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紋章の系譜 1  作者: 瀬川弘毅
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第一章

 生まれ育った町、京都の洛外を離れ東京へ移り住んでから今日で一か月だ。けれども高木賢司は、まだ全くといっていいほど新しい生活に慣れていなかった。

 高校生の頃から都会への憧れがあった。慣れ親しんだ京の街もみやびで華やかではあったが、十八年も住むとどこか飽きがくる―少なくとも高木はそうだった。神社仏閣が至る所にあり、中心部は常に観光客でにぎわっている。そんな千年の古都に愛着がなかったわけではない。

ただ、広い世界を見てみたかった。日本の首都であり、政治と文化の中心地である東京は、彼にとっていつも憧憬の対象だった。

男手一つで自分を育ててくれている父に経済的負担を強いるのは少し申し訳なかったが、東京にキャンパスを構える第一志望の大学にどうしても行きたかった。試験科目において苦手科目の配点が他大に比べて低く、またカリキュラムが自分に合っていて、ここならやりたいことをやれそうだと思った。

判定は微妙なところではあったがなんとか志望大学に受かり、学生マンションを借りて今こうして一人暮らしをしている。

「…疲れた」

 三階まで階段を上り、自室の前へ辿り着く。鍵をドアに差し込んで回しながら、高木は呟いた。部屋に入り教科書類を詰め込んだリュックを床に下ろすと、早速夕食の準備を始める。時刻は既に午後八時を回っていた。

と言っても、面倒なので自炊はしない。スーパーで安売りしていたハンバーグ弁当を机に置き、冷蔵庫から取り出した牛乳パックの中身をコップに注ぐ。それをこぼさぬよう、引っ越しに使った後まだ捨てずに残っている段ボールを慎重に避けて机に運んだ。

テレビを点け、今日のニュースを見ながら弁当を食べ始める。

世界では色々な出来事が起こっていた。関係の悪化していた二か国が首脳会談を行うと発表され、専門家たちが雲行きを予想していたり、中東の方の国で内戦が勃発して難民が多数発生していたり。だがそれらは、高木にとっては別世界のことのように思えた。日本は平和な国だ。少なくとも彼はそう思う。内紛が起こるなんて、夢のまた夢だと感じた―この時は、まだ。


食事を済ませ歯を磨きつつ、彼は今日一日をざっと振り返ってみた。授業が本格的に始まったが、教室の位置を把握するのにも一苦労だ。サークルの新歓期間のためキャンパス内は上級生たちでごった返し、執拗な勧誘がうざったい。いくつか試しに見て回っていたらこんな時間になってしまったが、さほど心惹かれるようなものはなかった。

シャワーを浴び、寝巻に着替えて一息ついた直後、不意にインターホンが鳴った。

(誰だ…?)

 全く心当たりがなかった。とりあえず壁に取り付けられた受話器を取り、応答する。

「…もしもし?」

「宅配便です」

 相手の声は低く落ち着いていて、何となく安心感を抱かせてきた。誰からの荷物かは知らないが、もしかすると実家からの仕送りかもしれない。

「はい、分かりました…」

 受話器を置き、解錠、と書かれたボタンを押そうとして、寸前で手を止める。このチャイムは一階の共同玄関から鳴らされたものではなく、部屋の目の前から鳴らされたものだということに今更ながら気づいたからだ。

(でも、どうやったんだ?共同玄関を通るには合鍵を持っているか、住居者にドアを開けてもらうかしないといけないはずなんだが)

 相手を待たせてはいけない―そう思い直し、高木は刹那の逡巡を振り払った。おそらく、管理人の許可を貰うなど何らかの手段を使ったのだろう。

 まるで魔法みたいな。

 高木は深く考えることなく玄関に向かい、ドアを手前に引いた。

 それは、彼が運命の扉を開けた瞬間でもあった。


 目の前に立っていたのは、茶色のコートを着た長身の男だった。高木もそこそこ身長は高いが、この男性には敵わない。百八十センチくらいはあると思われた。彫りの深い顔立ちで、黒い髪を短めに刈り込んでいる。年齢は四十代前半くらいか。

 茶色がかった髪を適度に伸ばしている高木とは、対照的だった。都会で暮らすことになったのだからいわゆる「お洒落な大学生」っぽいファッションに挑戦してみようと、自分なりに色々と試しているところなのである。

 不可解な点はいくつかあった。

 第一に、男の服装はどう見ても配達員や運送会社のそれではない。第二に、男はスーツケースを一つ提げているのみであり、届けに来たという荷物はどこにも見当たらない。高木は警戒心を強め、もし何かあればすぐにドアを閉めようと思った。

「…すまない。宅配便というのは嘘だ」

 彼の心を読んだように、男が言った。受話器越しでなく直接聞くと、落ち着いているという印象はさらに強くなった。

「俺は、君に伝えたいことがあって来たんだ。今、時間は大丈夫か?」

 正体不明の人物の話に耳を傾けるなど、普通の状況ではまずしなかっただろう。けれども、男のひどく真剣な声音が、高木に扉を閉め相手を追い返すことをとどまらせ、対話を続けることを選択させた。

「ええ。…でも、その前に一つ教えてください。失礼ですが、あなたは一体何者ですか?何故俺に接触したんです?」

 警戒の色を隠さない高木をしばし見つめ、男はふっと笑みを漏らした。

「失礼、名乗り遅れた。俺は杉本宗一という。職業は……端的な表現をすれば、魔術師だ」


 高木は自分の耳を疑った。彼が質問を重ねる暇を与えず、杉本と名乗ったその男はやや早口で話を続けた。

「何故君に接触したのかは、さっきも言ったように君に伝えなければならない重大な事実があるから、それと、君に俺たちの仲間に加わって欲しいからだ。事情は追々話すことにして、まずは俺の話を聞いてくれ」

 高木には、何がどうなっているのか分からなかった。先刻まで現実世界にいたはずが、今では空想の世界に迷い込んでしまったかのような感覚だった。しかし今ここで行われているこの会話、このやり取りは、まぎれもなく現実の世界で展開されている出来事だった。

 杉本は続けた。

「一般人には知られていないが、この世界には魔術が存在する。そして、魔術を使う能力は遺伝する。…君の母は偉大な魔術師だった。君は自覚していないだろうが、君には魔術への高い適性が備えられているんだ」

「ちょっと待って下さいよ。母さんが魔術師だったなんて、そんな…」

「事実だ。彼女は十三年前、魔術師グループの一つ、過激派との抗争のさなかに命を落とした。他にも多くの仲間が、彼らとの戦いの中で犠牲になっている。俺たちは戦力を増強し過激派を倒すため、君のような若く有望な人材を探しているところなんだ」

 にわかには信じられない話だった。高木はずっと、母は不慮の事故で亡くなったのだと聞かせられてきたからだ。

 だが同時に、もし母が魔術師同士の戦いの中で死んだのだとすればつじつまが合う部分もある。事故から十三年も経つがいまだに犯人を特定する証拠らしい証拠は見つかっておらず、無論逮捕にも至っていない。現場に凶器は残されておらず、死因もレーザー光線のようなもので胸部を貫かれたという奇妙なものだったらしい。幼い頃はさほど不自然にも思わず、ただ母の死を悲しんで泣くばかりだった。けれども今事件全体を振り返ると、何か超能力的な力が犯行に使われていたのならば証拠を残さないことも可能だったように思える―例えば、魔術のような。

「…ええと、仰ることは理解できたんですが、その…」

「実感が湧かないか?」

 しどろもどろになって言った高木に、杉本は苦笑した。

「俺がこのマンションの共同玄関のドアを開けることができたのも、魔術の力によるものだ。…と言っても、これでは証拠不十分だな。立ち話もなんだから、すまないがちょっと中に入れてもらえないだろうか。いくつか簡単な魔術を見せて、信用してもらうのが一番だろうからな」

「あっ、えーと…」

 たった今出会ったばかりの人間を自室に上げていいものか、高木は少しの間迷った。いやそれ以上に、この短時間に杉本から伝えられた情報の膨大さ、その内容の意外性・重大性に激しく動揺していて、冷静に判断を下せる状態ではなかった。高木は俯き気味に、必死で思考を巡らせた。

(…整理するか。この人の言うことに従えば、俺は魔術師になれる。でも杉本さんとしては自分たちと一緒に魔術師の過激派グループと戦ってほしいわけであって、当然危険が伴う。母さんと同じように、命を落とす可能性だってゼロじゃないだろう。申し出を断って、これまで通り普通の生活を送る方が無難なのは間違いない。母さんだって、俺が魔術師になるのをあまりよく思わないかもしれない…俺や父さんを巻き込みたくなかったから、ずっと隠して一人で背負い込んでたんじゃないのか)

 否定的な考えが頭を支配したが、すぐに考え直す。

(いや、待てよ。俺が戦いに加われば、上手くやれば母さんの仇を討てるかもしれないじゃないか。母さんを悪い魔術師に殺されて泣き寝入りして、本当にそれでいいのか?…それに、母さんが俺に魔術師になってほしかったかどうかなんて、本当のところは誰にも分からないじゃないか。俺が大きくなったら、魔術について教えるつもりだった可能性だって決してゼロじゃない。俺には、戦う理由と責任があるんじゃないのか。俺は、母さんの志を継ぐべきじゃないのか?)

 答えを保留して思索に意識を向けていたせいだろうか、高木は、杉本の視線が自分から離れたことに気づくのが一瞬遅れた。

 彼の目は、高木から見て横方向―すなわち、マンションの廊下へ向けられている。その表情は険しく、先ほど前とはまるで違った印象を受けた。戦士の顔だった。

 恐る恐る、高木も彼の視線が向かう先に目を向けた。

 こちらから数メートル離れた位置に、陰気な男が立っていた。グレーのパーカーのフードを目深にかぶり、黒のゆったりとしたズボンを履いている。整髪料で丁寧にセットされた黒髪が、廊下の灯りを受けてらてらと怪しく光る。身長は杉本より少し低いくらいだ。

「―過激派の刺客か」

 杉本は相手を睨み、低い声で問うた。

「…ああ、そうさ」

 男はふっと笑って答えた。思ったより高めの爽やかな声で、若さが感じられる。高木よりはもちろん年上だろうが、二十代後半くらいなのではなかろうか。

「穏健派は人脈を駆使して新米魔術師を発掘しようとしてるみたいだけど、それじゃあ常時人員不足の俺たちは困るんだよ。新人の採用は妨害しておくにこしたことはない。そして何より…」

 男は一旦言葉を切り、左腕の袖をまくり上げた。やや大きな、角ばったデザインの黒い腕時計が露わになる。

「穏健派の有力魔術師、杉本宗一!お前を消せば、俺たちが穏健派を攻略するのはずっと楽になるからなあ!」

「…君は下がっていろ」

 杉本は男と対峙したまま高木に呼びかけ、コートを無造作に脱ぎ捨てた。白いワイシャツの袖をまくり、そこに巻かれたデバイスが露わになる。男のものと酷似したデザインの、ただし純白の腕時計だ。

 それがただの時計ではないことは、すぐに高木も知ることになった。

『ハーデース・アタック』

 男の漆黒の腕時計型デバイスが、低い合成音声を発する。男が左手を前に突き出した次の瞬間、その数センチ前の空間に紫色に光る魔法陣が投射された。内部に三角形や四角形をいくつも複雑に組み合わせた円で、見たこともない言語や数字がその隅々に書き込まれている。

(…これが、魔術)

 仕組みは全く理解できないが、それが確かにこの世界に存在するという事実が、強い実感を伴って高木に迫ってきた。

 円の中心点から、一筋の紫のレーザー光が放たれた。高熱を放ち輝く光が、真っ直ぐに杉本へ向かう。

『ポセイドン・アタック』

 杉本も左手を前に出し、術を発動した。白色のデバイスが先刻のものよりやや高い合成音声を発し、杉本の前に青い魔法陣が現れる。円の内部に無数の円を書き込んだ非常にこまごまとしたデザインで、男が発動したものとは形が随分異なる。

 杉本の前に氷の盾が出現し、レーザーを防ぐ。だが即席の盾はレーザー光線の放つ熱で溶け始めており、そう長くはもたないであろうことは素人目にも分かった。

 杉本が盾の影から身を躍らせる。年齢をまるで感じさせない、実に軽々とした動きだった。氷の防壁を砕くべく第二射を放とうとしていた相手は、予想外の行動に意表を突かれたようだった。

『ゼウス・アタック』

 杉本のデバイスが別の音声を発し、彼の左手の前に黄色い紋章が展開される。今度は二等辺三角形を主とした意匠だ。中心点から超高電圧の雷が放たれ、黒ずくめの男を狙う。

『ハーデース・アタック』

 男は咄嗟に術式を発動し、体の前方に通常よりもずっと大きな魔法陣を出現させた。防御障壁としての機能を付与された紫の紋章が、荒れ狂う雷電の奔流を迎え撃つ。

「くっ…」

 二人の魔法が激突して小規模な爆発が起き、男は衝撃の余波を受けふらついて数歩後ずさった。障壁が雷を防いだため怪我は負っていないが、杉本の術の破壊力を完全に殺すのは困難だったらしい。

