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煙草の煙に誘われて。

作者: 梅屋さくら

1. 事故

 タイヤの護謨ごむがアスファルトと擦れる奇妙な音が二つのアパートの間で反響し、咄嗟に操作されたタイヤは砂粒をあたりに撒き散らす。

 その砂粒が当たって痛いと感じるよりも早く、山崎やまさきみやこは軽トラックの激突によって命を落とした。

 そのとき彼女の恋人であった倉木くらきあきは目に入った砂粒を流し出そうと目を固く閉じていた。彼が目を開けた瞬間に見たものはまるで悪夢。血にまみれた顔、僅かにも動かぬ身体、去年のクリスマスに贈った安物の指輪についた泥。それらに対して容赦なく降り注ぐ日光はもはや残酷と形容したほうが正しかった。

 眉に力を入れるもののまったく怖くない怒った顔、水晶のように綺麗な涙を零す泣き顔、目を弓状にした可愛らしい笑顔……それらすべての表情が脳内を巡る。その合間に血を流し生気を失った顔がフラッシュバックして、秋はひどい眩暈に襲われた。

 これはまだ寒さの残る、一月二十三日の出来事であった。


2. 出会い

 炎天下を歩く秋の手にはコンビニエンスストアのビニール袋が提げられていた。環境への配慮としてビニール袋有料化が導入されたものの、秋は未だそれに慣れず、こうして度々ビニール袋を買う羽目になっている。

 袋の中にはケーキ、ポテトチップス、チョコレートなどの菓子や、ビール、缶コーヒー、炭酸飲料などの飲み物が大量に入っている。今日、八月三十日は京の誕生日なのだ。ビールってすごく苦いから嫌い。そう言っていた彼女のために甘いジュースを多めに買った。とは言っても彼女が実際にこのジュースを飲み下すことはない。活発な彼女のたった一瞬を切り取った写真の前にそっと置く、それだけ。

 五年前に恋人を轢いた軽トラックの運転手は、飲酒運転、居眠り運転、轢き逃げの三コンボで逮捕された。コンボだなんてゲームのように形容しているが、こんな風に言わなければ秋の口からは汚い言葉が止めどなく溢れてしまう。

 京が好きだった菓子を眺めているうちに無意識的に唇を強く噛んでいた。そして彼の脚を掴んだ手がひとつ。

「パパ?」

 細い髪の毛をツインテールに束ねた小さな子供だった。その手は秋のパンツを握りしめて離さないが、舌足らずで、そして叫ぶように発された言葉に思い当たる節はない。

 しゃがみ込んで目線を合わせると子供は嬉しそうに笑って腕をばたつかせた。動きに合わせてシャカシャカと子供の腕あたりで何かが鳴り、そちらに視線をやる。

 そこにはリストバンドのようなもので括り付けられたカプセルトイのカプセルがあった。それを取って開けてみると、中には小さく折り畳まれた紙が一枚。不審に思いつつも丁寧に広げると、堅めのフォントで印字された『出生届』の文字が目に飛び込んできた。パステルカラーの花が紙を縁取っている。

「倉木、みやこ……?」

 思わず口に出していたその名前に、彼女は「あいっ!」と元気に返事した。

 しかし秋の目をさらに釘付けにしたのは、彼女の母の名前だった。

「みやこ……」

 再び名前を呼ばれて、都は何も疑うことなく「あいっ!」と元気に返事した。ただ彼が呼んだのは、都でなく京である。

 出生届に京の名が、都の母として載っていたのだ。言うまでもなく、父は秋。

 都の誕生日は一年半前の十一月十七日。京はもうこの世にいないはずだった。時のねじれを感じ、ざわざわと全身に鳥肌が立つ。

 そのときその肌を突然雨が打った。夕立だ。夏の天気は変わりやすい。そして都が泣き始めた。騒がしい中で秋は、このままでは都が風邪を引いてしまう、その後のことは家で考えるとして連れて帰ろう、と決心した。

 抱きかかえてみると彼女は案外重かった。早く帰ろう、家はすぐそこだ。

 点滅していた青信号が、横断歩道を渡りきった瞬間に赤色に変わった。こういう小さな幸運の積み重ねが、大学三年生で止まった時をゆっくり溶かしていく。

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