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婚約破棄されたい悪役令嬢(仮)の話

作者: 十日兎月



「ほら、こっちこっち!」

「ま、待って! そんなに早く走れない!」



 二人の子供が手を繋ぎながら一緒に走っていた。

 どこまでも広がる林道の中を、七歳ほどの少年と少女がふたりきりで。

「もうすぐやエル! あともうちょっとで、ぼくの秘密場所に着くで!」

「待ってってばロディ! わたし、こんなにたくさん走ったことないから、い、息がくるしい……!」

「あ、ごめんごめん」

 言って、ロディと呼ばれた少年は一度歩調を緩めてから立ち止まった。

 それから、胸に手を置いて息を整える少女──エルと向き直って、

「だいじょぶエル? ぼく、急ぎすぎたやろか……」

「ほんとよ。わたしに早く秘密場所を見せたいっていう気持ちはわかるけれど、こっちは女の子なんだからもっと気遣ってほしいわ。そんなのじゃあ、女の子に嫌われちゃうわよ?」

「えっ。じゃあ、エルも……?」

「さあ、どうかしらね?」

「ほ、ほんまにごめん! ぼく、エルにとっておきの秘密場所に案内したかっただけなんや……エルは一番大事な友達やから……」

「……ふふ」

「? エル?」

「ふふっ──ごめんなさい。ウソよウソ。ちょっとロディをからかってみただけ!」

「ええ!? ひどいやんか、エルぅ……」

 と、ふくれっ面になるロディ。

 そんなロディを見て、エルはさらに「あははっ」と笑声を飛ばした。

「んも〜。ほんま、エルはイタズラ好きやなあ……」

「いいじゃない。一番大事な友達の笑顔が見られるのなら安いものでしょう?」

「それはそうかもしれへんけど、でもなんか、しゃくぜんとせえへんなあ……」

「ほらほら! わたしにとっておきの秘密場所を見せてくれるんでしょ? わたしならもうだいじょぶだから、早く案内してよ!」

「エルはほんま気まぐれやなあ……」

 エルに背中を押され、苦笑混じりに言葉を返すロディ。

 そうして再び手を繋ぎ直して、ロディの先導の元、エルは林道を進んでいく。

 やがて林道を抜け、木々に隠れるようにあった獣道を二人で少し歩いた先──



 そこには一面の花々が……視界を埋め尽くすほどの花畑が雄大に広がっていた。



「わあ! キレイ……!」

 風に吹かれて揺れる彩り豊かな花々を見て、喜色満面に瞳を輝かせるエル。

「ロディが見せたかったものって、これの事だったのね!」

「うん。エルは一番の友達やから、いつかこの花畑を見せてあげたかったんや。気に入ってくれた?」

「もちろん! 最高にステキよロディ!」

 言いながら、エルは花畑の中に入っていく。風に舞う花弁はなびらの中で、クルクルと踊るように回りながら。

「見てロディ! お花がいっぱい! わたし、こんなにたくさんのお花を見るのは初めて!」

「すごいやろ? ここを教えてくれたん、ぼくのオトンとオカンなんや。二人しか知らんとっておきの秘密場所なんやって。だからここを知っとるのは、ぼくとオトンとオカンの三人だけなんや」

 その言葉に「えっ」とエルは動きを止めた。

「そんな大切な場所、わたしが来てよかったの? わたし、ロディの家族でもないのに……」

「ええねん。言うたやろ? 一番の友達にここを見せたかったって。オトンとオカンも大切な人ができた時に連れてあげなって言われててん」

「ロディ……」

 感激に瞳を潤ませるエル。

 その言葉の本当の意味を知るのは、もう少しばかり成長したあとの事になるが、この時のエルはロディに一番の友達として扱われた事が純粋に嬉しかった。

「ありがとうロディ。わたしにとっても、ロディは一番の友達よ。でも……」

「でも?」

「でもわたし、なにもお返しできないわ。こんなにステキな場所に連れて来てくれたのに……」

 先ほどまでのハシャギようが嘘のように表情を曇らせるエルに「なんや。そんなことか」とロディは一笑した。

「そんなん気にせんでええよ。ぼくが連れて行きたかっただけなんやから」

「けどロディ……」

「うーん。あ、じゃあこういうのはどう?」

 と、未だ沈んだ顔を見せるにエルに、ロディは少しの間腕を組んで逡巡して見せたあと、何かを思い付いたように手を叩いて言葉を紡いだ。

「エルがどうしても言うんなら、ぼくと約束して。ここへ連れてきたお返しに」

「約束? どんな?」

 パチクリと虚を衝かれたように瞬きを繰り返すエルに対し、ロディは弾けんばかりの笑顔を浮かべて言った。



「それはな────……」



 ☆★☆★☆★



「由々しき事態だわ……」



 その日、エクレア・ヴァーミリアンは思い悩んでいた。

 それはもう、貴族専用の生徒寮に備えられている個室用天蓋付きベッドの上で転がりながら、大いに悩んでいた。

 片側をリボンで結んだ、腰まで伸びる美しい亜麻色の髪。若干吊り目ではあるが、それすらチャームポイントに見えるほど全体的に整った顔立ち。

 そして、学園指定の制服から覗く手足は指まで細くて長く、一切の無駄がない。その上、出ているものは出て、引っ込むべきものは引っ込んでいるという体型は、十五歳という齢にしてまさに美麗としか言えない相貌だった。

 そんな万人が見たら間違いなく美少女と認めるであろうエクレアだが、今だけその見目麗しい姿が勿体なく思えるほど渋面になって頭を抱えていた。

「本当に由々しき事態だわ……一体全体、どうしてこんな事に……」

 と、大きく嘆息を吐きながら独り言を漏らすエクレア。

「まさか、クロード・アーバスノット様と婚約する事になるなんて……!」

 クロード・アーバスノット。

 それはこの国、アーバスノットの第三王位継承権を持つ第二王子で、れっきとした王族だ。

 その第二王子であるクロードと先日──と言っても三日も前になるが、父であるエドワード・ヴァーミリアン侯爵から突然婚約の話を聞かされたのである。

 エクレアの意思を事前に確認しないままに。

 まあそれはいつもの事というか、あの父は家族を己の権威を示すための道具としか見ていない節があるので、今さら身勝手な事を言われたところで怒りすら湧いてこないが、今回ばかりは事情が違った。

 決して婚約なんて認めるわけにはいかなかった。

 なぜなら──



「わたしには好きな人が──ロディという心に決めた人がいるっていうのに!」



 ロディ。

 今から八年前、とある町中で出会った少年。

 その時はエルという名で身分を偽っていたが、エクレアにとって最高の親友で、今も続く初恋の幼馴染である。

 そんな意中の相手がいるというのに、第二王子との婚約を勝手に決められたという事実。

 寝耳に水もいいところというか、断固としてすんなりと受け入れるわけにはいなかった。

「ていうか、どうしてわたしの意見も聞かずに婚約の話なんて進めるのよ! いくらなんでも横暴だわ!」

 バタバタと怒りをぶつけるようにベッドの上で暴れながら、エクレアは憤慨する。

「いつも大人しくお父様の言う事を聞いてきたわたしではあるけれど、今回だけは我慢ならないわ! 人権侵害よ人権侵害! お父様の大馬鹿者ぉ!」



「仕方ないじゃありませんか。もう決まってしまった事なんですから」



 と。

 暴れるエクレアの横で、それまでずっと無言で立っていた従者が静かに口を開いた。

 肩口で揃えられた艶のある黒髪。細身に纏った紺の燕尾服は一糸の乱れなく、下のタイトスカートもシワひとつなく綺麗に着こなしている。

 名前はムネチカ。

 幼い頃からずっとエクレアの従者をしている、ヴァーミリアン家の古株だ。

 古株と言っても見た目は二十代前半の女性にしか見えず、外見だけでは正確な年齢はわからない。遠い東の異邦から来たらしいが、詳しい生まれは知らず、また何故ヴァーミリアン家に出稼ぎに来たのかすら未だ不明のままだ。

 そんな従者でありながら謎多きムネチカが、眉ひとつ動かさず無表情で言の葉を紡ぐ。

「それにヴァーミリアン家は財界でトップに君臨する名の知れた貴族……国としてもお嬢様を王族に迎える事でエドワード様からの資金援助を期待されているのでしょう。アーバスノット国も決して財源が豊かとは言えませんから。ヴァーミリアン家としてもお嬢様が王族に嫁ぐ事でアーバスノット王家と深い繋がりを得る事が出来ますし、双方に取って決して悪い話ではないのでは?」

「国やお父様にとっては、でしょう? わたしの意思はガン無視じゃない。だいたい、わたしと婚約するくらいなら、もっと爵位の高い公爵家との子と選べばいいのに」

「王位継承権を持つ王子や王女は他にもいらっしゃいますから。なので、第一王子には公爵家との方と婚約させて、他の方には実利のある貴族と婚約させた方が色々と都合がいいと考えたのではないかと」

「なによそれ。結局は利己的な目的ばかりじゃない」

「世の中、感情だけで物事を上手く回せるほど甘くはありませんから」

「世知辛い話ね」

 と吐き捨てるように言って、枕に顔を埋めるエクレア。なんだか暴れる気も失せてしまった。

「それで、お嬢様はどうなさるおつもりなので?」

「どうって、もちろん抵抗するわよ。わたしが一生添い遂げる相手はロディだけって決めているもの。そのためにこの学園に入学したんだから」



 国立アーバスノット魔法学園。



 それがエクレアが現在通っている学園の名称だ。

 この学園の特徴は、魔法さえ使えれば貴族でなくても入学できる点にあるが、魔法自体がほとんど貴族にしか扱えない場合が多いため、必然的にこの学園の約七割が貴族で占めている。

 が、稀に平民と呼ばれる身分でも魔法の才を持つ人間が生まれる場合があり、ロディもまた、その内のひとりだった。

 ちなみに、魔法の源である魔力に目覚めるのは十歳前後からと言われており、その頃から魔法の基礎や応用を学ぶようになるのだが、本格的に魔法を極めようと思うなら、アーバスノット魔法学園のような学術機関に所属する必要がある。

 まあ、中にはエクレアのように別の目的があって魔法学園に入る者も少なからずいるが。

「でもまさか、ロディがこの学園に行くとは思ってみなかったわ。てっきり実家の農業を手伝って、そのまま農家を継ぐのかと思っていたのに」

「私が調べた限り、一応実家を継ぐつもりではあるみたいですよ。真意はわかりませんが、魔法の才はあるようですし、自分の可能性を広げてみたかったのかもしれませんね」

「さすがはロディ。いつでも努力を惜しまないところは子供の頃と何も変わってないわね。ステキ!」

 ガバっと勢いよく起き上がって手を合わせるエクレアに「あくまでも推測にすぎませんけれどね」とムネチカが一言付け加える。

「あと、ロディさんが魔法学園に行く事を教えたのはこの私だという事をお忘れなく」

「金銭を引き換えにね。ていうかムネチカ、その後のロディの調査はどうなっているのよ?」

「もちろん続けておりますよ。ただ、金額がねぇ。そろそろ賃上げしてくれてもいい頃合いだと思うんですよねぇ〜」

「……あんた、わたしの従者としてそれなりに貰っているくせに、まだ金を要求する気?」

「人は人を裏切りますが、金は人を裏切る事はありませんから」

 などとキリッとした顔で平然と答えるムネチカ。

 今の発言でこいつの腹黒さをわかってくれた事と思うが、この従者、金さえあればなんでもするけれど、逆仕事に見合った金額でなければ働こうともしない守銭奴なのである。

「だいたい、ロディさんに関する事はその都度報告しているはずですよ」

「その日食べた朝食だとか、パンを食べる時は右手で千切って口に運ぶ派だとか、どうでもいい情報ばかりだけれどね! いや、わたし的にはどうでもいいってわけでもないけれど、少しはロディに好きな人がいるのかどうかとか実のある情報を提供しなさいよ!」

