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魔女と呼ばれた妻の帰還〜八年守り抜いた屋敷を追われた私が、すべてを取り戻すまで〜

作者: 月天
掲載日:2026/08/13

大陸を揺るがした大戦のさなか、裕福な伯爵家で何不自由なく育ったエリスは、夫であるライナルト・ヴァルト子爵を戦地へと送り出した。

「必ず戻る」という言葉だけを信じる彼女のもとに届いたのは、終戦間際の「戦死公報」だった。


戦死公報を抱きしめたまま、エリスは眠れぬ夜を涙で明かした。

頬を伝う熱いしずくが、夫の愛用していた書斎の机を濡らしていく。

悲しみで胸が張り裂けそうで、このまま閉じこもって泣き崩れてしまいたかった。


幾夜そうして過ごした事だろう…

ある日、ふと窓の外に目をやると、飢えと疲労でやつれ果てた領民たちが、痩せた畑を力なく耕している姿が映った。


戦後の混乱で食糧は途絶え、このままでは誰も冬を越せない。

「ライナルト様が大切にされていたこの土地も、人々も、私が泣いている間に失われてしまう……」


エリスは溢れ出る涙を、傷ついた両手のひらで強く拭った。


(いつまでも泣いてはいられない。あの方が帰ってきたとき、帰る場所を失わせるわけにはいかないわ)


鏡の前に立った彼女は、お気に入りの綺麗なドレスの帯を解き、泥の跳ねても構わない質素な作業着に袖を通した。

繊細な絹の布地とは違う、ゴワゴワとした布の感触が、背筋を伸ばしてくれる。


艶やかだった長い髪を一つに束ね、ハサミを取ると、邪魔になる毛先を躊躇なく切り落とした。


「泣くのは、今日で終わりにします」


鏡に映る自分の瞳に強い意志を宿し、エリスは静かに、しかし固く誓った。

弱々しかったお嬢様はもういない。

彼女は一度深呼吸をすると、領民たちの待つ泥まみれの畑へと、迷いのない足取りで踏み出していった。


「あの方が亡くなるはずがない。私がこの家を守り抜かなければ」と、

待ち続けることを決意した。


しかし、終戦を迎えても混乱は続き、食糧の供給は極めて不安定だった。

身なりを構う暇もなく泥にまみれて農作業を手伝うエリス。

貴重な食糧を一人ひとりに平等に行き渡らせるため、自ら荷車を引いて領内を走り回った。


「私が皆さんの命を守ります」——その一心で、傷だらけの手で帳簿を付け、頭を下げて回るエリスの姿に、最初は戸惑っていた領民や商人たちも、次第に固い信頼を寄せるようになっていった。




戦死通知から五年、夫が旅立ってから八年が過ぎたある日のこと。

死んだはずのライナルトが、突然屋敷に戻ってきた。


感極まって駆け寄るエリス。


しかし、夫の傍らには見知らぬ若い女性と、四歳ほどのかわいらしい男の子が立っていた。


戦地で記憶を失っていたライナルトは、現地の女性に助けられて暮らす中で子どもをもうけていた。


ライナルトが連れてきた若い女性——カトリーナは、貴族の血筋ではない。

戦地近くの町で武器の売買で巨万の富を築いた豪商の娘であり、豊かな財力を持つ「裕福な平民」だった。


カトリーナは仕立ての良い華やかなドレスに身を包み、宝石をちりばめた扇子で口元を隠しながら、エリスの擦り切れた作業着と荒れた手をあからさまな侮蔑の目で見下ろしている。


エリスの実家は高潔で名高いハルトゥング伯爵家だ。

だが大戦の影響で実家との連絡は途絶えがちになり、支援も望めない状態が続いていた。


「エリス、お前の実家である伯爵家からは、もはや支援金も期待できん。名誉ばかりで金のない伯爵令嬢など、この困窮した子爵家には何の役にも立たないのだ」


ライナルトは冷ややかな視線をエリスに向け、カトリーナの肩を抱き寄せた。


「カトリーナの実家は、町一番の富豪だ。彼女が持ち込む莫大な持参金と事業の資金援助があれば、我が子爵家はすぐに昔の繁栄を取り戻せる。泥にまみれて満足な金も残せなかったお前とは違うのだよ」


