んでいる、とか」
「お金持ちのすることはわからないわねぇ」
住宅街に住んでいるであろう奴らが、いつも俺のことを見てはコソコソと話をしているのだ。
毎日のことだから別に気にはしていない。
ただ、
「豚どもは暇だな」
と、そう感じるだけであった。
そんな家畜のように丸々と肥えた豚どもを尻目に、俺は住宅街の中を真っ直ぐ進む。
すると、左側前方に小さな公園が見えてきた。
俺はその公園の奥にある細い道を通って、田んぼだらけの一本道をまたひたすら進んだ。
「今日も『癒やし』を探しに行くか」
水の張った田んぼをふと見つめながら呟いた。
その『癒やし』と言うのは、飼い犬を殺したときに感じた快楽のことをそう呼んでいる。
その行為によって俺は癒され、生きている実感が湧いたのだ。
視線を前に向けて、遠くを見つめる。すると、その先には通い慣れた校舎が見えてきた。
校門が近づくにつれ、俺と同じような制服を着た奴らが増えてくる。
俺にとって、こいつらは服を着た豚どもにしか見えないのだが。
やつらを見るなり、鼻で笑うと俺はそのまま正面玄関まで歩いてきていた。
「おはよー」
「おはよ!」
目の前に居た雌豚二匹も軽い挨拶を交わして校内へと入っていく。
そんな光景を横目に、俺の足は階段へと向っていた。
二階まで上ると、廊下でブヒブヒと鳴いている豚どもと目を合わせることもなく、『2‐A』と書かれた教室の扉を開ける。
俺が教室に入ると静まり返り、俺を見てから奴らは陰で何かを話す。
「顔は、イケメンなのにねぇ」
「私もそう思う~」
俺に聞こえてないと本気で思っているのか、このクラスの雌豚どもは度々そんなことを言う。
「大した顔も体型もしていない雌豚どもが」
俺はその醜い雌豚どもを見下すと、すぐに視線をそらした。
「わぁ、こわーい」
「ほんと、マジこわーい」
雌豚どもの戯れ言など聞く耳を持たず、鞄を自分の机の上に置く。そして、席にどっしりと腰掛けると、スマフォをおもむろに出し、ロックを解除するとそこに現れた画像に見とれた。
「やはり、この待ち受け画面が一番癒されるな」
この前撮った血塗れの愛犬の画像を見て、俺の口元は歪む。
この画像を眺めていると、あの時の感覚が蘇ってくるのだ。
鼻につく嫌な臭い。真っ赤に濡らした床。だらしなく垂れ落ちる肉片。
この画像を見とれているだけで、俺の心を満たしてくれる。
俺は食い入るようにその画像を眺めていた。
…………だが、『癒やし』の時間はそう長くは続かなかった。
禿げ散らかした担任が堂々と黒板側のドアから入ってきたのだ。
「ほら、お前ら! 席に着かんか!」
担任の姿をみるなり、慌てて豚どもは席に落ち着く。
俺はいつもと同じように、冷ややかな視線を担任に向ける。
「突然だが、転入生を紹介する。――仁梨、入れ」
担任がそう言い、転入生を招き入れる。
その瞬間、クラスの豚どもが騒ぎ始めた。
「静かに!」
担任の言葉に豚どもはすぐ静まり返る。
……正直、豚どもが騒ぐのも無理はないと思った。
こんな田舎の高校に来るはずもない、とても美しい女であったのだ。
俺は彼女を見た瞬間に息を飲む。
「自己紹介を」
「始めまして。仁梨しがみ、と言います。仲良くしてくださいね」
仁梨しがみと名乗った女は、俺を含むクラスの奴らに笑顔を振りまいた。
その笑顔も魅力的だが、彼女の外観に夢中になる。
顔は小顔で、大和撫子と言う名が似合うほどに黒い色をしたロングヘアー。あの白い肌に血をべったり付けたら、よく栄えるのだろうな。
俺は食いつくようにしがみを見つめた。
だって、仕方が無いだろう。
彼女は稀に見るほど美しく、まさに俺好みの女だったからだ。
すると、彼女は俺の視線に気付いたらしく、俺のことをまっすぐ見てから笑いかけてくるのであった。
3
それから、一週間も経たない内にしがみはクラスの人気者になった。
十人十色、などという言葉があるが、クラスの奴らはしがみの事を「可愛い」や「美人」、ついには「カッコイイ」や「男らしい」などと言う奴も現れたのだ。
しかし、俺にとって豚どもの声など興味の対象にならなかった。
