桃
心地の良い夢から目が覚めた。一日のはじまりを迎える最高の気分が降りてくる。あたたかな手のひらに抱かれる夢を見ていたと思い出したら、あたりは夢の中で感じた同じくらいのぬくもりがあることに気付く。これから訪れる喜びをはらんだ空気のひと粒ひと粒が、私と一緒に動いていく。
窓の方へと目を向けると、白のレースカーテンが一定のテンポで呼吸をしている。朝の使者は風になって、この部屋に充満した濃密な時間を解きほぐしていく。
カーテン越しに奇跡のような朝焼けが見えた。喜びに震えるように山並みが浮かび上がっている。山々はその背後に大いなるギフトを抱え、差し出す瞬間を心待ちにしている。
”なんて美しんだろう!”
私はその想いを丁寧に味わいながら、まだ半分夢の混じる呼吸を楽しんだ。それから体に朝を告げながら起き上がると、手のひらを天へと差し出し、伸びをした。体の中心からアンテナを伸ばすように。与えられた今日一日分のお恵みが通っていくように。
「おぉ!!」
玄関のドアを開けた瞬間、驚きそのものの重低音があたりに鳴り響いた。手にしていたじょうろは玄関先の階段を転げ落ちていく。その高らかな音は現実感がなく、飛び上がった意識は、しばらく元に戻れなかった。
ようやく焦点が合った世界に立っていたのは、大石さんだった。
”目の前にいるのは確かに大石さん?私はまだ夢の中?それとも異空間の扉を開いたの?”
そんな思いに戸惑いながら、わたしは目の前の大石さんを見つめていた。
「申し訳ない!」
大石さんはなんとか叫んでみたものの、後頭部を押さえながら、飛んでいってしまった意識を一生懸命に探している。その表情と仕草に、私は思いがけず笑いが込み上げてきた。
「こちらこそ、ごめんなさい」
息を整えながら私が言うと、大石さんも困ったような表情の笑顔になった。そして、大石さんは階段を下りて、ころげたじょうろを取り上げ表面を撫でると、私に差し出した。
「あ、ごめんなさい。ありがとうございます。」
私は受け取った。
「おはようございます」
大石さんは、丁寧なおじぎをした。
「あっ、おはようございます」
私も同じようにおじぎをした。大石さんは、ようやく落ち着きを取り戻したように、満面の笑顔になった。
「大石さん、どうなさったんですか?」
「あっ、いや、これを置いていこうと思って来たんです」
大石さんは腕に掛けていた袋を広げて見せた。
「わぁ、桃!」
「ドアが開いて驚きました。この間、亮平くんたちと急に押しかけたから。それに色々話を聞かせてもらったお礼に、と思って」
「私の方こそ、色々お話させてもらって、楽しかったです。私こそお礼を申し上げなくちゃいけないのに」
心地よく響く大石さんの低く優しい声が、大好きな音楽のように心の深いところへ染み渡っていく。そして、驚きの鼓動はいつしかうれしさや恥ずかしさをともなった甘い高鳴りへと変化していくのを感じた。
「ハーブティー、とってもおいしかったです。また飲みに来ます」
「うれしい、ありがとうございます。お待ちしてます」
「はい、どうぞ」
両手で差し出された桃の袋を、私は少し震える両手で受け取った。
「こんなにたくさん」
「たくさん幸せな気持ちを味わってほしいから、…なんてね」
「ありがとうございます!」
今朝はベッドを抜け出すと、窓辺に朝を告げに来てくれた小鳥の声が、何か楽しげに歌っているようだった。その歌声に心躍らせると、いつもより早めにハーブ畑へ散歩に出かけようと思った。きっと、小鳥さんやハーブの精霊さんが教えてくれたのかもしれない。
『愛しい人がやってきますよ!出ておいで!』って。
「驚かせてしまったけど、直接渡せて良かった。…じゃあ、これで」
カフェの看板脇に置いてあるマウンテンバイクへと歩を進める大石さんの背中を見つめながら、この奇跡を天に深く感謝した。目をぎゅうっとつぶると私の頬が今ほんのり赤いのだとわかった。大石さんはマウンテンバイクにまたがると、器用にバランスを取って伸びをした。
「朝の自転車って気持ちいいー」
そうして私の方へと顔を向けた。
「夏の朝ってあたたかくてやさしくて。好きなんです、この雰囲気。最近朝のサイクリングがお気に入りです」
そう言って、笑った大石さんに合わせて、私も一緒に笑顔になった。あふれて来る幸せと響きあう喜びで、一瞬時がゆるやかになった気がした。どうかもう少し、時間がゆっくり流れてくださいと、無理なお願いをしてみた。けれど、この幸せな時間をしっかり味わうために、今に心を戻した。今私の目の前で笑う大石さんの顔を見つめながら、心が安らいでいくのを感じた。彼の笑顔は明るすぎない、しかし大きな輝きを持っている。