記憶を取り戻したライナルトが選んだのは、かつて愛した妻の家への敬意や8年間の献身ではなく、目の前にある平民の「目先の金」と「若い美貌」だった。


「誇り高き伯爵令嬢が、今やただの貧相な女か。我が子爵家の女主人として、どちらが相応しいかは言うまでもないだろう」


夫の言葉に、カトリーナは優越感に満ちた笑みを浮かべ、男の子の頭を愛おしそうに撫でた。

エリスの血と汗の滲む8年間は、目先の欲望に目がくらんだ夫によって、あまりにも呆気なく切り捨てられたのだった。


エリスの姿を見た男の子は、母親の後ろに隠れながら、無邪気な笑顔でライナルトの服の裾を引っ張る。


「パパ、このおばさんは誰? 痩せてて髪もぱさぱさだし魔女みたい。ママをイジメる悪い魔女は僕たちのお家から出て行って!」


八年間、自分の身なりも整えず領地と屋敷を守り抜いた結果の「痩せた体とぱさぱさの髪」。

悪気のない純粋ゆえの残酷な言葉に、エリスの心は深く傷ついた。

さらにライナルトも、子どもが生まれていないエリスを見下し、冷たく言い放つのだった。


「子どもも生めず、女らしさも失ったお前は、もうこの屋敷の女主人としてふさわしくない」


子どもから「パパ」と呼ばれ、新しい家族と寄り添うライナルトの姿を見たエリスは、静かに悟った。


(ああ、この人はもう、私の夫ではないのだわ。私はこの家の家族ではないのだ)


愛した夫の裏切りと変貌を受け入れたエリスは、一切の未練を捨て、着の身着のままで慈しんで守ってきた屋敷を後にした。


実家の伯爵家は戦後処理で多忙を極めている。

(ライナルト)の熱烈な求婚に舞いあがり、わがままを通して子爵家に嫁いだ自分が離縁されたと知ると両親も深く悲しむことだろう。

家族に心配と迷惑をかけることはできない…。


身一つで放り出されたエリスを温かく迎えたのは、かつて共に苦難を乗り越えた商人や領民たちだった。「エリス様がいなければ、あの苦しい戦時中、今の私たちは生きていけなかった。

今度は私たちが支える番です」と、彼らは一致団結して彼女を支えることにした。


エリスは戦中・戦後に培った人々との強い信頼関係と経営の知恵を生かし、混乱が続く国全体の食糧流通網を整理・統合する事業を立ち上げた。

やがてエリスは、国の食糧流通の「大元締め」とも言える重要な立場へと上り詰めていくのだった。


一方、エリスを追い出したライナルトたちは、贅沢な暮らしを再開させたものの、領地の運営方法が全くわからない。

資金が足りなくなれば「増税」で帳尻を合わせようとする。

戦後の混乱が続き、食料生産の担い手も不足している中、「納税は領民の義務である」として容赦なく税を取り立てた。


だが、力ずくの取り立てが長く続くはずもなかった。


過酷な重税と不当な差押えに耐えかねた領民たちは、夜陰に紛れて次々と領地を脱出。

エリスが拠点を置く隣領や都市部へと逃げ延びていった。

耕す者を失った広大な農地は瞬く間に荒れ果て、収穫量は暴落。

税として取り立てる食料そのものが、領内から姿を消したのだ。


焦ったライナルトは、財政を立て直すため、領地に出入りする大手商会の商人たちを屋敷へ呼びつけた。


「我が領地で商いをする以上、特別の通行税と取引税を納めてもらう。嫌ならここでの取引は一切認めん!」


豪奢な椅子に深く腰掛け、高圧的に言い放つライナルト。

その言葉を聞いた商人たちの目は、あまりの愚かさにすっかり冷めきっていた。


「ライナルト様。かつてエリス様は、私ども商人が安心して品物を運べるよう、傷んだ街道を自ら修繕し、公正な税率と市場の安全を約束してくださいました。だからこそ私どもは、厳しい戦中もこの土地に品物を運び続けたのです」


老練な大商人は、深々とため息をつきながら静かに首を振った。


「荒れ果てた畑、逃げ出す領民、そして身勝手な増税……。そのような土地にリスクを冒して立ち寄る商人が、一人でもいるとお思いですか?」


「なに……? 私はこの地の領主だぞ! 無礼な口を利くな!」


声を荒らげるライナルトに、商人は一切動じることなく、冷ややかに告げた。


「無礼も何も、取引は相互の信頼があって成り立つもの。エリス様は戦時中は領民のために命を削って働いておられました。戦後処理に粉骨砕身されているご実家の伯爵家にもいくら感謝しても足りないくらいです。そのエリス様に不義理を働き、恩を仇で返した子爵家の方に、私どもが貸す義理はひとつもございません」


