行ってらっしゃい旦那様、たくさんの幸せをもらった私は今度はあなたの幸せを願います
サティアは商家の末娘だ。栗色の髪に琥珀の瞳をした大人しいサティアは仕事に忙しい両親や年の離れた兄たちから放っておかれがちで、少しでも彼らの関心を惹きたくて幼い頃から勉強に励んだ。そのかいあって特待生として入学した学園で同じ平民で特待生のルースに声をかけられて仲を深め、卒業後結婚した。
ルースは幼い頃に亡くなった両親が遺したクレイン商会を継いだ2歳年上の兄を尊敬し、彼の力になるために努力する生真面目な青年だった。齢を経た大樹のような深い栗色の髪と瞳をした大きな身体をした優しい彼は、いつも家族に置いていかれて寂しさを感じていたサティアを気にかけてくれて。彼だけは自分の傍にいてくれるのだと安心できた。
「君がこれからもずっと一緒にいてくれると思うととてもうれしい。サティア、家族になってほしい」
ルースは結婚式の前日にサティアにそう告白した。彼が一番欲し大切にしている”家族”と呼んだことに、彼がこれからも人生をともにする”夫”になるのだと喜びがこみあげてきて。サティアもまたありったけの愛をこめて「あなたの家族にしてください」と答えた。彼との思い出が増えていくたびにその時を思い出してサティアは幸せに包まれた。
夫婦はルースの祖父母が住んでいたという屋敷の離れを改装して住み、クレイン商会を経営する兄夫婦の手伝いをしながら穏やかな日々を過ごしていた。しかし、そんな幸せは結婚から半年したある日突然崩れ去った。
遠い地に住む友人の男爵の家を訪れたルースと友人たちは崖崩れに巻き込まれ、ルースだけが行方不明になった。兄や友人たちは捜索隊を送って探したが一向に手掛かりは見つからず。断腸の思いで捜索を打ち切った。
心身共に擦り切れて帰って来た捜索隊を出迎えて帰りを信じて待っていたサティアは“ルースがいなくなってしまった”ことを実感して一時はひどく落ち込んだ。しかし、どんな時も前向きに振る舞っていたルースの姿を思いして奮い立ち、彼の分まで必死で働いた。
そうして仕事に励んでいると家に帰って来たルースが良く口にしていた「サティアがいるとほっとする」と声が聞こえる気がして。それもまた心の支えになった。
そして、半年が経った頃。情報を集めてくれていた男爵から遠く離れた村でルースが見つかったと連絡が来た。彼は川に流されていたところを近くの村人たちに助けられたが、記憶を失っていてそのまま村で暮らしていたらしい。
帰って来たルースはこんがりと日焼けして田舎の純朴な農夫のような姿になっていたが元気そうで、こみ上げる喜びのままにサティアはいつものように「ルース」と呼びかけた。その声にサティアを見た彼は一瞬だが戸惑いを浮かべた。
それを見てサティアは夫が本当に自分を忘れてしまったのだとショックを受けた。
*****
残念なことに帰って来ても彼の記憶は戻らなかった。医師に「心が落ちつけば思い出すでしょう」と言われたサティアは不安そうなルースが元の生活に戻れるように彼のサポートをすることにした。
優秀で働き者のルースはすぐに元のように馴染んでサティアが代わりに担当していた仕事を徐々に引き継いでくれ、この半年間ずっと気を張っていたサティアも身体と心を休められるようになった。
兄夫婦たちは2人きりで過ごせるように気を遣ってくれ、忙しい皆に気を遣わせて申し訳ないと思いつつも久しぶりに2人で過ごせることを喜んだ。
しかし、帰って来たルースと過ごすうちにサティアは記憶を失った彼の丁寧だが他人行儀な態度にひどく落ち込んだ。そして、悲しみに耐えきれなくなると思い出の品で溢れた自室で彼との幸せな思い出に浸ってひっそりと涙を流した。
それでも変わらず優しい彼と一緒に過ごすうちに愛おしさを感じるようになり。例え記憶も愛情もなくなっても彼の家族として傍にいたいと思うようになった。
その日も休暇をもらったサティアはルースが好きなアップルパイを焼いて庭で手慣れた手つきでハーブを植えている彼を呼びに行った。彼は夢中で土をいじっていたがサティアに気がつくと慌てて近くに置いていたタオルで汗だくの顔や土まみれの手を拭き始めた。その慌てふためく姿に思わずサティアはくすくす笑った。