「やるじゃないか。電気を操るのに長けているという噂は本当らしいね」

 だが男もさるもので、すぐに体勢を立て直した。いつでも相手の動きに応じて術を放てるよう神経を張り詰めつつ、余裕を感じさせる口調で杉本に語りかける。

「…お世辞は勘弁してくれ」

 一方杉本は表情を変えぬまま、相手と対峙していた。その呼吸は戦闘が始まる前よりも少しだけ荒く、魔術の行使で体力を消耗したのかもしれない、と高木は推測した。黒ずくめの男には疲労が全く見えないが、何か両者の使った術に違いがあったのだろうか。

 男はどうしようか決めあぐねているように、杉本と、自室のドアに半ば身を隠して成り行きを見ていた高木へ視線を行ったり来たりさせた。やがて、考えがまとまったらしくぽんと手を叩く。

「この建物内には数多くの電源がある。得意魔術を存分に使えるという点で、お前の方に分がありそうだ。…今日は退散させてもらうが、次は必ず倒してやるよ」

『ヘルメス・アタック』

捨て台詞を吐くが早いか、男の漆黒のデバイスが合成音声を発した。こちらは、杉本が使ったのと同じやや高めの音声だ。

数秒間肉体を高速で動かすことが可能となり、男は目にも止まらぬ速さで走り去った。どうやらこれは逃走用の術式らしい。高木が唖然として立ち尽くす中、男の姿は既に視界から消えていた。おそらく、このマンションからも脱出しているに違いない。

男の気配が完全に消えたのを確認し、杉本はふうと大きく息をついた。それから、今しがた目の前で起きた出来事に圧倒されている様子の高木を振り返った。

「…予期せぬ展開だったが、これで魔術が存在するという証拠にはなったろう?」

「…もちろんです」

 高木は顔を上げ、小さく頷いた。しかし今回は、杉本から視線を逸らそうとはしなかった。

「君が今まで通り平穏な生活を送りたいと望むなら、俺にそれを止めるだけの権限はない。だが、今のような戦いが魔術師の世界では毎日のように繰り広げられている。そのことを忘れないでほしい」

「…俺、やります」

 杉本は驚いたように眉をぴくりと動かし、高木の決意に満ちた眼差しを受け止めた。

「正直、最初話を聞いたときは半信半疑でした。でも、今の戦いを見てこれが現実なんだって分かったんです。…俺には、こんな過酷な現状から目を背けることはできません。母さんが、俺が魔術師になることを喜んでくれるかは分からないけど…でも、俺は杉本さんたちの力になりたいんです」

「…それが、君の答えか」

 杉本は眩しそうに目を細めた。脱ぎ捨てた茶のコートを再び羽織り、ポケットから一枚のメモを取り出す。そこには、黒のボールペンで住所が走り書きされていた。書かれた郵便番号から、自宅からそう遠くない都内の場所であることが窺える。

「今日はもう遅い。今週末、ここに来てくれ。詳しい話はそこでしよう」

「…分かりました」

 後で地図アプリで検索してルートを調べよう…と思いつつ、高木は両手でそのメモを受け取った。杉本は立ち去ろうと一歩を踏み出しかけ、歩みを止めて高木の方を振り返る。

「一つ言い忘れたことがある」

「はいっ」

 高木は不意を突かれて緊張し、無意識に姿勢を正していた。

「魔術師になるのなら、今日から君は俺の弟子だ。俺のことは杉本さんではなく、師匠と呼ぶようにしろ。魔術師とは、そういうものだ」

「…はい、師匠!」

 微笑んで言った杉本に、高木は笑顔で答えた。

 そして一礼して師を見送り、これから自分も体験することになるであろう壮大な戦いに思いを馳せた。


 週末、高木は指定された場所へ向かっていた。電車で数十分かけて移動し、駅から十五分ほど歩く。地図アプリを頼りに、目的の建物を目指した。

 商店や飲食店でにぎわう大通りから、裏通りに入る。

(この辺のはずなんだけどな…)

 アプリはこのすぐ近くに目的地があることを告げているが、それらしき建物は見当たらない。高木は辺りをきょろきょろと見回した。

「おーい、こっちだ」

 すると、背後から聞き覚えのある声が投げかけられた。はっとして振り返ると、杉本が歩いてくるところだった。前と同じ、茶のコートを羽織っている。杉本は微笑し、背後を指差した。

「これが俺たち穏健派の本拠地、魔法協会だ。一般人の注意が向かないよう意識遮断の魔術が施されているから、気づかないのも無理はない」

 そう言う杉本の後ろには、イスラム教のモスクとキリスト教の教会を折衷したような独特の美学で設計されたらしい、巨大な建築物がそびえたっていた。逆に、今までこの建物の存在に気づかなかったのが不思議なくらいだ。

 杉本は背を向け、複雑な装飾の施された木製の扉を軽く手で押した。

「ついてこい」

「はい!」

 内部へ足を踏み入れた師の背中を、高木は慌てて追いかけた。


 来客用の部屋らしきところに通された高木は、杉本に促されるままソファに腰掛けた。杉本もその向かいに腰掛け、右手に提げていたスーツケースから自身のものと同じ純白の腕時計型デバイスを取り出した。二人の間にある木のテーブルにそれを置き、杉本が口火を切る。

「君にも、これを与えよう」

「…これは?」

「魔法発動補助電子端末。通称、マジック・ウォッチだ。術者の意志を読み取って、任意の術式の魔法陣を空間座標に投射できる。昔の魔術師は魔術を発動するために魔法陣を書いたり呪文を唱えたりと色々大変だったが、今ではこいつのおかげで一瞬で術が使える…もっとも、使える術の数には制約があるから決して万能ではないんだが。それについては後で詳しく話す。とりあえず受け取ってくれ」

「…ありがとうございます!」

 高木は大事そうにそれを受け取り、慎重に左手首に装着した。カチャリと小気味いい音がし、マジック・ウォッチは緩みなく取り付けられた。

「君には説明しなくてはならないことが山ほどある。まず、俺たち魔術師の勢力図について簡単に話そう」

 杉本は唇を舐め、続けた。

「俺たち穏健派は、魔術を使えない一般の人々とは接点を持たず、関わらずに生きていこうと考えている。お互いに干渉せず世界を住み分けるのが、一番無難な選択だからな。だが、考えが違う奴らもいる。魔術を使える遺伝子を持った人間は他より優れているから優遇されるべきだと考え、魔術の力を悪用し、自分たちにより都合のいいようにこの世界を創り変えようと企んでいるのが、過激派だ。昨日の男はその幹部だろう。…そして、魔術と科学のテクノロジーを融合させ、人類の発展に貢献したいと考えているのが融和派だ。彼らは、穏健派と過激派の抗争に関しては俺たちに資金援助をしてくれているが、立場的には中立を保っている。ここまではいいか?」

 高木が大きく頷いたのを見て、杉本は満足げに笑った。

「よし。それじゃ、次だ。魔術とはどういうものかについて、ざっくりと話そう」

 ファンタジー小説に魔法が登場するのは常だが、多くの場合魔法はそこにあるのが当たり前のように存在している。魔術の成り立ちや仕組みについて説明があるという事実は、高木にこれがフィクションの世界の出来事ではないことを強く実感させた。

「…古代、とある部族の人々が話す言語には不思議な力があり、特定の形式に沿って言葉を唱えることで身の回りの物質を操ることができた。彼らはその力ゆえに恐れられ、忌み嫌われ、迫害された。やがて彼らは他の部族に攻め滅ぼされて死に絶えたが、その秘術が記された奥義書が発見され、侵略者たちへ伝えられた。それが長い時間をかけて広域に広がり、『魔術』と呼ばれるようになった…俺もあまり詳しいことは知らないが、そんなところだ」

 そこで口を閉じ、杉本は何か質問はないかというように高木を見た。高木が素直に首を横に振ったのを確認し、杉本がソファから腰を上げる。

「基本となる説明は以上だ。さて、マジック・ウォッチを実際に使ってみるか」

「…えっ⁉」

 高木はひどく狼狽した。まさか、もう実戦に入るということなのだろうか。まだ操作方法も教わっていないのに、危険すぎやしないか。

 部屋を出て、地階へ続く階段を軽い足取りで下りていく杉本を、彼は懸命に追いかけた。もちろん、拒否権があるわけがなかった。


「…師匠、ここは?」

 長い螺旋階段を下りた先には、円形の大きな部屋があった。薄茶色のタイルが敷き詰められ、壁は白い。太い柱が四か所に配され、神殿のような雰囲気を醸し出している。天井から吊り下がるシャンデリアが部屋全体を照らしているが、若干薄暗い。

「演習場だ。魔術師は模擬戦闘で自身の実力を試したいとき、ここを使う。一定時間が経過すると自動的に部屋が修復されるように魔術がかけられているから、多少壊しても問題はないぞ」

 そう言ってにやりと笑った杉本に、高木は反射的に微笑み返した。言われてみれば部屋は不自然なほど整然としていて、人知を超えた力が介入していると説明されれば納得してしまいそうだった。

 不意にシャンデリアの光が強くなり、部屋全体を明るく照らした。高木が驚き、目を細める。

「人の気配を感知すると、明かりが強くなるようになってる。あのシャンデリアにも魔術がかけられてるってことだな」

 杉本は何てことないというように説明したが、明るくなった部屋の反対側の壁にもたれている人影に気づき、そちらに視線を向けた。

「…北野、いるならいると言え」

 苦笑混じりに向けられた台詞に、少女はけだるげに応じた。

「別に、新人君を驚かせてあげようと思っただけ」

 何が何だか分からず、少女と師を交互に見ていた高木に、杉本が言った。

「彼女は北野美鈴、俺の一番弟子だ。君の先輩ということになるな」


(嘘だろ…この子が、師匠の弟子?)

 にわかには信じがたかった。

 艶やかな黒髪をツインテールに纏め、勝気そうな表情でこちらを見ている少女は、高木より年下にしか見えなかった。白のブラウスの上に紺の上着、チェック柄のスカートという制服姿もその印象を強くした。休日に制服を着ているのは、部活動のついでか何かに立ち寄ったからなのだろうか。体格は小柄な方で、身長は高木の肩より少し上くらいか。

「壁沿いに進んだら明かりが強くならないって前に気づいたから、ちょっといたずらしちゃった」

 北野は悪びれずに杉本に説明し、ぺろっと舌を出した。それから高木の方を向いて、少しむっとしたように言った。

「意外だった?自分より年下で」

「ああ、まあな…」

 正直、予想外だった。師匠に弟子がいるのなら、もう一回り年上の屈強そうな男性を想像していたところだ。

「舐めないでよね。一つ年下なだけだし、魔術の経験はあたしの方が上なんだから」

 一つ年下、ということは高校三年生か。

「ってことは受験生…なのか。両立大変そうだな」

 高木は素直な感想を漏らしたが、北野はぶんぶんと首を振った。ツインテールにした髪がゆらゆらと揺れる。

「全然。指定校推薦で進学できるのはほぼ確定してるし。あたし、こう見えて頭いいから」

「ふうん…すごいじゃん」

 口先では感心してみせたが、内心では苛ついていた。一応自分の方が年上であるはずなのに、敬意を微塵も払っていない。それどころか馬鹿にされている感じすらある。

(プライドが高いタイプか…ちょっと苦手かもな)

 高木の心情も知らず、杉本は次の説明へ移った。

「では、マジック・ウォッチに読み込まれている術式の説明を行う。それが終わったら、試しに北野と手合わせしてみろ。習うより慣れよ、だ」

(いきなりかよ⁉…ってか師匠とじゃないのかよ…)

 色々言いたいことのあった高木に口を挟む暇を与えず、杉本は淡々と話し続けた。

 要点をまとめると、次のようになる。

 魔術には天界術と冥界術、そしてそのどちらにも属さない中間魔法がある。

 天界術は体力を消費するのを代償とし、効果を発動する。

 「ガイア・アタック」は地面を変形させる効果を持ち、防御や妨害に用いられる。ただし、近くに一定以上の量の土がなければ使えない。

 「ゼウス・アタック」は雷を操る。電線など、電気が利用できる環境でなければ使用不可だ。

 「ポセイドン・アタック」は水を司る魔法だが、一定量の水が必要であるという制約がある。

 「アポロン・アタック」は火炎を放って攻撃を行う。付近が開かれた空間であり、酸素が十分にあることが条件だ。

 「アルテミス・アタック」は紋章から矢を放つ魔法で、夜でなければ使用できない。なお、月が出ていれば破壊力が向上するという。

 「デメテル・アタック」は植物を操作して敵の動きを封じる。しかし、一帯に草木が生えていなければ使えない。

 このように細かい制約があるため、天界術は戦う場所や時間に応じて適切な術式を選択して使うことが重要になる。

 一方、冥界術―「ハーデース・アタック」―は体力を消費せずに行使できる。あの過激派の刺客が疲れをみせなかったのも、それが理由だろう。その代わり、冥界の異形の者に魂を売り渡す儀式を行った上でないと使えない。さらに、その場合術者の魂は死後安寧を得られず、永遠に苦痛を味わわされるそうだ。まさに禁断の術式だ、と師は言った。

 代償は大きいが多種多様な効果を発動でき、攻撃にも防御にも使えるという。

 最後に、中間魔法は体力を消費さえすれば他の制約なく使える。また、紋章の展開を介さずに直接効果が発揮される。

 「ヘパイストス・アタック」は、複雑な技術を要求する作業を一瞬で遂行できる。おそらく師匠が自宅に忍び込んだ際にはこれを使ったんだろう、と高木は推測した。

 「アレス・アタック」は数分間全身の皮膚を硬化し、物理攻撃への耐性を高める。さらに、筋力も強化される。これにより、接近戦では無類の強さを発揮できるようになる。

 「ヘルメス・アタック」には二つの効果があり、術者が使用時に選択する。一つは数秒間だけ高速で動くことを可能にすること、もう一つは離れた場所にいる相手に自分の意志をテレパシーのように伝えることである。