「先ほども言いましたが、それも金額次第です」

「この金欲の権化め! あんまり主人であるわたしをコケにしていると解雇しちゃうわよ解雇!」

「どうぞご自由に。ただしその場合は、お嬢様が幼い頃にひとりで外出されていた件をエドワード様にお話する事になると思いますが」

 うぐっ、とエクレアはたじろいだ。

「あーあ。お嬢様がどうしても外を自由に歩き回りたいって仰るから、わざわざ平民が普段着ている服まで用意した上、懲罰ものの危険性を犯してまでヴァーミリアン家から連れ出したというのに、そんな事言っちゃうんだ〜」

「うぐぐ……」

「しかもロディさんと親しくなられたあとも何回か外出させてあげたというのに、そういう事を言っちゃんだ〜。悲しいなあ。悲し過ぎて、今すぐエドワード様にチクリたくなっちゃったな〜」

「わ、わかったわよ。報酬に関してはまたあとで考えておくわ……」

 溜め息混じりに言うエクレア。

 これがあるから、この従者には下手に逆らえないのだ。



 ──わたしを外に連れ出してくれた時も、平然と見返りを求めてきたのよね、この金の亡者は。



 と心中で悪態を吐きつつ、エクレアは再びベッドに倒れ込むように横になった。

 お父様もよくこんな素性の知れない奴(よくよく考えたらファミリーネームすら知らないときたもんだ。そもそも訊いてもはぐらかされるせいもあるが)を雇ったものだと内診呆れながら。

 まあ仕事そのものは出来る方だし、見てくれの有能さに騙された線もなきにしもあらずだが。

 あの父は人を見る目はあっても、人格までは一切考慮しない傾向にあるから。

 言わば究極の実利主義というやつだ。

「それで、具体的にはどうされるおつもりで?」

 貴族専用の寮室に設えている豪奢なベッドをまじまじと眺めながら(よもや、盗もうと考えてはあるまいな?)ムネチカは続ける。

「この学園に入学されてから三ヵ月ほど経ちますが、未だにロディさんとの進展どころか接点すらありませんし、早いとこなんとかしないと、ロディさんとの感動の再会も実現できないままクロード王子に嫁ぐ事になりますよ?」

 ていうか、さっさとロディさんに会いに行けばいいのに。

 と焦れったそうな口調で言うムネチカに、

「そんな簡単に会えるわけないじゃない。だってこっちは貴族で向こうは平民よ? 小さい頃は身分を偽っていたから普通に接していたけれど、学園内でとなるとそういうわけにもいかなくなるわ。もしも平民と懇意な関係になっているとかなんとか噂を立てられでもしたら、ヴァーミリアン家の品格を問われる事態になりかねない」

 そうなれば、エドワードも即効エクレアを家に呼び戻す事だろう。これ以上ヴァーミリアン家の評判を落とさないためにも。

「なら、なおさらどうされるのですか? このままだと学園を卒業される前に婚儀を進められる可能性すらありますよ?」

「だから焦っているんじゃない。まだ入学したばかりだから、少なくとも一年くらいは待ってくれるとは思うけれど、お父様の気がいつ変わるとも知れないわ。だから早くクロード様との婚約を解消しないと……」

「というか、今さらながら嬢様にお訊ねしておきたい事があるのですが」

「? なによ、改まって」



「そもそもお嬢様は、クロード王子の事をどう思われているのですか?」



 その問いかけに。

 エクレアは緩慢に上半身を起こして「クロード様の事、ね……」と呟きを漏らした。

「去年、一度だけ社交界で会った事があるけれど、悪い方じゃないと思うわよ。王子なだけあって気品も教養もあるし、身分が低いわたしに対しても優しく対等に扱ってくれる──悪い方じゃないどころか、とてもいい方だと思うわ」

「じゃあ最悪、クロード王子に嫁がれたとしても不満はないと?」

「クロード様自体にはね。お父様の言いなりになるのは気に食わないけれど」



 ──今にして思えば、あの時の社交界から婚約を画策していたのかもしれないわね。やたらお父様がわたしとクロード様の接点を持たせようとしていたし。



 もっともこっちは適当に愛想を振り撒いていただけなので、クロードに気に入られるような事は何ひとつした覚えはないのだが。

「それにしてもクロード様もよくわたしとの婚約なんて了承したものね。社交界でちょっと話した程度で、学園でもたまに顔を合わせても挨拶を交わすくらいの事しかしないのに」

「王子といえど自由の身というわけではありませんしね。きっと王族生まれゆえの逆らえない事情などがあるのでしょう。ま、案外お嬢様の事を気に入った線も否定できませんが。だとしたら間違いなくゲテモノ趣味ですね」

「だれがゲテモノだコラ」

 主人に向かってなんだ、その失礼過ぎる言い草は。

「なんにせよ、エドワード様がお嬢様の入学を許してくださったのも、クロード王子の件があったせいのかもしれませんね」

「なるほど。腑に落ちる話だわ……」

 アーバスノット家一族は、代々この魔法学園に通う事が通例となっている。

 それは国中で周知の事実となっており、エドワードもその事を知っていたからこそ、エクレアがアーバスノット魔法学園に入りたいと願った時も反対はしなかったのだろう。

 すべてはクロードとの婚約をスムーズに進めるために。

「けど、余計困ったわね。着々とほとぼりを埋められているような気がして嫌な感じだわ。幸いというか、クロード様が積極的にわたしと関わろうとする素振りは見られないけれど」

「同学年なのに向こうから会いに来る事もほとんどありませんしね」

「わたしの方から会いに行く事もないけれどね」

 特別親しいわけでもないので、こっちから会いに行く理由がないだけではあるが。

「でも、どのみちヤバい事には変わりないわね。早いところ婚約を解消してもらわないと……」

「そこで王子にグーパンですよ」

「わたしがグーパンされるわ。むしろ傷害罪と不敬罪でダブルパンチされるわ」

 下手したら磔刑まである。

 マジでシャレにならん。

「ですが、クロード王子の方から婚約解消を持ち出してほしいのでしょう? 王子に対して失礼な真似でもしない限り、婚約破棄なんてしてくれないのでは?」

「グーパンは論外にしても……そうね。さすがにわたしの方から婚約破棄なんて無理だし……」

 もしもエクレア側から婚約破棄なんてしようものなら、間違いなくヴァーミリアン家の信用は地の底に落ちるだろう。

 まあヴァーミリアン家が失墜したところでエクレアは構わないのだが、しかしながらそうなると当然学園に通えなくなる。全寮制なのでロディと会う機会すら無くなってしまう。

 そうなってはまったく意味がないし、最悪、ヴァーミリアン家も肩身狭さにこの国を離れる事になるかもしれない。それだけは絶対避けなければ。

「どうしたものかしらね……」

 溜め息混じりに呟きながら、ふと枕元の小棚に収めてある本を視界に入れた。

 それは身分違いの男女の恋を描いたもので、この国だけでなく他の国々でもヒット中のベストセラー恋愛小説だ。

 もっとも主に読んでいるのは平民で、貴族連中はこの手の一般大衆向けの作品を下賤と忌み嫌っている場合が多い。戯曲や伝記ならヨシとされているが、なぜ一般大衆向けだけ目の敵にするのか不思議でならない。こんなに面白いというのに。



 ──これだから貴族って嫌なのよね。変にプライドが高いっていうか、融通が利かないっていうか。おかげでわたしもロマンス小説が好きだなんて表立って口にできないし。



 そういう事情もあってか、この手の小説は大抵ムネチカか、仲のいいメイドにこっそり買ってもらっていた。エドワードみたいな堅物に見つけられでもしたら十中八九捨てられていたに違いないからだ。

 そういう意味では、寮生活は好きな小説が存分に読めるので気楽なものだ。もっとも学友やお客様が来た時は隠さないといけない手間が生じるけれど。

 さておき。

 そんなエクレアの視線に気付いたムネチカが、件の小説を手に取って、

「確かこれって、一国の王子と城で働くメイドとの恋愛物語でしたよね?」

「ええ」

 ていうか、人の私物を勝手に取るなというツッコミを呑みつつ(昔からこういう奴なので、もはや諦めの境地に入っているまである)エクレアは首肯する。

「王子とメイドの許されない恋を描いたストーリーでそれがめちゃくちゃ切ないのよ〜。まるでわたしとロディのようだわ……」

「お嬢様とロディさんの場合、そもそも幼少期以外に接点がないので切ないも何もないと思いますが?」

「やかましい。わたしとロディだって世間的には気軽に会う事を許されない関係って事には変わりないはずでしょ」

「ものは言いようですね」

 ああ言えばこう言う奴だ。

「とにかく、とても切ないラブストーリーなのよ。王子の婚約者なんかも出てくるんだけど、そいつがヒロインに嫌がらせとか色々邪魔してくるのよねぇ」

「ああ、悪役令嬢ってやつですね。ロマンス小説にありがちな」

「ええ。その悪役令嬢が本当に性根の腐った奴で、こっちも読んでいてムカムカしてくるのよねー。ま、最終的にはヒロインへの嫌がらせがバレて、王子から婚約破棄されて破滅しちゃうんだけど──……」

 そこまで言って、エクレアは唐突に口を閉じた。



 ん? 悪役令嬢(、、、、)……?



