捨猫
繁華街の雑踏を離れて、橘通りを渡りしばらくすると。
若草公園の唯一つの、街灯が照らす滑り台が見える。
栄養の摂取が満ち足りた私は、公園の左端を歩き、今夜の宿泊先である、ベンチに腰を下ろした。
振り向くと掲示板のマリアが、変わるはずもない優しい笑顔でそこにいた。
私はマリアに、『おやすみ』と声を出して言葉にして寝転ぶと、空には無数の星が瞬いていた。
やはり疲れていたのだろう、いつ眠りに入ったのか覚えていなかった。
翌朝、自己主張の強い真夏の太陽と、永い地中での生活から開放された、セミ達の声で起こされた。
元来私は夜型人間で、睡眠時間は5時間もあれば充分な方だった。
私はおもむろに立ち上がり、水のみ場まで歩いて。
Tシャツを脱ぎ上半身裸のまま、顔を洗い脱いだTシャツで拭くと、Tシャツは汗と焼肉の匂いで、かなり臭かった。
さて、どうしようかと考えながら、異臭の漂うTシャツを着た。
信の家でも行くかなと思い立ち、マリアにさよならをして歩き出した。
仲間の信は母子家庭で、母親は早くに仕事に出かけるのを知っていた。
15分ほど歩き信の家に着くと、信の部屋の窓を静かにノックしてみた。
「誰?」声の主は妹の千鶴だ。
『俺だよ、可愛いチャッピーちゃん』私はおどけて声をかけた。
ガラガラと窓が開き、千鶴が顔を出した。
「朝早くからどうしたの?」小5になった千鶴は、少し背伸びをしたい年頃なんだろう、大人びた笑みを必死に作って笑った。
『ちょっと見ない間に、可愛くなったな~千鶴ちゃん』私は思ったことをわざと口に出し、大人びたい年頃の少女の機嫌をとった。
「そうやろー、そうなのよー」と千鶴は少女の笑顔で答えた。
『信は?』私の問いかけに、私の目的に気付いた千鶴は。
「寝てるよ、かあさんは出かけたよ」と言って、玄関の鍵を開け、中に入れてくれた。
信の家で風呂を借り、千鶴の作ったチキンラーメンを食べ、信を起こしてTシャツを借りて着替えた。
「これから、どげんするとや?」信は好奇心を全面に出して聞いた。
『とりあえず、働くんや』私は強がり漠然とした計画を言った。
「豊さんには言ったと?」信は心根の優しい男で、私の事を本気で心配してくれいた。
『なぁ信、誰が俺の事を聞きに来ても黙っててくれ、たとえそれが豊兄さんでもだ』私は信にとってわ、非常に酷な事を約束させた。
「わかった、あてわあるんかい?」私は昨夜の彼女の言葉を思い出し。
『まぁな』と信をこれ以上心配させたくなくて、無理やり笑顔を作った。
信の家を出たのが、夕方の5時少し前だった。
その日は土曜日で、若草通りも対岸の一番街も、いつも以上に活気に溢れていた。
テ〇カ靴屋はすぐに見つかったが、私は入れずに向かいのパチンコ屋の入り口から、靴屋の中をうかがった。
店内で昨夜の女性が、おばさんを接客中だった。
《相当酔っていたから覚えてるのかな》と私が不安に思っていると、彼女と目が合った。
私が照れ笑いを浮かべると、彼女も笑顔で、おいでおいでと手招きをした。
『昨日はありがとう』と店に入り笑顔で、彼女に声をかけると。
「いっちゃがいっちゃが」と満開で微笑んだ。
「靴のサイズは?」の問いに、『26』と私が答えると。
「待ってて」と言い残して店の奥に消えた。
しばらくして、コンバースの箱を抱えて彼女が戻ってきた。
「履いてみて」と箱の中から、真っ白いコンバースのローカットを取り出した。
私が受け取り履いてみると、彼女が屈み靴の前と後ろを、指で押しチェックして。
「いいみたいやね、このまま履いていき出世払いでいいよ」と笑い私に近づいて耳元で。
「マルショクの1階の休憩所で待ってて、一緒に帰ろう」と小さな声で囁いた。