「すまないサティア。今は君に近づけるような状態じゃないんだ。少し待っていてくれ、水を浴びてくる」
「ふふふ、そんなに気にしなくても慣れているから大丈夫よ。お湯を用意してあるからゆっくり洗ってきてくださいな」
ルースは幼い頃から庭でいろいろな植物を育てるのが好きだ。学生時代には良く自分が育てた野菜を使った特大のお弁当を持ってきてサティアや友人たちに分けてくれていた。今も変わらず時間ができると庭の手入れをしていてそれを見るのがサティアの密かな楽しみだ。
小ざっぱりしたルースは戻って来ると大好物のサティアの焼いたアップルパイを見つけて目を輝かせた。
「お義姉様のご実家から贈られてきたリンゴを分けていただいたから焼いてみたの。とっても甘くておいしいわ」
「そうか、今日はついているな。作ってくれてありがとう」
うれしそうにアップルパイを食べるとルースは目を丸くした。
「これは……すごいな。噛むたびに蜜が溢れてくる、とても甘くて歯ごたえも良い」
「ふふっ、そうでしょう。新種のリンゴでそのまますりおろしてジュースにできるぐらいうんと甘いの。たくさん作ったから好きなだけ食べて」
サティアが薦めるとルースは子どものように満面の笑みを浮かべた。
「それはうれしいな。村の皆がサティアがこんなにおいしいアップルパイを焼いてくれる達人だと知ったら、家まで押しかけて来そうだ」
(ルースは彼らの前ではそんな顔をして笑っていたのね)
無邪気に喜ぶルースに微笑みながらも、サティアは心が黒インクが垂らされたように濁るのを感じた。
離れていた半年間、ルースは彼を助けてくれた村人たちと実の家族のように暮らしていたそうで、帰ってきた今でも彼らを”第2の家族”と呼んで手紙で交流を続けている。今日も彼らから届いたハーブに喜んで朝早くから庭に植えつけている。サティアもルースがお世話になったお礼にと手紙と品物を送ると、丁寧な返事とお礼の品物が返ってきて。それをきっかけに時折交流している。
そんな素敵な彼らのことを語る時のルースは子どものように屈託なく笑っていて。サティアは愛情深い彼に大切な人たちが増えたことをうれしく思いつつも、自分と同じくらい彼が大切に想っている彼らに少しだけ嫉妬を感じる。
「サティアはここに植えたいものはある?」
「そうねえ、できればトマトがあるとうれしいわ。とれたてのものを水で冷やしてそのまま食べられるし、お料理にも使えるし。万能ね」
「ははは、わかった。君が好きなだけ食べられるようにたくさん育てるよ」
それでも楽しそうに笑うルースが好きでサティアもまた微笑んだ。
*****
ある日、ルースに「一緒に行きたいところがある」と誘われてサティアは街に出かけた。ふんだんに果物を使ったスイーツが名物のカフェで、どれにしようかとサティアが迷っているとルースは微笑まし気に笑った。
「サティアが好きな物を頼んで、2人でシェアしよう。食べきれない分はお土産にして持って帰ればいいし、気に入ったのならまた来よう」
「そう言ってくれるとたくさん食べられるわ。ありがとう、ルース。じゃあ、このアイスクリームがついた苺のタルトと……」
ルースは出かけるといつもあれこれ迷ってしまう自分のためにこうしてシェアしてくれる。そのいつもの心遣いがうれしくてサティアはついついたくさん頼んでしまって慌てたが彼は喜んで引き受けてくれた。
その後、運ばれて来たかわいらしいスイーツにサティアが歓声を上げるとルースがおかしそうに小さく噴きだした。サティアがじろりとにらむとルースはますます笑った。
「もう、何がおかしいの」
「すまない、サティアがあまりにもうれしそうだから、つい。さあ、これもどうぞ」
まだ笑いながらも自分のアップルパイを大きく切って渡してくれたルースにサティアもつられて笑った。
(記憶を失くしても、こういうところは変わらないのね)
ルースはサティアが食べるところを見るのが好きだそうで、いつも外食をするとうれしそうに料理を薦めてくる。昔に戻ったように楽しそうに笑う彼にサティアも自然と笑った。
