水
ある日、俺は気づいてしまった。
気づいてからは、それを見ないようにした。
水面を覗き込むと、それは必ず俺を見ていた。
まっすぐ俺の方を睨んでいて、水面越しにばっちり目が合った。
それは、鏡には写らない。
ガラスにも反射しない。
写真にも写らない。
水面にだけ、それは映った。
俺の肩の上に、青白い男性の顔が見えるのだ。
***
「やばいの、憑いてるね」
その子はあっけらかんと言った。
「2万で祓ってあげるよ」
大学の同級生で、直接知り合いではなかった。
霊感があるという彼女は、相談料とは別にまた金を取ると言った。
なかなか可愛いので、お近づきになれるならと相談料の千円は払ったが、この様子はひょっとすると美人局かもしれない。
「祓うって、何するんだ?」
「わかんない。霊による」
「こいつの場合は?」
「だから、わかんない。2万じゃ安いよ。どうせ金ないでしょ、学生料金だからね、これ。色々調べたり、用意したり必要で、ほんとはめっちゃ大変なんだから。どう、で、払うの?」
「あー、そういうの、俺パス。だるいわ」
彼女は複雑な表情をして、しかし興味がなさそうに切り替えてため息をついた。
「じゃあ……なんか最近水場に近づいた?」
「水場?」
「どっかから連れてきたのかもしれない。身に覚えがあるなら、そこに行ってお供物でもすれば、もしかしたら消えてくれるかもしれないよ。じゃ」
彼女はリュックを背負って学食を後にした。
リュックには、白い蛇のキーホルダーがついていた。
***
何か水に近づいた?
そういえば………。
実害があるわけではない。
ただ、水面を覗き込むとおじさんが見える。
何をしてくるわけでもない。
ただ、顔を洗おうにも水を飲もうにも、おじさんの顔がちらつく。
日常的に。
重い腰を上げ、供え物を持っていくことにした。
友人と行った川原。
隣県の、山奥。
穴場だと言って、アウトドア好きの友人が連れてきてくれたのだ。
車もそいつが出した。
車がなければ辿り着けない。
***
「珍しいな、お前から声をかけてくるなんて」
「ああ、ちょっとな」
「自然の楽しさにハマった?」
「んー、そんなとこ」
友人は嬉しそうに笑っていた。
片道2時間。
川原に着いて、ふところに忍ばせておいた白団子を水に流した。
しゃがんで、拝む。
「おい、何やってんだよ」
友人が声を荒げ、川に入り、流れていく白団子をかき集めた。
「やめろよ、こんなの、魚が食ったら死んじゃうだろ」
「あ、ああ、悪い」
俺は形だけ謝った。
邪魔するなよ。
こういう良い子ちゃんなところが、こいつの鼻につくところだ。
あの日、花火のゴミを川に流したときも、後になってこっぴどく説教されたっけ。
まあ、でも今の一瞬拝んだだけで、ばっちり効果あったみたいだ。
川面を覗き込む。
すると。
水面におじさんは映っていなかった。
***
「実はもう一つ、この先に絶景ポイントがあるんだけど、見る?」
なんとか友人の機嫌を取って、帰りの車中を和やかにしていたら、友人がそんなことを言い出した。
ほんとうはもう目的は達成していたから、興味のない自然にこいつと二人だけでいるのには内心辟易していたのだが、機嫌取りの延長で付き合ってやることにした。
そこは、静かな滝壺だった。
先ほどの川の一分岐。
かなりの水量が流れ込んでいたが、なぜか飛沫や音がほとんどなく、神聖な感じがした。
「どう、凄くね?」
「よく知ってるな、こんなとこ」
「地元の人と仲良くなって、教えてもらったんだ」
「へえ」
「でも、水の中には入っちゃいけないって。めっちゃ綺麗だけど、飲んでもいけない。ただ眺めるだけな」
「飲まねえよ」
俺は笑って言った。
「この上流に、昔空襲で焼けた村があって」
そこから先の話はよく覚えていない。
火災で大勢の人が亡くなった。
生き残った人が水を求めて川に来た。
そこでも大勢の人が、なぜか流されて、この滝壺で亡くなった。
そんなような話だったと思う。
俺は上の空だった。
***
なぜなら、滝が美しかったから。
飛沫のない、透明でフラットな滝。
物凄い勢いと水量なのに、滝壺に音も立たず呑まれている。
水族館の水槽のガラスみたいに分厚くて、そこに固定されているみたいだった。
あまりに美しくて、滝壺を眺める俺たちの姿が、透明な滝のカーテンに綺麗に反射して映っていた。
そう、水。
水面。
垂直な水面である。
そこには、二人立ち並ぶ俺と友人の他に、おじさんの姿もあった。
おじさんの脇を取り囲むように、子供の姿もあった。
その隣には女性も立っていた。
その後ろに、背の高い男性が立っていた。
年配の男女も腰を曲げて立っていた。
子どもが他にもいた。
成人した男女の姿も、大勢いた。
まるで集合写真のようだった。
俺の後ろに何十人もの人々が立っていた。
そしてその全員が、水面越しにじっと俺のことを睨んでいた。




