フェンス
Yさんが、旅行先で散歩をしていたときのこと。
最初に選んだ道は、海水浴場に沿って設置された遊歩道だった。
しばらく歩くうちに、いつの間にか観光客向けの景色は消え去り、どこにでもあるような海辺の田舎道が姿を現した。
歩道をはさんで片側には車道、もう片側には海が広がっている――そんな変哲もない光景である。
(それにしても……)
Yさんは、少しうんざりした。
歩道と海との間に、けっこうな高さの金網フェンスが設置されていたからだ。
さらに、そこには――
【フェンスに登るな】
【立ち入り禁止】
そんな警告板が、過剰なまでに据え付けられていた。
(フェンス越しに見る海ってのは、どうにも風情がないなあ……)
そんなことを思っていると、なんだか奇妙なものが目に入った。
金網の向こう、海の上。何かが波間に浮かんでいる。
それは、ボウリング球くらいの大きさで、色彩的にはスイカに近い。
つまり、黒と緑がごっちゃになったような色である。
目を凝らせば、それにはなんだか――
髪の毛のようなものが生えている気がする。
目や口のようなものがついているようにも見えた。
(アザラシかな……いや、まさか土座衛門!?)
しかし、自分の視力では、それがギリギリのところで判別できない。
もっとよく見ようと、フェンスにぐっと近づいた。 そのとき――
「あぶないぞ! そんなところに登るんじゃない!」
鋭い声が響いた。
驚いて周囲を見回すと、近くにいた中年男性がこちらを睨んでいる。
どうやら夢中になりすぎて、無意識のうちにフェンスによじ登っていたらしい。
Yさんはすぐにフェンスから降りると、注意してきたおじさんに言い訳をした。
「なんだか土座衛門みたいなものが見えたので、心配になっちゃって――」
すると、おじさんの顔色がさっと変わった。
海の方を一瞥するやいなや、怒鳴り声をあげる。
「バカヤロー! バケモノが! 陸に近寄って来るんじゃねえ!」
そして、海に向けて、狂ったような勢いで石を投げ始めた。
何度目かに投げた石が、浮かんでいたモノのすぐ近くに落ちた。
その瞬間――
そいつは、まるで生きているかのような動きで、ゆっくりと沖の方へと消えていったのである。
おじさんは、息を荒げながら言った。
「いやあ、驚かせちゃって悪かったな」
Yさんは、状況が理解できないままに尋ねた。
「な、なんなんですか? あれ……生き物?」
「……ここらへんでは、ヒョウロクダマなんて呼ばれている。ほんとうの名前なんてわからないよ。でも、昔からずっとそう呼ばれているんだ」
それからおじさんは、バツが悪そうに顔をしかめて、
「あいつに魅入られると、海に引きずり込まれてしまう。その、なんだ、さっきのアンタみたいに……」
そんなことを言うではないか。
まさか自分が、生命の危機に瀕していたとは……。
Yさんが絶句していると、おじさんは慰めるような口調で言った。
「まあ、ああいうものだって分かってさえいれば、何の問題もないんだ。力は弱いし、人が多い所にも近寄ってこない。もちろん、陸まで上がってくるようなこともないから安心しなよ」
「それにしたって……」
「役所だって、アレが出るってことは知っている。だからこそ、わざわざ予算をつけて、こんな立派なフェンスを建てたんだ。それでも事故が起きるから、町内会レベルで、【化物注意】とか【海に引きずり込まれます】なんて看板を立てようかって話が出たこともあった。でも、そんなの立てたら、かえって野次馬が集まって危ないだろ?」
おじさんは「これ以上、どうしようもないんだ」と呟くと、すぐ近くの自動販売機でコーヒーを買って、Yさんに差し出した。
「お兄さん、旅行客だよね。だったら今日はもう宿に帰って、おいしいものでも食べて、さっきのことは忘れちゃいなよ。お互い、苔むしたブイか何かを見間違えただけかもしれないんだからさ」
§ § §
Yさんは、苦笑しながら言った。
「――そのおじさん、別れ際にこんなことを言うんですよ。
『アンタ、化物にたぶらかされやすいタチだから、気をつけろよ』って。
そんなこと言われたって、具体的にはどう気をつけたらいいんでしょうね?」