その後、スイーツを楽しみながら2人はゆっくりと時間を過ごした。ルースに薦められてお土産を選んで店を出ると、彼は少し離れたところで王都ではやや地味な格好をした男性と話し込んでいた。その親し気な雰囲気に何となく気後れを感じてサティアはそっと隠れて見守った。
「へっへっへっ、聞いて驚け。何とっ、おまえとアルレーネが作っていたハンドクリームがお貴族様の目に留まって、ちょうど今最初の分を納品してきたんだ」
青年が自慢げに語るとルースはふわりと笑った。
「そうか、あれが完成して貴族様に気に入られたのか。さすがはアルレーネだ」
アルレーネと呼んだ女性に向ける声にはかつての自分に向けていたような甘さがこもっていて。サティアは一瞬息ができないぐらいに胸が強く痛んだ。
これ以上は聞いてはいけないと、ここから離れたいのに足が地面に縫い付けられたように動かず。耳だけが一言も聞き逃すまいとルースたちの声を拾い続ける。
「こっちで育てていたハーブが収穫できそうなんだ。良かったらアルレーネに持っていってやってくれないか?」
「おお、もちろんだよ。だ・け・ど、おまえ、まさかそれだけじゃないよな?」
「ん? 何だ? ああ、皆へのお土産だな。もちろんだ、王都中を探して良い物を見つけておくよ」
「ばっっか野郎! どんだけ鈍いんだよおまえはよっ! アルレーネへの手紙に決まってるだろ!」
それまでぽんぽんと言い返していたルースは男性の声に黙り込んだ。やがて聞こえた声はいつもは響きの良い声をした彼とは思えないほど暗く沈んだものだった。
「ああ、アルレーネには本当にすまないと思っている。けれども、どんなことを書けば良いのかわからないんだ」
それまで賑やかに喋っていた男性もルースの落ち込みを察したのか少しだけやわらかい声で続ける。
「……そうか、おまえは朴念仁だからしょうがないな。まあ、どうしても書けないって言うならしょうがない。アルレーネには俺から元気にしてたって伝えておくよ」
「ああ、ありがとう。助かる。……そうだ、良かったらサティアと会って行くか?」
「おう、もちろんだ!」
隠れていたサティアは自分の名前を呼ばれてようやく足が動くようになり、急いで店先に戻って迎えに来たルースたちを微笑んで迎えた。
*****
目を覚ましたルースは一瞬ここがどこかわからず戸惑った。慣れ親しんだ自分の部屋だとわかるとさっきまで見ていた夢とは違う場所にいることに無性に寂しさがこみ上げてくる。
(……アルレーネのことを聞いたからか)
ルースは大怪我を負って川辺に倒れていたところを近くの村人たちに助けられた。辛うじて名前だけは覚えていたもののそれ以外の記憶は思い出せず身元がわかる物も持っていなかったため、怪我が治った後も村に住まわせてもらった。
気の良い彼らと過ごすうちにルースはこの村が自分の家なのだと実感し、たくさんの家族たちができたことを誇りに思うようになった。しかし、何か大切なものを失ってしまったように心にはいつもぽっかりと穴が空いており1人になると悲しみがこみ上げてきた。
そんな自分を元気づけてくれたのが怪我の治療をしてくれた薬師のアルレーネだった。しっかり者の彼女は「助けてあげた分しっかり働いてもらうわよ」とルースをくたくたになるまであちこち連れまわした。そのうちにルースが植物に興味があるとわかると助手として傍に置いて自分の知識を教えてくれた。
ルースはいつかすごい商品を作って愛する村のためにがっぽり儲けるのだと熱く語るアルレーネに惹かれ、彼女の手伝いをしながら作った品を売り込みにあちこちの街を回った。
そんなある日、遠出をした街でルースは男性に声をかけられた。学生時代からの友人だという男爵は無事を喜んだが、ルースが記憶を失くしていると知ると深刻な顔をした。
「ルース、新しい生活に馴染んでいるおまえには酷なことを言うが。おまえには王都に結婚したばかりの夫人がいる。彼女もお兄さんたちも今もおまえを探していて、帰りを待っている」
自分の行方を探していた家族と帰りを待つ妻がいると聞いてルースは胸がどくりと脈打つのを感じ、反射的に手を当てた。
(俺に妻がいる?)