「急にどうされたのですかお嬢様。あ、ネタバレの心配ならいりませんよ? 悪役令嬢と聞いた時点で察しは付いていたので。悪役令嬢が破滅するのはセットみたいなものですし」

「そう! それよ(、、、)!」

 声を上げて指差すエクレアに、ムネチカははてなと首を傾げて、

「それって、破滅の事ですか? お嬢様は破滅願望がおありだったので? うっわ頭やべえ〜」

「そっちじゃないわよ! わたしが言いたいのは婚約破棄の方!」

 ああそっちですかとドン引き顔からいつもの無愛想な顔に変えて、ムネチカは言う。

「わたし、良い方法を思い付いたわ! クロード様に直接失礼を働かずとも、もっと簡単に婚約破棄させる方法を!」

「あー。なんとなく言いたい事がわかりました」

 エクレアが嬉々として言い終わる前に、ムネチカが代わりに先を紡いだ。



「つまりお嬢様は、悪役令嬢に演じるおつもりなんですよね? クロード王子から婚約破棄という言葉を引き出すために」



 その通り! とエクレアは褒め称えるように指をパチンと鳴らした。ロディ直伝だけあって良く鳴る。

「わたしが悪役令嬢になれば、きっとクロード様もわたしに失望して婚約を破棄してくれる。そうなればきっと周りの目も変わって、誰もわたしを娶ろうなんて思わなくなるわ。平民を除いてね」

「ですが、それってかなりリスキーですよ? こちらから婚約破棄を言い出すよりはダメージは少なくなるでしょうが、それでも王家の方から婚約を破棄されたら普通はタダでは済みません。当然貴族の間に噂は広まるでしょうし、ヴァーミリアン家の信用にも大なり小なり響きます。そうなればエドワード様もきっと罰を加えてきますよ。エドワード様は己のプライドを傷付けられる事を何よりも嫌いますから」

「ええ。最悪、この学園を辞めさせられる可能性すらあるわね」

「……それだけの覚悟がおあり、という事ですか」

「当たり前でしょ。でなきゃ、こんな荒唐無稽な事は言わないわ」

 元よりヴァーミリアン家に未練なんてない。母は父の言いなりだし、妹も父に良い顔をするばかりの操り人形と化している。

 それはエクレアも似たようなものだが、少なくともあの家のために自分の一生を捧げようとは微塵も思わない。

 このままヴァーミリアン家にすり潰されるくらいなら、いっそ平民まで落ちた方がマシだ。



 その覚悟はすでにできている。

 たとえそれがいばらの道だったとしても。



 どのみちクロードとの婚約が解消されないと、エクレアが幸せになれる日なんて一生訪れる事はない。

 エクレアの幸せは、ロディと共に歩む道しかないのだから。

 一歩間違えたら学園を辞めさせられる大ギャンブルになってしまうが、なに、ロディ以外の男に添い遂げるよりは断然マシだ。

 生きてこの国にさえ居られれば、ロディと会う方法なんていくらでもある。

 ゆえに、エクレアはここに誓う。

 決心を固めるように。



「わたし、悪役令嬢になるわ! 自分の人生を勝ち取るためにも……!」



「そうですか……」

 と。

 胸に手を置きながら真剣な面持ちで語ったエクレアに対し、ムネチカはただ静かに微笑んだ。

 基本的にはいつも仏頂面である、あのムネチカが。

「相当の覚悟とお見受けしました。ご立派ですよ、お嬢様」

「あら、あんたが褒めてくるなんて珍しい」

「私だって褒め言葉のひとつくらいは口にしますよ」

「そ。ま、素直に受け取っておくわ。わたしの一世一代の決意表明でもあったわけですし」

「しかと聞き届けましたよ、その決意。そんなお嬢様にこの言葉を送らせてください」

 言って、ムネチカは深々と頭を下げた。

 今まで見た事がないくらいの平身低頭で。



「今までお世話になりました。今日限りでお嬢様の従者を辞めさせていただきます」

「いや、そこは『一生付いていきます』って言うべきところじゃないの!?」



 どこまでも自分本位な従者であった。



 ☆★☆★☆★



「さあ、お嬢様! 張り切って悪役令嬢を演じましょうね! このムネチカ、なんでもいたしますよ!」

「現金な奴ね……」

 明くる日。アーバスノット魔法学園の廊下。

 通常授業がある今日、エクレアはムネチカを伴ってとある場所を目指して歩いていた。

 いや、違った。どちらかというと先行しているのはムネチカの方だった。しかも上機嫌に。

 というのも昨日、ムネチカから退職志願をされた際にいつもの倍の金を弾むから協力してほしいと交渉に出たのだ。

 すると、どうした事でしょう──辞める気満々でいた従者がさも何事もなかったように退職を取り下げたのです!



 ──ほんと、金だけでしか動かない奴よね。



 ある意味扱いやすいとも言えなくもないが。

「ところでお嬢様。私の役目は昨日の打ち合わせ通りでいいんですよね?」

 こちらを振り返りながら訊ねてきたムネチカに、

「ええ。何も問題ないわ」

 とエクレアは表情を変えずに答える。

「ていうか、こんな道の往来で昨日の話なんてしないでよ。誰かに聞かれでもしたらどうするのよ」

「今はお昼時なので大丈夫ですよ。ほとんどの人は自室か食堂にいるはずです。現にお嬢様と私くらいしか周りにいませんし」

「それはそうかもしれないけれど……」

「そんな事より、打ち合わせの件ですよ。練習も無しにぶっつけ本番でやられるおつもりですか?」

「なによ。セリフ忘れちゃったの? それとも今さら怖気付いたとか?」

「いえ。セリフは完璧に頭に入ってますし至って平静ですが、後々の事を考えたらお嬢様へと風当たりが強くなるのではないかと」

「元から覚悟の上よ。そもそも悪役令嬢を目指すなら風当たりなんて気にしてられないでしょ」

「なるほど。それもそうですね」

「わたしにしてみれば、あんたがそんな心配をしてくれた事の方が意外だったわよ。あんたも一応わたしの従者というか、人の子だったのね」

「失敬な。私が心配しているのはお嬢様の身の上なんかではなく、手筈通りにすんだあとの私に対する周囲の評価ですよ。お嬢様ごときを案ずるとか、思い上がりもはなはだしい!」

「甚だしいのは、わたしに対するあんたのその舐め腐った態度の方よ」

 何ならこの場で一発殴りたくなってきた。

「ま、それくらいの方が逆に頼もしいけれどね……」

 嘆息しつつ、エクレアは立ち止まる事なく歩を進める。

 向かうは、貴族のみが入る事を許された大食堂。

 そこに、今回における重要人物がいる。




 アーバスノット魔法学園大食堂。

 ここは主に貴族や王族関係者が利用する大食堂であり、貴族とその従者以外は原則立ち入り禁止となっている。

 平民は平民で専用の食堂があるが、ここと比べたら明らかに目劣りするというか、そもそも内装からして違う。

 ここを絢爛豪華とするならば、向こうは犬小屋と言っても差し支えないくらいのレベル差である。もっともヴァーミリアン家の犬古屋は平民が住む民家よりもまだ豪華らしいが。



 ──まあ、わたしも遠目からしか見た事ないけれど。あそこは貴族が行くようなところじゃないってのが暗黙の了解になってるし。



 周りの目……というよりはヴァーミリアン家の地位などを気にしないのでいいのなら、諸手を上げてあっちの食堂に行っていたところだったのだが。何せ愛しのロディに会えるし。

 ともあれ、そんな惜しむなく金や銀などの高価な金属で装飾された食堂内を、後ろに控えているムネチカと共に楚々と歩む。

 食堂内は少し昼も過ぎた頃合いというのもあって、既に大勢の貴族達がテーブルに着いて豪華な食事に舌鼓を打っていた。貴族出身の一流シェフを雇っているという話なので、味に不満を漏らす者なんていない事だろう。エクレア的には物足りない料理ばかりなのであまり好きではないが。

「まあエクレア様。ごきげんよう」

「ごきげんようですわエクレア様。今日もお美しいお御髪ですね……!」

「いつも自室で食事をお取りになるエクレア様が食堂する利用なんて珍しいですわねぇ」

 たまたま近くのテーブルに着いていた顔見知りの令嬢達に「皆様、ごきげんよう」と笑顔で会釈してその場を過ぎる。良い子達なので本当はもう少し雑談に付き合ってあげたいところなのだが、こっちも急ぐ理由があるのでお喋りはまた今度にさせてもらおう。

 そうして他の顔見知りにも同じような挨拶を交わしながら、エクレアは目的の人物がいるテーブルの近くまで歩んだ。



 ミレーネ・アーバスノット。



 アーバスノット王家第一王女にして、クロードより二つ上の実姉。

 そして第二王位継承権を持つお方でもある



 腰まで伸びる金糸のような美しいブロンドの髪。エメラルドグリーンの瞳は宝石さながらで、見ているだけで視線だけでなく心まで奪われそうだ。

 髪や瞳だけではない。整った鼻梁も艶のあるプルっとした唇も女性的な魅力に溢れていて、エクレアをして羨ましいと思わせるほどの完成度だった。

 それでいて背もスラっと高く体付きも華奢で、高級品であるシルクをふんだんにあしらったロングスリーブドレスがこれ以上なく様になっている。

 ほとんどの学生は制服を着用したまま食事を取る方が圧倒的に多い中で──エクレアも含めて──ミレーネだけはこうしてわざわざドレスに着替えている点からして、王女たらしめる気高さのような凄みを感じさせられた。 

 そして、さすがは王女と言うべきか。見た目だけでなく、ひとつひとつの所作が緩慢ながらも無駄なく洗練されており、そんじょそこらの貴族では真似できない品格があった。

 正直に言うと、エクレアですら気後れするものがある。

 一度だけ社交界で会話しているし、学園内でも数回挨拶を交わした事もあるのに関わらず。

 当然といえば当然だ。こっちはただの侯爵令嬢に対して、相手は正真正銘のお姫様。格からして違う。

 普段なら見かけても自分から近寄ろうとも思わないが、今回ばかりはそうもいかない。

 なにせミレーネには、どうしてもやってもらいたい役割があるのだから──。

「ムネチカ。準備はいいわね?」

 小声で訊ねるエクレアに小さく頷くムネチカ 人前だけあって今はちゃんと猫を被っている。緊張している様子も見られないし、この分なら大丈夫そうだ。



 さあ、ここからが本番だ。

 エクレア・ヴァーミリアンによる一世一代の大芝居をぶちかましてやろうではないか!!



「ミレーネ様、ご機嫌麗しゅうございます」

 ミレーネの左横に立ち、スカートの両裾を摘みながら片膝を下ろす。その際は音を立てず、楚々とこうべを垂れて。王族に挨拶する際の最敬礼のひとつだ。

 そんなエクレアに、ミレーネは口に運びかけていたティーカップをいったんソーサーに下ろして、

「あらあ、エクレアさん」

 と微笑みを浮かべた。

「エクレアさん、今からお食事なのぉ?」

「はい。ミレーネ様はすでにお済みでしょうか?」

「ええ。今はデザートを待っているところよぉ。少し時間が掛かるみたいだからこうして紅茶を飲みながら待っているのぉ。ねぇミモザ」

「はい。姫様」

 と、それまでミレーネの右横で一言も出さずに直立していたミモザという白髪の女性が静かに肯定した。



 ミモザ・キャンベル。



 有名な貴族の一人娘でありながら、今はミレーネの従者をしている二十歳の女性だ。

 聞くところによると武道に長けており、熟練の兵士ですら舌を巻くほどの実力を持つと言う。それだけでなくミレーネの身の回りの世話まで小言もなく完璧にこなしているというのだから、ムネチカも少しは見習ってほしいところだ。

「ところでぇ、エクレアさんとは前々から話してみたいと思っていたのよぉ。ほらぁ、エクレアさんとクロードとの婚約が決まったというのに、なかなか顔を合わせた機会がなかったでしょう? ワタシの妹になるかもしれない相手なのに、このまま全然話さないというのも寂しいと思ってぇ」

「光栄です。わたくしも同じ思いでございました。ですが立場の関係上、こちらから気安くお声を掛けるというのも憚れるという葛藤もありまして」

「あらあらぁ。そんなこと、気にする必要なんてなかったのにぃ。せっかく同じ学園に通っているのだからぁ。上級生と下級生という関係だったから、なかなか顔を合わせた機会もなかったけれどぉ」