翌日、領内からすべての商隊が引き揚げた。


穀物も、日用品も、農機具すらも入ってこなくなった領地。

出入り口の街道には「危険・立ち入り無用」の看板が掲げられ、商人たちのネットワークを通じて「ヴァルト子爵領とは一切取引するな」という暗黙の協定が瞬く間に広がった。


食糧も物資も買い取ってもらえず、市場の流通からも完全に遮断されたライナルトの領地は、自滅に向かって急速に傾いていったのである。



数年後、物資の滞留と借金によって完全に破産したライナルトの屋敷と広大な土地は、競売にかけられることになった。

競売を制し、自ら築いた莫大な富で屋敷と領地を丸ごと買い取ったのは、最高級のシルクを身にまとったエリスだった。


呆然とするライナルトたちに対し、過去の執着をすべて捨て去ったエリスは穏やかに告げる。


「もしあなた方が希望するなら、この地にそのまま住むことを許可します。もちろん、他の農民と同じように汗を流して働いていただくことになりますけれど」


他に行くあてもなく、惨めにその提案を受け入れて領内にとどまることになったライナルト一家。しかし彼らは、自分たちの置かれた立場を何一つ理解していなかった。


ある日、屋敷の引き継ぎのために領内を訪れたエリスの前に、あの子どもが立ちはだかった。

豪華な仕立ての服を着たエリスを睨みつけ、持っていた石礫を勢いよく投げつけてきた。


「偉そうだね。魔法で姿を変えたのかな。僕の領地に食料が入ってこないのもお前の仕業だろう。悪い魔女!!早く正体を表せ!」


間一髪、エリスに同行していた護衛が素早く前に立ち、厚手のマントで石礫を遮りエリスを守った。

あまりの危険行為に護衛が怒りを顕にして子どもを押さえつけると、後ろで見ていたライナルトと新しい妻が慌てて駆け寄ってきた。

しかし彼らは謝罪するどころか、不満そうにこう言い放った。


「ちょっと、乱暴に扱わないでちょうだい! まだ幼い『子どものしたこと』ですよ? 大人が真に受けて腹を立てるなんて、恥ずかしくないのですか!」



親のあまりに身勝手な態度に、周囲の雰囲気が冷たく凍りついた。

護衛も親子に向けた怒りを隠せていない。


エリスは制止の手を挙げ、冷ややかな視線をライナルト夫妻に向けた。


「『子どものしたことだから』……その言葉は、被害を受けた側が相手を許すときにだけ使ってよい言葉です。加害者であるあなた方が、自分たちの責任を逃れるために使う言葉ではありません」


エリスは静かに、しかし力強く言葉を続ける。


「公衆の面前で領主である私へ危害を加えようとした罪。子どものしたことだと見逃そうと思っていましたが…。それを咎めるどころか開き直る親の不徳。……あなた方には、農民としてこの地で生きる資格すら与えられなくなりました」


顔を蒼白にするライナルト夫妻。

子どもはまだ状況が飲み込めず「パパ、あんな魔女おばさん懲らしめてよ!」と叫んでいるが、ライナルトの手はガタガタと震えていた。


「『子どものしたこと』を言い訳にして逃げる親の言うことなんて、誰も聞いてくれませんよ。せっかくのチャンスを自分たちでフイにしたのね。……即刻、この土地から出て行きなさい。二度とこの地を踏むことは許しません」


かつて「自分の家族」だと思っていた男とその一家が、護衛たちによって追い出されていく様子を、エリスは静かに見送った。


自らの浅はかさと愚かな子育ての結果として完全に居場所を失った彼らをあとに、エリスは真の帰還を心から喜ぶ領民たちの温かい歓声の中、晴れやかな笑顔で屋敷の門をくぐっていくのだった。

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― 新着の感想 ―
このアホ恩知らず振りからして、穿った見方するなら記憶喪失の振りで戦地からも逃げてたのでは。
バカ一家のその後を読んでみたくなりました。
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