 「アフロディテ・アタック」は幻惑の効果を持ち、実際よりも自分を魅力的に見せて相手を操り、交渉などを有利に進める魔法らしい。これに関しては、私生活で決して悪用するなと師匠から念押しされた。そんな趣味はないので心配は無用だ。

「…以上だ。何か質問は?」

「…ないです」

「それなら、さっさと始めるか…」

 高木の返答を聞き、杉本が北野に目で合図した。北野がそれまでもたれていた壁から背中を離し、んーっと大きく伸びをする。制服の胸の膨らみが強調されて、高木は数秒間目を逸らした。

「待ちくたびれちゃった。少しは楽しませてよね」

「…せいぜい頑張ってやるよ」

 どういう成り行きか、模擬戦は始まろうとしている。こうなれば、全力で目の前の相手と戦うしかない。

 術者の意志に応じてマジック・ウォッチは反応すると聞かされている。先刻教えられた中から術式を一つ選び心で念じれば、システムが作動し自動的に魔法が発動されるはずだった。

(正直よく分からねえけど…とにかく、この偉そうな奴に一泡吹かせてやるぜ)

「―構えて。始め!」

 高木と北野は一定間隔を取って対峙し、やがて杉本の合図で模擬戦闘が開始された。


『ゼウス・アタック』

 北野が素早く左手を突き出し、細い手首に巻かれたマジック・ウォッチから黄色の紋章が前方に投射される。その中心点から放たれた稲妻が、唸りを上げて高木に迫る。

(やっぱり、電気の通ってる建物内での戦闘ではこれがメジャーなのか)

 高木は冷静に分析し、自身も術式を発動した。

『ヘルメス・アタック』

 高木の身体に、数秒間の高速移動の効果が付与される。一瞬にして数メートル横の地点まで疾駆して移動し、雷撃を回避した。

 直後、体が僅かにだるい感覚を覚えた。これが師匠の言っていた、術式行使に伴う体力の消耗か。

「逃げ回るだけって、芸がなさすぎ」

 北野は呆れたように言うと、再度同じ術式を展開した。再び撃ち出された雷撃の槍が、高木を狙う。

(考えろ…今この状況で、条件をクリアして使える術式はどれだ?)

 高木は空中に描き出される黄色の魔法陣から目を逸らさぬまま、選択肢を取捨選択していった。

『ガイア・アタック』 

 この演習場は地階にある。土を利用した魔法なら、電気を使う魔法以上に使い放題であるはずだ。

 長方形をあしらった茶の紋章が投射され、床が大きく隆起し、高木の前に高さ三メートルほどの厚い土の障壁が現れる。

 壁が雷を受け止め、電圧を地下へ逃がす。北野から見た側の表面は焦げついていたが、全体に大きな損傷はない。

(…よし!)

 ひとまず防御には成功した。

 脳裏をよぎるのは、先日の師匠と過激派の刺客との対決のワンシーンだ。師匠は氷の盾に身を隠し守りに徹するとみせかけ、不意打ちで反撃を喰らわせて相手を撤退させた。あれを応用すればいい。

(この壁を崩すには多少なりとも時間がかかるはず。その前に俺が「ゼウス・アタック」を発動させて、勝負を決める!)

 戦術が決定し、勝機が見えたかと思ったその時だった。

『アレス・アタック』

 中間魔法の一つを発動した北野が床を蹴り飛ばし、増強された筋力を活かして一気に土の障壁との距離を詰める。

「何……っ⁉」

「残念でした!」

 北野が右腕をすっと後ろに引き、拳を壁に叩きつける。硬化された皮膚と凄まじい打撃力が合わさって絶大な破壊力が生み出され、土の防御壁は粉々に砕け散った。

 飛び散った粉塵が天然の目潰しの役割を果たし、高木は思わず目を細めた。展開されかけていた「ゼウス・アタック」が不発に終わる。視界が限定されたその隙を逃さず、北野はさらに相手に迫る。

「やあっ!」

 鋭い気合とともに、スカートの裾が華麗になびく。右足に履いたローファーの裏が床を軽く蹴り、北野の華奢な身体が数十センチ飛び上がる。

 左足を前に突き出して繰り出されたニーキックが高木の胸をとらえ、数メートル吹き飛ばす。北野は静かに着地すると、パンパンと手をはたいて自信ありげに言った。

「馬鹿。単純に経験値が違うって」


「痛ってえな…」

「だいぶ加減したんだけど?」

 顔をしかめて起き上がった高木に、北野が軽口を叩く。心配している素振りは微塵も見せない。

「怪我はないか」

「大丈夫です。…ありがとうございます、師匠」

 駆け寄って来た杉本に、高木は笑顔で応じた。実際、軽い擦り傷くらいで済んでいる。北野の最後の一撃が本気ではなかったというのは、本当らしかった。もっとも、これはあくまで模擬戦闘なのだから相手に致命傷を与えるのは禁じられている―寸止めで試合終了にするのがセオリーだと師から高木が聞かされるのは、もうしばらく後のことである。それまで彼は、北野が放った膝蹴りが実に意地の悪い攻撃だったことを知らずに過ごすことになるのであった。

「そうか。…最初にしては上出来だ。問題なく術を使えていたと思う。言っておくが、北野に負けたからといって置き込む必要はないぞ。彼女の方が魔術の行使に慣れているというだけだ。お前も、いつか北野と同じくらい強くなる」

「はい!」

 力強い言葉に胸を打たれ、高木は大きく頷いていた。

「言っとくけど、あたしはあんたみたいな素人に絶対負けないから」

 それじゃ、部活に行かなきゃだから―挑発的な捨て台詞を残して足早に退室した北野を見送り、杉本が苦笑する。

「北野は、少し気難しいところがあってな。まあ、仲良くしてやってくれ」

「…分かってますよ」

 向こうに馴れ合う気がないかもしれないことが一番の問題なのだが―と、高木はため息を漏らしたい気分だった。

 初回はこのくらいにしておこう、という師の好意に甘えさせてもらい、じきに高木も魔法協会を後にした。頬の擦り傷が風に曝されて、微かに痺れたような痛みが走る。それは、彼自身の感じている悔しさの象徴のようでもあった。


 次の週末、高木は同じ時刻、同じ場所に呼び出されていた。すなわち、魔法協会地下の演習場である。

 杉本の他には前回と同じく北野がいるだけで、面子に変わりはない。

 ただ、今日の北野は制服ではなかった。薄桃色のゆったりとした服に、露出の多いショートパンツ。組み合わせがややちぐはぐな印象を受けたが、現代風なファッションであるようにも思えなくはない―流行に疎い高木には、その手のことは皆目分からなかったが。

「では、今週も模擬戦を行う。普通ならもう少し丁寧に工程を踏むところなんだが、何せ協会は慢性的な人手不足でな。高木にも、早く戦力になってほしいんだ」

 師は何てことないように言ったが、決して聞き流せるような言葉ではなかった。「人手不足」というのは、暗に過激派との抗争で味方が多数犠牲になっていることを表している。

 それに、「今の状態では戦力にならない」と言われているようでもあり、自分の無力さが不甲斐なかった。

(もっと強くなって…師匠に認めてもらうんだ)

 胸の内に決意を秘め、高木は北野と間隔をおいて向かい合った。両者とも、マジック・ウォッチは装着済みである。

「―始め!」

 杉本の掛け声とともに、二人は白い腕時計型デバイスを前方に突き出した。


『ガイア・アタック』

 先に北野の魔法が発動した。建物の下部の土に干渉することで高木の足元の床が軋み、次の瞬間、大きく陥没する。高木はバランスを崩しかけたが、両足を踏ん張って耐えた。

『アポロン・アタック』

 北野は攻撃の手を緩めない。彼女の前に、円を何個も重ねた紋様の紅の魔法陣が展開される。そこから撃ち出された火炎弾が、高木目がけ飛来した。灼熱の弾丸が、目前まで迫る。

『ポセイドン・アタック』

 しかし、高木の発動した魔術がそれを打ち消した。投射された青の紋章から大量の水流が噴き出し、炎を消し止める。攻撃を相殺されたのがやや意外だった様子で、北野はマジック・ウォッチを高木に向けたまま呟いた。

「へー。てっきり避けるものだと思ってた」

「この間そうしたら、誰かさんに芸がないって言われたからな」

 若干の皮肉を交えて答えた。けれども、高木の台詞は北野の神経を思ったよりも逆撫でしてしまったらしい。むっとし、柳眉を逆立てて高木を睨みつけてくる。

「…なんかムカつく。とっとと終わらせてあげる」

 言うや否や、彼女のマジック・ウォッチが合成音声を発した。

『ゼウス・アタック』

 黄に輝く魔法陣から、一筋の雷が音速で射出される。

(…勝った)

 北野はその瞬間、勝利を確信していた。

(さっきのあいつの魔法…発動速度が前と比べて明らかに速くなってた。多分あいつ、得意魔法は水を操る系統のものなんだろうけど)

 魔術を使える人間とそうでない人間がいるように、魔術師の中でもある魔法が得意な者とそうでない者がいる。例えば、杉本は電気を司る「ゼウス・アタック」への適性が高い。高木の場合、以前彼が使用した他の魔法と比べても、先刻放たれた「ポセイドン・アタック」は発動に要する時間がかなり短かった。さらにその効果も、水流を放つという比較的珍しいパターンだった。

(でも、水の魔法じゃ雷には相性が悪い。水は電気を通すから盾としては役に立たない。氷を出現させてバリアみたいに使うのなら何とかなるかもだけど、召喚した水を氷に変換するにはタイムラグが生じる。何より、今のあいつにそこまでの高等技術はない!)

 必然的に、高木は防御のために別の魔法を使わざるを得ないはずだ。だが、土の障壁を生み出す「ガイア・アタック」でも使おうものなら前と同じ要領で攻略できる。北野にはその自信があった。どんな一手を相手が放とうとも、完璧に対処してみせる自負があった。

 その傲慢が、油断が仇となったのかもしれない。

『ポセイドン・アタック』

 予想に反して、高木が選択したのは水の魔術だった。

(馬鹿な奴。わざわざ相性の悪い魔法を選ぶなんて)

 北野が彼を嘲笑うことができたのは、ほんの一瞬だけだった。

 高木が足を踏み出した先の床が、凍てつく。もう一歩を踏み出すと、さらに凍りつく。召喚した地下水が、彼の前に氷の道を創り上げようとしていた。

 そのまま姿勢を落とし、スライディングの要領で氷結した床を滑走する。そのすぐ上を稲妻が通り過ぎ、北野の攻撃は命中せずに終わった。雷撃が向かいの壁に激突し、爆炎を噴き上げる。それを背景に高木は凍った床の上をなめらかに滑り、北野との距離を詰めた。

(嘘⁉…あり得ない。水の状態変化を、ここまで自在にできるなんて)

 意表を突かれ、北野はペースを乱されていた。冷静な思考力が失われていく。

「そっちから近づいてきてくれるなんて…格好の的じゃない!」

 半ば叫ぶように言い、「ゼウス・アタック」を連射する。雷撃の槍が何本も放たれ、怒涛の勢いで目標へ接近した。

「それはどうかな!」

 高木がスライディングの姿勢のまま言い返す。刹那、彼の移動速度が劇的に上昇した。雷撃を巧みに躱しながら凍てつく床の上を高速で滑走し、一気に相手へと迫る。

(あれは「ヘルメス・アタック」…まさか、術式の併用を⁉)

 二つ以上の魔術を同時に使用すれば相乗効果を発揮できるが、体力の消耗も激しい。複数の事象が重なるさまをイメージする必要があるため、難易度はやや高い。

 北野もやってやれないことはない。ただ、魔術師になってからたった一週間でしかない高木に、それほどの潜在能力が秘められていようとは思わなかったということだ。

『アレス・アタック』

 ついに北野の懐に潜り込んだ高木は、二つの術式の効果を解除した。床の凍結が止まり、身体の高速移動も効果時間が終了する。それとほぼ同時に、新たな術が発動された。全身の皮膚が硬化されて筋力が飛躍的に向上し、打撃の威力が跳ね上がる。滑り込んだ姿勢から左手を床に突き、それを軸として大きく右足を蹴り上げた。

『アレス・アタック』

 北野は戦慄を覚えつつ、自身も同じ術式を発動した。この至近距離で魔法を撃つのは、万一躱された場合を考えるとリスクが高い。ならば、防御も兼ねたこの術式が最適だと判断したのだ。全力で右拳を振り下ろす。

 術式の併用と連続発動で、高木の疲労は相当なものだった。しかし両者を比べたとき、「ゼウス・アタック」を乱射した北野の方が消耗が激しいのは明白だった。彼女は息を切らしており、先ほどまでの余裕はどこにも見られなかった。

「…そこまで!」

 高木の蹴りが、北野の殴打が相手に届く寸前で、杉本が制止をかける。激闘の余韻は長く、二人は攻撃を寸止めした状態でしばし固まっていた。

 やがて高木が足を下ろし、大きく息をつく。そのまま、床に大の字になって倒れ込んだ。

 北野の呼吸は荒く、両膝を突いて肩を震わせている。それが単に肩で息をしているというだけなのか、それとも一瞬にせよ劣勢に立たされてプライドを損なわれた羞恥によるものなのかは、遠くから見守っていた杉本には判断できなかった。

