1、良弥
清潔感のある白でみたされた空間のこの場所は、いつもツンとした匂いがして、なんだか無機質で、昔から嫌いだった。
佐奈川病院前、大通りの車道から駐輪場に入る。いつも止める場所は違うが大体出口の近くに止める。
止まらない汗をぬぐいながら、自転車にカチャンと鍵をかけた。
佐奈川病院は大きな建物で、その分 色んな病気の人が入院している。
『小林 良弥』とプレートの掲げてある個室の前で小さくノックをする。
耳を澄ませると、低く掠れた声で「どうぞ」と声がした。
「雪か、毎日ありがとな」
中に入ると、良弥が弱々しく微笑み、迎えてくれた。
「百合」
それだけ言うと、買ってきた百合を見せた。
良弥の顔が輝いた。
「今日も綺麗だ……」
「花屋さんのおすすめだって」
「へえ、通りで俺も元気が出てきたよ。ありがとな」
ううん、違う。
良弥に見えないように、右手を握りしめた。
元気が出るわけない、花なんかで。
「私になにができる?」
そう言っても、良弥はいつも笑って、こう言うだけ。
「雪はいてくれるだけで、いいんだよ」
嘘だ。絶対、嘘。
無理してるって分かる。
私は良弥に何もできていない。
白い廊下を俯きながら歩いていく。
何もできなかった。いつもこうだ。
私は前もロクに見ずに歩いていた。
「あっ」
ふと顔を上げると目を見開き、後ろに後ずさった。
目の前で男の人が床に伏せ、うぅ、と呻いている。
どうみても異常だった。
「あの、大丈夫ですか…」
ピクリと男の人の方が動き、呻き声がやむ。
男の人はゆっくり顔を上げると、私に向かって何か呟いた。
「え?」
「誰か……アコ…息が……できな……」
苦しそうに顔を歪め、その人は言った。
助けを、呼ばなきゃ。
分かっているのに、できなかった。
身体が硬直したように動かなくなったようだった。
その人の顔は美しく、涙の滲む姿に色気すら感じた。
そんな場合じゃない、と分かっている。
動け、動け、といくら頭で言っても、一歩も動かない。
「アコ……」
その人の声でパチンと我に返ったように弾かれ、慌てて駆け出した。
白い廊下の中、全力で走る。
途中で看護師を見かけ、焦る胸を抑えながら慌てて止まった。
「あの、あの、あっちでたおれている人が……!」
看護師はその言葉に青ざめ、鹿野さんだわ、と呟き、どこかへ走っていった。
鹿野さん……?
私は廊下を引き返し、またあの人の元へ戻っていった。