「仰る通りです。ですが今日ここでミレーネ様を偶然お見掛けにしたのも神のお導きと思い、勇気を振り絞ってお声を掛けさせていただきました」

 本当は偶然でもなんでもなく、ミレーネは普段からこの大食堂を利用しているという話を日頃クラスメートから小耳に挟んでいたので、こうして自ら出向いただけでなのだが。

 なんて事情を知る由もないミレーネは、パァと表情を輝かせて、

「まあ嬉しいわぁ。ほら、いつまでもそこにいないでエクレアさんもお座りになって? 一緒にお茶でも飲みながらお話ししましょう」

 かかった。

 思惑通り同じテーブルに着けた事に内心ほくそ笑みつつ、エクレアは「では失礼いたします」とムネチカに椅子を引かせてから静かに腰を下ろした。



 ──まず第一関門はクリアと言ったところね。さすがに私の方から図々しくミレーネ様と同じテーブルに着くわけにはいかなかったし。



 しかし重要なのはここからだ。

 ひと時も気は抜けない。

「エクレアさん、お食事はまだって仰っていたわよねぇ? 先にそちらの従者の方に料理を運んでいただいてはどうかしらぁ?」

「はい。そうさせていただきますわ」

 言われて、アイコンタクトでムネチカに指示を飛ばす。

 エクレアの意図を汲んだムネチカが「失礼いたします」と一言断ってから配膳場へと向かうのを横目で見届けていると、

「さっそくだけれどエクレアさん。少し訊ねてみてもいいかしらぁ?」

 唐突に質問を向けられた事に内心驚きつつ「はい。もちろんですわ」と笑顔でエクレアは頷く。

「クロードは話してくれないのだけれど、あの子とはどんな感じなのかしらぁ?」

「どんな、ですか……。実はクロード様とは以前に一度だけお話した事があるくらいで……」

「まあ、そうなのぉ? クロードったら、婚約相手をほったらかしにするなんてダメな子ねぇ」

「いえ、クロード様のお立場もありますから。あまりわたくしのような身分の者にクロード様自ら会いに行くというのも……」

「確かに身分差という壁はあるかもしれないけどぉ、婚約した間柄なのだからそこまで難しく考えなくてもいいんじゃないかしらぁ? ましてクロードの方から来てくれないのなら、ますますエクレアさんの方が気まずくなる一方でしょう?」

「わたくしはクロード様の婚約相手に選んでくださっただけでも存分に満足しておりますから」

「あらぁ。エクレアさんは謙虚なのねぇ。どういった方なのか、今までお会いした事もなかったから全然知らなかったけれど、とても良い子で安心したわぁ。こんな子と夫婦になれるなんてクロードも幸せ者ねぇ」

 わたしは夫婦になるつもりなんて微塵もないけれどね。

 なんて本心はおくびにも出さず、依然として笑みを貼り付けながらミレーネに訊ねる。

「ところでミレーネ様。ミレーネ様はどうしてこの食堂を利用されているのでしょうか? 王家の方々は専属の一流シェフが控えているという話を聞いた事があるのですが」

「ええ、その通りよぉ。でも自室に引きこもってばかりでは見聞を広められないでしょう? いくら王女でも世間を何も知らない常識知らずにはなりたくないしぃ、立場に甘えるだけの怠け者にもなりたくはないわぁ。ワタシはワタシの役目をまっとうしたい。ただそれだけの単純な話よぉ」

 へぇ、とエクレアは内心感嘆した。

 おっとりとした口調だから、きっと普段もスローテンポで俗世間には疎い王女様なのだろうと思いきや、偏見もいいところの相当に勤勉なお方だった。



 ──良い人なのはミレーネ様の方じゃないの。こんな良い人を今から騙すなんて、ちょっと胸が痛むわね……。



 とはいえ、もう後には引けない。

 ロディとの幸せを勝ち取るためにも、心を悪魔に売ってでも挑まねば。

 そうこうしている内に、配膳場から身なりの良いシェフが、ロールケーキを載せた皿を両手に持ちながらミレーネの方へ歩いてきた。きっとあれがミレーネが待っていたというデザートなのだろう。

 そのちょっとしたあとに、配膳台を押しながらムネチカもこちらにやって来た。

 絶妙なタイミングだ。

 計画を実行するのに都合がいい。

 そっと右頬に触れる。計画実行の合図だ。

 その合図を見たムネチカが、ミレーネとミモザに気取られないよう頷くように目配せしたあと、配膳台の上にあった空のフィンガーボールと水差しをエクレアの前に置き始めた。

 そうして、ミレーネがロールケーキにフォークを刺そうとした同じタイミングで、ムネチカがフィンガーボールに水を注ごうとして──



 水差しをミレーネ側へと滑り落とした。



 キャッと小さく悲鳴を上げるミレーネ。

 そうしている間にテーブルの上に落ちた衝撃で水差しの蓋が外れ、中の水がミレーネの方へと流れ込んできた。

 が、とっさにミモザがミレーネの椅子を引いたおかげで、ミレーネに水がかかるという惨事だけは回避できた。回避こそできたが──

「ロールケーキが……」

 水浸しになったロールケーキを見て心底残念そうに声を落とすミレーネ。よくは知らないが好物だったのかもしれない。

 そんなミレーネを見たムネチカが、ひどく狼狽えた様子で床に両膝を付けた。

「た、大変申しわけありません!! わ、私、王女様になんて事を……っ」

「ほんとよ! 一体何をしたのかわかる!? ミレーネ様にこんな無礼な真似を働くなんて……!」

「だ、大丈夫よエクレアさん。ミモザのおかげで濡れずに済んだ事だし……」

 それに、とミレーネはそこで一拍置いたのち、おもむろに両手を掲げた。

 そして──



「太陽神フローディーネに願いたてまる。その光で我が前を照らしたまえ」



 口上と共に突如として光り輝くミレーネの両手。

 その光は水で濡れてしまったテーブルクロスを見る見る内に乾かし、あっという間に元の水浸しになっていない状態に戻してしまった。

 これが特殊な人間しか使えない──主に王族のような選ばれた血統しか扱えない力、光魔法である。

 魔法には属性というものがあって、だれがどんな属性を持つかは千差万別なのだが(ちなみにエクレアは風属性)光魔法だけは特殊で、この力を持つ者は貴族の中でも数パーセントと言われている。

 また、属性は先祖代々から遺伝されるものと決まっているので、なおさら光魔法は希少とされていた。

 そういう事情もあり、ミレーネのような王族は光魔法を扱えるという点もあって、民から畏敬の念を集めていた。

 その光魔法を目の前で見せられたエクレアは、思わず息を呑んだ。まさかミレーネのような王家の方が、こうして失態をやらかした者の前で光魔法を披露してくれるとは──あまつさえ怒りすらせずムネチカのミスをフォローしてくれるとは思わなかったのだ。

 ミレーネにしてみれば、ムネチカは下賤の身でしかないはずにも関わらず。

「ほらぁ、これでもう問題ないでしょう?」

「あ、はい……」

 と条件反射で頷くエクレアであったが、すぐにハッと思い直した。



 ──ダメよ! ここで引いたら! わたしが立てた計画が台無しになっちゃう!



「いいえ! いいえ! ミレーネ様の温情は大変ありがたいですが、やはり王女様に水をかけそうになった無礼を見過ごすわけにはいきません! ムネチカ!」

「は、はい……」

「これは罰よ。頬を出しなさい」

 エクレアに言われた通り、頬を向けるムネチカ。

 その頬目掛けて、エクレアは勢いよく平手打ちした。

 パシンっ! といっそ小気味いいほど高らかに鳴り響くエクレアのビンタ。その音に、周りにいた女子生徒達が揃って「きゃ!」と悲鳴を上げた。



「まあ、あのクールで知られるエクレア様があんなにお怒りになるなんて……」

「ミレーネ様に水をかけそうになったのだもの。従者に怒りを覚えるのは無理ありませんわ」

「ですが、こんな人前でビンタされなくても……」



 ざわざわとエクレアをおそるおそる視界に入れながら、小言で囁き合う生徒達。

 近くにいる生徒は会話が筒抜けになっているが、エクレアは逆に内心ほくそ笑んでいた。



 ──しめしめ。上手い事、わたしの評判が下がっているわ。ミレーネ様も絶句しているし、これならクロード様の耳にも届くはず! よくやったわ、ムネチカ!



 周囲に気付かれないよう、ムネチカにこっそりウインクを送るエクレア。それを見たムネチカが赤くなった頬を触りながら僅かにこくりと頷く。

 そう──これはエクレアとムネチカによる芝居だった。



 すべては、クロードにエクレアの悪評を耳にしてもらうために。



 詳細は、こうだ。

 まずはよく食堂を利用するという王女のミレーネに近付き、食事が済んだ頃を見計らって声をかける。食事のあとでならない理由は、さすがに食事中に声をかけるのは無礼だろうと思ったからだ。

 そして、どうにかしてミレーネと同じテーブルに着いたあと、食事を運んできたムネチカが、水かスープをミレーネの方に向けて零すという流れだった。

 その際、決してミレーネを濡らす事のないよう、細心の注意を払って。

 なんだかんだで器用なムネチカの事だから、上手い事やってくれるだろうと思っていたが、まさかここまで想定通りに進むとは。

 ちなみに先ほどの平手打ちも演技だ。実際には叩いていない。

 ビンタした際の音は風魔法(簡単なものなら無詠唱でも使える)で鳴らしたものだし、ムネチカの頬が赤くなっているのも、とっさにムネチカが頬をメイクしたからだ。

 自分でやらせておいてなんだが、早業過ぎるだろ。

 どんだけ早いメイク術を持っているんだ。

 まあ何にせよ、上手くいってよかった。本当は最初にクロードを狙う予定だったのだが、途中で変更してミレーネにして正解だった。

 これならきっと、ミレーネの口からエクレアの嫌な印象がクロードに伝わる事だろう。

 いや、ミレーネは聖人のような方なら、そんな陰口を言うとは考えにくい。しかしながらミレーネ達の前で自身の従者を怒り任せに叩いたという事実だけは、いずれクロードの耳にも届く事だろう。

 なにせ、クロードとミレーネは姉弟の関係なのだから。

 あとは再度ムネチカに怒鳴り付けてから退散すればいいだろう──そう思った矢先、



「ミ、ミレーネ様! 大変申しわけありません!」



 と、ミレーネにロールケーキを運んできたシェフが血相を変えてこちらのテーブルに走り寄ってきた。

「先ほどのロールケーキですが、もうお口にされてしまってでしょうか!?」

「ロールケーキ……ですか?」

 と、それまでエクレアの平手打ちに面食らっていたミレーネが、かなり焦った様子で来たシェフに聞き返した。

「いえ、まだでしたが……」

「よかったぁ〜。実はそれ、ミレーネ様の苦手な食べ物であるココの実が入っておりまして……」

「ココの実ですって!?」

 ミモザが突然声を荒げた。

 ムネチカが水を零した時すら動揺する素振りを見せなかった、あのミモザが。

「ココの実は、以前姫様が呼吸困難に陥った代物ですよ!? なぜそのような物が……!?」

「か、重ね重ね申しわけありません! 言いわけにしかなりませんが、最近入った新人の者が、ミレーネ様のロールケーキに誤ってココの実を混入させてしまったらしく……」

「調理場の教育はどうなっているのです!? ミレーネ様が口にしてならない物は再三伝えたはずですよ!?」

「ミモザ、落ち着いてぇ。幸い、口にする事はなかったのだからぁ」

 言いながら、ミレーネは微笑を浮かべながらムネチカを見やった。



「そこにいる従者の方のおかげでぇ」



 ん?

