与元凪1
コンコンと控え目にしたつもりのノック音が廊下に響く。
ノックをしたのは僕だ。廊下に響いたノックオンに怖気つく。
ここは、マンションであるが、高齢者用のと注釈が付くものだった。普通のマンションとは違う雰囲気。
こんな知らない場所で知らない人に会うのだ。緊張していないと言ったら大嘘になるだろう。緊張しかしていない。
扉の向こうからどうぞと穏やかそうな声が聞こえた。少し嗄れた声がその人の過ごした年月を教えてくれている。
「失礼します」
つい癖で職員室に入るような挨拶をしてしまった。恥ずかしい。でももしかしたらこれから会う人にとってはこれが正解だったかもしれない。
軽い音を立てて扉を開く。部屋はとてもシンプルだった。清潔そうなベッドと簡易的なテーブルと椅子があって、そしてその椅子には白く染まった髪を丁寧にまとめた男性が座っていた。白いシャツにセーター。ネクタイまでしている。あぁ、この人も先生なんだなぁとしみじみと感じた。
「初めまして。津平阿坂と申します」
「初めまして津平君。わたしは君が通っている高校の元教員ということになるのかな。与元凪といいます。君のことは校長先生と結城君。今は結城先生になったのかな。彼から聞いているよ」
穏やかに笑って彼は自己紹介をしてくれた。優しそうな人に見える。顔に刻まれた皺が、雰囲気を柔らかく見せるのか、それとも他の何かなのか、理由は僕にはわからなかった。
彼は、彼こそが結城先生のトラウマの原因の一人、僕の前に彼女と過ごしていた人。彼女のことを調べていた人。
「あいにくこんなところだからおもてなしも満足にはできないんだ。せっかく若い人が訪ねてきてくれたというのに許して欲しい」
僕に椅子をすすめながら、彼はそんなことを言った。
「いえ。気にしないでください。あまり丁寧におもてなしいただくと僕が校則違反になるかもしれません」
僕は軽口を叩くことで場を誤魔化そうとした。僕の悪い癖でもある。重要なことが聞けず、その場を誤魔化してしまうこと。
でも今回は聞かなくてはいけないことがある。そのためにわざわざ渋る先生に頼んでアポイントを取ったんだ。
「あなたに聞きたいことがあって、伺いました……先生は…結城先生は僕があなたのもとをお伺いする理由について何か言っていましたか?」
「…結城君からは。あの日、中庭の女子生徒について自分の生徒が聞きたいことがあると聞いています」
彼の表情は変わらない。ずっとにこやかなままだ。大人はみなこうなのだろうか。
「はい。僕は…僕が出会った彼女のことを知りたいと思っています。僕の話を聞いてもらえますか?そしてあなたの話を聞かせてください。僕とあなたが出会ってあの学校でともに過ごした彼女のことを」
なんとなく彼の笑みが深まったように感じた。
そして僕は彼女との出会いと別れについて話をした。ずっとずっと僕の心に秘めておきたかった大切な、とても大切な思い出。独り占めしたかった。もっと早く誰かに話してしまいたかった。大切な気持ち。
「そうでしたか…そうでしたか…」
僕が話し終えると彼は考え込むように、懐かしむように、そして悲しむように手を口に当てて考え込んだ。
「君は…彼女を信じていますか?」
ふと彼が僕に問いかけてきた。彼女の問いかけを思い出した。その問いはかつて彼女が僕にしたものと同じ意味合いを持っていると感じた。
「過ごした日々に嘘はないと信じています。彼女と一緒にいたこと、彼女の存在を…僕は信じています」
それだけは間違えない。間違いないと言い張れる。
「彼女が人間でなくても?」
彼の言葉に僕は一度目を瞑り。深呼吸をした。
「…よく言うじゃないですか。好きになった人が好みの人だとか。たまたま…たまたま好きになった女の子がそうだっただけですよ」
僕は初めて自分の気持ちを口にした。思えば彼女のことを明確に好きだといったのはこの時が初めてかもしれない。
言葉に嘘偽りはない。
でも…でもやはり彼女はそうなのか。どこかで違うのではないかと、なんらかの勘違いが重なっているのではないかと頭の片隅で祈っていた。
もはや証拠が出そろっているのに信じられないでいた。
僕の言葉に彼は満足したように微笑んでいた。
でもそれは今までと違いやや憐れみを含んだようにも見えた。
「そうですか。ありがとう都平君。では、次はわたしの番ですね」
そう言って彼は語り始めた。彼と彼女の物語を。