「引き分け、という感じか」

 意識してか、あまり感情を込めずに師は告げた。だが二人の対戦者は疲れ切っていて、勝利を喜んだり敗北を嘆いたりする気力は残されていないように思えた。

 高木は床に倒れたまま、弱々しく笑った。


「…高木は、水系統が向いているのかもな」

 杉本は二人へスポーツドリンクのペットボトルを放ってやり、ぽつりと言った。

「やはり、遺伝だな」

 高木は上体を起こしてドリンクを胃に流し込んでいたが、その言葉を聞いて顔を上げた。

「…母さんも、水の魔法が得意だったんですか?」

「ああ。俺はあの頃はまだ若く未熟で、あまり彼女と関わる機会はなかったが…水を操る魔法に長けていたとは聞いている。聡明で、素晴らしい魔術師だったとかだ」

 昔を懐かしむような口調で言い、はっとして口をつぐむ。今は亡き母の話をここで持ち出すのが、杉本にはさほど良い選択には思えなかった。一瞬気まずい沈黙が流れ、不意に北野がスポーツドリンクを飲む手を止めて口を開いた。

「ま、あたしはオールマイティー型だけどね」

 得意魔法を認められたからといって調子に乗らないで、と暗に言っているのだろうと高木は苦々しげに思った。

「すぐに追いついてやるよ」

「本気で言ってる?あんたじゃ無理」

「…まあまあ、頼むから仲良くしてくれよ」

 売り言葉に買い言葉で険悪なムードが漂いかけたところを、杉本の介入がうまく収めた。

「ともかく、二人ともお疲れ様。気をつけて帰れよ」

 それじゃ俺は書類を片付けてから帰る、と言ってにっと笑い、二人の師は一足先に演習場を後にした。


 残された二人は、まだ完全には疲労が取れていなかった。共通の話題もなく、お互い無言でペットボトルの中身をごくごくと飲む。

「…あんたと二人きりとか、あり得ないんだけど」

 やがて北野が呟いた。

「…それはこっちの台詞だ」

 ペットボトルを一旦床に置き、高木が言い返す。

「師匠は何考えてるんだろ。あたしが襲われないかとか心配してくれたっていいのに」

「誰が襲うか」

 即座に否定した。確かに北野美鈴は美少女の部類に入るかもしれないが、特にタイプだというわけでもない。何より、性格に難がありすぎる。とてもそういう対象として見る気にはなれなかった。

 汗で湿った衣服。紅潮した頬。潤んだ瞳。北野は高木を一瞥し、ゆっくりと立ち上がった。

「全否定されるのもそれなりにショックなんですけど。あんた、乙女心が何も分かってない。だから彼女できないんだって」

「うるせえよ。分かってたまるか」

 彼女がいないなどと明かした覚えは全くないのだが、北野はおそらく適当に言っただけだろう。そもそも、京都から関東に出てきてすぐ相手が見つかる方がおかしい。

 少なくとも、北野の心理は分かろうが分からなかろうがどうだっていいと思った。

 先に階段を上り退出する彼女の後ろ姿を見送りつつ、高木は残りのスポーツドリンクを一気に飲み干した。

 そう言えば、さよならの一言もなかった。


 数分後、高木は魔法協会の教会じみた外観の建物から出たところだった。ここから近くの駅まで、少し歩く必要がある。

 協会のある裏通りから大通りに出ると、もうすっかり暗くなっていた。けれども、一定間隔で立ち並ぶ街灯や通り沿いに並ぶ食料品店やコンビニエンスストアの明かりが、適度な明るさをもたらしてくれている。十分、前方の視界が確保されるくらいの明るさだ。

 この道を通るのももう二回目だ。基本的にはこの大通りをまっすぐ駅まで進めばいいので、もう迷う心配はなかった。

 今日の模擬戦で北野に一矢報いることができたのが嬉しくて、高木の足取りは軽かった。

 脅威は突然現れた。

 空から、何かが落ちてくる。それが人であると認識するのに、数秒を要した。辺りにもうもうと土煙が立ち込める。先刻までの高揚した気分はどこかへ消し飛び、高木は油断なく身構えた。

 視界が晴れると、高木の数メートル前の歩道には男が一人立っていた。着地したその足元のアスファルトには、亀裂が走っている。

(「アレス・アタック」…⁉)

 それを使って自分の目の前に現れたのだとしたら、辻褄は合う。驚異的な跳躍力、歩道にひびを入れるほどの筋力、着地しても一切ダメージを負わない硬い皮膚。これらを全て達成できる手段を、高木はこの魔法しか知らなかった―すなわち、この男は魔術師である。

「お前は誰だ」

 高木はシャツの袖をまくり、マジック・ウォッチをいつでも使用できるようにして尋ねた。

「俺だよ、俺」

 男はおどけたようにそう言うと、被っていたフードを後ろに払った。整髪料できっちりと固められた黒髪。以前対峙したときはフードでよく見えなかったが、なかなか端正な顔立ちをした美男子だった。

 白のフード付きパーカーに黒のゆったりしたズボン。彼はまさに、あの日自分と杉本を狙って現れた過激派の刺客に他ならなかった。

「…俺はコードネーム『征』。紹介はそれくらいにしておいて、本題に入らせてもらおうか。君、杉本の弟子で間違いないよね?」

 街灯の光の加減で、向こうからはこちらがさほどはっきりと見えているわけではないらしかった。自分より実力が上であろう相手を前に、すくみそうになる。それを誤魔化そうとするように、やや喧嘩腰に言った。

「だったら何だよ」

「簡単なことさ。君を捕獲すれば、杉本をおびき出す材料に使えそうだ。彼のことだ、上手くいけば君を助けるために命を投げ出してくれるかもしれない」

「お前…っ」

 高木の中を、様々な思いが駆け巡った。一つには、卑劣な戦略を取る男―「征」と名乗っていたか―への怒り。

 協会へ連絡して助けを求めるべきではないか、とも思った。今から携帯電話を取り出していたのではその隙を突かれて攻撃されてしまうだろうが、「ヘルメス・アタック」にはテレパシーのように相手に自分の意志を伝える効果もある。これならば迅速に連絡できるだろう。

 しかし問題は、杉本の話によれば、この魔術は相手の現在地を正確に把握していなければ使えないということだ。杉本が魔法協会にまだ残っていることは分かっているが、どの階のどの部屋にいるかまでは知らなかった。高木はまだ、建物の内部構造をほとんど把握していない。

 種々の情報を総合すると、結論は一つだった。

(―俺が戦うしかない)

 助けが来る見込みはない。ならば、目の前の敵を倒すしかないじゃないか。たとえ、どんなに手強い相手だとしても。

 初めての実戦に、体が、心が震えた。

 高木と「征」が、マジック・ウォッチを装着した左腕をすっと前に出す。闘志が燃え上がる。すくみそうになる体を、湧き上がる熱が後押しする。

 魔術師同士の本物の戦いを、高木は予想よりずっと早く経験することになった。


『ハーデース・アタック』

 「征」の黒いマジック・ウォッチから紫の魔法陣が投射され、その中心点からレーザー光線が放たれる。

『ポセイドン・アタック』

 高木も得意魔法で対抗する。青い紋章が展開された直後、氷塊が高木の前に出現する。レーザーは氷の壁を半分ほどまで溶かしたが、そこで光が霧散して消えた。

「…へえ、もう師匠と同じような技を使えるようになったんだ。やるじゃん」

 「征」は小馬鹿にしたように言い、高木を見つめた。

「そりゃどうも」

 高木はまともに取り合わずに適当にあしらい、次の一手を繰り出した。もう一度青の紋章が輝き、今度はつらら状に凍った氷の弾丸がそこから撃ち出される。猛烈な勢いで迫る氷のつぶてを前に、「征」も再度「ハーデース・アタック」を発動した。巨大な魔法陣が、高木の攻撃を完璧にガードする。

(やっぱり、まだ師匠みたいに敵の防御を崩せるレベルには達してないか…)

 気づけば、体が重かった。

 考えてみれば当然である。模擬戦で北野と激しい魔法の打ち合いを繰り広げて体力を消耗しているところに、さらに魔法を行使したのだ。疲労が蓄積されない方がおかしい。

 悪いことに、相手がメインで使ってくるのは体力を消費しない冥界術。短期決戦でけりをつけない限り、「征」に分があるのは明白だった。

「後先考えない攻撃は嫌いじゃないな」

 高木の心を読んだかのように、「征」はにやにやしながら言った。

「ま、そっちが本気で来るのなら、こっちも本気を出すのが礼儀ってもんだよね」

 再び同じ術式が行使された。だが、今回は今までとは違う。紋章がずっと鮮やかに、陽炎のように揺らぎながら光る。その中から、何かが現れる。

 最初に、長い耳に赤い眼を備えた醜悪な頭部が。次に、鋭いかぎ爪と蝙蝠のような翼を備えた上半身が。最後に、先端の尖った尾をもつ下半身が、紋章からぬっと姿を見せる。全身を真っ黒な硬い皮膚に覆われたその生物は、悪魔そのものだった。

(悪魔を…召喚した⁉)

 驚き、目を見開いた高木を「征」は笑った。

「教わってなかったかい?冥界術は、冥界の魔物を召喚し、使役することもできる」

 そして、ターゲットを指差し、小さく頷く。

 主の命令を理解した悪魔は短い唸り声を上げ、羽を広げて飛び上がった。急降下し、かぎ爪で高木に襲い掛かる。

「……っ」

 高木はぎりぎりまで相手を引きつけてから、ぱっと体を捻って紙一重で攻撃を躱した。そして、ゼロ距離で「ゼウス・アタック」を発動する。

 雷が腹部を直撃し、悪夢の化身は呻いた。アスファルトへ落下し、苦しそうに右手で腹を押さえる。

(よし、これでとどめだ…)

 高木がもう一度雷撃を放とうとしたその時、

「そっちに気を取られすぎだっての!」

後方で待機していた「征」が、紫のレーザー光を何本も撃ち出した。

 魔物を使役している間は、そちらに意識を集中させる必要があるのではないか―という根拠のない先入観が高木にはあったのだが、それは誤りだった。一度召喚し命令を与えた魔物は、任務を遂行するまでずっと従順に行動する。それが完了すれば、勝手に冥界へ帰っていく。彼らには、冥界へ繋がる窓を開く能力が備わっている。

 実際には、「征」は悪魔を戦わせている間自由に冥界術を使うことができた。不意を突かれた高木は防御が間に合わず、横に跳んで回避した。レーザーの一本がシャツの腕を掠め、刹那、膨大な熱量が感じられた。

 実質、この戦いは二対一であることが高木にもようやく分かった。

(くそっ…どうすればいいんだ)

 彼の体力は、徐々に限界に近づいていた。あと三回魔術を使えば限界が来るだろう。「ヘルメス・アタック」で撤退するのが最善のように思えるが、前後を悪魔と魔術師に挟まれたこの状況では、彼らを振り切って逃げるのは困難だ。先刻稲妻を受け倒れた悪魔も、もう立ち上がり気味の悪い遠吠えを響かせている。さらに、「征」という男も同じ術式を使えるため、逃げようとしても追随される可能性がある。

 最低限の魔法の行使だけで、敵を倒し切る必要がある。

「…おやおや、さっきまでの威勢はどこへやら」

 「征」は高木を嘲笑い、再度紫の魔法陣を展開した。そこに刻まれた数字が、幾何学模様が、妖しく光る。

「まさか…」

「せっかくだ、もう一人ゲストを紹介しようと思ってね!」 

 紋章から悪魔の頭部が露わになる。おそらく、高木の背後で唸り声を上げている個体と同一の種族だ。息を飲んだ高木の前方に、絶望感を伴って二体目の悪魔が顕現しようとしていた。

 もはや状況は悪化する一方だった。二体の悪魔と目の前の魔術師をそれぞれ一度ずつの術式行使で倒すより他にないが、それはきっと熟練の魔術師でも不可能なことだと高木は思った。

(せめて、あの男だけでも道連れにして死んでやる)

 死ぬのはさほど怖くなかった。ただ、母の仇を討つことも、師の誇りになることもなく未来を奪われることだけは嫌だった。

 一矢報いてやる―高木は決死の覚悟で、白のマジック・ウォッチを装着した左腕を前へ突き出した。


『アルテミス・アタック』

 次の瞬間、合成音声が響き、銀の矢が三本立て続けに放たれた。天より降り注ぐ矢が「征」を狙う。「征」は咄嗟に上方に紋章を展開して防いだが、代償として発動中の術を放棄しなければならなかったらしい。前方の魔法陣から現れかけていた悪魔の肉体が、魔法陣の消失とともにスパッとそこで切断される。断末魔の悲鳴を上げ、異形の怪物の上半身がぐちゃりと落下した。茶に近い色の血液が切断面から溢れ、高木は思わず目を背けた。

 そして、矢の振ってきた夜空を見上げた。

「何かっこつけてんの。馬鹿じゃないの」

 「アレス・アタック」による跳躍力強化の効果で華麗に着地したのは、先に帰ったはずの北野だった。辺りが薄暗いため、表情は窺い知れない。

「ぼさっとしてないで。逃げるよ!」

「…お、おう!」

 二人同時に「ヘルメス・アタック」を発動し、この辺りを知っていると思われる北野の先導で、高速移動を駆使して全速力で疾駆する。

「邪魔が入っちゃったか」

 「征」は残念そうな、名残惜しそうな表情で言うと、もう一体の悪魔を紋章から冥界へ帰還させた。現れたときとは逆のプロセスで、紋章をくぐって悪魔の体が消える。それを見届け、「征」は小さくため息をついた。