俺の興味の対象は仁梨しがみ、たった一人だけなのだから。
だが、最近になってそんなしがみと時折目が合う。
彼女は俺を見ては笑いかけてくるのだ。
「俺に気があるのか? ……まさかな」
そう思ってはみるが、まさかあるわけもないと思い鼻で笑うと、俺はまたスマートフォンの画像フォルダを眺めた。
道端で見つけたヒキガエルの腹を切り裂いた画像。
餌付けるとすぐになついてきた子猫の腹を切り裂いた画像。
首輪を付けてうろうろしていた子犬の腹を切り裂いた画像。
その画像をまじまじと見ていると、ぞくぞくと快楽が込み上げてくる。
この画像は、最近増えた俺のコレクションだ。
最近は、腹を切り裂いて中身を取り出すことにハマっていた。
あの、赤く色付いて、宝石のようにキラキラと光る中身を取り出す時の生暖かい感触。
思い出すだけでまた俺の体は震え、口元が歪むのがわかった。
口元を押さえ、込み上げる笑いを抑えながらそんな快楽に浸っていたときである。
「ねえ」
突然、後ろから声を掛けられたのだ。
いきなり『癒やし』の時間を邪魔されたので、睨むようにして振り向くと、後ろの白髪の女が無表情のまま黒い瞳をこちらに向けていた。
俺が睨みつけても無表情で、目をまばたきさせることもなくただ俺を見つめてくる。
「あの子、あなたにはどう見えてるの?」
無表情の女は人目を気にすることもなく、堂々としがみを指差す。
「どうって……、仁梨しがみ、ただの女だろ」
「ただの女って?」
「それもわかんねぇのかよ。類を見ない女。このクラスの中で女性らしい、人間らしい、とでも言えばいいか?」
「人間らしい? ……そう、あなたにはそう見えるの」
それだけ聞くと、そいつは窓の外を眺め始めたのだ。
訳のわからない質問だけをされた俺は、少し苛立ちを覚えた。
「それで?」
俺はそいつをさらに睨みつける。
殺意を向けるような鋭い視線だったにも関わらず、窓の外に目を向けていた女は、真っ黒な瞳だけこちらに動かして俺を見た。
「別に、気にしないで。……ただ」
女は一瞬口籠もると、輝きのない瞳を再度こちらに向けて言葉を発する。
「あなたの目に映るものが真実とは限らない。……まあ、きっとあなたには一生わからないかもしれないけど」
そう言うと、また瞳を窓の外に向け、どこかを眺めていた。
「どういう意味だ」
訳のわからないことを言われたところで、俺がわかるはずもない。
だが、話しかけてもその白髪の女はぼんやりと外を眺めているだけで、俺が何をいったところで眉ひとつ動かすことはなかった。
俺は会話にならない事を悟ると前を向く。
あいつの名前は確か――翼夢空とか言ったっけか。
無表情で無関心、無頓着でいて無欲な女。なににも媚びることはない、『無』という漢字がよく似合う女だ。
その異質な性格と外見ゆえ、クラスの誰もあいつには話しけないし、どちらかと言えば嫌っている奴も多らしい。
俺と同じく孤立していて、俺と同じくなにかを秘めていると。……正直、こいつは俺と少し似ているとさえ思っていた。
だが、似ているからといって俺はこいつとは関わりたくないと感じる。
こいつは、俺とも、他の豚どもとも違うような気がしてならないのだ。俺や他の豚どもには見えない、異次元のなにかを見ている。……そう感じるのだ。
だから、こいつの言っていたことは頭の中の片隅にでもとどめておいて、気にしないことにした。
4
それから何日経ったのだろうか。
俺は通り慣れた道をふらふらと歩き、あの無駄に広く薄暗い自宅へと帰っている途中であった。
「結局、今日も俺の『癒やし』が見つからなかった……」
そう呟いてみたが、心の中が落ち着くことはない。
最近は一日に一匹、『癒やし』の生け贄にするようになっていた。
あのゾクゾクする感覚がやめられなく、一種の中毒と化していた。そう、『癒やし』をしなければ中毒症状のように落ち着かなくなってしまっていのだ。
俺はそんな無性にイライラしながら、自分の家の近くまで足を運んでいた。
「あああアアアア゛あ゛……中身を取り出したい、取り出したい、取り出したい取り出したいトリダシタイッッ!!」
