舞台袖にて
君は今、舞台袖でこれから自分が向かう大舞台を前にしている。
君を見に来た大勢のお客さんが、君の登場を今か今かと待ち構えている。
昔を思えばさ。
こんなに大きな場所で。
こんなにも大勢のお客さんを前にして歌うなんて考えられなかったよね。
5年前の駅のロータリー前での路上ライブ。誰も足を留めてくれやしなかった。
それが、どうだい?
君は本当に頑張ったね。
なのにどうして、拳を壊れそうなくらい握りしめて突っ立っているんだい。
ほら、目に涙を貯めて震えている場合でもないだろう。
あっ、君はもしかして、自信がないんだね。
ここに来ているお客さんを楽しませることの。
また、自分に報いるだけのパフォーマンスを見せる自信がないんだ。
それに、多くの人達の力を借りてここまで来たから。
彼らにつくった大きな借りを、これから始まる60分間で返しきれるはずがないとか思ってる?
うん、じゃあそんな君に僕が単純なアドバイスをしてやろう。
”そんな、必要はないんだ”
お客さんを楽しませることも、今までの自分に報いることも全然考えなくていい。
君をサポートしてくれた人達に至っては、勝手に付いてきただけなんだから。
”センキュー”とでも言っておけばいいさ。
いいかい。
君がこれまでやってきたことの延長上に、今日という日があるだけなんだよ。
今日までに君が考えてきたこと、思い続けてきたこと、身に着けてきたこと。
それが一体何だったのか。
今日は、それについての”答え”を、君自身が確かめるだけの機会なのさ。
そう考えれば、全然怖くないだろ?
――まだ、怖いか。
じゃあさ、僕だけを楽しませてみせてよ。
君のことをずーーっと傍で見てきた僕をさ。
ただ気を付けてくれよ。僕は厳しいからね。
下手くそな歌でも歌ってみろ。
SNSで”まじ、時間無駄にした。タピオカ食べたい”って呟くからね。
あ、笑ったね。そうだ、それでいい。
さあ、幕が上がるみたいだよ。
君は偶像なんかじゃない。
たとえ、君の声が君自身を離れ、遠くへ行ってしまったとしても。
君の【ほんとう】が【にせもの】と摩り替って、そして、誰も覚えていなくなったとしても。
この舞台袖に残した君の残滓が、いつだって君を思い出させるから。
だから、歌っておくれ。
君の歌を。
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舞台袖、若者たちから絶大な人気を誇る女性歌手が一人佇んでいる。
開演が迫るなか、彼女の口元は微かに動いている。
まるで誰かと話しているみたいだ。
そして、幕が上がる。
大きな歓声と拍手が、彼女の心を打った。
彼女は堂々と胸を張り、大舞台へと一歩を踏み出した。
終