店を出た私は、週末の人混みを、マルショクに向かい歩いた、靴を汚さないように気をつけながら。
マルショクの休憩所で、コーラを飲みながら彼女を待っていた、真っ白いコンバースを眺めながら。
1時間程過ぎた頃、大きな紙袋を抱えて彼女がやってきた。
「ごめんねー、待ったね」と少し赤らんだ頬で言った。
『全然大丈夫です』私は彼女の紙袋を持ってあげながら答えた。
「今日は車で来てるから、いこうか」そう言った彼女について、私もマルショクを出た。
真夏の太陽は、まだその主張弱めずに街を熱していた。
横に並ぶ彼女は、ハイヒールでなかったので、昨日より小さく感じた。
「私ね」突然彼女が、私を見て語りかけた。
「火曜と金曜と土曜の夜ホステスしてるの、TVのある部屋があるからあなたも行く?」そう聞いた。
『金曜って昨日は?』私の問いに、舌を少し出して。
「マネージャーと口喧嘩して出てきたの」私の背より10cmは低いであろう、彼女を見ながら。
『行って良いなら、行ってみたいな』と答えた、彼女は満面の笑みで。
「そうなの、良かった~」と笑い「私の名前は蘭よ源氏名だけど、あなたも何かいい名前を考えよう可愛いやつを」と言った。
『チャッピー』私は仲間の同士の、通り名である名前を口にした。
「いいじゃない、可愛いし」と言うと、私の手を握りそのまま手を繋いで歩いた。
手を繋がなければ姉弟に見えただろう、躊躇無く繋いでくれた事が、私には嬉しかった。
綺麗に整えられ、マニキュアで色付けされた指が、大人の女であると実感させ、不釣合いだな~と思っていた。
駐車場につくと、「あれよ」彼女が1台の車を指差した、指した方を見て私はしばらく固まった。
彼女の車はケンメリのスカイライン、ブラックメタルのボディーに、ゴールドのスポーク型アルミホイールを履き。
エンジンは国産認定外の2800ccで、ソレックスの50πキャブにタコアシを装着していた。
その轟音に負けない、ケンウッドのコックピット型ステレオの大音響で、ズンシャカ走る。
『かっけー!高いやろ~』私の喜ぶ顔をみながら嬉しそうに。
「こいつの為に、蘭をやってるもん」と満開で笑った。
車に乗り込み、夕暮れの街を一周した。
宮崎神宮の手前を右折して、競馬馬の育成牧場の近くに、蘭のアパートがあった。
2階の部屋に入る前、鍵を差し込んで振り返り。
「襲うなよ」と笑った、『がんばります』と私は意味不明の返事をして部屋に入った。
玄関の入った所がキッチンで、小さなスペースに冷蔵庫などが置いてあった。
右のガラス戸を開けると、8条ほどの広さの部屋に、TVにベット小さなテーブルなど、生活する全ての物が、女性の部屋らしく整頓され置いてあった。
左の部屋は3条程の広さで、衣装だけが掛けてあった。
「この部屋を自由に使っていいから、今は男はこんかい安心しな」とおどけた。
『彼氏いないの?』私の失礼な突っ込みに、あの少し舌を出す小動物のような表情で。
「残念ながらねー」と笑顔で答えた。
「私、急いで準備するからTVでも見て待ってて」と言いシャワーに行くのに、普段の癖が出たのだろう。
私の目の前で服を脱ごうとし、ハッ!とした表情になって。
「覗くなよ」と照れて笑った。
『がんばります』と私も返した。
私はガラス戸を閉めてTVを見て待っていた。
シャワーを浴びて、ジャージに着替えた蘭が入ってきて、テーブルに鏡を置きながら。
「変身する姿を、男に見せるのは初めてだから、光栄に思いなさい」と言って夜用の化粧をはじめた。
『変身する姿を見られると、普通はいなくなるもんだよ』私は正義のヒーローを、引き合いに出して言った。