 追おうと思えば追えたが、魔術師二人を相手に追いかけっこをするのはごめんだった。助けを呼ばれてもまずいと判断し、撤収を決める。

「まあいい、このくらい骨がないと倒し甲斐がない」

 言い捨て、彼の姿は闇に溶けるようにして消えた。


 一方、高木は北野に連れられ、街灯の光も届かない裏路地にいた。

「…ありがとな。助けてくれて」

 まずは礼を言う。命の恩人に対して敬意を払うのは当然だった―たとえ、相手が憎らしい人物だったとしても。

「別に。コンビニに寄り道してたらたまたまあんたを見かけたから、買い物ついでに助けてあげただけ」

「コンビニ…」

 相変わらずの不愛想な口調は意識しないことにし、高木は記憶をたどった。そう言えば、戦っていた場所を少し戻った辺りにコンビニエンスストアがなかったか。あの店は確か壁が一部ガラスになっていて、外の様子が見渡せる。

「そっか」

 どう返したらいいか分からなくて、とりあえずそう答えた。

「うん」

 北野も素っ気なく答える。その口元が微かに笑ったように見えたのは、高木の錯覚だろうか。

 その後しばらく、北野は路地の外の様子を窺っていたが、敵の気配はないと判断したらしく、やがて高木のいる路地の奥の方へ戻ってきた。

「大丈夫みたい。じゃ、あたし急ぐから。バイバイ」

「おう」

 軽く手を振られ、反射的に振り返す。急ぎ足で駆けていく背中を見つつ、高木も駅へと続く道へ一歩踏み出した。

 ちゃんと別れの挨拶をしてくれたことに気がついたのは、少ししてからだった。


 次の週末、高木がいつものように魔法協会を訪れていた時、事件は起きた。

 演習場に向かい、杉本、北野と合流する。

 先週、過激派幹部の「征」に襲われたことは、師匠には話さないでおこうと決めていた。あの男のターゲットはあくまで杉本宗一であって、自分は師をおびき寄せる餌として使えると判断されたに過ぎない、と高木は解釈していた。自分を殺すのが目的だったわけではないので、直接的な危険度は低いだろう。それに、師匠に余計な心配をさせたくなかった。杉本なら、たとえ「征」の攻撃を受けても撃退できるだけの技量があるのだから。

 北野も、高木が自分から話さない限りはその件については黙っているつもりらしかった。高木の考えを察しての行動なのか、それとも、単に「何故そんな危険な真似をした」と師に叱責されるような面倒を避けたいだけなのか。高木には判断しかねた。

「―今日は、俺が二人の模擬戦の相手をしよう。思いっきり来い」

 杉本は余裕の笑みを浮かべ、そう言った。弟子に負けるわけにはいかない、否、負けるはずがないという自負が滲み出ている。高木は、自分の師を改めて頼もしく思った。

 その時だった。

 頭上から、轟音が降り注いだ。

「うおっ⁉」

 師匠と向かい合い立っていた高木だったが、床が揺れてバランスを崩しそうになり、咄嗟に近くにあった柱につかまった。揺れは数秒ほどで収まったが、北野も杉本も警戒を隠さなかった。

「何?今の。地震…じゃないよね。振動が上から伝わってきたし」

 北野の呟きももっともだった。

「分からんが、上階で何かあったんだろう。過激派が攻撃を仕掛けてきた可能性もある。様子を見てくるから、お前たちはここにいろ」

 杉本は険しい表情で言い、階段へ向かおうとした。その背に、高木が慌てたように呼びかけ、後を追おうとする。

「待って下さい。俺も行きます」

「あたしだって」

 北野の声が高木と重なる。いつも反発し合っているが、二人とも、師や他の穏健派の魔術師の力になりたい思いは同じだった。

「駄目だ。これは実戦なんだ。北野には何度か俺の任務に同伴させたことはあるが、その時だって後方支援を任せただけだ。経験のないお前たちを巻き込むわけにはいかない」

 杉本は一瞬歩みを止め、振り向かずに告げると、また階段を上り始めた。今度は早足で、一気に駆け上がっていく。茶のコートがなびいて、揺れた。


 悔しいが、師匠の言うことも一理ある。自分がもし弟子をもっている立場だったとしても、同じことを命じただろうと高木は思った。大切な弟子を危険な目に遭わせるわけにはいかない。

 杉本が階段を上る足音がだんだんと遠くなっていく。残された二人は顔を見合わせた。

「またあんたと二人きりなの?最悪」

「うるせえ」

 北野の毒舌にも、徐々に耐性がつきつつある。高木は雑に受け流し、頭を掻いた。

「…しかし、何かもやもやするよな。協会が大変なことになってるってのに、何もできないなんて」

 自分の無力さに腹が立つ。北野は高木を横目で見て、何てことないように言った。

「じゃあ、戦いに行けばいいじゃん」

「何言ってんだ」

 高木は眉をひそめて言い返した。

「師匠の許可もないのに―」

「師匠は知らないけど、あたしたちだって実戦経験がないわけじゃない。そうでしょ?」

 彼の言葉を遮り、北野が強く主張する。

「あんただって、弱い割にはあの魔術師相手に結構善戦してたと思うし。あたしたちも十分戦力になるはずだと思うけどなー」

 語尾をやや伸ばし気味にし、誘うような上目遣いで高木を見上げる。握りしめた小さな手はスカートの裾を軽くつまんでいて、あからさまなあざとい仕草が神経に触る。告げ口されてはたまらないから、高木のことも共犯者に仕立て上げるつもりなのだろう。

「俺が行かないって言ったらどうする」

 媚びを売る北野を無視して質問で返すと、彼女は少しむっとしたようだった。きっと、自分の魅力になびかない男はいないとでも思っているのだろう―魅力的でないと言えば嘘になってしまうのは事実だったが。

「あんたが行かないわけがないじゃない」

 いつもの調子で不愛想に投げつけられた言葉に、高木はすぐには何かを言い返すことができなかった。初めて自分の本心に気づかされた―本当は、自分も師匠についていきたかったのだと。

(そうだ…俺は誰かの力になりたくて、誰かの役に立ちたくて魔術師になったんだ。同じ魔術師の仲間が苦しんでるってのに、黙って見てることなんてできない)

 高木は決意を固め、真剣な表情で北野を見た。

「行こう」

「そう言うと思ってた」

 北野は適当に応じ、不敵な笑みを浮かべた。

 二人は小さく頷き合い、先刻師が上って行った螺旋階段へ向かって走り出した。


 木の扉の半分が、爆風で吹き飛んでいた。

「大丈夫ですか⁉」

 魔法協会の最上階にある会議室へ杉本は踏み込み、声を張り上げた。爆発の中心点がここであることは、被害状況から見て明らかだった。

 穏健派では、権力が一人の魔術師に集中することを嫌い、全ての議題を七人の有力魔術師による話し合いで決定する合議制を採用している。この円卓の会議室は、その七人―通称、「七賢人」だ―の執務室も兼ねている。一線を退いたが高い技量をもつ七人の魔術師が厳正な審査を経て選ばれ、魔法界の未来を決めるのだ。

 その合議の場には粉塵が舞っていて、視界はかなり悪かった。

「…私たちのことなら、大丈夫だ」

 埃に咳き込みながら、近くに仰向けに倒れていた末永という中年の男が答える。白いものが多くなった頭をゆらゆらと揺らし、ゆっくりと立ち上がった。爆発の衝撃で、平衡感覚を一時的に失っているのかもしれない。

「一体、何があったんです」

 末永はまだ少しぼんやりした表情で、話し始めた。

「小型爆弾だ。突然部屋に男が押し入ってきて、私たちの方へ爆弾を投げつけてきた。私が咄嗟に『ガイア・アタック』で障壁を築き、なんとか最悪の事態は免れたが…」

 部屋の奥は埃や煙でよく見通せなかったが、数人の男女の咳き込む音や呻き声が聞こえてきた。

(負傷者は多数、か)

 たとえ通常の兵器であっても、不意打ちで使われれば魔術師でも太刀打ちできない。卑劣な襲撃に、杉本は怒りを感じた。

「その男は、やはり」

「ああ。君の報告にあった、過激派の幹部に違いない。…奴を追ってくれ。この窓から逃げていった」

「…承知しました」

 後から会議室に駆け込んできた他の魔術師たちに七賢人たちの手当てを任せ、杉本は洒落た円形の窓から身を躍らせた。同時に「アレス・アタック」を発動して筋力を強化し、下の駐車場に無傷で着地する。

 宙を自由落下していた刹那に、杉本は敵の姿を視界の隅にとらえていた。向かうべき方角は分かっている。

『ヘルメス・アタック』

(絶対に、逃がさん)

 高速移動の効果を纏った杉本は、作戦を遂行し終え逃走する「征」を全力で追跡した。


 協会にいた魔術師の多くは、円卓の間に押し寄せていた。七賢人の怪我を一刻も早く癒そうと、床に治癒魔法の紋章がいくつも描かれ、その上に老人たちは寝かせられている。マジック・ウォッチに術式が搭載されていない魔術は、発動に手間がかかるのだ。

 その混乱に乗じ、高木と北野は見とがめられることなく進んで行った。部屋の奥まで進み、師の姿を探す。

「あっ、あそこだ」

 窓から外を見た高木が、一点を指差す。茶色のコートを着た男が、その少し先を行く黒ずくめの青年を追っていた。おそらく前者が杉本、後者が過激派の襲撃者だろう。

 北野が後ろをちらりと振り返ったが、誰も若い二人の魔術師に注意を払うことはなかった。好都合なのだから喜ぶべきことだが、力量を認められていないようで一抹の寂しさもあった。

 二人は小さく頷き合い、窓枠に手をかけ、飛び降りた。

『アレス・アタック』

 皮膚を硬化して着地の衝撃を殺し、すぐに杉本を追って走り出す。


 男は足を止め、訝しげに振り向いた。が、追跡者の顔を認めて合点がいったように頷いた。

「奇遇ですね。またあなたですか」

「その台詞、そのまま返させてもらう」

 杉本も「征」を追って疾駆するのを止め、二人は数メートルの距離を挟んで向かい合った。

「穏健派の指導者を襲った犯人は、お前ということでいいんだな」

 杉本は語気を強めて言った。言葉の端々から、怒りが滲み出ている。

「ああ、そうさ」

 対して「征」は、悪びれずにそう答えた。

「お前たちのセキュリティは穴だらけだったよ。俺たちのボスの手にかかれば、あんなものは赤子の手をひねるようなものだ…実に簡単に侵入できた」

 確か、過激派のリーダーと目される人物には魔術への高い適性があるという情報があった。古代の魔術をも知り尽くしているとも聞いている。

「…今までにも、穏健派と過激派の小競り合いは絶えず続いてきた」

 相手からふっと視線を外し、杉本が静かに言った。

「だが、少なくともそれは正々堂々とした勝負だったはずだ。無防備な相手に爆弾を投げつけるなど、魔術師の決闘の精神に反する。これではまるでテロリストだ」

「どうとでも言えよ、おっさん」

 「征」は杉本の言葉の一片も心に響かなかったように、けだるげに肩を回した。

「要は、もう手段を選んでる場合じゃなくなってきたってこと。魔術師の数で負けてる俺たち過激派が戦況を有利にするには、奇襲でも何でも仕掛けて、穏健派の大物を潰すのが分かりやすいやり方だ。あんたのことをこのところ狙ってたのも、そういう魂胆だよ」

 再び視線を敵に合わせ、杉本は低い声で告げた。

「そうか」

 そしてコートを脱ぎ捨ててワイシャツ姿になると、マジック・ウォッチを装着した左腕を前に出した。

「ならば、こちらとしても然るべき措置を取らせてもらおう」

 「征」はそれを見て鼻を鳴らし、整髪料で固めた髪を軽く右手で撫でつけた。その仕草からは余裕が感じられる。左腕の黒い腕時計型デバイスは、相手の方へまっすぐに向けられていた。

「ちょうどいい。どうせ、老人どもが上手く防御しやがったせいで手ぶらで帰るところだったんだ…手土産にお前の首を貰おうかあ!」

 「征」が残虐な笑みを浮かべ、杉本が怒りを露わに拳を握り締める。

『ゼウス・アタック』

『ハーデース・アタック』

 黄と紫の紋章が展開され、爆風が吹き荒れた。


 小奇麗な家々が立ち並ぶ住宅街は真昼でもひっそりと静まり返っていて、二人の魔術師の激闘に注目する者はいなかった。

 杉本が放った雷撃を「征」が飛び退って躱し、着地と同時に魔法陣を投射、そこから一体の悪魔を召喚する。黒い皮膚、赤い眼、蝙蝠のような翼、山羊を思わせる曲がった角―醜悪な外見を備えた怪物は奇怪な鳴き声を発し、杉本へ躍りかかった。

「くっ…」

 右手を突き出し、魔法で防御しようとしたその時だった。

『ポセイドン・アタック』

 全く別方向から合成音声がし、矢を連続で射かけるごとく無数の氷柱が悪魔に向けて放たれる。そのうちのいくつかは魔物の胸に突き刺さり、悪魔は悲鳴を上げてそのまま動かなくなった。