心の声を口に出しながら家路を急いでいると、そんな俺の瞳に、ある人影が映り込む。
家の前に誰かが立っているのだ。
俺は目を細め、誰か確かめるように見つめた。
そこには、仁梨しがみが立っていたのだ。
彼女は俺の家をじっと見つめて、なにかを考えているようだった。
俺は彼女に近付いていくと、ふと自分の中の狂気が騒いだ。
――仁梨しがみの中身は、どんな色でどんな輝きを放つのだろうか? 切り裂いて、中身を取り出してみたい。
たぶん、『癒やし』が出来ていないからであろう。
そんな感情が俺の中で渦巻く。
真っ赤に染まるしがみの顔を想像するだけで、体全身に震えが走った。
だが俺はその狂気を深呼吸して落ち着かせることにした。
その胸の奥には、淡い期待があったからだ。
――もしかしたら、しがみは俺を受け入れてくれるかもしれない。俺を、愛してくれるかもしれない。
そんな期待を胸に、俺はゆっくりしがみに近付いた。
「俺の家の前で何してるんだ?」
そして、いつもは出さない優しい表情でしがみに話しかける。
「あ――」
しがみは驚いた表情で俺を見つめた。そして、次に頬を膨らましてから口を開く。
「何日も音信不通で、みんな心配してたんだよ! でも良かったぁ……」
そう言うと、すぐに彼女は安心した表情に変わった。
「…………みんな、か」
その言葉を聞いて、俺は鼻で笑いそうになる。
はたして、俺を心配する奴などあのクラスに居たのかと、しがみに尋ねたいぐらいだった。
だが、そんなくだらない小言を飲み込み、しがみとの会話を楽しむ。
あんな豚どものことで、滅多にくることのないチャンスを無駄にしたくもないからだ。
「すまない、ここのことろ体調が悪くて連絡も出来なかったんだ」
「そうだったんだ。もう大丈夫なの?」
「おかげさまで、この通り」
俺がここ一番って時に使う爽やか笑顔をしがみに向ける。
その笑顔を見てかはわからないが、しがみの頬が少し桜色になった気がした。
だが、俺には桜色に染まった頬より、しがみの私服が気になる。
暖かくなってきたとはいえ、五月の中旬にしては胸の谷間を強調しすぎている服装なのだ。短めのスカートから覗く生足は健康的な細さで俺は生唾を飲み込む。
そんな制服とは違う彼女を見ていると、俺の性欲が疼くのだ。
しがみのイメージは清楚だと思い込んでいたせいで、そのギャップに惑わされ、余計にそう思ってしまうのかもしれない。
俺は外に滲み出そうな欲をグッと押さえた。
「良かったら上がってかないか? お茶ぐらいは出すよ」
「あ、じゃあこの前話してくれたわんちゃんの写真、見せてくれるかな?」
しがみはその可愛らしい瞳をキラキラさせながら、俺にそう言った。
そう言えばこの前、飼い犬の話を少しをしたっけか。
「…………やっぱりダメ、だよね。ううん、無理ならいいよ。亡くなっちゃったばっかりだもんね。私ってば、不謹慎だなぁ」
苦笑しながらしがみは言う。
多分、しがみに飼い犬が死んだことを告げてあるから、気を使って言ってくれたのだろう。
俺は優しくしがみに笑いかけてから、言葉を発した。
「そんな事はないさ。ゆっくり見ていってくれよ。きっとあいつも喜ぶさ」
思いもしないことをつらつら言いながら、俺は重たい門の扉をゆっくり開けて草の伸びきった庭を見せる。
「庭は手入れもしてないし、家の中も汚いけど……」
「ううん、お構いなく」
そう話しながら俺は玄関のロックを外し、しがみは薄暗い家の中に入っていった。
5
――しがみが。……あのしがみが俺の部屋にいる。
俺も男だ。
艶めかしいうなじに唇と胸元、そして太股。
誘っているのか、はたまた素でそうしているのかはわからないが、無防備なしがみを見ているとそういう衝動に駆り立てられる。
「可愛い!」
家族だった犬の写真を楽しそうに見ているしがみ。その笑った横顔を眺めていると、余計に欲しくなってしまいそうだった。
――彼女とひとつになれたら、どれだけ気持ちいいのだろうか? 『癒やし』でなくとも、俺の心を解放してくれるのではないか?