妻の名前を聞いた時に「そうだ、サティアが帰りを待っている」とどこからか自分の声が聞こえ、自分が失ったものは彼女なのだとわかった。
(そうだ、サティア。俺は彼女のところに帰らないといけない。しかし……)
顔すらも思い出せない彼女の元に早く帰らないといけないと焦りを感じる反面、今の自分の家族のアルレーネや村人たちと離れたくないと強い拒絶を感じる。
ルースの迷いを感じとったのか。男爵は気の毒そうに「良い返事を待っているよ」と考える時間をくれた。
2つの反発する想いに憔悴して帰って来たルースをアルレーネは心配そうに出迎えてくれたが、事情を聞くと「元の家族のところに帰りな」ときっぱりと言った。そして、見放されたのかとショックを受けるルースを静かに諭した。
「あんたは律儀な男だから、このままあんたを待っている優しい奥さんたちを忘れてしまったら一生後悔する。だから、あんたの家に帰って大事な家族たちに会ってうんと安心させてやってきな。で、それでもどうしてもここで私にこき使われたいって言うんだったら。また助手にしてやるよ」
ルースはその言葉に背を押されて元の自分の家に帰ることを決めた。
5
帰って来た自分を家族たちは温かく迎え入れてくれた。しかし、自然に囲まれたのどかな村で暮らしてきたルースには宝飾品のように煌びやかな王都とそこにふさわしい美しい装いをした彼らに内心気後れを感じ、会いたくてたまらなかったはずの妻のサティアにも喜びよりも戸惑いを感じた。
ルースの内心を感じとったのかサティアは寂しそうな顔をした。ルースは自分の身勝手な感情で辛抱強く帰りを待っていてくれた彼女を傷つけてしまったことをひどく後悔し、これからは精いっぱいサティアに寄り添おうと決めた。
最初はお互いに過剰な程に気を遣い時には気まずい思いもしたが。サティアがルースに寄り添ってくれたおかげで元の生活に馴染み、いつしか長い付き合いの友人のような関係になった。
村へと手紙を出すと友人たちからは「元気で良かった。たまには手紙をくれ」と温かい返事が返ってきて。ルースは2つの家族たちに恵まれたことに心から感謝し、元の生活に戻れたことに幸せを噛みしめた。
――そのはずだった。
いつからかルースは不思議な夢を見るようになった。
夢の中の自分は村の畑で作物を育てて村人たちに頼まれた品物を他の街に売り込みに行き。友人たちと集まって他愛のない話やゲームに興じて。忙しいアルレーネのために食事を作って待ち、帰って来た彼女とその日あったことを話し合う。
夢は村にいた頃には当たり前に過ごしていた風景だった。しかし、はっきりと覚えているだけにまるで現実のような存在感があって。だんだんとルースは幸せな夢から覚めるたびに心に再び穴が空いたような強い悲しみと痛みを感じるようになった。
(俺はまだ村とアルレーネたちのところに帰りたいんだな……)
何度か繰り返すうちにルースは今の自分が本当はあの村に帰り、アルレーネの助手として生きたいのだと認めた。
しかし、そのたびにもう1人の自分に「帰って来た自分を元のように受けいれて、再び幸せで満ち足りた生活を送らせてくれている兄たち。何よりもサティアを捨てるのか」と冷たい声でささやかれ。
その声に頭が冷えたルースは今いる現実を受けいれ幸せで残酷な夢を忘れて現実に向き合おうとした。そして、村を思い出す畑仕事や友人たちとの手紙のやりとりで再びぽっかりと空いた心の穴を塞いで、決して選んではいけない望みから必死に目を逸らした。
そんなある日、ルースはサティアを誘って彼女が好きそうなカフェに出かけた。大好物のスイーツを目にして迷う彼女は愛らしく、未だに断片的にしか記憶が戻らない心のどこかが温かくなった。
真剣にお土産を選ぶ彼女を残して先に店を出ると村の親友クリフと会った。