「今日の夕方、アイスランドに飛ぶんです。取材旅行です」
「アイスランド?!ステキ!私、行きたい国のひとつなんです」
「そうなんだ。僕もずっと心にあった国なんです」
「旅行前にありがとうございました。どうぞお気をつけてお出かけくださいね」
「ありがとう。じゃあ、いってきます」
「あっ、いってらっしゃい」
大石さんはマウンテンバイクに乗って風のように去っていった。大石さんの後姿を眺めながら、彼は本当に風のような存在だと思った。私は、桃の袋を高く掲げて見送った。
幼なじみの亮平は出版会社に勤めていて、大石さんはその会社の旅行雑誌でエッセイの連載を書いていた。それ以外にも絵本や小説など、多岐にわたる執筆活動をしている作家である。
「大石さんはオレの理想像だね」
亮平は大石さんの人柄や生きる姿勢に深く敬意を抱いていた。今まで明らかに誰かに敬意や憧れを抱くことのないように見えた亮平の惚れ込みを知って、私も彼の著作を手にするようになった。そしていつしか私は引き込まれていった。その吸引力は、彼の文章に流れているほとばしる力強さと深い慈愛だと思う。
『すごいぞ!大石さんが引越しするんだ。我が愛しき故郷の隣町に。』
電話に出ると、酔っ払っている亮平の陽気な声が飛び込んできた。
『我が故郷一帯は、大石さん、昔から気に入っていた土地なんだって。俺の地元だって伝えたら、色々教えて欲しいっておっしゃって~あ~なんかうれしいな。俺、ちょくちょく帰るかも』
「あんなに、こんな田舎~って嫌がってたのに」
『ハハハ、そうだったな。』
興奮している亮平とは対照的に、私は静かな喜びが胸の奥で湧き上がってくるのを感じていた。
『そうそう、変わったカフェをしてる変わった奴がいるって話したら、今度、行ってみたいって。近々、行くかもしれないから、よろしく』
「ハーブティーと自家製野菜のケーキが絶品のカフェをしてる、きれいでかわいい女性って言ってほしいわ~」
『あらら、それは失敬、失敬』
「へへ。ありがとう、紹介してくれて」
『いえいえ』
大石さんと初めて出逢えたあの瞬間は今でも忘れない。彼を取り巻く雰囲気が、その場に自然に溶け込んでいて、穏やかさや安らぎといったやさしい気持ちがじんわりと私の心に伝わってきた。彼の文章から勝手に抱いていた、少しストイックな印象が全く感じられなかった。懐かしさにも似た感覚も押し寄せてきて涙が出そうになった。今思い返すと、今朝味わった世界の美しさを讃え感動することと同じ種類の感覚を、大石さんから受け取った気がする。大石さんも同じように感じたかはわからないけれど、私たちの間に、言い得ないような不思議な感覚が流れていた。やっと会えましたね、と言葉にせずとも言い合うような感覚だった。
私は午後の暑さの中、お気に入りの木の下に腰を下ろした。桃の袋の中に入っていた大石さんの短い手紙を手に取った。私は何度もその丁寧な文字の上に視線をすべらせた。大石さんの存在が水面の波紋みたいに、心を優しく撫でていく。そして大きく深呼吸をした。木の葉の歌声に光のダンス、風がひやかすように私を取り巻き、通り過ぎていく。風たちの声に微笑みながら、目を閉じた。そして、私は桃にかぶりついた。その甘さを体全体で味わった。細胞ひとつひとつが喜んでいるのがわかった。桃そのものの優しさ、この桃を育てた太陽、空気、水、大地、人の優しさ、そして大石さんの優しさ…それらすべてを受け取ることができた私がゆるやかにほどけていく。大きな種をキャンディのようになめてから、手のひらに抱きしめた。
空を仰ぐと、きれいな青に白の雲がゆっくりと泳いでいた。
”こうして生きていたい”
そう思って、少し泣いた。
「前略
日本は暑いでしょうね。お元気ですか。僕は元気でいます。
アイスランドの空気を届けてあげたい。
桃はおいしかったですか?
桃
やさしく甘く、やわらかく、幸せを与えてくれる
堅い殻に覆われず、しかししっかり身を保つ皮を纏っている
誰でも簡単にその甘い幸せを得ることができる
堅く、しっかりした種をその中心に抱いている
まなさんのようだと思います。
だから、桃を贈ろうと思いました。
それでは、素晴らしい夏をお過ごしください。
大石
追伸
またこの国に来ることになりそうです。君と一緒に。」
しばらして、きれいな絵葉書が届いた。
地球を半周した風を連れて。
読んでいただきありがとうざいます。