「増援か?助かった…」

 後方を振り向いた杉本は、刹那、言葉を失った。

「…弟子まで引き連れて来るとは、なかなか手荒な歓迎じゃないか」

 「征」がにやりと笑い、楽しそうに二人を見やる。

 彼らから一ブロック離れた地点には、高木と北野が立っていた。


「―来るなと言ったろう」

 杉本は小さくため息をつき、敵へ向き直った。その動作には一分の隙もない。

「…すみません」

 高木よりも先に北野が頭を下げ、慌てて高木もそれに倣う。こういうときだけしおらしい態度を見せる彼女は、世渡りが上手そうだと感じた。

「説教は後にしてやる。その代わり、絶対に死ぬな」

「…はい」

 今度は、高木の方が早く反応した。隣で北野が気に食わなさそうにこちらを見ていたが、無視することにした。対峙するのはこれで三度目となる強敵へ視線を向け、マジック・ウォッチをつけた左手を前に出す。

「なら、三人同時に相手してやるよ!」

 「征」は言うが早いか紋章を展開し、紫のレーザー光を乱射した。杉本、高木、北野はそれぞればらばらの方向へ跳んで回避し、すかさず反撃に転じた。

『デメテル・アタック』 

 高木が、正三角形を重ねた形の、緑の魔法陣を投射する。歩道沿いに並ぶ街路樹から何本もの蔦が伸び、「征」の脚部に絡みついた。

 身動きを封じた一瞬に、杉本と北野が攻勢に転じる。

『ゼウス・アタック』

『アポロン・アタック』

 杉本が紋章から稲妻の槍を、北野が高熱の火球を撃ち出す。「征」は体を覆うほどの大きさの紫の紋章を展開し防御しようとしたが、二人の同時攻撃を防ぎ切るには足りなかった。

 雷と爆炎が紋章の盾を粉砕し、余波で「征」は大きく吹き飛ばされた。念入りにセットした髪は乱れ、まるで心中の動揺の隠喩のようだった。背中から道路に叩きつけられ、痛みに低く呻き声を上げる。ちぎれた蔦が、黒のパーカーにまとわりついていた。

 そこに高木が再度「デメテル・アタック」を発動し、相手の手足を蔓がより固く縛り上げた。両手首を後ろ手に縛ったため、マジック・ウォッチを使うのは不可能なはずだ。

 高木は、敵を追い詰めてそれからどうするかはあまり考えていなかった。拘束し、協会の上層部に身柄を引き渡すような展開になるのではないか、と漠然と予想していた。

 だから予想外だった―次に、北野がとった行動が。

「殺してやる」

 憎悪を秘めた瞳で敵を睨み、縛られて自由に動けずにもがく「征」へと、ゆっくりと近づく。微かな風に、ツインテールにした黒髪が揺れる。

「おい」

 思わずその背に声をかけたが、聞こえていないのか、北野は振り返ることも返事をすることもなかった。そもそも、自分が何故声を掛けようとしたのかも分からなかった。直感的に、このままではまずいことが起こると分かっていたからだろうか。それを止めたいと強く思ったからだろうか。

 北野の歩みが「征」の眼前で止まり、彼女は手のひらを男に向けた。

「…やめろ!」

 はっとした。顔からさっと血の気が引いた気がした。北野は、本当にこの男を殺す気なのだ。

 殺してはいけない。高木の良心が、本能が、そう告げていた。

 確かに「征」は紛れもない悪人だ。未遂に終わったとはいえ、多くの魔術師の命を奪おうとした罪は大きい。

 しかしだからといって、彼を断罪として処刑する行為が許されるわけではないと思う。暴力に暴力で応じるのは、憎しみの連鎖を生むだけだ。連鎖はどこかで断たれなくてはならない。綺麗事だと一笑に付されるかもしれないが、高木はそう思っていた。

『ゼウス・アタック』

 無機質で単調な声が、無慈悲に宣告する。

 ゼロ距離から放たれた高電圧の電流を体内に流し込まれ、「征」の体が激しく痙攣する。数秒後、黒く焦げついたそれはどさりとアスファルトに倒れた。

 両目は恐怖に見開かれ、呼吸は既に止まっていた。


「…何でだ」

 高木は北野に走り寄り、マジック・ウォッチを装着した左手首を掴んだ。細い手首を掴む手が、小刻みに震えていた。

「何で殺した!」

「は?何言ってんの。あたしは―」

「落ち着け、二人とも」

 手を振りほどき、北野が露骨に嫌な顔をする。杉本の仲裁がなければ、あるいは乱闘に発展していたかもしれなかった。

「北野のしたことは、間違ってない。俺が北野の立場なら、同じことをしていただろう」

「それは、そうかもしれないけど…殺さなくたっていいだろ。他に方法はないのかよ。俺には、これが正しいやり方だとはとても思えない」

 初めて師の教えに反発した。師に対してか北野に対してか自分でも曖昧なまま、溢れ出す言葉を繋いでいく。理不尽な現実に対する怒りで、高木は爆発しそうだった。

「―あんたは何も分かってない!」

 けれども、冷や水のように浴びせられた北野の言葉が、彼を冷静な状態へ引き戻した。

「…あたしの母さんも、こいつらの仲間に殺されたの。あんただってそうでしょ」

 一言一言が、その場の全員の胸に突き刺さるようだった。気づけば北野は泣いていた。涙をぽろぽろ零しながら、絞り出すように続ける。こんな彼女を見るのは、高木は初めてだった。

 高木の母は、彼が物心ついてすぐに亡くなった。母のことを思い出そうとしても、ぼんやりとした映像しか浮かんでこない。

 もしかすると、北野はそうではないのかもしれない。成長し、母親との楽しい思い出もたくさんできたある日、突然別れが訪れたのかもしれなかった。彼女の過激派への強い憎しみの根源は、そこにあるのかもしれなかった。

「あんたは、この戦いがどれだけ厳しいのか…知らないの……っ」

 俯き、肩を震わせて、北野は嗚咽交じりで泣いた。高木には、かける言葉が見つからなかった。自分に、何か彼女を励ますような台詞を言う資格があるのかすら分からなかった。

 いつの間にか空は黒雲に覆われ、やがてしとしとと雨が降り始めた。冷たい雨が道路で乱反射を繰り返し、漆黒に染めていく。

「…今回は特別に、説教はなしだ。お前たち、よく頑張ったな」

 杉本は静かに言い、そっと北野の肩を叩いた。そして、濡れるのも構わず、自分のコートを彼女に羽織らせてやった。

「死体の処理は、他の魔術師連中に任せよう。隠蔽工作に秀でた技術屋がいるんだ。…帰るぞ」

 杉本が北野の背を押すようにして、魔法協会へ来た道を戻り始める。

 だが高木は数秒間そこに立ち尽くし、雨に打たれていた。


『伝えたいことがある。放課後、協会に来てくれ』

 高木が杉本からのメールを受け取ったのは、翌日の昼前だった。以前、連絡先を交換しておかないと不便なこともあるだろうとメールアドレスを教え合っていたが、実際に使うのは今日が初めてだった。高木はわけもなく緊張した。

 伝えたいことというのは、昨日の「征」との戦いに関することだろうか。急な呼び出しに、やけに胸騒ぎがした。

 一日の講義を終えて教室を出ると、大学近くの駅から電車で魔法協会へ向かった。

 指示された部屋に入ると、杉本がソファに腰掛けて待っていた。初めて協会に来た時、師から魔法界の現状等を教えられたのと同じ部屋だった。あれからたった数週間しか経っていないのに、随分と長い月日が経ったように感じる。

 少し遅れて北野も入室し、高木の隣に黙って座った。二人は師匠と向かい合うかたちとなる。

 いつもなら鬱陶しそうに、何であんたみたいなのがここにいるのと言わんばかりに高木を一瞥してくるものだが、今日は違った。

 視線を床に落とし、表情は硬い。まるで生気が抜けたような顔をしていた。

 昨日、「征」を倒した後、北野は協会に戻るまでずっと泣いていた。母を過激派に殺された記憶が呼び覚まされたのもその一因だったろう。だが、彼女自身、人を殺める覚悟が本当はまだなかったというのもあり得そうだった。華奢な体が震えていたのは、突き刺すような雨の冷たさのせいだけではあるまい。

 涙を流してはいないが、北野はあの時と近い状態に依然としてあるように思えた。

 暗い雰囲気を払拭するように、杉本は咳払いを一つしてから口を開いた。

「急に呼び出して悪かったな。メールで伝えられない要件でもなかったんだが、やっぱり実物を見た方がいいだろうと思って」

 そう言って、コートの右のポケットから一枚の写真を取り出した。

 そこには、一体の悪魔が写っていた。頭部に三つの眼があり、皮膚は毒々しい緑色。昨日戦った悪魔とは別のタイプだと、一目で分かった。悪魔は白い布の上に横たわっていて、心臓部が何かで焼かれたように黒く焦げていた。

「この悪魔が、どうかしたんですか」

 何も、悪魔の種類について講釈するために自分たちを呼んだわけではないだろう。高木は訝しげに尋ねた。

「こいつだよ」

 杉本は心なしか残念そうに言った。

「こいつが、昨日北野が倒した魔術師の正体だ。あれから数時間後、男の遺体が変化してこの姿になった」

「…えっ」

 北野の視線が初めて杉本をとらえた。思わずか細い声を上げてしまった彼女は、説明を求めるように師を見つめた。

「この悪魔は少々特殊な種に属していて、擬態能力がある。一定時間なら、任意の対象に化けることができるわけだ。どのタイミングでかは分からんが、あの男―高木の話によれば『征』と名乗ったんだっけか―はこいつと入れ替わっていたんだ。本物はもう逃げおおせているだろうよ」

 高木は、はっとしてもう一度写真をよく見た。焼け焦げた心臓部は、北野があの男に雷撃を撃ち込んだ箇所と全く同じだった。

「……つまり、取り逃がしたってわけ。つまんないの。あいつ、あたしたちをコケにしてる」

 北野は口をへの字に曲げて強がるように言った。けれども、その表情はどこか安堵しているようだった。自分が人を殺していなかったと知って得た、束の間の安心感。敵を取り逃がしたのだから、本来喜ぶべきことではない。むしろ、穏健派の魔術師を何度も襲っている相手に逃げられて喜んだりすれば不謹慎もいいところだろう。

 北野は大きく息をつき、気持ちを落ち着けようとするように膝の上に両手を置いた。

(…ほっとすべき局面じゃないことは百も承知だ)

 それでも、高木もその安心感に浸りたかった。

 自分たちは誰も殺していない―少なくとも、今はまだ。それだけで、心が救われたような気がした。

 杉本は自分たちの心を癒すためにここに呼んだのだと、その時高木は悟った。

 北野の目の縁から一筋の温かい液体が零れ落ちたのが視界に入ったが、高木は見ないふりをした。


 東京といっても、中心部を少し離れればいわゆる郊外にすぐ辿り着く。

 その寂れた一画に、長年風雨に曝された廃ビルがあった。所有者は家賃収入で一攫千金を狙おうとしたらしいがとうの昔に失敗し、結局は建物を手放したという。取り壊すにも多額の費用がかかるため、そのまま放置されているということである。

五階建てのビルの三階に、五人の実力派魔術師とその部下たちが集っていた。

「申し訳ありません。穏健派有力魔術師の暗殺には失敗しました」

 「征」は他の四人に―特に指導者である男性に―向かって頭を下げ、作戦の遂行状況を報告した。

 しかし彼らのボスはさほど残念そうでもない風で、軽く手を振って気にすることはない旨を伝えた。

 男の名は黒田雅樹。年齢は四十代前半くらいか。見苦しくない程度に伸ばした髭と鍛え上げられた肉体が、堂々たる威厳を相手に与える。髪には白いものが一本も混じっておらず、実に黒々として若々しい。

「失敗は仕方あるまい。あの老いぼれたちだって馬鹿じゃない。…魔法攻撃の対策ばかり練っている連中にとっちゃ、アナログな兵器をぶつけられるのは青天の霹靂だったろうがな」

 黒田は、乾いた声で愉快そうにからからと笑った。

「今頃穏健派の阿呆どもは、どうやって我々が爆弾を入手したのか調べるのに四苦八苦しているだろうよ」

 ボスの言葉を聞き、スキンヘッドの屈強な男、コードネーム「武」はにやりと笑った。

「俺たちが秘密の入手ルートを持ってるなんて、知りもしないでしょうな」

 そこで一旦会話が途切れ、「征」は誠実にもう一度頭を下げた。

「次こそは、必ず」

「…まあまあ、まずはお前が生きて帰ってきたことを喜ぼうじゃないか。あの杉本相手にダミーを見抜かれなかったのは幸運だ」

 励ますように声をかけたのはコードネーム「覇」。こまめに美容院に通って整えているのではないかと思わせるような清潔感のある髪型に、鼻筋が通った端正な顔立ち。おまけに高身長と、いわゆるイケメンの基準を完璧に満たすタイプの男だ。「征」に微笑みかける笑顔も爽やかだった。

 その時、今まで沈黙を守っていた女が口を開いた。

「…『征』、無理しないでよ?」

 ストレートの黒髪をポニーテール風にまとめた、クールな印象を与える女性だ。声はややハスキーで、何とも言えない妖艶さが漂う。

 コードネーム「威」が「征」に近づく。パーカーを羽織った若き魔術師は顔を上げ、照れ臭そうに笑った。

「分かってるさ」

 「威」も微笑み返す。二人が恋仲であることは、過激派の魔術師の中では周知の事実だった。

「はっ、お熱いこった」

 冷やかすように「武」が口笛を吹き、場がどっと沸く。恥ずかしそうな表情を浮かべた「威」を「征」は歓声に応えるように軽く抱き寄せてみせ、魔術師たちは手を叩いて笑い合った。