そんな事を考えていると、しがみが気まずそうにこちらを見てくるのだ。
「どうした?」
「えっと……ちょっと、あの。………ト、トイレ、借りていい、かな?」
彼女は体をくねらせながら、恥じらい顔で俺に訪ねてきた。
そんな恥じらい顔のしがみの姿を見ていると、余計に欲しくなってしまうじゃないか。
俺は生唾を飲み込むと、平然を装う。
「ああ、気が利かなくてゴメン。部屋を出て、左に真っ直ぐ行って突き当たりにトイレあるから」
「……ありがとう。ちょっと借りるね」
しがみは慌ててバッグの中身を漁ると、手のひらサイズのポーチを取りだして駆け足で部屋を後にした。
俺はしがみを見送ったあと、ふとベッドに視線が行くと大事なことを思い出した。
「そう言えば、『癒やし』の時に使う道具がそのままだったような。隠し場所を変えた方が良さそうだなぁ」
布団の下を漁り、そこから鋭利なナイフを取り出す。
まめに手入れをしているせいか、刃先が一段と輝きを放っていた。
その怪しいまでの輝きを見ていると、俺の中の狂気が腹の底から沸き上がってくる。
「ひひっ……。はやく、中身を取り出したいナァ」
その不気味な輝きに見とれ、刃先を舌で舐めたそのときであった。
「――――――きゃぁぁぁっっっ!!」
俺が『癒やし』のために使っていた風呂場の方から、しがみの悲鳴が聞こえてきたのだ。
――もしかして、あれを見たのか。
俺はそのナイフを握り締めたまま、足早に自室から出た。
風呂場としがみの行ったトイレは比較的近くにある。
俺の足は一歩一歩確実に風呂場へと近付いていく。
ガタンと音がしたと思ったら、案の定怯えた表情をしたしがみが慌てて風呂場から出て来たのだ。
「どうした?」
俺はしがみを怯えさせないように、笑顔で振る舞った。
「あ……あ、ううん……。なん、でもない、よ……」
しがみは俯くと、そう言ってから鼻を摘み咽せ始める。
よく見ていると、彼女のこめかみの辺りから汗がが零れ落ちたのがわかった。
「わ……私、早く帰らないとだった。ご、ごめんね……」
瞳孔が開きっぱなしのしがみは、俺の横を強引に通り抜けようとした。
だが、俺は逃がすまいとしがみの腕を強く掴んだ。
――……今しかない。
直感でそう思った俺は口を開いてしがみに告げた。
「俺はしがみが好きだ。だから、帰らないでくれ」
突然だったかもしれない。だが、『あれ』を見られたと言うなら、もう気持ちを伝えるのは今しかないと、そう思った。
「は……離して……」
彼女は俯きながらそう言う。俺が掴んだ腕から、しがみの震えが伝わってきた。
「好きだ」
結果は解っていたのかもしれない。でも俺の気持ちだけが先走る。彼女を掴む俺の手が、次第に力強くなっていくのが自分でもわかった。
「痛いっ、いやっ! 早く家に帰らせて……っ」
「好きなんだ」
「離して! こんな悪臭が漂うところなんて、居たくないわ!!」
「……悪臭? 何を言ってるんだよ。別になにも臭わないじゃないか」
「お風呂場のあれはなに?! あんなものを放置しておけば腐るに決まっているじゃない! 悪臭も分らないなんて、あなたは狂っているわ!!」
「あれは、俺の『癒やし』で――」
「あなたがこんなに狂った人だったなんて思わなかった! 離して、気持ち悪い!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の手の力が緩んだ。
それに気付いたしがみは、俺の手を振り解き、足早に玄関へと向かっていた。
――……俺は、何を期待していたんだろうか。
そう思った瞬間、俺は逃げるしがみを無心で追いかけた。
俺の家は広い。だから走ればすぐしがみに追い付いてしまう。