「うん、いなくなるよ・・多分男がね」と言った自分の言葉が、自らの笑いの壷に入ったのか、一人で楽しそうに爆笑していた。
蘭は化粧を終え、着替えに出て行った、しばらくして。
「おまたせー、どお?」と言ったので振り固まった。
そこには、若草公園で手で銃を作った女でも、靴屋でおばさんの接客をしている女でもない。
別の女性が立っていた、凛とした目は強調され、強い意思さえ感じた、私は見とれていたその美しい姿を。
「合格みたいやね」私の表情を読み取りそう言った。
『まぁ合格点かな』心が見透かされたと思った私は、この言葉を言うのが精一杯だった。
二人で連れ立って部屋を出て、蘭の自転車に私が前で漕ぎ、蘭が後ろに乗り灼熱の夜街に出動した。
宮崎の夜街は、大きく二つの通りで構成される、1本が西橘通り良心的な店が多く紳士的、もう1本が中央通り怪しげな店も多く冒険者向き。
中央通りを西に1本外れた小路が、怪しさの増す西銀座通りがある。
全ての通りから南に抜けた、所にソープ街があり。
その西奥に昔は赤線だった、末広町が鎮座してる。(現在の状況は異なります)
私達は一番街のとんかつ屋で、ヒレカツ定食を食べていた。
「TVルームには小さな女の子が3人いるから、面倒見てあげてね」食べ終わりお茶を飲みながら、蘭が言った。
『大丈夫です、得意ですから』その言葉に蘭が「そんな感じだね」と微笑んだ。
私は豊兄さんを継承していたので、昨年小6まで、近所の子供の面倒を見ていた。
だから子供の相手には、自信があったのだ。
とんかつ屋を出て、蘭の勤める店に向かった。
店の名は【パラダイスガーデン】今で言う高級キャバクラであろう、西橘のその当時一際目立つ大きなビルの、3階ワンフロアーを占拠して営業していた。
当時女性の登録者だけで、80人ほどいたのだ。
華やかなビルの横を通り、裏階段から店に入った。
小さな事務所にいくと、恰幅のいい髪を綺麗にオールバックにした、迫力のある40代の男がいた。
「徳野さん、昨日はごめんなさい」蘭は挨拶もせずに謝った
「俺も少し言い過ぎたよ、すまんかった」太く静かな声で語った。
「蘭、お前には皆期待してるんだ、辛いかもしれんが頑張ってほしい」諭すような口調が、安心感を与えた。
「はい、がんばりまーす」いつもの蘭に戻ったなと私は思った。
「で、その少年は?」徳野さんの問いかけに蘭は慌てて。
「昨日公園に、ダンボールに入れられて捨てられてたの、名前はチャッピーです、この子がいるから頑張れるから、TVルームにおいて下さい」と深々と頭を下げた。
徳野さんは私を見ながら少し考えて。
「うちの店で一番大切なものがあるから、それを面倒見てやってくれ」と私に言った。
『ありがとうございます』と私は礼を言った。
私が今まで関わったことの無い何かが、この徳野という男にはあり、私は完全に自分が男として下なのだと、痛感させられていた。
蘭の表現があまりにも的確で、私は昨夜の蘭に出会う前を思い出していた。
確かに捨て猫のような心境だったと。
あのまま蘭に会わなければ、私は自ら何も切り拓けずに、全財産の3000円が尽きた時には、親父に頭を下げてたのだと思っていた。
目の前に立つ美しい女性は、見ず知らずのガキの為に、お金を使い頭まで下げてくれる。
蘭の役にたちたいと真剣に思っていた、それまで誰かの役にたちたいと思った事など、一度もなかった。
薄暗い事務所で、徳野さんと談笑している蘭の後姿は、その精神性の強さを映し出し輝いて見えた。
私の大切な経験の幕が上がった。
監督も脚本家も演出家もいない物語は、登場人物の了解も無く幕を上げる。
そして観客のいない舞台で悩み苦しみ、そして楽しむのである。
自分は常に、自分を見ているのだから・・・。