 作戦の結果報告はそのようにしてうやむやのまま終わり、一同はそれぞれのなすべき仕事へと散り散りに戻っていった。

 全ては、穏健派を打倒し、魔術師にとってあるべき世界を創り出すために。


「今日は、訓練ではなくお前たちにも任務に同行してもらう」

 その数日後、高木と北野は例のごとく魔法協会に集められた。しかし予定とは異なり二人は応接間に通され、杉本から説明を受けることとなったのだった。

この日は、彼らの関係のちょっとした転換点であったといえるかもしれない。

「えー、つまんないの。せっかく高木をボコボコにしてやろうと思ってたのに」

 北野が大げさにため息をついた。戦闘演習をやるのを、相当楽しみにしていたらしい。

「一言多いんだよ」

 高木は軽く受け流し、師へ視線を戻した。

「…それで、任務というのは?」

「俺としても先週できなかった模擬戦を行いたいところだったんだが、上からの指示でな」

 杉本はまず不服そうな北野に弁明をし、それから高木の質問に答えた。

「この写真を見てくれ」

 コートのポケットから一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置く。そこに写っているのは、どこかの高校らしき制服を着た一人の少女だった。手にはダークブラウンの鞄が提げられている。茶色っぽい髪の毛は首の辺りで切り揃えられていて、大人しそうな印象を受けた。

 童顔で、甘えるような、それでいて少し気弱そうな表情を浮かべている。高木は無意識のうちに、写真に見入っていた。

「―篠崎華()(りん)。都内に住む高校二年生だ。彼女を説得し、穏健派の側に引き込む。それが今回の任務だ」

 杉本の声に、高木ははっと我に返った。

「彼女の父親は名の通った魔術師だったが、過激派との戦闘で負傷、神経系をやられて五年前から昏睡状態で入院している。魔術への適性は十分あるはずなんだが、彼女を含め家族は父親が魔術師だったことは知らないらしい」

 淡々と杉本が話を続けるのを聞きながら、高木は自然と、自分と篠崎という少女の境遇を重ね合わせていた。親が過激派との抗争の中で犠牲になり、自分に素質があることにまだ気づいていない―お互い、似たような運命を辿ってきたものだ。

 いや、自分だけではない。北野も母親を過激派の魔術師に殺されている。

「…それは、やっぱり戦力が不足しているからですか」

 だからこそ高木には、納得できない部分があった。顔を上げ、師匠を見る。

「もちろんだ。先日の襲撃の際に奴が言っていたことが本当なら、今後穏健派と過激派の対立はますます激化するだろう。それで、可能な限りの人員補充をせよとの七賢人からの通達があってな。俺はこの子を担当することになったってわけだ」

 杉本は頭をがしがしと掻きながら言った。

「高木を『征』がマークしていたように、彼女も過激派に目をつけられている可能性が高い。相手の数次第では俺一人では対処しきれないかもしれないから、お前たちにも一緒に来てほしい。若い子がいた方が警戒されないだろうしな」

 確かに、高木の家を杉本が訪ねて来たときは驚いたし不審に感じたものだった。自分たちを連れていきたい理由はよく分かるし、穏健派の事情も理解できる。

「それはそうだと思うんですけど、その」

 師の方針に僅かにでも逆らうのには抵抗があったが、高木は勇気を振り絞って発言した。杉本の眉がぴくりと動き、続けろと目で促してくる。

「この子にも、他の生き方を選ぶ権利があるんじゃないでしょうか。魔術師の世界は過酷です―この世界に足を踏み入れたことを、俺は後悔してません。けど、現実の厳しさを嫌になるくらい思い知らされました。彼女にだって、魔法と関わりを持たずに、普通の人生を送る選択肢があってもいいと思うんです」

「…何か、勘違いしてるようだな」

 杉本は、ふうと息を吐き出した。その目は、テーブルの上の写真へ向けられていた。

「俺は彼女に、魔術師になるよう強制するつもりはない。最後に道を決めるのは彼女自身だ。お前を訪ねたときも、そうだったろ」

 あの時の光景が甦った。突然現れた過激派の刺客。目の前で繰り広げられた、魔法を使った戦い。そして、自分に選択を促す師匠の姿。


『君が今まで通り平穏な生活を送りたいと望むなら、俺にそれを止めるだけの権限はない。だが、今のような戦いが魔術師の世界では毎日のように繰り広げられている。そのことを忘れないでほしい』


 散々悩んだ挙句、高木は魔術師になることを決めたのだった。

「でも、言い方は悪いですけど、あんな誘導尋問みたいなやり方で説得するのはまずいんじゃないですか」

 苦し紛れに反論した高木に、杉本はぴしゃりとはねつけるように言った。

「俺は確かに、多少なりとも誘導的な手法を使ったかもしれん。…だが、お前はそれと知りつつも魔術師になることを選んだんじゃないのか。違うか」

 絶句し、何も言い返せなくなった高木に、杉本は厳しい調子で続ける。

「それに、魔術師の世界の現状が酷いことは、あの時点でのお前だって理解していたはずだ。魔法は、ファンタジー小説に出てくるような不思議でメルヘンチックなものじゃない―殺し合いの道具にすらなり得ると分かっていたはずだ。それでも、現状が酷いからこそ力になりたいと思ったんじゃないのか」

「…はい」

 高木は目を伏せ、消え入りそうな声で言った。

「―あたしも、こっち側の世界に入りたくないって思ったことはない」

 師に賛同するように、北野も口を挟む。

「現実から目を背けて逃げるなんてまっぴら。それに、母さんの仇も討ちたかったし」

 杉本は頷くと、壁にかかった時計に目をやった。時刻は午後三時を回ろうとしていた。二人を見回し、ソファから腰を上げる。

「そろそろ、出発した方がいいな。行くぞ」

「はーい」

 北野は明るく答えて立ち上がった。ついこの間の泣き顔が、嘘のようだった。

 高木も、無言でそれに続いた。

(そうだったよな…俺も全てを承知した上で、それでも戦う道を選んだんだ。彼女も、きっと…)

 けれども、師の言葉から受けた軽いショックは既に去っていた。

これから自分たちがやろうとしていることが本当に正しいのか、という迷いも、いつの間にか消えていた。


 電車に揺られること二十分ほど、高木と北野は杉本に連れられて、とある小さな駅へ降り立っていた。

 杉本はスマートフォンのアプリで地図を確認し、駅から放射状に伸びる通りの一つを選び歩き出した。高木らもそれに続く。

「家に直接行くんですか?」

 歩きながら、師匠の背に高木は尋ねた。この近辺は商業施設など比較的規模の大きなビルが立ち並び、住宅街という趣ではなかった。

「いや、まずは病院だ」

「病院?」

 今度は北野がオウム返しに言う。頭に疑問符を浮かべた弟子たちに、杉本は苦笑しつつ説明した。

「篠崎華燐の父親は入院している、と言っただろ?情報部の調べによれば、彼女はいつも学校の帰りにその病院に見舞いに寄っているそうでな」

「なるほど…親孝行ですね」

 ほぼ毎日父親を見舞いに行くというのは、なかなか殊勝なことだ。高木は合点がいって頷いたが、北野は微妙な表情を浮かべていた。

「前から思ってたけど…情報部の人たちってやってることがストーカーに近くない?」

「まあ、探偵みたいなものだと思ってくれ」

 杉本は再び前を向き、地図アプリを頼りに道を進んだ。


 白塗りの壁のすっきりとしたデザインの建物が見え、一目で病院だと分かった。

「ここだ」

 杉本はそれだけ告げると、自動ドアをくぐり待合室へ向かった。もちろん受付には向かわず、辺りに目を光らせる。

「彼女だと思われる人物がいたらすぐ知らせろ。そろそろ病室から出てきてもおかしくない」

「分かりました」

 高木は了解し、周りの人に不審に映らないよう気を配りながら目的の人物を探した。待合室は混みあっているが、年配の患者ばかりである。高齢者を候補から除外して探せば早そうなものだが、なかなか見つけられない。

 まだ見舞いに行って戻ってこないのだろうか。高木は、わけもなくもどかしかった。


「…お父さん、こんにちは」

 その頃上階にある病室では、篠崎華燐がおずおずとそのドアを開けたところだった。中に入り、静かにスライド式の扉を閉める。

 そして、ベッドの傍に置かれた丸椅子にちょこんと座った。

「お花、持ってきたよ」

 サイドテーブルに生けてある、やや萎れてきた紫色の花と、持参した白く美しい花を取り換える。帰り道にある花屋で買ったものだった。

花を選ぶのは難しい。種類を見分けるのにもちょっとしたコツがいるし、花言葉についてもある程度知っておかないと相手に失礼になってしまうこともある。だが一番大事にしているのは、父が見たら喜んでくれそうなものを選ぶことだ。

花を生け終わると、篠崎はまた父に話しかけ始めた。

「…今日はね、先週にあったテストが帰ってきたよ。平均点は超えてたし、まずまずってところかな。あ、あとね、体育でバレーボールをやったんだけど……」

 取り留めもない話は五分ほど続いた。その間彼女の父は目を閉じ、ベッドに横たわったまま何の反応も見せない。

 顔には酸素マスクがつけられ、腕には点滴のチューブが繋がれている。五年前に脳に損傷を受けたからというもの、ずっとこの状態だった。

 きっと、どれだけ言葉を投げかけても、話を続けても、父の耳に届くことはないのだろう。無言を貫く父に、それでも篠崎は懸命に話題を探し、会話―会話と呼ぶには一方的すぎるが―を続けようとした。

 だがやがて、話すことが何も思いつかなくなった。

 否、続けようと思えば話し続けられただろう。しかし、一切反応をしてくれない父へ言葉をかけ続ける一人語りは辛いものだ。回復の見込みがないことを見せつけられているようでもあり、胸が締め付けられる。

 篠崎が口を閉じると、しんとした病室には微かな空調の音しか聞こえなくなった。

「……じゃあ、また来るね、お父さん」

 立ち上がり、教科書類の詰まった黒のバッグを手に提げる。

 病室を出た彼女の瞳は潤んでいた。父のために何もしてやれない、自分の無力さが嫌だった。


「ねえ、あの人じゃない?」

 北野の指摘に、杉本と高木ははっとそちらに視線を向けた。見れば、一人の女子高生が受付の前を通り出て行くところだった。

 茶色っぽい髪をボブにしていて、幼さの残る可愛らしい顔立ち。篠崎華燐本人に間違いなかった。

 杉本は手に持っていた写真と彼女を今一度見比べ、小さく頷くと結論を出した。

「間違いない、彼女だ。…だが、ここで声をかけるのはまずいな。人目が多過ぎる」

「どうします?」

 自動ドアを通った彼女を目で追いつつ、小声で高木が質問する。

「しばらくは気づかれないよう尾行する。もう少し人気が少ないところまで行ったら、俺が話しかけよう」

「やっぱりストーカーじゃん…」

 低い声で指示を出した杉本に、北野がぼやく。白いショートパンツから露出した足を、無造作に、面倒くさそうに組んでみせた。

「…ともかく、追うぞ」

 杉本は簡潔に言った。高木に続き北野も席を立ち、足音をなるべく立てぬようにして病院を後にした。


 黒い鞄を提げて俯き気味に歩く少女を、三人は距離を置いて尾けていった。今のところ、こちらに気づいた様子はない。少女は病院のある表通りから右に折れて、裏通りに入った。先刻までとは打って変わって、通行人はほとんどいない。鞄につけた赤いストラップに夕日が反射して、きらりと光る。

(やっぱり、普通の女の子なんだな)

 杉本の後に続き慎重に歩みを進めつつ、高木は素直にそう思った。杉本のようにずっと前から過激派と戦っている古参の魔術師でもなく、北野のように小さい頃から戦闘訓練を積んできたわけでもない。魔術師たちの世界を知る前の自分と同じなのだと。

 夕日を受け、少女の影が長く伸びている。映し出されるシルエットは北野ほどスレンダーではないが、適度な丸みを帯びた肢体は女性らしい美しさを備えていた。

 そのようにして三人は数分ほど尾行を続けていたが、不意に少女が歩みを止めた。それに合わせ杉本と北野も立ち止まり、後ろを歩いていた高木は危うくぶつかりそうになった。慌てて体を引いて衝突を避け、前方に目を凝らす。

(何で立ち止まったんだ?師匠の話だと、彼女の家はこの近くじゃないはずなのに)

 その答えは、すぐに明らかになった。

「…グルルルル」

 篠崎の数メートル前方で、三つの頭部をもつ冥界の番犬―ケルベロスが獰猛な唸り声を上げていた。体の大きさは成人男性ほどもあろうか、真っ黒な毛皮に全身を覆われていて、三つの口からは鋭い歯が覗いている。

 さらに少女の左右からは、二体の生ける屍がおぼつかない足取りで近づいていた。何かを掴もうとするかのように両腕を前に突き出し、腐った肉体をよろよろと前進させる。体にはぼろきれのような布を纏っているのみで、醜くただれたような皮膚が露わになっていた。