 んんんんんん?

「ですが、姫様……」

「ワタシは本当に気にしていないからぁ。結果的には偶然だったとはいえ、そこの従者さんが水を零してくれたおかげで、シェフが駆け付ける前にロールケーキを口にしなくて済んだのだからぁ」



「確かに、あれがなかったらミレーネ様がロールケーキを口にしていたところでしたわね」

「という事は、ムネチカ様がミレーネ様の命を救ったという事に……?」

「まあステキ! ムネチカ様が王女様を助けた事になりますのね!」



 周りにいた生徒達も、こぞってムネチカを褒め始めた。

 おかしい。演技だったとはいえ、王女様に対し水をかけそうになったというのに!

「ですからエクレアさんも、もうそこの従者の方を叱らないであげてぇ。恩人が悲しむ顔を見るのは心が苦しいわぁ」

「ですが、ミレーネ様への無礼を見過ごすなんて、ヴァーミリアン家としても沽券に関わる事なので……」

「エクレア様、もうそれ以上芝居をなさらなくていいんですよ。そこの従者の方を叩いたのも、実は振りですよね? 私には見えていましたよ」

 不意に来たミモザの言葉に、エクレアは「えっ!?」と驚愕の声を上げた。

 まさかバレた!?

 ミレーネにわざと水をかけようとした事も!?



「エクレア様が従者を叩いた振りをした理由……それは従者の方を守るためですよね? 私が激昂してそこの方に掴みかからないように」



 え。

 全然ちゃいますけど???

「まあ。そうだったのぉ?」

「はい姫様。実際姫様に水がかかりそうになった時、怒りのあまりそこの従者に掴みかかる寸前でした」

 思わず「マジで?」と目を白黒させるエクレア。

 一見、いつも冷静沈着そうなミモザがそんな激情に駆られていたとは。人は見かけによらない。

「そんな私の剣呑な雰囲気を感じ取ったのでしょう、エクレア様が従者の方に平手打ちされる素振りを見た際、私はハッとさせられました。わざと平手打ちする振りを見せて、エクレア様はご自分の従者を守ったのだと。

 それだけでなく、姫様や私の溜飲を下げねば、王女に無礼を働いたとヴァーミリアン家に悪い風評が流れるかもしれないと危惧して、敢えて心を鬼にして従者の方に激昂しているように見えました。そうして従者の立場だけでなく、ヴァーミリアン家の地位をも共に守ろうとしたのでしょう。わざと酷い主人を演じる事によって。

 なんという従者想い! なんたる覚悟! 実に立派な姿でした! つい怒りに身を任せそうになった我が身が恥ずかしい!!」

「まあまあ。なんてステキな話なのかしらぁ。ワタシ、感動で胸が打ち震えましたぁ」

 と瞳を潤ませながら、エクレアに向けて拍手するミレーネ。

 その拍手はだんだんと周りの生徒達にも伝播し、気付けば大食堂に響き渡るほどの拍手喝采へと変わっていた。

 ポカンとあっけに取られたままのエクレアだけを残して。



 ☆★☆★☆★



「ちょっとムネチカ! これはどういう事なのよ!?」

「いや、私にキレられましても」

 所変わって学園寮、エクレアの自室。

 大食堂から帰ってきたエクレアは、真っ先にムネチカに対して怒りをぶつけた。

「話が違うじゃない! 本当はミレーネ様に無礼を働いたその従者と主人として、悪い風評を広めてもらう計画だったのにっ」

「物の見事にお嬢様の株が上がっちゃいましたねー。ミレーネ様とミモザ様にもたいそうお嬢様を気に入っちゃったみたいですし」

 そうなのだ。

 嫌われるためにやったつもりが、一体なんの冗談なのか、逆にミレーネの好感度を稼ぐ結果になってしまったのである。どうしてこうなった。

「だいたいムネチカが、あのまま恐怖に震えた演技を続けてさえいればよかったのよ! そしたらわたしもミレーネ様が許してくれたのにまだ激怒する酷い主人を演じていられたのに!」

「さすがにあの状況では無理がありますよ。だいたいお嬢様だって終始唖然としていたじゃないですか」

「うっ」

 痛いところを突かれた。

「しかもその後は、ミレーネ様と和やかに談笑までしていたくせに」

「し、仕方ないじゃない! あの状況で従者を折檻するわけにもいかないでしょ!?」

「うわー。自分の発言を棚に上げやがりましたよ、このあるじ

「やかましい! ああもう、せっかく立てた計画が台無しだわ……」

 言いながら、エクレアは無力感さながらにベッドへ倒れ込んだ。

「なんでこうなっちゃうのよ〜。タイミング良過ぎるでしょ、たまたまミレーネ様の口にしてはならない食材が入っていたなんて。そうはならんやろって感じだわ……」

「実際になっちゃいましたけどね。まさに喜劇のようなオチでした」

「全然笑えないけどね。わたしにしてみれば悲劇よ」

「まあ、結果的にはミレーネ様だけでなく生徒の方々の好感度まで上がったので、決して悪い話ではないと思いますけどね。ていうか普通なら誰もが羨む展開ですよ?」

「わたしはミレーネ様に嫌われたかったの! そしたらクロード様にも話が届いて、上手くいけば婚約破棄までいくかもしれなかったのに! 大失敗だわ!」

「おかげで私は比較的無事に済みましたけどね。最悪ミモザ様に殴られる覚悟もしていたので」

「その分、お金も弾んであげたんだから文句はないでしょう? さすがに命までは取られないってわかっていた事だし」

 他国ではちょっとしたミスで従者やメイドの首を刎ねた王族もいるようだが、アーバスノットはそこまで非道ではない。場合によっては厳しい罰もあろうが、周囲から「聖王女」と親しまれているミレーネならそうはならないだろうという確信があったのだ。

「でもまさか、あんな強運まで持っていたなんて思わなかったわ……。なんだか道化師にでもなったような気分よ……」

「大丈夫ですよ。もしも戯曲にでもなれば観客の大ウケ間違いなしですから」

「微塵も嬉しくないわ! 笑い者になりたくてあんな事をしたんじゃないっての! それともあんた、わたしを笑い者にしたいの? 実は笑いを堪えていたりとかするんじゃないでしょうね?」

「まさか。私はお嬢様の従者なのですよ? 落ち込む主人を見て笑う従者がどこにいますかプークスクスクスクスクスクスwww」

「思いっきり笑ってるじゃないっ!」

 ケンカ売っとるんか、コンチキショウは。

「何にせよ、このままじゃダメね。計画変更よ」

「計画変更とは?」

 聞き返すムネチカに、エクレアは上体を起こして不敵に笑んだ。



「次はクロード様を狙うわ」



 ☆★☆★☆★



 翌日。通常授業がある平日。

 エクレアは今、クロードが在籍している教室のそばにある廊下の角で、ひっそりと身を隠していた。

「そろそろね、クロード様が出てくるのは」

「はい。これからクロード様が在籍しているクラスで魔法実習があると聞き及んでおります」

 エクレアの呟きに、後ろに控えていたムネチカが静かに応える。

「おそらく、もうじき廊下に出る頃合いかと。魔法実習は外でおこなうそうですから」

「相変わらず情報収集が早いわね」

「情報は武器ですから。周りの情報だけでなく主人の弱味や秘密を握るのも従者の仕事のひとつです」

「なるほ……ちょっと待て。今なんつった?」

 さっき聞き捨てならないセリフがあったような。

 まさかロディ以外の秘密を握っていたりするのか、この不良従者は。

「それよりも、ほら。クロード様が従者の方と一緒に廊下へ出ましたよ」

 言われて、エクレアはムネチカから教室の方へ視線を移す。

 ミレーネと同じ美しいブロンドの髪。端正な顔立ちは役者ですら比にならないほど完璧で、すべてにおいて無駄な箇所がない。

 瞳はミレーネとは違うオーシャンブルーだが、それがまた蒼く澄んだ大海原を連想させるほど深い色味があり、見ているだけでその海底にどこまでも沈んでしまいそうだ。

 そしてエクレアよりも頭ひとつ分高い背丈は、華奢なように見えて所々制服越しでありながら筋肉が隆起しているのがわかる。おそらくは普段から鍛えているに違いない。

 第二王子とはいえ、王子である事には変わりない。つまりは常に命を狙われる危険性があるわけで、そのためいざという時のために己の身を守れるために日頃から鍛えているのだろう。そんな話をいつかどこかで聞いた事があるのをエクレアは頭の片隅て思い出していた。



 ──さすがは王位継承権第三位を持つ王子。立ち振る舞いからしてとんでもないオーラがあるわね。ミレーネ様とはまた違った凄さがあるわ。



 直接見たのは先月廊下をすれ違った際に会釈だけ互いにした時だが、やはり遠目からでも緊張してしまう。

 だがいつまでも萎縮しているわけにもいかない。

 エクレアには達成しなければならない目的があるのだから。

「行くわよムネチカ」

「了解」

 首肯するムネチカに一瞥を向けたあと、エクレアは凛然とクロードの前に現れた。

「クロード様、ご機嫌麗しゅうございます」

「! これはエクレア嬢、ごきげんよう」

 まさかエクレアから話しかけてくるとは思わなかったのか、一瞬驚いたように目を見開いたあと、すぐに微笑を称えて顔をこちらに向けた。

「姉上から聞いたよ。姉上がココの実を食べる寸前に止めてくれたと」

「いえ、あれは事故のようなものだったので……」

「謙遜を。そのあと、従者を守るために体を張ったとも聞いたよ。ステキな話じゃないか、なあレイン?」

「ええ」

 と、クロードの背後に控えていた長身でメガネを掛けた従者の男が頷き返す。幼い頃からクロードのお付きをしていると言われているレイン・オスマンだ。

 レインもまた、ミレーネの従者であるミモザと同じく高名な貴族の嫡子で、古くから王家に仕えている一族らしい。

 武闘派のミモザとは違い、レインは魔法分野専門らしいが、それでも騎士団の実力者と肩を並べるほどの腕前なのだとか。王子の専属従者ともなれば、という事なのだろう。

「とんでもございません。わたくしはただヴァーミリアン家の令嬢として恥じぬ行動を取ったまでですわ」

「それがスゴいんだよ。従者のためにそこまでできる主人なんてなかなかいないのだから。婚約者として誇り高いよ」

「もったいなきお言葉、大変恐縮にございます」



 ──わたしの方から話しかけたとはいえ、いつもと比べて口数が多いわね。ミレーネ様の一件で、わたしに対する印象が変わったのかしら?



 だとしたら、あまり喜ばしい事態とは言えない。いやクロードのようなイケメンで性格も穏やかな王子様に好印象を持たれるのは悪い気はしないが、しかし婚約を破棄してほしい立場からしてみれば本末転倒もいいところだ。

 ミレーネの件は失敗どころか株を上げてしまう結果に終わってしまったが、今度こそ婚約破棄大作戦を成功させなければならない。

 そのための作戦は入念に練った。準備も済ませた。

 あとは実行に移すのみ。



 ──さあ、始めるわよ!



