8.名もなき島の遺跡探訪2
地球での生活は未だに頭の中に鮮明に残されている。
翌年に大学受験を控える高校三年生だった俺は、いよいよ佳境が近づいてきたぞ、と思い続ける日々。志望大学に受かりたい気持ちは人並み以上にはあったのだろうか。勉強に追われる日々とまではいかないが、それなりに努力はしていた。
勉強、学力、偏差値、実力、受験、大学……
この世界じゃあ全部パーだ。泡となって消えたと言っても良い。
必死に覚えた英語はこの世界に存在するか分からない。
生物は分からない。と言うか耳の長い人間以外見ていない。
地学……プレート運動はあるのだろうか?
物理も化学もこの世界の魔力の前ではどう映るのだろう。
歴史? まるっきり違う。「国」歴二万年だとさ。
地理……も歴史と一緒だろうけど希望はある。
正直言って地球に復帰しても絶望的だろう。これが非常に良くできた夢でなければ。百年以上生きたとして、この世界の文化知識歴史地理法律憲法言語生物その他———— 果たしてそれらはこの世界に必要なのだろうか?
ああ、「魔法」? は分からんが、この世界のそれらに自分が染まり切った時に、あの自分が今も書き留め続けているノートを見て、完全に思い出す事が出来るだろうか。必要のない物ならノートを見ても思い出せないだろう。
そもそも、地球に戻れるのだろうか?
俺が気になるのはその問題と、この動きなれない少女エルフな体だけである。
現在俺は遺跡内の冷え切った石の階段を登りながら、ミサンラ達が言ったとおりに少し進んでは周囲を見渡して何か気になるところは無いか、と言ったことを繰り返している。……のだが、今の所これと言って目ぼしいものは無い。
遺跡に行った事も無かった俺なんかじゃなくて、それこそ専門の学者さんが見れば何か俺の目とは違うものが映るのかもしれないが、さっきから俺の目に入ってくるものと言えば、入り口からずっと続いている血痕しか無い。俺たちは血痕の上を辿って進んで行っていると言っても良い。
「罠はどうも今んところありそうに無いねえ。遺跡的な物もないねえ。こりゃーハズレかな? 魔物とかみたいなの壁画とか想像してたんだけど、やっぱり無いかな?」
「……まだ判断するには早えよ。お前の探してるものを示準づける物も他の所にあるかも知れないしな。時間はあるんだから」
そう話す彼女であるが、先ほどの疲弊ぶりを見ると、どうも時間があっても圧倒的に体力が持たないと思う。多分俺もこの塔のような形状をした遺跡を上り、一階まで降りて、それを三回繰り返してセヴィリアの駅に着くころにはきっと足が痛くなっているだろう。つくづくこの体が嫌になる。
でも容姿が良いから良いんだけどね。 それに今までは縁が無かった女の子と一緒だし、ね。
女体化願望があった訳じゃないけど。
と、そこで何かミサンラが何やら言いたげにしている事に気付いた。目線の先を見るに、どうやら血痕の事で何か言いたげにしているのだろうか。俺は聞いてみることにした。
「姉さん、さっきから何を気にしてるんですか? 血痕に何か気になる事でも?」
そう問いかけるが、彼女は反応を示さなかった。聞こえていないのだろうか?
「おい、ミサンラ! スウがお前に聞いてるぞ。何とか言ってやったらどうだ?」
それなりに覇気のある彼女の高い声が階段の中に響いた。ミサンラも気づいたようだ。大声を出せる程度にまで彼女は回復したらしい。
「…………ん? あ、ああ。いや、何だ。血痕が飛び散ってる場所が無くてね、ほら、今までに罠なんてなかったよね? あれだけ言ってたけどさ。だからこの血痕はやっぱりキサメルの言う通り入口の方に行ってるのかなって。そう考えててね」
よくそんなに集中していて、階段に躓かなかったものだな、と思う。
確かに血痕の存在はこの上なく俺を不安にさせるものだが、そんなに血痕ばかり見ていてはたとえ罠なんかが無くともミサンラは怪我してしまうだろう。もし躓かれたりして階段を転げ落ちられたら、俺まで巻き添えを食らう。それは勘弁してほしいものだ。
「でもよ、いま思ったんだが、今までに罠なんて無かったんだったら、外で怪我した奴が、一時的に非難するためにこの遺跡に入ったのかも知れんぞ。それなら血は飛び散らないだろ?」
「まあ、確かにそうだね」
「でもわざわざこんな階段なんて非難するためだけに上りますか? 1階待機で十分だと思いますが」
「さあ、ふと思ったことを口に出しただけに過ぎんからな。独り言程度のものだと思っておいてくれ」
長い金髪を弄りながら彼女は言った。俺には詳しい考察は出来ないが、こんな所に来る人間など俺たちのような遺跡探訪に来る以外に一体どのような目的を持ってくるのだろうか。全く思いつかない。
強いて挙げるとすれば、芸術家とかだろうか?
どちらにせよ、俺達はこの血痕を見に来たわけでは無いのだから、この血を流した人物なんて些細な事は別にどうでも良いと思い始めている。血痕に対する不安なんてもう既に頭の外だ。
と、そこまで考えたところで急にミサンラが立ち止まった。
「ねえ、いったんさ、一番上まで上がってからこの遺跡調べない? 私たちの目的は魔物の存在証明だけどさ、血痕が気になるんだもんね。罠が無いって決まった訳じゃないし、このまま階段上がった方がきっと安全だよ」
彼女は名案でも思い付いたかのようにそう言った。確かに血痕が気になるのであれば先に登り切ってもいいだろう。と言うより階段を上りながらずっと話していたせいで、とっくに半分以上登り切っているだろう。5回くらい17段の階段を上った気がする。今いるのは中3階にあたる位置だろう。
ここまで来たらてっぺんまでさほど遠くないということで、合意の返事をミサンラに返した後、キサメルにも合意を求める。
「キサメルも構いませんよね?」
まさか階段の上り下りでバテはしないだろう。一応雪の斜面を登り切ったのだから。
「お前がそれで良いのならな」
「もちろん。良いって言ったじゃないですか」
「そうかよ」
返答して、彼女は一番最初に上り始めた。続いてミサンラが上りはじめ、今までと同じ並び方で俺が続いた。三人の意見は合致した。あんまり気に掛ける問題では無いような気がしたが、なにか、妙な連帯感が生まれた気がする。
二人とも数日前までずっと寝ていたこの体の事を覚えているのだろうか?
階段を上り切って、2年前に死んだ祖父が入院していた病院の階段みたいだ、と思って横を見ると、
顔のあたりにあった綺麗な正方形の穴から雪に反射した温かくない光が入ってきた。
眩しさに目を瞑るほどではないが、何故か心なしか朝日の光を思い出した。
血痕は尚も先に続いており、いよいよその血が凍って見え始めた。「比較的新しい」じゃなくて、人間から出てきた血がそのまま凍ったかのような鮮やかな色をしている様にも見える。
その先には血が赤い線となって伸びる屋上の狭い石張りの空間が見えている。
周囲を雪山に囲まれたこの場所だ、見晴らしはよくないだろうと思いつつ歩を進めるのだが、
果たしてその赤線の先。屋上の端には————
「先客」 が、居た。