「いやっ!」
必死に逃げていたしがみの髪を捕まえ、思いっ切り引っ張る。
「痛い! いたいっ!」
怯えながらも必死にもがくしがみを、ずるずると引きずりながら風呂場の方へ連れて行く。
「離して! イヤっ! 帰らせて!」
嘆き叫ぶしがみは、その部屋の前まで来るとまた鼻を摘み咽せる。
「う……、うえっ」
しがみがそのまま嗚咽し、自分の口を手で押さえた。
必死で口元を押さえるが、今さっき食べたであろうモノがふやけた状態でその抑えた手の隙間から出てくる。
しがみは息を荒くさせ、彼女の髪の毛を掴んで離さない俺を睨み付ける。
俺はしがみの髪の毛を離してやり、逃げ出さないように壁の端に追い詰めた。
しがみの両腕を掴み、顔を近付ける。彼女の顔の周りには、汚物が付着していた。俺はそれをペロリと舐めてやった。
「……」
苦しそうに呼吸をするしがみは、目に涙を溜めながら俺を睨んだ。
そんなしがみを見た瞬間、一つの欲が俺の中に湧いた。
――抱きたい。
もう欲を無理にを抑えることなどしない。
考え無く握り締めていたナイフが邪魔になり、しがみの顔スレスレに突き刺す。
「ひっ……」
しがみが恐怖に染まるのがわかった。
壁に突き刺したナイフをそのままにし、俺はしがみの上に乗りかかる。
「助けて……」
涙を溜め、助けを求めるしがみの言葉を無視し、しがみの服に手をかけた。
「嫌……いや、イヤ……」
俺は力任せにしがみの着ている服を破く。しがみの白い肌が露わになっていった。
「やめて! 嫌っ! いやぁぁぁ!!」
しがみの悲痛な叫びが、俺の鼓膜を震わせる。
その叫びは余計に俺を興奮させるなんて、しがみは思わなかっただろう。
力尽くで、抵抗するしがみを抱いた。
無我夢中とはこの事と言わんばかりに、しがみの体を貪る。
最初のうちは抵抗していたしがみも、段々と抵抗しなくなっていた。
俺は時間が経つのも忘れ、何回もしがみと交わり、そして何回もしがみの中で果てた。
瞳の光りを無くしたしがみは、力無くそこに倒れていた。
声も無く、ただ涙を流すだけで、もう逃げようとする気配も感じられない。
だが、俺は好きな女を抱いても満たされた感覚を味わうことが出来なかった。
物足りない。
そんな気持ちで心が一杯になる。
確かに気持ち良かった。だが『癒やし』の時のように心は満たされなかったのだ。
しがみの震えた姿。
しがみの怯える表情。
しがみの下半身から流れる、混ざった血と体液。
彼女の姿を見た俺の頭の中に、飼い犬をこの手に掛けた時の光景が思い浮かんだ。
鮮明に思い出すほどに俺の体は震え、閉じきっていた口元がぐにゃりと歪む。
俺自身があの時の感覚を求めているのだ。
俺は無言で壁に突き刺したナイフを手に取り、壁から抜き取った。そして、そのまましがみの上に乗りかかると、そのナイフをしがみの腹に向けた。
「い……やぁ……」
しがみの目は大きく見開き、その瞬間、沢山の涙が溢れ出てくる。
俺の瞳にはその姿も捉えてはいたが、欲の赴くまま、しがみの腹にナイフを突き立てた。
すると、あの時のような断末魔の叫びが家に響き渡る。
この世では滅多に見られないほどの形相でしがみは暴れている。
人間はこんな声をして鳴くのかと、俺はしがみを抱いたとき以上に興奮していた。
「君の白い肌に、赤い血痕がとっても栄えるな」
うっとりしながらしがみの悶える姿を凝視する。
俺の目には、そんなしがみがいままでになく色っぽく見えていた。
「ああ、また君を抱きたくなってきたよ……。しがみ、しがみっ!!」
しがみの腹に突き立てたナイフを手放すと、白目をむきはじめたしがみと交わり、中で何度も果てた。
6
俺は快楽の余韻に浸りながら、無残に転がっているしがみを見つめた。
