愛人
「どうしたの? 何か仕事で困ったことあった?」
陽太は冷夏の席に歩いていく。
「はい・・・。ここでは、あまり話せるお話ではないので、少し歩きませんか?」
陽太はカフェで話すとばかり思っていたので、予想外の事態に戸惑う。
そして冷夏は会計を済ませ、2人で街を歩き始める。
「ごめんなさい。深夜勤務の後にお呼びしてしまって」
冷夏は申し訳なさそうに言う。
「気にしなくていいよ。明日は休日だし」
「で、話って何だろう?」
陽太は歩きながら聞く。
「ごめんなさい。こういった人の多い場所では話せるお話じゃないので」
・・・人けのない場所に行くつもりなのか?
陽太は不安になる。
大丈夫だよな・・・間違いを起こす気はないし。さすがに、密室に入ろうとか言われたら断ろう。
「どこに行くの?」
陽太は聞いてみる。
「私の家です」
「いや、家はちょっと行けないよ。嫁さんに誤解されるようなことは避けたいから」
陽太は慌てて言う。
「そうですか・・・じゃあ、人が少ない通りでお話しします」
そして、冷夏と陽太は路地に入っていく。
陽太の中で、万が一ではなく、冷夏の話というのが、告白の類のようなものであるという確信が強まっていく。
「もう、ここでいいんじゃないのかな? 人、周りにいないし」
陽太は路地の奥へさらに進もうとする冷夏に声をかける。
「・・・そうですね」
冷夏は立ち止まる。
冷夏は振り向き、陽太を見つめる。
「波木さん・・・」
「うん?」
陽太は話を聞こうとする。
「私、波木さんのことが好きです。私と付き合ってください」
冷夏は陽太を見つめて言う。
「え? 俺が結婚してるって知ってるよね?」
陽太はドキドキしながら答える。
「はい、知ってます。でも陽太さんが好きです。奥さんと別れてください」
「ごめん・・・俺は妻と娘を愛してるから、そんなことはできないよ」
陽太はしどろもどろと答える。
「じゃあ、愛人でいいです」
「は?・・・いや、愛人って・・・」
陽太は予想外の言葉に反応が遅れる。
「二番目でもいいので、私を愛してください」
冷夏は陽太に抱き着く。
「いや、困るよ。妻と娘を裏切ることはできないから」
陽太は心臓が高鳴ったまま、冷夏を引き離そうとする。
冷夏は強く抱きしめ、離れようとしない。
「もう、この気持ち、抑えることができないんです」
「キスしてください」
冷夏は陽太に抱き着いたまま、陽太の顔に自分の唇を近づける。
「ごめん。本当に無理だ」
陽太は顔を背けて言う。
「・・・・・」
二人は沈黙する。
冷夏は陽太を抱きしめていた手をほどき、うつむく。
「私じゃ・・・だめですか?」
冷夏はつぶやく。
「だめとかじゃない! 和村さんは魅力的な女性だよ。でも、俺には妻と娘がいて、2人を裏切りたくない」
陽太は必死に言う。
「・・・そうですか。お時間とらせてしまってごめんなさい。もう、帰っていただいて大丈夫です」
冷夏は陽太に背を向ける。
でも、こんな人けのない場所で女性を一人にするなんて・・・。
「行こう」
陽太は冷夏に近づく。
「一人にしてください」
「路地からは出よう、危ないよ」
「これ以上、みじめな思いをさせないでください」
肩を震わせて冷夏は静かに言う。
陽太は冷夏の後ろ姿を見つめる。
「ごめん」
陽太はそう言い、路地を抜けるために歩いていく。
陽太は苦渋の表情を浮かべる。
告白されたのは初めてだ。だから告白を断るのも初めてだ。どうにもできないやるせない気持ちを陽太は味わっていた。
冷夏は陽太の足音が遠ざかり聴こえなくなると、不敵な笑みを浮かべていた。
ええ。・・・想定内。・・・これは布石。
これで落ちるようでは冷めていたかもしれないわ。
次が本番。
次は・・・逃れられない!!
