寿命買います
「貴方の寿命を買わせてはいただけませんか?」
それが僕の病室を訪ねてきた男性の第一声だった。
元々からして身体が強くはなかった。病気がちと言う程でもないが、体育の成績は常にワーストクラス。「良くて貧弱、悪し様に言えば虚弱」かつてクラスメイトに言われた事がある。どちらにせよ大した違いはないんだけど、確かにこの表現は僕を象徴していると腑に落ちた。
それでも人並みに学校生活を送っていたのだが、先週の木曜日、丁度一週間前に、突然意識が飛んだ。今思い返しても何が起こったのかは分からないし、後から聞いた話を反芻しても、結局他人事のようにしか受け止められなかったけれど。
目が覚めた時、僕の体は知らないベッドの上にあった。すぐに自分が病室、病院の中にいることは理解できたものの、何故、という疑問は解消されない。体のどこがが痛いとか、そんな分かり易い理由は用意されていなかったし、むしろインフルエンザに罹った時の方が、明確に体調不良を認識できていたものだ。
目が覚めてからは、僕の人生史上最も慌ただしい時間が夜まで続いた。但し、僕にとってではなく、周囲が、という意味で。
看護師、両親、医者、とにかく人の往来が激しかった。正直この時の事はよく覚えていない。夜寝るまでは、誰かしらが近くにいたような気もするし、異様に静かだった気もする。翌日の朝に目が覚めてから、やっとのことで噛み砕いて理解した事実は、僕の余命はあと半年だという事だ。
何が悪かったかと言えば、単に運が悪かったと言うべきだろう。誰かがそう言っていた気がするし、それを聞いて父が怒っていた気もする。母は、終始俯いて悲しそうにしていた、少なくともはっきりと言葉を紡げる精神状況には無かった、はずだ。結局の所、僕はその辺りの事を客観的に見ていたのだ。他人事と言っていい。自分という居場所が奪われ、まるで夢の中にでもいるような、ふわふわとした感覚でその場にいたのだから。
こうして病院生活二日目、あくまでも体感の話だが、が始まった。急に自分の内に恐怖が溢れ出す、という事も無い。事ここに至っては僕自身、他人事ではいられないと自覚を持った、持たざるを得なかったのだが、それはむしろ諦観に繋がったのだ。なんというかそれまで全然考えたことも無かった筈なのに、遂にこの時が来たかと、まるで吉報のように受け止めて。勿論良い事なんて何もないのだが、何かがはっきりしたという一事を以て、さながらさんざん悩んだなぞなぞの答えがふとした拍子に分かったような、妙なすっきり感があったからだろう。
特に体調に変わりは無く、いつも通りの生活を送れそうな心持ちではあったものの、何時また倒れるか分からないとのことで、ベッドの上で大人しくする運びとなった。一月もすれば体調にも影響が出始めるそうだが、僕の頭では何が悪いとか、何がどうなるとか、細かい話は理解できなかった。正確に言えば理解したところで余命宣告は変わらなそうなので、右から左に抜けていった。
別に僕は聖人じゃない。まだまだやりたいこともあったし、一人っ子なのに両親より早死になんて親不孝だと思うし、あれもこれも、思う所はたくさんあった。第一、余命半年とは言ったものの、実は移植の為のドナーが見つかって手術を受ければ、治る可能性はあるとも言われていたのだ。それでも諦めの境地に至ったのは、非常に感覚的な話で申し訳ないのだが、どうにも先が無いように感じたからだ。
元々諦めが早かった、とは言えるだろう。体育の成績が『悪い』のも、努力したとしてもせいぜい『悪くない』にしかならない。『良い』には届かないと思っていたからこそ、上を目指す事を諦めた、『悪くない』にすることさえ億劫だった。
ドナーが見つかる確率、手術が成功する確率、どちらも低く、どちらもが必要だ。そんなギャンブルに身を委ねるのは、例え受動的な、自分が何をするでもなく決まる事であっても、許せなかった。誰が非難する訳でも無いし、むしろその可能性にこそ賭けてみるべきと勧められるのだけれど。
どこまで行っても自分の中の問題で、諦めなければならないと思い込んでしまっていた。
その後は、友人が訪ねて来たり、担任が訪ねて来たり、相変わらず人の往来が激しい日々が続いていた。そういった人の動きが、ついさっき唐突に止んだ。絶え間なく入退出が繰り返されていた筈も無いのに、確かに何かが途切れる感覚が走り抜けていく。この時だけは音とか色とか、つまりは何もかもが、現実から切り離されたように感じられた。
