孵化
真夏の深夜の静寂が支配するその部屋で、微かなその嗚咽が響いてくる。
その声は、発せられた中心から、波紋を描き深く拡がる。
それは耳以外の場所、身体のいたる所から侵入し、響いてくる。
私は動くことも出来ずに目を閉じていた、その暗がりから映像が浮かび上がって来た。
自らも忘れていた記憶の深層にあるものが。
幼い私の手を引いて、月光を頼りに歩く母の姿が。
私はその自分自身の小さな背中と、母の悲しげな背中を見ていた。
どれほどの時が流れたのか、ユリさんが部屋を出る音で我に返った。
ここに私が居ては、ユリさんがゆっくり休めないだろうと思い、私もリビングに戻った。
ユリさんは浴室であろういなかった。
私は大きな白い革のソファーに腰を下ろし、夜景を見ていた。
夜街の光はいまだ衰える事無く、自然光を拒み続けていた。
窓ガラスに映る自分の姿を直視できずに、目を逸らせた。
足りないものが多すぎて、それを補う方法さえ解らぬ自分に苛立っていた。
「ありがとう」不意に私の首に腕を回し、石鹸の素敵な香りと共に、ユリさんの声が私の耳元で響いた。
私は言葉を返す事が出来ないでいた。
「怖くなかった?」腕を回したまま呟く声が、より近くに感じた。
『公務員は怖くなかったけど、マリアの夜泣きが怖かった』私はやっと言葉が出てきた。
ユリさんはクスクスと笑い腕を外した。
「頂き物だけど、お寿司食べる?」私は振り返り『いただきます』と必死に笑顔を作った。
ユリさんの化粧を落とした素の顔が、私の予想より遥かに近くにあり、圧倒されていたのだ。
《化粧しないほうが綺麗だ》そう思っていた。
ユリさんはキッチンに迎いながら。
「私ビール飲もうかな、チャッピーは何がいい?」私は昨夜同様意を決して。
『同じ物でお願いします』と言ってみた。
ユリさんが振り返るのを、まるでスローモーションのように見ていた。
薄手のネグリジェに包まれた身体が、肩のラインから骨盤の基点になる所まで、背骨で綺麗に繋がり。
背骨の各部位が滑らかにスライドした、ウエストのくびれと腰のラインに繋がるポイントに、確かな分岐点があった。
回転運動による負荷を受けとめ、腹筋が微かに隆起する。
全ての動きが収まるまで、一度たりとも姿勢は崩さなかった。
《完璧やな~》と私は感動すらしていた。
私は近所の空手道場の道場主と私の親父が友達で、小学校に上がる前から通わされていた。
中1のその時には、準黒帯を巻く資格を有していた。
その道場主の、シゲ爺の言葉を思い出していた。
【人の内面はその後姿に必ず出る、本当に実直に生きる人間は必ず美しく立つ。
そういう人間を強いと表現するんだ】
今思うと私は、話しを聞く才能にだけは恵まれていたのだろう。
理解できない内容の話でも、他人の話を聞くのがただ好きだった。
その道場主の言葉の真意に、触れた気がしていた。
「今夜だけ特別よ」百合でなく薔薇の笑顔で微笑んだ。
大きな寿司の折箱と、小瓶のラガービールとグラスを持って、ユリさんが私の真横に座った。
深夜だったので下から灯る間接照明だけの雰囲気が、PGのフロアーのようだと思っていた。
ユリさんからグラスを受け取り、ビールを注いでもらいながら。
『PGだったら高いんだろうな~』と思わず声に出して言ってしまった。
「あら、私をご指名じゃなかったかしら」ユリさんは楽しそうに返した。
『まさか!そんな大それた事、ただの餓鬼ですから』と真顔で言った、ユリさんと視線が交わり。
「ガキなの?」ユリさんの表情は少し真剣みを帯びた。
『馬鹿な餓鬼です』私は正直に呟いた。
悲しむ美しい女性にかける言葉も、抱きしめる勇気も持たない、自分の事に気付き、かなり落ち込んでいたのだ。
「子供の時は子供を楽しんで、嫌でもどんなに拒絶しても、大人になるわ」視線を逸らさずにゆっくりと優しく。
「子供の時にしか出来ない事も沢山あるわ、私は今凄く期待しているのよ。あなたが3人娘に何を残し何を教えるのかを」ユリさんは大事な想いは、どんなに未熟な人間にも目を見てきちんと話す。
その言葉に押し付けはどこにもない、だから内側に入ってくる。
その言葉は染み渡り、内から温かくなる。
私は自然に笑顔になり。
『探してみたいな』と素直に言えた事に自分自身が驚いていた、その圧倒的な存在に出会い、素直になれた自分に。
乾杯して寿司を食べた、その経験したことの無い、あまりの美味さに夢中で食べていた。
「美味しいでしょう」ユリさんは夢中で食べる私を、嬉しそうに見ながら言った。
