鋳型
「大部分の人間の恋愛対象も、想像の中に存在しているだけです。彼らが愛しているのは現実の彼・彼女ではなく、想像の中の彼・彼女に過ぎません。現実の彼・彼女は、彼らが夢の恋人をつくりだすために利用した鋳型でしかない。遅かれ早かれ、夢の恋人と鋳型の違いに気付かされます。もしもこの違いに適応できれば、ふたりはともに歩むことになるでしょうし、適応できなければ別れる。そういう単純な話なんです。(三体Ⅱ 黒暗森林 上巻p112-113)」
二者の関係が上手くいっている時は、二人の関係が特別に意識されることはない。上手くいっていない時、関係が破綻しかかっている時に初めて関係の認識のずれが意識される。
人を歯車に例えるとしよう。二者がいる状態というのは歯車が二つあるということになる。すると、二者の関係は歯車の噛み合わせとして表される。ここで問題となるのが、その歯車同士の摩擦である。そしてそれは多くの場合歯車自体に問題があるのではなく、その噛み合わせに問題があるのだ。
例えば、破綻寸前の男女を考えてみることにしよう。この2人は10年前に結婚したが、5年前から徐々に様子がおかしくなっていった。そして今現在かろうじて離婚してしないが、離婚してもおかしくないほど危機的な状況にある。
この2人がそうなるに至った原因はもちろんいくつも考えられる。価値観が違ったり、お金の問題だったり、家事の問題だったり、子供の問題だったり、セックスの問題だったり、親の問題だったり。もしも原因が一つに特定できていたら、こんな大事になることなく、問題をとっくのとうに解決して幸福な結婚生活を送っていただろう。原因は必ずしも一つに決まる訳ではなく、様々な原因が積み重なって今に至るのだ。1アウト。2アウト。3アウト。4アウト。5アウト……。一体何アウト取れば気が済むんだ? 問題は非常に多岐に渡っており、それぞれが複雑に絡み合っている。しっちゃかめっちゃかにこんがらがっているせいで当人達ですら手出しが出来ないのだ。
そうした複雑怪奇な問題を十把一絡げに解決できる魔法のような手法があるに越したことはない。しかし、そんなものはない。フィクションの世界にしか。こんな面倒なことになるなんて誰も想像だにしていなかっただろう。順風満帆な夢物語はあっという間に終わり、残されたのは愚鈍な日常だけ。うだつの上がらない毎日。退屈で飽き飽きとした会話。鬱々とした気分で眺める朝焼け。永遠に思えるほど繰り返される光景。こんなはずではなかった。私達は他の人々とは違うのだと、仲睦まじく暮らしていけるのだとそう無邪気にも信じて疑わなかった。あの頃は。
ラブロマンスは突如として終わりを告げる。顔をあげると、お先真っ暗なジェットコースターの入り口があんぐりと大きな口を開けて待ち構えている。頂上まで登り切ったらあとはひたすら落ちるだけ。落ちるとこまで。あぁ、魔法が欲しい。魔法が使えたらなぁ。苦境を1発で跳ね返せるロマンの塊のような砲弾を。手をしきりに開閉させてみるが、砲弾はおろか鉄のかけらですら湧き出てくることはなかった。
歯車がギシギシと音を立てて軋んでいる。そのことに今気づいた。いつからその音はなっていたんだろうか? 今日の朝? 昨日? 一昨日? 1ヶ月前? 1年前? 5年前? それとも10年前? それともそれ以上前からずっと? 不協和音が耳をつんざくように響いている。おそらく相手にも同じ音が聞こえているはずだ。何もかもすれ違った我々であったが、これが久方ぶりの協調だと思うと笑えてくる。皮肉なものだ。欲しいものは何一つとして手に入らず、この手からするりとこぼれ落ちていくというのに、不要なものはどすどすと肩に重たくのしかかってくる。
愛は最高の潤滑油だった。あれは我々の間にあった距離を一瞬で取っ払ってくれた。悲しみに満ちた孤独を一瞬だけでも忘れさせてくれた。あれはまさしく麻薬だ。あれなしにはもうやっていけない。愛こそが全て。愛が問題を解消することこそないが、卑近な問題を全て忘れさせてくれる。だから愛は偉大なのであり、それが愛と呼ばれる所以なのだ。
愛さえあればどんなことでも乗り越えられる気がした。大空を自由に羽ばたき、我々の間には何の障害もないかのように思えた。地上の制約から解き放たれ、重力から解き放たれ、存在の不安すらも霧散した。あの頃にはもう既に歯車は軋み始めていたのだろうか。
愛は歯車を変性しない。形を変えたように見せかけるだけだ。愛は両者の歯車の形を変え、表面上噛み合っているかのように見せかける。本人も気づかない。これが本当に歯車が噛み合っているのか、それとも愛の作用によって見た目だけ噛み合っているかのように見えているだけなのか。愛の作用は想像以上に凄まじい。歯車の存在意義を根底から覆すような猛烈な変形を見せるからだ。元の歯車の形などつゆ知らず全力で噛み合うように変化する。良くも悪くも。それが良いと思えるのは愛し合っている間だけ。それが悪く思えるのは別れたあとだけ。
本番は愛の作用が落ち着いてからだ。本来の歯車が露出するようになって初めて痛々しいほどによく分かる。愛の偉大さが。歯車同士がごりごりと削れ合い、絶え間なく響く不協和音に耐えきれなければ破綻する。辛うじて耐えられれば持続する。それだけの話なのか……。では、愛は? 愛はどこへ行ってしまったのだ? あれだけ幅を利かせていたあの素晴らしい愛は?
愛は歯車の表面付近に局在している。表面をコーティングするかのように薄く広く分布している。歯車が衝突し、摩擦を引き起こすように、愛もまた衝突し摩擦を生み出す。見た目は綺麗さっぱり変わってしまったように思えるが、実際は何も変わっちゃいない。そう見えるだけだ。愛の総量は変わっていないし、むしろ増えているとさえ言える。なぜならば、歯車同士の生み出す不協和音、これこそが愛の作用そのものと言えるからだ。歯車同士が接触しても何の音も発生しない。軋みなんて発生するはずがない。なぜなら歯車は……。音の原因は間違いなくあの愛にある。愛が音を発生せしめるのだ。我々にそのことを知らしめるのだ。何度でも言うが、だから愛は偉大なのだ。愛こそが全てであり、愛ゆえに人は生き存えることができるのだ。全ては愛の作用なのだ。耳を澄ませ。どんな愛の片鱗も聞き逃さないように。
愛とは魔法の翼なのではなく、肩に重々しくのしかかる重力なのだ。制約が二者を時に破綻に、時に持続へと導く。その不条理な運命の名を愛と呼ぶのだ。