夢中になってしがみを抱いていたら、彼女はは息絶えていたのだ。
「もっと楽しみたかったのになぁ」
溜め息を吐き出した俺は、最後の楽しみであったしがみの中身を取り出すことにした。
鋭利なナイフを手前に引き、しがみの真っ赤な腹の中身が見えてくる。
それを素手で取り出すと、ねっとりとした感触が俺をまた興奮させた。
「いいなぁ、しがみっ! 俺を最後まで楽しませてくれるっっ!! ひひ、イイヒヒヒひヒヒひ!」
きらきらと真っ赤に光るその中身に頬ずりをし、頬を真っ赤に染めながら屈託なく笑う。
俺は顔をニヤつかせながら天井を見上げた。
自分自身の欲という欲が満たされた感覚。充実感。満足感。
もう欲なんてないと思えるほどに満たされた、そんな時だった。
「にっしっし……」
誰も居ないはずの家で、男でも女でもない声が聞こえてくる。
「仕上げなの」
その声は間違いなく俺の下から聞こえてくるのだ。
視線を天井からその声のする方に向けた俺は、ただただ驚愕した。
俺の下にはしがみの亡骸があったはずだ。
なのに、しがみの亡骸と入れ替わるように仮面を付けた黒い誰かが床に寝転がっていたのだ。
「誰だ!」
驚いた俺は立ち上がり距離を取ると、ナイフをそいつに向ける。
だが、そいつは動揺することもなく言葉を発した。
「にっしっし……、誰とは愚問なの。しがみはしがみだし」
自分の事をしがみと言うこいつは、奇妙な笑い方をしながらそう言う。
「嘘を吐くな。しがみは俺が……、俺が殺したはずだ」
「しがみは嘘を吐かないの。それもしがみだったのに、キミはしがみをそうとしか見てなかっただけだし」
――こいつの言っている意味が分からない。
と、俺は心の中でそう思った。
「理解なんてしようとしなくていいの。しがみは人間を喰うだけだし」
俺が言葉を発していないのに、そいつはまるで俺の考えがわっているかのようにそう口にした。
「人間は決して無欲になれないの。欲が尽きない限り、しがみ達の本当の姿なんて見えないし。無欲になったとしても、もうそれは人間じゃなく、何でもない者になっちゃうし。何でもない者は、しがみ達ににとっては毒なの」
そいつの長くて黒い手が、ナイフを握り締める俺の手に触れる。
その瞬間、俺の血の気がさっと引いていくようだった。
――こいつは人間じゃない!
やっと気付いた俺は、そいつの手を振り払う。
そいつに触れられた所が、凍てつくように冷たくなっていた。
寝転んでいたそいつは、人間では有り得ない体制でゆっくり起き上がる。グニャリと曲がる体は、まるで軟体動物を思わせた。
「しがみ達を人間と一緒にしないで欲しいの。わかりやすく教えてあげるし。人間はね、しがみ達の『家畜』なの」
「家畜だと……?」
「そだよ、この世の全ての人間は大切なしがみ達の食料なの。しがみ達は人間の魂を食べて生きているんだし」
俺はその言葉を聞いて背筋が凍る。
――こいつは人間の……いや、俺の魂を喰いに来たっていうのか?!
そう思った時に、またそいつが奇妙な笑い方で不気味に言う。
「にっしっし……、しがみは変食なの」
俺にその不気味な仮面を向けて、言葉を発する。
そいつは仮面に真っ黒な手を添えた。
「大体のしがみはね、自分を殺した人間の魂や老衰した人間の魂だけを喰らうの。でもね、このしがみは変食でグルメだから人間を料理するの。狂気に満ちた魂に、隠し味で恐怖を加えて……、それから肉体ごと喰らうの。それがまた美味なんだし」
嬉しそうに言葉を発するそいつの黒い体の背中から、三本目の手が生えてきた。
他の二本よりはるかに長いその手を、俺めがけ伸ばしてくる。
俺は考えるよりも先に足を走らせた。
――喰われるっっ!