『寿司ってこんなに美味いもんだったんだね、滅多に食べれないし、食べても安いものしか食べたことないから』と私は笑顔で言った。
「だから大人達は食べるのよ、自分の成功の証としてね」とユリさんが薔薇で微笑んだ。
私は箸を止め寿司を見ながら。
『わかる気がする』と呟いた、ユリさんは薔薇の笑顔で「さぁ全部食べてね」と促した。
それから他愛も無い私の話をしていた、私は本当に楽しかった。
初めて感じる素直な自分を、心から楽しんでいた。
時計が2時を指した頃。
「そろそろ寝ましょうね」とユリさんがテーブルの上を片付けながら、初めて見せる悪戯っ子のような表情で。
「ソファーで寝る?それとも一緒に寝る?」と聞いた。
『餓鬼だからソファーで寝ます』と冗談で返すことすらできなかった。
ユリさんは楽しそうにキッチンに迎いながら。
「最初がおばさんじゃやっぱり嫌よね~」と笑っていた。
私は勿論未経験の餓鬼で、興味は人一倍あった。
《ユリさんが教えてくれるなら最高だろうな~》と思っていた。
ユリさんにお休みをして、ソファーに寝転んだ、気分は快晴に戻っていた。
翌朝、私は耳を引っ張られて起こされた。
見るとマリアが、【桃太郎】の絵本を私の目の前に突き出していた。
思考回路が少し覚醒した私は、《昨夜マリアだけ絵本を読むときいなかったなー》と気付き、絵本を受け取った。
私が読もうとすると、私の手を掴みマリアが首を横に振った。
『読むんじゃないの?』私は意識して優しく言った。
するとマリアが屈み私を天使の笑顔で見ながら。
「あっこ」と天使の笑顔で言った。
『そっか~、ごめんごめん』と言いながら床に胡坐をかいて座ると、マリアがチョコンと乗ってきた。
私はマリアの目の前で本を開き、得意の擬音を駆使し読んであげた。
マリアは都度「もも、じぃ、ばぁ」とそのボキャブラリーを披露してくれた。
私は上から、クルクルの可愛い癖毛の天使を見ていた。
家出して、寂しさを和らげてくれた掲示板のマリア。
そして今、私の膝の上でなんの疑問も不安も見せない、二人目のマリア。
昨夜私はこの天使に守られていたのだと感じた、優しくマリアを抱きしめた。
マリアは天使の笑顔で見上げていた。
私は孵化に近づいていた、人の何倍も時間を費やし、回り道をしながら。
今思うに、私の成長の基点はこのマリアである。
その後、私に教えてくれるのだ、その無垢な心と行動で、最も大切なもの。
生きる【理由】でなく【意味】を。
絵本が読み終わると、「まんま」とマリアが言った。
『そっかー、お腹空いたよな~』私は疲れてるであろう、ユリさんを起こしたくなくて考えていると。
マリアがキッチンに歩いて行った。
私が慌ててついて行くと、戸棚から箱を取り出して、私に差し出した。
受け取ってみるとコーンフレークだった、恥ずかしい話、私は初めてコーンフレークを見たのだ。
説明書を読み、二つ皿を出してコーンフレークを入れ。
冷蔵庫から牛乳を出して注ごうと思ったが、適量がわからないので、ヒタヒタなるほど多めに入れた。
食卓の可愛い子供用の背の高い椅子に、マリアを抱いて乗せた。
皿を差し出すと、食べ始めたので一安心して、マリアを見ていた。
『おいしい?』と聞くと「おいち」と天使の笑顔で返してくれた。
私もマリアの向かいに座り、その初めての美味さに感動して。
『美味いな~、アメリカ人ってのは、案外美味いもんを食ってるね』とマリアに言うと。
「くってる」と言ったので私は笑いながら、《マリアの前では言葉に気をつけねば》思っていた。
食事が終わると、ソファーのテーブルでマリアがお絵かき道具を持ってきて、お絵かきを始めた。
私はピカソも驚くであろう抽象画を、飽きる事無く見ていた。
ユリさんが10時過ぎに起きてきて。
「ご飯までしてくれたの、ありがとう」と言って、二人でマリアの絵を見ながら笑っていた。
豪華な昼食をユリさんが作ってくれ、それを食べていると。
「今日の午後暇なら、マダムがお店においでって言ってたよ、蘭は靴屋の仕事だそうよ」とユリさんが言った。
蘭が仕事なら行くとこも無いし、婆さんの所に行ってみようと思っていた。
車で送るというユリさんを断って、歩いて出かけた、マリアが追い泣きをして可愛かった。
外に出ると灼熱の太陽が迎えてくれた、目の前の公園の木々達がキラキラと輝いていた。
砂場で遊ぶ子供達を、守っているようだった。
目で見る景色が少し変わったと感じながら、私は街へと歩き出した。
蘭が存在する場所を目指し、急かせる心を楽しみながら。