「おまえ、本当にルースか!? 驚いたなあ。村にいる時は毛づくろいが下手な猫みたいなむさい恰好してたのに、今はどこからどう見ても王都のやり手の商人に見えるぞ」
目を見開いてじろじろと眺めまわす正直な友人に、王都に帰って来たばかりの自分を思い出してルースは苦笑いを浮かべた。
「そう見えるのならサティアのおかげだよ、彼女はいつも気を遣ってくれているんだ」
「ああ、おまえの最愛の奥さんか。すごく良い方だよな。いつも丁寧な手紙と一緒にこっちで欲しい品物を届けてくれてさ、皆すごく感謝してるよ」
「そうか、良かったよ。サティアは優しくてとても気が利くからな。俺も助けられてばかりだ」
ルースはサティアを褒めながらも胸がちくりと痛んだ。
優しく時折愛らしい顔を見せる彼女といるととても気持ちが安らぐが。自分に変わらぬ愛を向けてくれる彼女と違って自分は未だに記憶が断片的にしか思い出していないせいか”妻”としての愛情を抱けない。それでも薄情な自分を受けいれてくれて自分の恩人たちにも気を配ってくれる彼女には本当に頭が上がらない。
「はいはい、幸せをごちそうさま。……あ、そういえばさ、良い話があるんだ。聞いて驚け……」
ルースの様子を見たクリフは空気を読んで話題を変えてくれた。村にいた時にアルレーネと作っていたハンドクリームができあがりはるばる遠い王都の貴族に気に入られたと聞いて、ルースは激しい喜びと切なさがこみ上げてきて胸が張り裂けそうになった。
(アルレーネ……)
一番親しい彼女にも他の村人たちのように何度も手紙を出して、返事が欲しいと思った。けれども、いざペンをとると彼女と過ごした日々や村への愛おしさと帰りたい想いが渦巻いて形になってくれず。結局、彼女が喜びそうな品と一言メッセージだけを送っている。
彼女からは返事は返ってこないが。それでも他の村人たちから彼女の様子を聞くたびにルースの心は高鳴った。
そして、今。アルレーネの夢がついに叶ったと聞いて、ルースは今すぐにでも彼女の元へ駆けつけたいと思った。
――自分が心の奥深くに押し込めていた本音にまた気づいてしまった。
自分はアルレーネを愛していて彼女と共に生きたい。けれども、ルースには自分を愛して再び一緒に生きようとしてくれている家族がいる。それだけは決して選んではいけない。
ルースはこみ上げてくる激情を必死で噛み殺した。
*****
カフェで村の友人クリフと会ってからルースは時々ぼんやりとするようになった。
そんな時の彼は庭に出て一心に手入れに励んでいて。サティアはその自分の世界に浸る姿にルースが愛おしい女性を想っていることを感じて目の前にいるはずの彼をはるか遠く感じた。
「ルースは自分を助けてくれた恩人のアルレーネに恋をしていた。しかし、自分を待っている家族がいると知ると、家族が待っていると言って帰って行った」
様子がおかしいルースが心配になったサティアは密かに彼を良く知る友人のクリフを説得して聞きだした。
その時には自分を忘れて他の女性を愛する彼にひどく傷つき「私を妻だって呼んでくれたのに、他に愛する女性がいるなんて。嘘つき」と自分を忘れてしまったルースに激しい怒りと悲しみを感じた。
けれども、自分だって身を刻まれるような痛みを感じているだろうに。涙をこらえるサティアを心配するルースの変わらない優しさに触れたら、そんな自分よがりな想いはかき消えてしまった。
(ルースはひどいわ。いつも私を気遣って甘やかしてくれて。優しいあなたにそんな顔をされたら怒れないじゃない……)
しっかり者のルースは雛鳥を守る親鳥のように寂しがり屋のサティアに寄り添って溢れんばかりの愛をくれた。
記憶を失くしてもその深い愛情は変わらない。きっと今の彼も自信の願いよりも帰りを待つサティアを心配して帰って来たのだろう。