無意識に奇声を発しながら走る俺の頭に、凍てつくように冷たい何かが触れる。
その瞬間、俺はあいつに捕まってしまったのだと言うことを悟った。
「ああ、なんてしがみ想いの家畜なの」
俺の体は宙を浮き、体を無理やりそいつの居る方向に向けられる。
「しがみはキミみたいな人間が好きなの」
そいつが言葉を発する度に、俺の体がガタガタと震えた。
「しがみは欲を抑えなし。キミを喰いたいだけなの」
鼻がツンと痛くなり、俺の目に涙が浮かぶ。そいつの姿が霞んでよく見えない。
「助けてくれ……」
俺がまばたきをすると、溜まっていた涙が零れ落ち、そいつの姿がはっきりと確認できた。
「まだ、まだ死にたくないよ……」
命が欲しい。まだ生きていたい。
そんな感情が生まれたとき、自分をしがみと呼ぶ奴の姿が歪み、姿を変えていく。
何事も無かったかのように俺の体は床に崩れるように落ちる。
だが、落されたことよりも、俺は自分の目に映る人物の姿に驚愕した。
「――あ、あああ」
その姿を見て、手に握っていたナイフを落す。
「あああああ…………! 母さん、母さん!」
俺の瞳には、母さんの姿が映っていた。
もう俺の元に戻ってくることのない母さんが、そこにいるじゃないか。
あの優しい瞳。ああ、俺の元に帰ってきてくれたのだと思った。
「帰ってきてくれたんだね、母さん!」
今までのことが夢だったかのように思えた。
俺は夢を見ていたんだ。きっとそうだ。
目の前には、ずっとずっと会いたかった母さんが居る。
そう思うだけで俺は歓喜の涙が流れてきた。
「母さん! 母さん!」
俺は母さんに抱き付くと、夢中で母さんの胸の中に頬ずりをする。
ただ嬉しくて、嬉しくて。嬉しかっただけだった。
「……、そうね。あなたのために帰ってきたのかもしれないわ」
母さんがそうぽつりと言うと、俺は嬉しさのあまり母さんの顔を見た。
「母さ――――」
「あなたを、殺すために……帰ってきたんだから」
その瞬間、俺の腹部に激痛が走る。
あまりの痛さに、俺は今までに発したことのない声で叫ぶ。
「ああああ゛あ゛ア゛あ゛あ゛あアア゛あアアアアアあああぁぁあア゛ぁあ!!」
俺にとって信じられない光景だった。
母さんの手には俺のナイフが握られていて、そのナイフが俺の腹部に刺さっているのだ。
俺はこの痛みから逃れるために必死に抵抗する。
だけど、動けば動くほどにナイフは深く突き刺さっていく。
「かあさああああ゛あん゛んどおおおしいいいい゛イ゛いてえええ゛エエ゛え」
口の中に鉄の味が滲んでくると、痛みの感覚が麻痺してくる。
「おではあ゛ああ……かあさ゛んにいいい゛いあいじ……あいして……もらい……」
次に、目が虚ろになり、母さんを直視できなくなっていた。
「まったく。雑味が入ったじゃない」
「かあ…………さ」
霞む視界で必死に母さんを捉えようとする。
すると、母さんの姿は歪み、仮面を付けた黒い姿の化け物に変わっていた。
「あ……ああ…………かあさ…………」
「まあいいし。お腹が空いたから喰っちゃうの」
閉じかけた瞳は、その化け物の仮面の下を捉える。
だが、そのおぞましい仮面の下と他に、俺の視界に入る人物が居た。
その人物は、窓の外からこちらを見つめているのだ。
俺はその人物を知っていた。
――翼夢、空?
彼女の姿を捉えたときに、彼女は口を動かす。
まるで、
「だから忠告したのに」
と言っているようだった。
だがその表情はまるで、悲愴な面持ちであったのだ。
だが意識も限界にあった俺は、そのまま化け物の大きな口の中に意識と体ごと引きずり込まれた。