「話は変わりますが、クロード様。実はお渡したい物がありまして」

「僕にかい? 珍しいね」

 意外そうに眉を上げるクロード。実際何かを渡すのはこれが初めてだ(ちなみにクロードからは一度でもない)。

「なんだい、渡したい物って」

「手紙をしたためましたの。わたくし達、婚約を交わしたというのにほとんど会話をした事がなかったものですから、少しでもわたくしの事を知っていただきたくて……」

「……これは申しわけない。エクレア嬢に気を遣わせてしまったようだ。淑女レディに対して失礼な真似をさせてしまい、心から謝罪するよ」

 いいえ、とエクレアは首を振った。

 謝る必要はない。



 手紙を書いたのは事実だが、どうせそれを読む事なんてないのだから──!



「ムネチカ、手紙を」

「はい。お嬢様」

 エクレアの言葉に、ムネチカが懐から封に入った手紙を取り出す。

 そして手紙を渡そうとして、ムネチカは何かにつまづいたように体を傾けた。

 あっと小さく悲鳴を漏らしながら、エクレアにぶつかる形で転倒するムネチカ。

 その勢いはエクレアのバランスをも崩し、そのまま後方へ倒れかかる。

「きゃ!?」

「危ない!」

 とっさにエクレアを抱き止めて床に腰を伏せるクロード。

 その際、何か「ヒュン」という風切り音のような物が聞こえたような気がするが、虫か何かだろうとエクレアは聞き流してクロードに顔を向けた。

「……クロード様、ありがとうございます。それといきなりもたれかかった無礼をお許しください……」

「いや、気にしなくていい。どこかケガはしていないかい?」

「はい。おかげさまで」

 言いながらクロードの手を離れて立ち上がったところで、エクレアは「あっ」と声を上げた。

「わたくしがしたためた手紙が! こ、こんなボロボロに……!」

 床に落ちた皺くちゃの手紙を見て、悲壮に口元を手で覆うエクレア。

 それを見たムネチカが顔面を蒼白させて床に両手を付いた。

「た、大変申しわけありません! わ、私はなんて事をしてしまったのでしょう……!」

「本当よ! このグズっ!!」

 怒声と共にムネチカの頭を上から踏ん付ける。

 直後「ぎゃっ」という苦鳴を漏らしたムネチカに構わず、エクレアは踵でグリグリと体重をかけた。

「役立たず! 無能! 駄従者! どうしてあんたみたいなゴミが存在しているのかしら!?」

「ああっ! 申しわけございません! お、お嬢様、申しわけございません……っ!」

「お、落ち着くんだエクレア嬢!」

 と、クロードに羽交締はかいじめにされた。

 そこでいったん暴れるのをやめたエクレアではあったが、まだ気が収まらないとばかりに激憤する。

「ですがクロード様! わたくしがせっかくクロード様のために書き綴った手紙が、この愚かな者のせいでめちゃくちゃに……!」

「気持ちはわかるけど、ひとまず落ち着いて! 周りが騒ぎ始めている!」

 言われて周囲を見渡すと、確かに遠く離れた位置で生徒達が何事かと集まり始めていた。

 にも関わらず、エクレアは「でも!」と怒号を飛ばす。

「クロード様に対するありったけの想いを綴った手紙をあんな風にされて、わたくし我慢なりませんわ! もっと折檻してやらないと……!」

「もうよすんだエクレア嬢! 彼女は十分に反省している! それにあれは事故だったんだ! これ以上の叱責は悪目立ちするだけだ!!」

 再度ムネチカに向かうエクレアを、クロードがとっさに腕を取って制止させる。

 そうこうしている間にも生徒達がザワザワと好奇の目を向けながら騒ぎ始めた。おそらくは自身の従者に暴力を振るうエクレアに対して陰口でも叩いているのだろう。

 一方のクロードも、それまでの温和な雰囲気を潜めて、エクレアに対し厳しい眼差しを向けていた。間違いなくエクレアに嫌悪感を抱いている表情だった。

 その後ろにいるレインも婚約者同士の問題と思って傍観に徹しているが、目だけは雄弁に不快感を示していた。

 そんな誰もがエクレアの行為に悪感情を持つ中、



 ──よっしゃあ! 計画通りぃぃぃ!



 とエクレアだけは内心ガッツポーズを取っていた。

 そう──これもミレーネの時と同様、クロードに嫌われるための作戦だった。

 改めて、ここで詳細を語ろう。

 まずは最初にクロードへ向けた手紙を書く。あとで皺くちゃにする予定だったので、内容なんて適当でよかったのかもしれないが、もしもの時に備えていかにも恋人にしたためたような文章にしておいた。

 本音を言うと愛するロディに向けて手紙を送りたかったところなのだが。

 閑話休題。

 手紙を書いたら、あとはクロードと接触し、わざとムネチカに転倒してもらって手紙をボロボロにしてもらい、それをクロードや他の生徒達のいる前で罵詈雑言と折檻を与えるというものだった。

 ちなみにムネチカを踏み付けたように見せて、実は極薄の風の結界を張って直前で止めている。要は見せかけだ。

 しかも今度はクロードやレインには見えない形で踏み付ける演技をしているので、ミレーネの時のように振りだとバレる心配はなかった。他の生徒達にはバレる恐れはあったが、ミモザのような武道に秀でた者がそうそう近くにいるとは思えない。きっとミレーネの時のような事態にはならないだろう。



 ──いいわよいいわよ。みんな、わたしに白い目を向けているわ。これでクロード様もわたしとの婚約をやめるはずだわ!



 唯一懸念があるとすれば、父であるエドワードの反応ではあるが、まあどうでもいいかと気にしない事にしておいた。めちゃくちゃ罵声を浴びせてくるだろうが、父に対して尊敬の念なんて抱いていないし、そんな相手の怒りを買ったところでもどうとも思わない。せいぜい勘当されない程度にしおらしくすればいいだろの事だ。

 それにしても、ムネチカの演技の入りようと言ったら、目に瞠るものがあった。

 演技だとわかっていても、傍若無人に振る舞うのを躊躇ってしまうほどの気迫がある。それくらい、堂の入った演じ方だった。



 ──ほんと、こいつ何者なのかしら? なんでもそうなくこなせる割に、わたしに対する態度は舐め腐ったもんだし。



 いや、こんな高等な真似を要求する自分も大概ではあるけれども。

 それに演技というなら、エクレアも負けていなかった。我ながらなかなかのものだと自画自賛してしまうものがある。幼少期にロディに対してずっと平民を演じていた経験が生きた形となった。



 ──ともあれ、あとは頃合いを見てここから離れるだけね。ムネチカを残す事になっちゃうけれど、その後の事もちゃんと打ち合わせしてあるし。



 その分ムネチカに「割高でっせ」と高額な報酬を求められたが、幼い頃から顔見知りの商人や貴族からプレゼントされた宝石やら装飾品がある。それを渡せばなんとかなるだろう。そろそろムネチカの待遇をなんとかしないと、こちらの金銭が先に底を付いてしまいそうだが。

 と。

 つつがなく計画が進み、今度こそ上手くいったと胸を撫で下ろしかけた途端──



「賊だあああああ! 学園内に賊が潜んでいるぞおおおおおお!!」



 どこからともなく響いてきた、雄叫びにも似た大声。

 その声に仰天したのか何なのか、それまで何もなかったはずの天井に、黒装束に身を包んだ男が忽然と姿を現した。

「!? この者は──」

「お下がりください殿下!」

 驚愕するクロードの前に、素早く動いて背中で庇うレイン。

 そしてすかさず黒装束の男に両手を翳して、

「風よ! の者を切り裂け!」

 と魔法を放った。

 それを見た黒装束の男が「ちぃ!」と大きく舌打ちを漏らしたあと、俊敏に体をくねらせて、天井から後方の離れた位置に着地したあと、足早に生徒達の波を掻き分けてどこぞへと去っていった。

 今のは一体何だったのかと終始呆然とするエクレア達の前に、

「クロード殿下! ご無事でございましたか!?」

 と学園に駐留している騎士が数名焦燥した様子で駆け寄ってきた。

「あ、ああ。僕なら大丈夫だ」

「ご無事で何よりです!」

「ところで今の黒装束の男は? 先ほど『賊』だと叫んでいたようだけれど」

「あれは手配中の賊でございます。少し前に情報を仕入れたばかりなのですが、王族の命を狙った賊が学園内に潜んでいるという一報を聞き届けて、こうして急ぎ馳せ参じました」

「手配中の賊……。奴は廊下を走ってどこぞに逃げたみたいだが、あのまま放っておいてよかったのか?」

「ご心配なく。すでに学園内外に多くの騎士を放っております。姿を消す魔法を用いるようですが、有能な魔法解析班も在中しておりますので、すぐに捕まる事でしょう」

 膝を付いて敬服する騎士達に「そうか」と安堵の呼気を零すクロード。

 つまり危うく、クロードは命を狙われそうになったのだ。

 そういえば──

「クロード様に抱き止めてもらった時、『ヒュン』っていう音が聞こえたような……」

 ふと思い出した事をボソッと口にするエクレア。

 そのなにげない呟きを聞き逃さなかったとある騎士が「まことでありますか!」と声を上げたあと、他の騎士と共に周囲を探り始めた。

 そして──



「ありました! 毒針です!!」



 と、床に落ちていたらしい針を摘みあげる騎士。

「毒針!? つまりさっきまで殿下を密かに狙っていたという事ですか!?」

「ええレイン様。毒針がここにあるという事は、クロード殿下を狙ったものの失敗に終わったという事でしょう」

 などとレインに問いに答えながら「しかし」と騎士は語を継ぐ。

「話に聞くと、なかなか腕の立つ暗殺者と聞きましたが、そこまでの者が毒針をみすみす外すなんて失敗を犯すとは、不思議でなりません……」



「エクレア嬢のおかげだよ」



 と。

 相変わらず状況に追い付けずに呆けているエクレアの肩を抱き寄せて、クロードは声を発した。

「彼女が僕に倒れかかってきてくれたおかげで、こうして毒針を受けずに済んだのさ。詳しく言うとその前にそこの従者の子が転んでくれたおかげでもあるんだけれど、なんにせよ、命の恩人である事には変わりない」

 クロードの言葉に『おおっ!』と騎士だけでなく生徒達までどよめいた。

 そこでようやく我に返ったエクレアが、おそるおそるといった態で小さく手を上げて、

「いえ、あの、偶然と言いますか、決してクロード様を助けようとしたわけではなかったのですが……」

「偶然だとしても僕を暗殺者の魔の手から救ってくれたのは事実だ。本当にありがとう」

 エクレアの手を両手で握りながら熱っぽい視線を送るクロード。



 ──あれ? この流れ、なんか前にもあったような……?