冷夏は邪悪な微笑みを浮かべる。
仁は拠点であるマンションの室内で、冷夏が玄関のドアを開く音を聴く。
「どうだった? 愛人宣言計画」
仁は笑って聞く。
「予想通りよ。これで第一段階はクリア確実ね」
冷夏は笑む。
「そっか。じゃあ、俺も次で実行しないとな」
その後、冷夏は老人ホームで陽太とシフトが一緒になる日は、あからさまに精神的ダメージを受けているような様子で振る舞う。
それでも、陽太を時折見つめたりして、自分の視線に気づかせる。
愛人宣言計画が実行された3日後の土曜日。
華は雛と公園で過ごしていた。陽太は仕事である。
「おはようございます」と前方から仁の声がして華と雛は顔を向ける。
鞄と透明な袋を持って、こちらに向かってくる仁。
「あ! ケーキのお兄ちゃん!」
雛は仁に駆け寄る。
・・・もう雛は七海さんの常連客だ。
華は雛を見て苦笑する。
そして、3人はケーキを食べ、雛は砂場に仁を誘うが、「仕事が残ってるから、ちょっとだけ待っててね」と仁は笑顔で言い、華と仁は2人で座って、雛は砂場で遊ぶ。
仁はノートパソコンに映る、難しそうな画面を見ながら操作している。
「旦那さんは幸せ者ですね」
仁はつぶやく。
「え?」
華は仁を見る。
「華さんと雛ちゃんがいる家庭だなんて、もう楽園じゃないですか」
仁は笑う。
「いくらお金があっても、そういうものは手に入れようとして、手に入れられるものでもないからなー」
仁は遠い目をする。
「仁さんはきっと素敵な人と出会えますよ」
華は笑う。
「華さんみたいな人と結婚したいな。知り合いにいません? 華さんみたいな人」
仁は華を見つめる。
「え? 私?」
華は驚く。
「お金はもう十分いらないほど稼いでるんで、あとは華さんみたいな人と結婚して、仕事を辞めて幸せになりたいです」
仁は華を真剣に見つめ続ける。
「私みたいな人って・・・仁さんならもっと素敵な女性に出会えますよ」
華はぎこちなく笑う。
「俺は華さんのような女性と家庭を築きたいんだけどなー」
仁は笑む。
「あはは、えー?」
華は苦笑いする。
何?・・・口説かれてる感じがするのは気のせい?
華は動揺する。
「雛ちゃんと遊んできますね」
仁は笑顔でそう言い、雛の元へ歩いていく。
華は不思議に思いながら仁と雛を見ていた。
冷夏が勤務し始めて、2ヶ月ほど経った夜。
陽太はビルの屋上に来ていた。
ビルの屋上の一番奥に冷夏が立っている。
「和村さん?」
陽太は驚く。
「波木さん・・・」
冷夏はそう言い、強風でも吹けばビルから落下してしまう場所に立っている。
堀峰が一身上の都合で退職することになり、送別会をおこなったあと、陽太は堀峰にメールで屋上に呼び出されて来たのだった。
「堀峰さんを利用しちゃいました。彼には悪いことしたなー」
冷夏は茶目っ気に言う。
「・・・どうしたんですか?」
陽太は戸惑っている。
「私、どうしても波木さんのことが好きで忘れられなくて、でも一緒になることができなくて、苦しくって、死のうか迷ってたんです」
陽太は固まる。
「早まっちゃだめだ!」
陽太は駆け寄ろうとする。
「来たら、飛び降ります!」
即座に冷夏は右手を前に出す。
陽太は立ち止まる。
「私の自殺を止める方法は1つ。私を半年間あなたの愛人にしてください」
冷夏は陽太を見つめて言う。




