非情階段
入学式には昔から、晴れやかな陽気に春風が桜の花びらを攫う、というのがお決まりだと思うが今日はあいにくの雨である。それ故か新たなクラスメート達の顔も浮かばない。特に私が目をやった時に。気付いていたが、気付いていないように振舞った。中学とは、何か一線を画するものがあって、それが作用して、自分の身辺すらリセットされると錯覚していたのはいつからか。例えそうならずとも、自分の努力次第、話し方、表情、歩き方に至るまで――――――それらを駆使して変えられると思い込んでいたのはいつからか。諦める事ばかり上手になった。
今日、人生に一度の、高校の入学式において、失敗を認めるのは苦ではなかった。もう校舎には、同級生など1人も残ってはいないだろう。今後の高校生活において重要になるポイントを八割方網羅できた。上出来だ。これ以上残っていては、上級生に見つかって、入学初日から部活の見学に回っていたアクティブな奴だと勘違いされるかもしれない。急ぎ足で人気のない階段を登る。自分の足音が、心地良い程にこだまする。雨の不規則なリズムと相まって、もっと強く踏み込んでみたくなる。雨雲に遮られながら、それでも校舎の大窓に届く、光とも言えない灰色の光を脳内で再現する。実に神秘的だ。雨の日はここに来よう。そして最後の階段を踏む。本校舎4階の隅。最上階だと思われたそのフロアに、もう一度だけ階段があるのを、入学前に校舎図で確認していた。胸よりも低い木製の、しかも見た目より軽い柵が設置されていた。ホコリを被っていて人が最近立入った形跡はない。この学校の生徒の生真面目さが感じられる。こんなもの、と両手で柵を引っ張り、通れる程度の隙間を作る。手のホコリをはたいて、誰も周囲に居ないのを確認してからようやく隠し階段に足を乗せた。この先にあるのは屋上入口だ。屋上なんてありきたりで人も多い、そう思ったが、この階段の具合や、人が全く居ないのを見るに、屋上は解放されていないのだろう。つまりこの階段はお役御免となり、そこを有効活用してやろうと言うのだ。階段の踊り場には、足の踏み場はあるものの、部活動や文化祭で使ったのであろう看板や大道具が捨て置かれていた。ここで弁当を食べるのも悪くないかもしれない。
ふと、薄暗い空間に一筋の光明が差した。驚いて振り返ると先刻まで重く閉じていたはずの屋上扉があっけなく解放されていた。人は神秘を求めるようで、不思議なその扉の先に吸い込まれるように引き寄せられていた。そっと手をかけ覗いてみると、人影があった。一瞬でその影に異様さを感じたのは、なびいているその長髪が白金色だったからか、屋上の鉄柵の向こうに立っていたからか。さては、と、勘を巡らせ、こんな時に限って冴え渡る勘は、ひとつの推測を告げる。それが瞬時に分かったのは自らの背景があったからだ。考え込んで、思い詰める上での禁忌である。私にそれを止める権利も資格も義理もない。だが、おそらくは遺伝子に何か刻まれてるのであろう。無意識に床を蹴り上げ駆け寄っていた。人影は一寸も動かない。しかしその何かが動力となり足を止めることも叶わなかった。そして手の届く距離に入った。鉄柵越しに見る後ろ姿は微動だにせず、杞憂だったぞ、と教えてくれている様だった。突然背後に立っていれば気味が悪いだろう。走っていた時には全く気にしなかった足音を極限まで小さくして数歩、薄暗い世界に戻ろうとした時、風が吹き抜けた。その風は、私に見向きもせず、その後ろ姿に突進したように思えた。嫌な予感が的中した。振り返る頃には、後ろ姿は無かった。あの白金色の長髪が、視界の端に映っていた。背筋が凍る、とはこの事かと未体験の寒気が全身を覆う。
何分程経っただろうか。その場にへたり込んで、もう見えない後ろ姿を眺めていた。それが誰かも分からない、名も知らない、その決断の経緯も知らない。だが、なぜか、涙が溢れ返った。感情なんて理解出来るとは思っていないが、訳もわからず流れる涙を必死に拭った。しかし同時に、得体の知れない違和感が胸に残っていた。音が、聞こえなかった。考えたくもないが、必然的にそれは聞こえるはずだ。下はコンクリートである。確認する勇気もなかった。
その場で声を殺しながら泣き続けていた。無情にも、小一時間経つと涙は収まり、嗚咽と目尻の腫れだけが残った。直後は立ち上がる事も出来なかったが、やっと足に力が入った。そしてフラフラと神秘と崇めた扉を力なく閉めて、隠し階段を降りようとした。その時、信じがたくも煌びやかに、それが事実であることを顕示するように、夕暮れの廊下で、白金色の長髪が斜陽を乱反射していた。
コメントくれると泣いて喜びます。不定期連載です。