 そんな既視感に落ち入りながらも「でも」とエクレアはかぶりを振る。

「わたくしはただ従者の失態を咎めただけですわ。それも口汚く罵るばかりか、従者の頭を力の限り踏み付けるような真似までして……。頭が冷えた今になって気付きましたが、わたくしはクロード様の前でなんてはしたなく、そして醜悪な姿を晒してしまったのでしょう……。今すぐにでも消えてなくなりたい気分ですわ……」

「ご謙遜を」

 と。

 それまで無言で二人の成り行きを見つめていたレインが、ここに来て柔和に口を開いた。

「エクレア様と同じ風属性の私だからこそ気付いておりましたよ。ムネチカさんを踏み付けようとした際、風魔法で障壁を作っていましたよね? エクレア様はその障壁に足を乗せただけでは?」



 またバレてしもうとるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!?



「障壁? それは本当かレイン」

「ええ殿下。最初は従者に靴越しといえど触れたくないからなのだろうと心中で軽蔑しておりましたが、殿下とエクレア様の会話を聞いて考えが変わりました。おそらくはわざと傍若無人な振る舞いを見せる事によって、従者の失態を上塗りして忘れてもらおうとしたのでないか、と。敢えて周囲に悪ぶって見せる事によって」

「悪ぶるって……? なぜそのような事を……?」

「王族の前で無礼を働いた従者を処罰されないためにですよ殿下。公爵家のような身分の高い者ならまだしも、それ以下の貴族に仕えている従者が、事故とはいえ王族に無礼な真似をしたら、場合によっては厳罰な処分が下される可能性がございます。エクレア様はそれを危惧なされたのでしょう」

「……そうか。だからエクレア嬢は大切な従者を守ろうと、あんな偽悪的な言動を……」

 ちゃうねん。

 そんなつまりは一切ないねん。



 だからそんな感動した瞳で見んといてくださいお願いします!



「なんという深い従者愛なんだ! 一歩違えば家名に傷が付くかもしれないというにも関わらず、あんな大胆な真似が迷わずできるなんて! 僕は今、猛烈に感動している! まさか僕の婚約者がここまで心優しいステキな淑女だったとは思いもしなかったよ!!」

 興奮した様子で力強く手を握ってくるクロードに、エクレアはただ強張った笑みを浮かべる。なんだかもう、どう説明したところで誤解だとわかってくれるような雰囲気ではなかった。

 どうしてこうなったとムネチカに目線を向けるも、なんでかこうなったとばかりに肩を竦められた。

 なんでやねん。お前からもなんか釈明せんかい。

 などと当惑するエクレアをよそに、クロードの熱弁は続く。

「実を言うと、君との婚約は正直乗り気じゃなかったんだ。ほとんど面識もない上、想いも寄せていない相手との婚約なんて本当にいいのだろうかとね。

 ただ僕も王族のひとりだ。国の未来を考えるなら時には自分の意志を曲げる必要だってある。今回の婚約もそうやって諦めていたんだ。陛下や政官達が決めた事なら仕方ないと。内心嫌々ながら。

 けど、今回の件で考えを改めたよ。僕は君に心底魅了されてしまった。だから僕の口から正式に言わせてほしい」

 そう言って。

 クロードは床に片膝を付いたあと、エクレアの手の甲にキスをしてから熱量を込めて告げた。



「エクレア嬢……いや、エクレア。僕と結婚してほしい」



 ☆★☆★☆★



「ムネチカああああああああああああああっ!!」

「いや、だから私にキレられましても」

 あれから場所は変わり、校舎麗にある庭園スペースにいた。

 緑が青々とした草木に、色鮮やかな花壇。そんな癒しに溢れた空間の中で、エクレアは今日一番の声を張って荒ぶっていた。

「なんでああなるのよ!? 毒針からクロード様を助けたのは単なる偶然だし、ムネチカを庇ったわけでもないのに、なんでか周りから必死に従者を守ろうとした立派な淑女扱いされちゃうし!」

「それだけだと美談に聞こえるから不思議ですよね。本人にそのつもりは一切ないのに」

「まったくよ! どう考えても王子の前で恥を掻かされた従者に対して、非情に手を上げる悪役令嬢っていう場面のはずなのに! それがなんでああなるの!? 嫌われようとしてるのに逆に好かれるってなに!? 喜劇なのこれ!?」

「これが喜劇だとしたら、お嬢様はコメディアンという事になっちゃいますね。どうせなら、このまま芸人を目指されてみては? お嬢様ならきっと多くの人の笑いを取る事ができますよ」

「いらんわ! わたしがほしいのはロディとの幸せな結婚生活だけよ!」

 だというのに、なんなのだこの状況は。途中までは完璧に進んでいた計画が、まるで神の見えざる手によって筋書きを変えられたかのごとく結末が望まぬ形でオチてしまう。もはや運命という操り糸に弄ばれている気しかしない。

「もおおおおおおおおおおお! クロード様の方から婚約破棄してもらう計画だったのにぃぃぃぃぃぃ! むしろ正式に求婚されちゃうってどういう事なのよぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」

「お嬢様、あんまり大声を上げると誰かに聞かれるかもしれないので、そろそろやめた方がいいですよ。今のところ、周りに私達以外の人は見かけませんけれども」

「これが叫ばずにおれるかい! ていうか逆に聞かせてやりたいくらいよ! わたしがどれだけの覚悟でこの計画を実行したのかをね!」

「そんな事したら確実にエドワード様の耳に入って、どこかの遠い町の別荘で幽閉されかねませんよ? まあそうなったら私はもっとお賃金のいい所に再就職させてもらいますけどね。給料下がりそうですし」

「あんたほんと薄情な奴ね! ちょっとは主人なるわたしの身の上を心配しなさいよ!」

「やれやれ、見くびってもらっては困りますよ。お嬢様の命と自分の命のどっちを選ぶかと訊かれたら、迷いなく『金!!』と答える女ですよ私はっ!!」

「いや、そこはせめて自分の命を選びなさいよ!?」

 さも見くびってほしいと言わんばかりの言動やないかい。

「はあ〜。なんかもう色々と疲れたわ……」

 言いつつ、エクレアは校舎の壁に手を付いて項垂れた。

「で、これからどうされるんです?」

「どうしたもんかしらね……こうも作戦が失敗に終わっちゃうなんて思いもしなかったし……」

「いっそ、今回を機にやめられては? 前にも言いましたが、王子との婚約なんて普通は誰もが羨むような事ですよ?」

「そんな簡単に割り切れるわけないじゃない」

 かと言って、他に良い作戦があるかと言われたら、全然ないけれども。

 それでも、まだ諦めたくないという気持ちが残っている。

 親に決められた道を唯々諾々と進むのではなく、自分だけにしかない本当の幸せを掴みたいと心の中で燻っているのだ。

 ロディと結ばれた、そんな輝きに満ちた未来を。



 ──ロディ。ねぇロディ。わたし、どうしたらいいと思う? ロディならどうしてた?



 過去の幻想に縋るように、胸中でロディに呼びかける。

 どれだけ問いかけたところで、記憶の中のロディが答えてくれるわけもないのに──。

 と、そんな時だった。



 唐突に吹いた一陣の風が、エクレアのリボンを攫ったのは。



「あっ」

 飛ばされてしまったリボンを見て、とっさにリボンを掴もうと手を伸ばす。

 が、リボンはそのまま風に乗って、あっという間に庭園の中へ飛ばされていく。

「ちょっと! 待って!」

 慌ててリボンを追いかける。別段そこまで高価というわけでも思い入れがあるわけでもないリボンを取り戻そうと、一心不乱に駆けて。

 正直、自分でも何をしていているんだろうなという自嘲的な笑みすら込み上げてくるものがあったが、それでも追いかけるのをやめようとは思わなかった。

 それは、過去にも一度あった事で。

 あれはエクレアがまだ幼かった頃、エドワードの厳しい教育と管理に嫌気が差して、ある日ムネチカに頼み込んで平民の変装をして町中に出た際に、目深に被っていたはずの帽子が風に飛ばされて。

