影よりの守護者
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
先輩は影踏み鬼をしたことありますか? まあ、ありますよねえ。鬼ごっこ系統では定番の遊びですもの。歴史自体もかなり古く、明治時代の半ばあたりまで、月が出ている夜に催されることが多かったらしいですよ。
私たちのところでは、影が長くなる夕方ごろに行うことがほとんどでした。陽が高くて影が短いと、鬼の子にかかる負担が大きすぎましてね。逃げるみんなも要領を得ていますから、学校の休み時間内で一度も鬼が変わらない、ということもありましたねえ。
影踏み鬼といえば、他のものの影の中に隠れることができる、というルールも広く知られていると思います。もちろん、ずっと留まられたら遊びになりませんから、制限が設けられますよね。でも、ひょっとしたらこの制約、遊びを成り立たせる以外にも他の目的があるんじゃないかと、最近、思うようになりまして。
そのきっかけとなった話、聞いてみませんか?
私の母が小さい頃にも、影踏み鬼が流行していましてね。晴れた日はしょっちゅう開催していたらしいです。母はそれなりに鬼ごっこが得意だったらしく、ほとんど鬼になることはなかったとのこと。影の伸びる方向へ逃げて鬼が踏みにくくするのは常套手段でしたし、逃げ場所の確保もうまい。
その日も、終了2分前になって一度も捕まることなく、近くの大きな樹の影に逃げ込んだそうです。場所や人数が限られていることもあって、鬼の数は常にひとりの交代制。そして今、鬼になっている子は、時間切れで影から出てくる子を待ち伏せることをよしとせず、すぐに他の参加者を追いかけることに、目移りしてしまう子でした。
影の中にいられるのは10秒間。実施する場所は校庭の四分の一のスペースでしたから、じっと留まれば参加者の様子が分かります。みんながどのあたりにいるのか、限られた時間で眺めていた母ですが、ちょっと妙です。
友達の女の子のひとりの姿が見えません。追われている子や、物の影に逃げ込んだ子の中に彼女の姿がなかったんです。何度確かめても、勘違いではありません。
――何人も集まって遊んでいると、気づかないうちに人数が減ったり増えたりするって、聞いたことがあったけど……もしかして?
そこへ不意に「わっ」という声と共に、肩をポンと叩かれます。叩いてきたのは、探していた彼女でした。
母は目を見張ります。自分が逃げ込んできた時、ここの影にはまだ誰もいなかったはず。この数秒の間、影に入ってくる人もいませんでした。
「さ、もう時間も終わりでしょ? 早く逃げないと」
先行して逃げ出す彼女。その背中を追いながらも、母は自分の肩に手を置きます。想像していたより、冷たい湿り気がひりついていました。
それからというもの、何気なく彼女を視界に入れるように、母は意識し始めます。遊ぶ時の自分は特に気を張っています。その注意の間隙を縫うような彼女の挙動が、ちょっと不可解に思えたからです。
授業中の彼女におかしいところはありません。しかし鬼ごっこの類を始めると、ふとした拍子に姿を消してしまい、気がついた時にはまた姿を現している、ということが何度かあったのです。
消えた瞬間は、目を離したほんの少しの間。誰かや何かに隠れて見えなくなってしまう刹那でした。まるで通りがかったとたん、それに張り付いてしまったかのように、わずかな姿も見せません。
彼女にどんなからくりがあるのか。ある時、母親はわざと鬼になり、不自然にならない範囲で彼女を標的に据えて、追い続けようと試みたこともあります。しかし、母のそんなたくらみを読んでいたのか、かろうじて追いつかない速さで追っていた母の前で、彼女はあっさり減速。意図せずに、体当たりをかます形になってしまいました。
彼女は想像していたよりも頑健でした。勢いがついていたのは母の方なのに、跳ね返されて尻もちをつかされたくらいです。彼女はすっと母に手を差し出して立たせると、「鬼さん、交代!」と、別の子を追いかけて行ってしまいます。
思ったような展開、とはいきませんでしたが、あの激突で母はますます疑念を募らせます。
やはり、彼女の身体は異様に冷えているのです。手の先だけでなく、ぶつかった腕や背中全体から、氷を思わせる冷気、湿っぽさが、服を通じて伝わってきたのです。
彼女は幽霊になってしまったのではないか。母の脳裏に突拍子もない想像が浮かびました。しかし彼女は他の皆と変わらず生活し、足だってちゃんとついています。ちゃんとぶつかることができたし、話に聞く幽霊とは思えませんでした。
とうとう母は下校際に彼女を捕まえて、二人きりになれる空き地まで行くと、自分の考えを伝えて問いただしたそうです。すると彼はちょっと首を傾げた後、おもむろに口を開きます。
「あたしね、影の中へ潜れるようになったんだ」