サティアはルースがいる庭が見える窓から離れると自室を見渡した。
引っ越しする時に夫婦の住まいになるのだからとルースと話しあって2人の好みに改修した。特にサティアの自室にはルースにもらった贈り物や思い出の品で溢れていて。ルースが商用で長く留守にして寂しくなった時や彼が行方不明になって不安な時。そして帰って来たルースが自分を忘れてしまったことに傷ついた時、ここで愛する夫を想っていた。そして今のルースとの思い出もこの部屋に置いて大切に積み重ねていった。
「ふふっ、懐かしいわ。ルースはいつも日記みたいに丁寧な手紙を書いてくれていたのよね……」
サティアは棚から箱を取り出し中にしまってあったルースからもらった手紙の束を取り出した。
学生時代から行方不明になる直前まで。どれもが厚みのある手紙には彼がその時伝えたかった言葉とサティアへの気遣いが丁寧な字で細やかに綴られていて。そのすべてを鮮やかで幸せで愛おしい思い出として思い浮かべられる。
サティアはルースからの手紙をすべて読み終えるとそっと抱きしめた。
自分は夫を愛し愛されていた。優しい夫はいつも家族を求めて泣いていた自分に愛情と安心できる居場所をくれて、2人で幸せな思い出をたくさん作った。
――自分はこの温もりがあれば大丈夫。だから、ルースが望むのならば今の彼が愛する新しい家族の元へ彼を送り出そう。
サティアは静かに決意を固めると手紙の束を箱に戻しルースと話しあうために動き出した。
*****
その夜、呼ばれてサティアの自室にやって来たルースは何か重たいものを引きずっているような陰りのある表情を浮かべていた。サティアは彼を安心させるためにやわらかい声を出した。
「ここはね、家を改装する時に私がくつろげるようにとあなたが一番手をかけて作ってくれたのよ。この窓は特にお気に入り」
「ああ、水晶のように透きとおったきれいなガラスだな。おかげで外が良く見える」
「ふふっ、そうでしょう。あなたが私のために外国から取り寄せてくれたのよ。『君が好きな庭や遊びに来る鳥たちが良く見えるように』って言ってね。……でも、本当はね。私はあなたが夢中になって庭を手入れしている姿を見るのが好きなの。あなたは昔から植物が好きで、どんな時よりも生き生きとしていたから」
記憶を探るように遠い目をしていたルースは何か痛みをこらえるような顔をした。サティアはルースの目をのぞきこんで言った。
「ルース、教えて。あなたはアルレーネさんが待つ村に帰りたい? そして、そこで生きたい?」
サティアの質問にルースは様々な感情が絡みあってせめぎ合うような苦し気な顔をした。サティアは葛藤する彼を静かに見守った。やがてルースはサティアをまっすぐに見つめて答えた。
「……ああ。俺はあの家に帰りたい」
ルースの小さいがはっきりとした答えにサティアはふと結婚式の前日にルースと話をした時のことを思い出した。あの時の自分はルースの告白にこれからの自分の生きる道を決めた。だから、今度は自分がルースを送り出そう。
「わかった。私、あなたを応援するわ」
「サティア……」
「そんな顔しないで。あのね、私のルースはいつも私を愛してくれてこの部屋のように私を幸せでいっぱいにしてくれた。あなたのおかげで私は一生分の幸せな思い出と居場所をもらったわ。だから、今度は私があなたの願いを叶えたい。……だって、あなたは私の大切な”家族”だから」
サティアが微笑むとルースは泣きそうな笑顔を浮かべた。そんな彼にサティアは手を差し出した。
「ルース、1つだけお願いがあるの。……離れていてもこれからもあなたの家族でいてもいい?」
「もちろんだ。俺もずっと君の“家族”でいたい」