 そうだ。その時に確か平民の少年に──



「これ、君の?」



 庭園の端──まだ何も植え付けられていない小さな花壇スペースで、癖っ毛の茶葉を無造作に伸ばした同年代くらいの少年が、作業着姿で立っていた。

 先ほどまで土をいじっていたのか、少し汚れた手でエクレアのリボンを掴みながら。

「さっき僕のところまで風に乗って飛ばされてきたんやけども、君のリボンで合っとる?」

 訛りのある喋り方。十人並みの容姿ではあるけれども、不思議と安心感のある朗らかな笑顔。

 ああ──昔と何も変わらない。

 この学園に来てからは遠目でしか見た事ないけど、それでもわかる。心のトキメキが証明している。



 このいかにも平々凡々な少年が、自分が恋してやまないロディであるという事を──



「あれ? 違うてた? じゃあ他の人のやろか……」

 うっかり見惚れていたのを否定と捉えられてしまったのか、首を傾げるロディに慌てて「ううん!」と手を伸ばした。

「わたしのよ。取ってくれてありがとう」

 久しぶりに直接会う想い人に、心の中のドキドキを悟られまいと必死に平静を装いながら笑みを返す。

「ええよ。たまたま風に飛ばされてきたのを取っただけやから。……って、もしかして貴族の方?」

 それまで同じ平民と思っていたのか、後ろからエクレアを追いかけてきた従者のムネチカを見て、ロディはあわあわと挙動を変えた。

「すんません! 貴族の方とは知らず、馴れ馴れしい態度を取ってしまって……。よく考えたら僕みたいな平民よりも貴族の方の方が多いのに……」

「いえ、別に気にしてないから……」

「あっ! それにこんな土まみれの手でリボンを掴んでしもうた! 弁償した方がええんやろか……」

「ほ、ほんと気にしなくていいから……」

 ロディってこんなに腰が低い方だったかしら? と疑問に思いつつもリボンを受け取る。



 ──ていうか、わたしがエルって気付いていないみたいね。なんだかホッとしたような、ちょっぴり残念なような……。



 実はエルが侯爵家の令嬢だったと知れたら、過去の事まで謝罪してきそうなので、気付かれない方が断然マシではあるけれども。

「ほんま、すんませんでした……。貴族の方の代物ってわかってたら、もっと気を付けてたのに……」

「何度も言っているけれど、気にする必要なんて全然ないわよ。むしろ感謝しているくらいなんだから」

「ほ、ほんまですか?」

「ええ。それと貴族だからってそこまで腰を低くする必要もないわよ。他の人はわからないけれど、わたしは別に気にしないから」

「いや、そういうわけにも。昔から親にも貴族の方と接する時はきちんと身分を弁えなさいって言われとるんで……」



 ──そっか。昔、わたしといた時はたまたま貴族と会わなかっただけで、本来はこういう態度を取るのが自然になっているのね……。



 それが決して越えられない壁を見せつけられたようで、なんだか少し物悲しい。

「お嬢様。よければそのリボン、私が預かっておきましょうか? 一応従者として、汚れたリボンをいつまでも持たせるわけにもいかないので」

 と、それまで静かにエクレアの背後に立っていたムネチカが手を伸ばしてきた。

 一応ってなんじゃいと心中で突っ込みつつ、「そうね」と後ろにいるムネチカに手渡そうとして、エクレアはハッと閃いた。

「ムネチカ、ちょっと顔貸して」

「トイチでいいのなら」

「利子付けんな! いいから貸しなさい!」

 ロディに聞こえないよう小声でやり取りしつつ、エクレアはムネチカに顔を寄せた。

「あんた、ちょっといい感じに盛り上げなさいよ」

「わたしとロディとの会話に合いの手を入れるとか、なんかそういう感じのやつよ!」

「えぇ〜? 七面倒くせぇ〜」

「文句言うんじゃない! あんた、仮にもわたしの従者でしょ?」

「しょうがないですねぇ」

 と、渋々ながらも承諾してくれたムネチカに「頼んだわよ!」と念押ししたあと、エクレアはロディと向き直った。

「ごめんなさい。待たせたわね」

「いえ。けど急にどうされたんです?」

「なんでもないわ。ちょっとした事ですから」

 それよりも、とエクレアはロディの横にある花壇を見やる。

「あなたは、ここで何をしていたの?」

「ああ、雑草を取ってたんです。僕、園芸部に入っとるんですけど、ここの野晒し状態だった花壇を使わせてもらえる事になって」

「へえ。いいわね。それで何を植え」「ラッセーラーラッセーラー!」

 勢いよく後ろを振り返った。

 そこには何事もなかったかのようにスンと澄ました顔をしたムネチカがいた。

 無言で睨み付けつつ、コホンと空気を変えるようにわざとらしく咳払いしたあと、エクレアは再度ロディの方を向いた。

「で、何を植える予定なのかしら?」

「特にこれというのは。でも色々な花を植えられらええなと思うとります」

「色々な花かあ。どんな花が咲くのか、とても楽しみね」

「ありがとうございます。たぶん来月くらいには何かしらの花が見れると思います」

「そっかー。ら」「ッセーラーラッセーラー! ラッセーラッセーラッセーラー!!」

 瞬時に会話を切り上げた。

 そして荒々しくムネチカに近付いて、強引に胸倉を掴んだ。

「おいムネチカてめぇこのやろう」

「あらあらあらお嬢様。言葉遣いがお下品でございますよ?」

「やかましゃあ! 一体誰のせいだと思ってんのよ! だいたい、今の歌みたいなやつはなんなの!?」

「私の国で古くからある民謡ですが。おかげで盛り上がったでしょう?」

「どこが!? 盛り上がるどころか違和感盛り沢山になってるわよ!」

 民謡そのものは場を盛り上げるものなのだろうが、完全に使いどころを間違えているとしか言いようがない。



「あはっ」



 と。

 依然としてムネチカに掴みかかりながら憤慨していると、ふとした拍子に漏れ出てしまったような笑声が背中から聞こえてきた。

 振り返ると、そこには可笑しそうに破顔しているロディがいた。さっきまで堅い表情だったのは嘘のように。

「あ。なんかすんません。いきなりわろうてしもうて……」

「う、ううん。こっちこそ恥ずかしい姿を見せてしまったわね……」

「恥ずかしい、ですか? 僕にはすごく仲良さそうに見えましたけど」

「「仲良いかあ〜?」」

 意図せずムネチカとハモってしまった。非常に不本意ながら。

「あははっ。やっぱ、めっちゃ仲良いやないですか」

「そ、そうかしら……」

 思わず頬を掻くエクレア。

 なんか想定とは違ってしまったが、ロディの笑顔が見られたわけだし、まあ結果オーライという事にしとおこう。

「ま、まあ、ある意味仲が良いとも言えるかもしれないわね。ほんと、ある意味でだけれど」

「ええ事やと思いますよ。ていうか正直驚きました。主人と従者の関係って、もっと厳格なものかと思うてたんで」

「わ、わたしとこいつは特殊なケースだから! 絶対参考にしたらダメよ!?」

 はい、とまた可笑しそうに口許を綻ばせるロディ。なんか完全に変な日と思われてしまった感がある反応だった。

「くうっ。わたしの清廉なイメージが音を立てて崩れていく感じがするわ……」

「いやでも、おかげで親しみやすくなったって言いますか、前より話しやすくはなりましたよ? なんか昔の幼馴染を思い出すっていうか」

 その言葉にエクレアは「えっ」と目を丸くした。



 ──もしかしてまだ覚えていてくれているの? 私が『エル』だった時の事を……。



 体の奥から湧き上がってくる喜びに、その場で飛び跳ねたくなる気分を抑えつつ、エクレアはおずおずと訊ねる。

「……その幼馴染って、どんな子だったの?」

「明るい子でしたよ。たまたま町中で会った女の子なんですけど、いつも元気いっぱいで、表情もコロコロと変わる子で……」

「その子が、わたしに似てるの?」

「表情がコロコロ変わるところはよぉ似てますね。あの子も笑ったり怒ったりと、ほんま百面相って感じでした」

「そう……」

 嬉しい。

 ちゃんと覚えていてくれた。『エル』の事を。幼い頃によく一緒に遊んでいた時の事を。

 それが言葉にならないくらい嬉しかった。

「まあ、今はその幼馴染と全然会えてないんですけどね。突然その子と会えんようになってもうて、それ以来ずっと離れ離れって感じです」

 そっか、とエクレアは苦笑混じりに相槌を打った。

 会えなくなったしまったのは、エクレアがお嬢様学校の初等部に入って、そこから出入りできないくらい缶詰状態にされたからだ。

 などと釈明したかったが、ぐっと拳を握ってなんとか堪えた。

 今ここですべてを明かしたら、何もかもが終わってしまう。

 ロディは優しいから、きっとエクレアがやろうとしている事を知れば必ず止めてくる。それどころか王族との婚約なんてステキじゃないかと祝福してくれるに違いない。

 けど、それではダメなのだ。



 ロディと一緒になれない未来なんて考えられないから。

 ロディだけが、エクレアにとっての希望だから。



 ゆえに、今は言えない。

 言うわけにはいかない。

 すごく胸は苦しいけれど。

「そう……。とても大事な幼馴染だったのね……」

「はい。またどこかで会えたらと思うてはいるんですけどね。そのための準備もしてるんで」

「準備? それってどんな……?」

「大した事やあらへんのですけど、花を植えたいと思うとるんです。僕がいた町の秘密の場所に」

 秘密の場所という言葉に、エクレアは幼少期にロディと花畑を見に行った時の事を思い出した。

「そこ、昔は花でいっぱいやったんですけど、数年前に起きた盗賊団と警備団との衝突で焼け野原になってしもうて……」

「焼け野原……」

 ショックだった。あの時ロディと見た花畑が、すでに無くなってしまっていたなんて……。

「今もその影響のせいなんか、雑草すら生えんようになってしもうたんです。でも僕の力なら……僕が持つ土魔法の力なら、なんとかなるんやないかと思うて」

「土魔法……。あなた、土魔法が使えるの?」

「はい。言うても大した事はできへんのですけど。できる事と言えば、土の量を増やしたりとか土中にある植物をほんのちょっとだけ成長させたりとか、その程度なんやけども」

「それでも十分すごいじゃない。土魔法って言えば、たいていは土で壁を作ったり土嚢で攻撃したりとかなのに」

「すごいかどうかはわからんけど、珍しいとはよぉ言われてました。だから平民でも魔法さえ使えれば入れる学園があるって聞いて、ここに入学したんです。自分の土魔法を極めたくて」

 言いながら、ロディは腰を屈めてそばの花壇から土を掬い取った。

「そんで、いつか故郷の花畑を元に戻したいんです。あの子と約束したから」

 話している中に、ロディが掬い取ったから土が不意に盛り上がった。おそらく土魔法をかけたのだろう。

 そして、あらかじめその部分に種が植えてあったのか、そこから小さく芽のようなものが出てきた。

 その小さな芽をエクレアの方へと掲げながら、ロディは弾けんばかりの笑顔を向けて言った。



「いつか離れ離れになる時が来たとしても、絶対またこの花畑を一緒に見に行こうって」



 風が吹く。小さい頃、ロディと一緒に見に行った花畑の時のような優しい風が。

 そんな穏やかな風でほのかに揺れる小さな芽を見つめながら、エクレアは多幸感に包まれていた。

 ちゃんと覚えていてくれていた。

 小さい頃に交わした約束を、今もずっと。

 それどころか、その約束を果たそうとこの学園まで来て。



 ──ああもう、しゅきぃ! しゅきしゅき大しゅきよロディ……!



「おーい、ロディ。先生が探してたぞー」

 と、エクレアが胸キュンしていた最中、遠くからロディを呼ぶ男子の声が聞こえてきた。きっと同じ平民の級友とかだろう。

「なんやろ? 忘れ物でもしたんかな?」

 なんて首を傾げつつ、ロディは手にしていた土を花壇にそっと戻して、ゆっくり立ち上がった。

「じゃ、僕はこれで。また来月にでも来てみてください。きっと花が咲いてると思うんで」

「あ、待って──!」

 踵を返して去ろうとしていたロディを慌てて呼び止める。

「はい。なんですか?」

 ロディが笑顔で振り返る。昔と何も変わらない人懐っこい表情で。

 引き止めたのは、単にもっと話したかっただけ。でもわかっている。いつまでも話してはいられない。ロディに迷惑をかけてしまうから。

 だから──



「あなたの名前を……最後にあなたの名前を教えてくれない?」



 すでに知っている名を訊ねる。苦し紛れに。少しでも一緒にいたいがために。

「ああ、そういえばまだ名乗ってませんでしたね。僕はロディです。平民クラスに通ってる一年です。あなたは?」

「わたしは……」

 胸に手を添える。何年か越しにようやく自分の本名を告げられる事に感じ入りながら。



「わたしはエクレア。エクレア・ヴァーミリアン。ヴァーミリアン侯爵家の娘で、この学園の貴族クラスに通っている一年生よ」



「エクレア様ですか。良い名前ですね」

「ありがとう。あなたもステキな名前よ」

「ありがとうございます。それじゃ、またいつかどこかで!」

 そう言って。

 ロディは最後まで手を振り続けながら、やがて校舎の方へと足早に去っていった。

 そんなロディの後ろ姿を、見えなくなった今もエクレアはずっと見つめる。先ほどまでの光景を忘れず瞳に焼き付けるように。



 ──ロディ、また会いましょう。その時はわたしが『エル』だって事をなんの気負いもなく言える事を願って。



「いやー、相変わらずの好青年でしたねー」

 と、珍しく空気を読んで途中から無言に徹していたムネチカがエクレアの横に並んで声をかけてきた。

「そうね。昔と何も変わらなかったわ。久しぶりに子供の頃に戻ったみたい」

「お嬢様、終始頬が緩んでましたからねぇ」

「当たり前よ。たまたまとは言え、好きな人と数年ぶりに話せたのよ? 頬も緩むわよ。その代わり、決意は固まったけれどね」

 決意とは? と訊き返すムネチカに、エクレアは誓いを立てるように頭上高く拳を上げた。

「んなもん、ロディとの結婚に決まってるじゃない。こうなったら何がなんでも絶対クロード様との婚約を解消してみせるわ!」

 それこそどんな手を使ってでも──たとえ稀代の悪役令嬢になろうとも、必ず成し遂げてみせる。



 幼い頃に約束したあの花畑を、ロディと一緒に見るためにも!!



「上手くといいですねー。ま、二度ある事は三度あるとも言いますが」

「ちょっと! 不吉な事言わないでよ!?」

 その前にまず、このふざけた従者を先になんとかしなければならないかもと思うエクレアなのだった。




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