母は一瞬、ぽかんとしましたが、彼女は実際にやった方が早いとばかりに、陽が背中に来るよう、母に移動してもらいます。すでに西へ落ちかかっている太陽の光を浴びて、母の影は背丈の倍近くにまで伸びていました。
彼女は母に寄り添って、自分の影の大半が、母のそれと重なり合う位置へと移動します。
「飛び込むにはね、自分の影が狙っているものと重ならないといけないんだ。1,2の3でやるから、よく見ていてね」
彼女は立ち幅跳びをするように、前後に身体を揺らして勢いをつけ始めます。
「1,2の3!」
彼女がジャンプしました。影同士がますます重なり、やがて彼女の影が肩の下あたりまではみ出た時、彼女は母の影の真ん中あたりに着地した、かのように見えました。
彼女の身体は足が着いた先から、すっと地面の中へ吸い込まれてしまったのです。ずぶずぶと沼へはまっていく形ではありません。そこが窓の外であったかのように、一瞬で落ちて行ってしまったのです。
母はまたも目を見張りました。彼女がいたであろう辺りに手をやり、足で地面をばんばんと踏みしめてみますが、彼女らしき手ごたえはありません。
大変なことになった、と背中を向けた母の肩が、あの時のようにぽんと叩かれ「わっ」と声を掛けられます。振り返ると、そこには地面に溶け込んだはずの彼女がいました。
もしもこの場で潜ったのなら、だいぶ土にまみれていてもおかしくないはずなのに、汚れているのはせいぜい彼女の両手だけ。
「ごめーん。お披露目がてら、ぱっと済ますつもりだったんだけど、ちょっと手に負えなくって。少し力を貸してもらえない?」
そういって彼女は背中側から腕を回し、母の腕をがっちりホールド。振り返る間もなく、母は仰向けに倒されてしまいます。
でも、地面に触れる感覚はいつまで経ってもありません。視界は空を見上げたまま。しかし、きれいに映える夕焼け空だったはずなのに、今は黒々とした雨のようなものが、まばらに降ってきていました。
そして能動的に、上半身をを起こすことができません。身体全体が布団の上から縛り付けられているかのようです。
「あの落ちてくる黒い雨粒があるでしょ。あれがさ、人にかかりそうになったら『ん!』って顔に力を入れてね」
彼女の声がしますが、そちらへ顔を向けることができません。彼女のいう「んっ!」とはどうやらにらむことのようで、母がぐっと力を込めると、目線の先の黒い粒が飛び散ります。
「多分、これからある人について回ることになると思う。そうしたら……」
彼女の言葉の途中で、母の目の前を誰かの足がまたぎます。ややあって、ぐるりと景色の向きが変わったかと思うと、今度は視界の下に男性の背中がついて回るようになりました。
白髪が目立つスーツ姿の男性。ときどきけだるそうに肩を回し、その手には革製のカバンを握っています。仕事帰りといったところでしょう。彼の歩みに合わせて、母の見る空の景色が動いていくのです。
――私、この人の影になっているんだ。
そう察する母でしたが、じっとしているのはまずいとも理解しました。
いまだに黒い雨らしきものが降り続いており、道行く人は気にしていないようですが、これが当たるとよくないことが起こるみたいでした。現に、この老人の頭で黒い粒が跳ねると、後方から車にクラクションを鳴らされたり、追い抜きざまにひどくぶつかられたりするのです。
母はすぐ、彼女に言われたように、男性に当たりそうになる雨粒をにらみつけ、霧散させていきます。一度飛び散ってしまえばその飛沫は害を成さないようです。誰に触れても影響はない。母は早くも慣れてきて、「これならいくらでもできる」と自信をつけかけてきたようです。
しかし、横断歩道らしきところへ差し掛かったとたん、これまでの小雨は一気に暴風雨がごとき勢いになりました。上からのみならず、左右からも押し寄せます。
母は必死にあちらこちらへ目線を飛ばしていきますが、間に合いません。黒い雨に当たるたび、老人の身体が風に揺れるカカシのごとくふらつきます。男性は今のところ、青信号待ちのたくさんの人に混じっているところ。
母は頑張りましたが……ダメだったようです。大粒の黒い粒が頭に触れたとたん、老人はふらふらと前へ進み出て、前にのめってしまいました。そこへほどなくクラクションの音が響くとともに、視界が真っ暗になっていって……。
「――起きて! 大丈夫?」
母がはっと目を開くと、先ほどの空き地。すでに空は暮れかけており、母たちの影もほとんど見えなくなっています。
「その様子だと、駄目だったんでしょ? ごめんね、付き合わせちゃって」
彼女は影に潜り込んでいる間、他の人の影に入り込んで、あの黒い雨と向き合っていたそうです。すでに何度か経験して悟ったのは、あの雨は人の寿命を縮める作用があるということ。浴び続けると、その人の死が早まるのではと。
母は彼女と別れた後、あの男性が最後に待った信号の元へ行きましたが、やじうまでごった返し、立ち入り禁止のロープが張られていたそうですよ。