ルースもまた手を伸ばしてサティアの手を握り返す。彼が帰って来てから初めて触れた手は荒れていて力強い、これまでのどの記憶よりも温かなものだった。
その夜、2人は寄り添って語り明かした。
*****
ルースはサティアと離婚し、後任に仕事の引継ぎが終わり次第村に帰ることになった。それを聞いた兄はルースの気持ちに薄々気づいていたらしく
「おまえは昔から自分のしたいことを我慢していつも俺を支えてくれて助かったよ。本当にありがとうな。
サティアちゃんのことは任せろ、おまえがいないことを忘れるぐらい幸せにする。だから、おまえもめいっぱい幸せになれ。でも、たまには顔を出せよ」
と、幼い子どもにするように頭をぐしゃぐしゃと撫でまわされた。ルースは父親のような温かで偉大な兄に認められたことに喜びがこみ上げてくるのを感じた。
(俺はこの家に帰って来て良いんだな……)
クリフと話をしてからルースはいつも村に帰って愛するアルレーネと研究を続けたいと思いに囚われていた。けれどもサティアや兄たち優しい家族たちを裏切って嫌われたくないと、妻がいると知った時のように1人で悶々と思い悩んでいた。
そんな答えのでない殻にこもってしまった自分を引っ張り出してくれたのがサティアだった。
彼女は「ルースはいつも皆を幸せにしてくれているの。今度はあなたが幸せになって」と笑って、自分がしたいことをすれば良いと背を押してくれた。
彼女と話しあううちにルースは愛するアルレーネはもちろん、家族のサティアやここの皆とも家族でいたいと望んでいることに気づいた。
そんなルースの身勝手な望みにサティアは「もちろんよ、離れてもルースは私の大好きな人で大切な家族よ」と笑って受け入れてくれて。
いつも傍にいてくれた彼女が変わらず自分と一緒にいてくれると知ってルースの目からはとめどなく涙が溢れた。それは未だに心の奥深くで眠る以前の自分が妻のサティアと離れる辛さに流した涙かもしれないし、今の自分がサティアに家族として受け入れられたことへの感謝かもしれない。ただ、以前と今の2人のルースは村と王都、どちらの家族も大事にしようと決意した。
ルースとサティアは離れるまでの間一緒に過ごし、たくさんの思い出を作った。
そして、村に帰る日。兄や商会の人間たちを始めとしたたくさんの人たちが見送りに来てくれた。皆がルースの新しい旅立ちを祝ってくれて。思わず目頭が熱くなると隣に立つサティアがそっと「あなたが皆を愛しているから、皆あなたが好きなのよ」とささやいた。そして、悪戯っぽく笑ってルースの手をそっと両手で包んだ。やわらかな感触に思わず驚くとサティアはにっこりと笑った。
「私もルースが大好きよ。だから、私のこと忘れないでね?」
「ああ、もちろんだ。必ず帰ってくるよ、約束する。……行ってくるよ、サティア」
「ええ、行ってらっしゃいルース。あなたのお手紙を楽しみにしているわ」
馬車に乗ったルースはサティアと見送ってくれるたくさんの家族と友人たちが見えなくなるまで見つめ、彼らの姿を心に刻み付けた。
ルースが乗った馬車を見送ると、サティアはいつも一緒にいた彼がいなくなってしまったことに少しだけ寂しさを感じた。けれども、旅立つ前に彼と交わした約束を思いだして顔を上げた。
「村を出る前に花を育てていたんだ。君にそっくりな愛らしい黄色い花だ。その花が咲いたら君に名前を付けてほしい」
(……ルース、あなたの大事なお庭も思い出も私が受け継いでいくわ)
サティアはルースから受け継いだ彼の庭を思い浮かべた。彼が大事に育てた花はきっとあの美しい庭の彩りの1つになって、皆を笑顔にしてくれるだろう。
ルースの新たな約束の言葉は幸せをまた1つ増やしてくれた。サティアはこの約束を大事に抱えて新たな一歩を踏み出した。