僕の病室を訪ねるノックの音が聞こえても、声を出すことが出来ない。返事を待たずに一人の男性が入ってくる。多分男性だろう、というだけで確証は無い。怪盗然とした仮面をつけていたしね。
その男が僕に言ったのだ。
「貴方の寿命を買わせてはいただけませんか?」
不審者がいると喚きだすとか、友好的に接するにしても自己紹介からとか、色々と考えはしたものの、それらを無視して僕の口は自然と動き出す。
「僕の寿命を、いくらで買うのでしょうか。」
随分と即物的な返答だと我ながら思う。言い訳させてもらえるのであれば、別に高いからどうとか安いからどうとか考えたのではないのだ。ただ単に、たった半年の、朽ちゆく命にどれ程の価値があるのか気になっただけだ。
「一ヶ月につき100万円でいかがでしょうか。」
安い。いや、人の命の相場を知ってる訳ではないけど、僕の場合600万円、80年あったとしても9億6000万円にしかならない。一旦落ち着こう。80年なら9億6000万、冷静に考えると結構な額だ。案外適性相場だったり。
というか一ヶ月の基準も曖昧だ。睦月も如月も同じ値段設定なのだろうか。
まあ、何でも良い。一応聞いたものの、別に幾らだろうと返事は変わらないのだ。
「それで構いません。私の寿命を、貴方に売ります。」
既に生きるのを諦めてしまった身だ。残りの命が半年だろうと零だろうと、等しく価値が無い。それをほしがる者がいるなら、その相手が誰であれ、何であれ、あげてしまっても構わないのだ。
恐らく、この男は悪魔か何かの、人の命を必要とする存在なのだろう。人間のような外見だが、まるで人間と接している感覚が無い。むしろ虚空に向けて話しているような気分だ。
そんな異質さを有してはいるものの、寿命を欲しがっている意思だけはしっかりと伝わってくる。是非とも僕の寿命を有効活用して欲しい。
「貴方の寿命は半年という事でしたが、御家族との別れの挨拶等もあるでしょう。今回買わせていただくのは五ヶ月分、500万円でお願い致します。それでは、貴方の寿命が残り五ヶ月となった日の夜、改めて伺います。」
そう言って男は、返事を待たずに扉から出ていった。その瞬間、現実との繋がりが戻る。現実感が無かっただけで、アレは確かに存在した過去なのだと、脳はうるさいぐらいに主張している。
正直準備期間は一ヶ月もいらないというか、こっちとしてはすぐにでも命が刈り取られる覚悟をしていたのだけれど。それでも実際に時間的な余裕が生まれたとなると、考える事はたくさん生まれてくる。そのせいもあって、まともに頭が働かない程疲れてしまった。
結局その日は、何も手がつかなかった。今まで通りと言っても良い。相変わらず面会があったり、問診があったり、重病人扱いも変わらない。とはいえ一人でトイレも行けるし、とりあえず今のところは、唐突に意識を失うことも無い。あの(推定)悪魔との取引を頭の隅に追いやり、早めに寝る事にした。
翌朝、枕に違和感を覚えて目が覚めた。枕自体に変わった様子は無く、手に取ってみると、その下に万札の束が置いてある。確認してみれば、100枚の束が5つ。先払いとは気前が良いものだ。
現金を手にしてようやく、あの取引が現実のものだと確証を得た気分だ。現実でも夢でも構わないというスタンスではあったが、現実だとはっきりした以上、僕にはすべきことがある。誰かに別れを告げるなんて、柄じゃないけど、悔いが無いようにはしておきたい。取引の前と違って、僕自身けじめをつけたい思うようになったし、なんとなく、それも含めての取引だったように思うから。
それからの日々は、今まで生きてきた中で最も精力的に活動したという自信がある。相変わらず病院の外には出られないけれど、病院の中でできるだけの事をやった。突然湧いて出た500万円の扱いでも、ひと騒動あった。一人の時間が無い程で、大体は父か母と、後は友人とか、祖父母とか、多くの時間を誰かと共に過ごした。
今までの人生が無味乾燥だったとは言わない。でも、今この時間は、蝋燭が燃え尽きる直前の、最後の輝きなのだろう。
あの取引の日から10年が経つ。病気はいつの間にやら治っており、随分と医者には不思議がられ、喜ばれた。しばらく経過観察となったが問題無しとして、入院してから1年と経たず、無事退院となった。
学校は留年したものの、何とか遅れを取り戻し卒業。今では満員電車に揺られ、あくせく働く毎日だ。
(推定)悪魔は、まだ訪ねて来ない。