 そのうちの一体が口を開き、金属質な声で喋り始めた。ひどく耳障りで、人間の発する声だとは思えなかった。

「目標ヲ発見。確保スル」

 それを合図にしたかのように、三体の怪物は徐々に包囲網を狭めていった。

 どさり、と鈍い音がして篠崎のバッグが歩道に落ちる。少女の顔は青ざめ、逃げようにも恐怖で動けなくなっていた。三方向から迫るモンスターを前に、篠崎は歩道にぺたんと座り込んでしまった。

「ケルベロスにゾンビとは…過激派の使い魔か。やはり、彼女も奴らに狙われていたというわけだな」

 電柱の影から飛び出す直前、杉本は悪態を吐いた。

「各自敵を撃破し、彼女を助けるぞ」

「はい!」

 高木と北野が同時に答える。三人の魔術師は左手首のマジック・ウォッチを露わにし、異形の魔物へ猛然と立ち向かった。


 篠崎とケルベロスの間に、黒いシャツの青年が割って入った。理解を超えた状況に圧倒されてしまっている彼女は、座り込んだまま恐る恐る彼を見上げた。

「―大丈夫。こいつらは俺たちが何とかする」

 高木は篠崎の方をちらりと見て、微笑んだ。そして、怪物へ視線を戻す。その表情は真剣そのものだった。

 歯を剥き出しにして突進してくる猛犬を前に、高木は術式を発動し体を屈めた。

『アレス・アタック』

 高木の全身の皮膚が鋼の如く硬化される。そのクロスした両腕にケルベロスは噛みついたが、シャツの袖を引き裂くにとどまった。肌には全く歯が立たず、冥界の番犬は戸惑ったように何度も噛みつこうとした。しかし、高木の皮膚には傷一つつかない。

「どうした化け物…もっと味わえよ」

 高木は腕に一層の力を込めた。不意に、噛みつかれた姿勢のまま立ち上がる。続いて、よろめいたケルベロスのがら空きになった胴体に向かって、右足で回し蹴りを放った。

 筋力が強化された状態での渾身のキックが命中し、怪物は体を折り曲げて数メートル吹き飛ばされた。路面に倒れ呻き声を上げている猛犬に向かい、再びマジック・ウォッチを付けた左手を突き出す。

『ポセイドン・アタック』

 展開された青の紋章の前方に、いくつもの氷柱が形成され浮遊する。氷の刃の切っ先は、全て同じ方向を向いていた。

「とどめだ!」

 高木の声と同時に、氷の弾丸が一斉にケルベロスへ向けて放たれる。高速で飛来する魔弾から逃れるすべはなく、冥界の番犬は一瞬のうちに全身を貫かれた。

 黒い血を流して崩れ落ちた敵を見下ろし、高木は額の汗を手で拭った。振り返り、尻餅をついたままの篠崎に手を貸す。

「助けていただいてありがとうございます。あの、私、何がどうなってるのかさっぱりで…」

 手を取って立ち上がると、彼女は困惑した様子で高木に尋ねた。吸い込まれそうなくらい透き通って綺麗な瞳を見つめてしまいそうになって、高木はぱっと目を逸らす。心なしか顔が熱くなっていた。

 動揺を悟られぬよう、冷静を装って逆に質問する。

「…魔術が存在するって、信じる?」

 

『アポロン・アタック』

『ゼウス・アタック』

 北野が撃ち出した火球が、杉本の放った雷撃が、二体のゾンビそれぞれに繰り出される。直撃を喰らった屍たちはのけぞり、奇怪な叫び声を上げた。元々腐りかけている皮膚にはさほどの耐久性はないらしく、今の攻撃でほとんど消し炭と化している。

 だがゾンビたちはすぐに体勢を立て直し、二人へ向かってよろよろと迫り始めた。

「…しぶとい奴らだ。一気に畳み掛けて決めるぞ」

「はいはいっと」

 苛立ったように言う杉本に、北野はいつもの軽い調子で答えた。二人の魔術師が、横並びで左腕を前に突き出す。

 黄色の魔法陣が二つ投射され、そこから何発もの稲妻が発射された。超高電圧の連撃を喰らった屍たちの皮膚は真っ黒に焼け焦げ、地に倒れ伏し動かなくなった。


「―と、まあ、そういうわけだ」

 高木と杉本が交代で説明をするという形で、魔術や魔術師の世界についての説明を篠崎に終えたところだった。話の内容は、かつて杉本が高木にしたものとほとんど変わらない。

 違いがあるとすれば、家族関係のところくらいだろうか。篠崎の父は表向きは会社員として生活していて、意識不明の重体に陥ったのは通勤途中に事故に遭ったからだと家族には説明がなされてきた。けれども実際には、過激派の魔術師との戦いで脳に損傷を受けたことがその原因であった。

杉本が言葉を切り、彼女を見つめる。高木は、後は師匠に任せようと後ろに下がり北野の横に並んだ。

「無理強いするつもりはないが、もし君が望むのなら、俺たちと一緒に戦ってくれないか」

 高木は二人を見守りながら、まるで自分が問いかけられているかのような緊張感を抱いていた。篠崎は俯き、まだ迷っているように見えた。彼女がどんな答えを出すのか、高木は固唾をのんで見ていた。

 はたして、彼女はどちらを選ぶのか。魔術師として戦いに身を投じるのか、それとも普通の女の子として争いと何の関わりもない人生を送るのか。

 やがて、篠崎は顔を上げ、杉本をまっすぐに見て言った。

「…はい」

 やや強張ってはいたが、その表情からは固い決意が見て取れた。

「父があんな風になってしまったのも、魔術師の間での戦いのせいなんですよね…。私がどれくらい皆さんの力になれるかは分からないですけど…でも、戦争を終わらせることに私も貢献したいんです。私にその素質があるということは、戦う責任があるってことだと思うんです」

「…それが、君の答えか」

 頷き、肩を叩いた杉本を見て、ああ、やっぱりな、と高木は思った。

(俺と同じだ)

 詳しい話は週末に魔法協会に来てもらってからすることにして、杉本は篠崎を家まで送っていくと言った。

「まだ過激派の刺客が隠れている可能性もなくはない。念には念をだ」

 三人で篠崎を囲むようにして歩く様子は、傍から見たら少々おかしかったかもしれない。

 結局その日の襲撃は使い魔の一件のみで、篠崎を無事にアパートへ送り届けた後、任務は完了となった。

「一応、彼女の家に過激派の者が来ても対処できるよう、警護をつけてある。もう大丈夫だろう。今日はこれで解散にする」

 杉本はにっこりと笑い、本日の訓練の終了を言い渡した。


 駅までの一本道を、高木と北野は一緒に帰っていた。

「まあ、上手くいってよかったよな」

 今日一日を振り返り、高木が呟く。遠くに小さく見える夕日は沈みかけていて、辺りは暗くなりつつあった。

「…あの子、篠崎華燐って言ったっけ」

 一方で、北野は何か考え事をしているようだった。

「ああ、そうだけど」

「可愛くない?」

「は?」

 意外な質問に、高木は戸惑った。この問いには何か意味があるのか、それともただ単に自分の考えを聞きたいだけなのか。

「…普通に可愛いと思うぞ。何というか、小動物的な可愛さっていうか」

 逡巡を振り払い、彼女の容姿を思い出しながら慎重に答えた。決してまずい回答ではないはずだ。

「馬鹿」

「…え?」

 が、北野は膨れっ面で高木を睨んでいた。

「あたしよりあの子の方が可愛いって言いたいの?」

「…いや、何でそうなるんだよ。北野が可愛くないとは言ってないだろ」

 高木は内心辟易していた。一体、どう応じればよかったというのだろう。まるで話が通じていない。

「もういい」

 言うが早いか、北野は早足で歩き去ってしまった。残された高木は、少しの間ぽかんと口を開けて彼女の後ろ姿を見送っていた。


「…失敗ね。やっぱりあの魔術師と弟子たちは侮れない。『征』が苦戦しただけのことはあるわ」

 戦闘が繰り広げられた住宅街から数十メートル離れたビルの屋上から、「威」と「武」は事態を傍観していた。ケルベロスは「威」が、ゾンビは「武」が召喚を得意とする魔物である。彼らはここから眷属たちを操り、篠崎華燐を狙ったのであった。

 同じく手すりに体を預けたまま、「武」が言う。

「ま、低ランクの魔物じゃあれくらいが限界だろ。それにしても、奴らがボディーガードについてるとはタイミングが悪い…」

「…あー、もうむしゃくしゃする。帰るわよ」

 唐突に「威」が体を手すりから離し、非常階段へと歩き始めた。「武」が急いでその後を追う。

「お、おい待てよ」

 頭を剃り上げた屈強なこの男も、女の気まぐれには勝てない。「威」は、ポニーテールにした黒髪を揺らしながら階段を駆け下りていく。

「…どうせなら『征』と一緒の作戦がよかった」

 膨れて言う彼女に「武」は苦笑いして、自分も階段を一段飛ばしで下り始めた。

「あいつは今忙しいからなあ…杉本を倒すための術を練り上げるために」

 

 その週末は少々慌ただしかった。

「今日から彼女も俺の弟子になることになった。仲良くやれよ」

 いつもの演習場で、杉本は高木と北野を交互に見て言った。

「よ、よろしくお願いします!」

 杉本の後ろでぺこりと頭を下げたのは篠崎華燐だ。今日は私服で、紺色を基調とした、清楚な印象を与えるコーディネートだった。ゆったりとした衣服からは、彼女が命を懸けた戦いの道に踏み出した魔術師だとは想像もつかない。

篠崎を他の魔術師のところに回すことも考えたそうだが、一緒に高め合う仲間がいた方が彼女にとってもいいのではないかと考え直し、自分の弟子にすることに決めたという。先日の襲撃の影響でどの部署も忙しく、そんな余裕のないところが多いのも一因だろう。

 魔術師の育成を担当している杉本も、それなりに多忙なようだった。

「…すまんが、報告書を書けと上がうるさくてな。しばらくしたら戻るから、篠崎に魔術の使い方をレクチャーしておいてくれ。簡単にでいい」

 師は腕時計型デバイスに表示された時刻を見て顔をしかめ、それだけ言うと早足で演習場を出て行った。報告書というのは、おそらく先日の任務の結果についてだろう。螺旋階段を上る足音が、徐々に遠くなっていく。

 残された高木は、やや遠慮がちに切り出した。

「魔術について、基本的なことは教わった?」

「はい。どんな種類があるかとかは、教えてもらいました」

 篠崎が礼儀正しく答える。その左手首には、自分たちと同じ白いマジック・ウォッチ―魔術師の証が巻かれていた。

「なるほどな…じゃあ、次は実際に魔法を使ってみようって感じか」

「はい」

 まだおどおどした印象が否めない篠崎に、不意に口を開いた北野が言った。

「それなら、あたしと模擬戦してみるのはどう?」

「えっ…」

 篠崎は戸惑ったような表情を浮かべ、返答に窮した。

 高木としては、特に反対する理由は思いつかなかった。自分のときも、習うより慣れよだといきなり北野と模擬戦をやらされたからだ。

 だが、上手く言葉にできない不安が胸の中にあった。不敵に笑っている北野が何を考えているのか、彼には見当もつかなかった。


(あたしは優秀なの。そうでなくてはいけないの。まだ小学生だった頃から訓練を積んできた、将来有望な魔術師なんだから…)

 北野は微笑んで篠崎の答えを待ちながら、自身に言い聞かせた。

(それなのに、何で、何で…)

 彼女にとって、二度目の模擬戦で高木と引き分けたことはかなりの屈辱だった。実戦経験こそあまりないものの何年も鍛錬を重ねてきた自分が、ついこの間魔術師になったばかりのひよっこに一瞬にせよ押されるなんて論外だった。

 初めて高木と戦ったとき、師匠は負けた高木に言った。「お前も、いつか北野と同じくらい強くなる」と。

 そのいつかは、予想していたよりも早く訪れるのではないだろうか。水の魔法に驚くほどの適性の高さを見せた彼は、本人は無自覚のようだが目に見える形で成長を続けていた。もしかすると、自分が追い抜かれる日も近いのではないか―。

(違う。そんなことはあり得ない。あたしは強い…強くなくちゃいけない)

 信じてきた自身の才能への懐疑、高い適性を備えたライバルと日々比較される焦燥、ストレス―ぐちゃぐちゃになった思いが、心に傷を生む。北野は、篠崎と戦うことで自尊心を満たそうとしていた。強い魔術師としての自分を再確認するには、それくらいしか思いつかなかった。


(やっぱり、やめさせよう)

 直感的にそう判断した高木は、北野に声をかけた。

「やめとこう。師匠の許可なく模擬戦なんかやったら、まずいことになるかもしれない」

 理由は北野を止めるために咄嗟に思いついたものだったが、不自然さはないだろう。

 自分でも、何故止めようと思ったのかは上手く説明できなかった。師の監督がないのは問題かもしれないが、訓練の一環としては悪くはないやり方だ。ただ、最初に北野と戦闘演習をしたとき手痛い膝蹴りを受けたのを覚えている。本来相手への直接攻撃は禁止で寸止めがルールであるのに、高木がまだ規則を知らなかったのをいいことに一撃を喰らわせてきたのだ。北野が、あのときと同じようなことを篠崎にもするのではないか―そう思うと、わけもなく心配になった。

「…いいんです、先輩。受けて立ちます」

 しかし、篠崎は高木をそっと手で制し、北野をまっすぐに見て答えた。

「決まりかー」

 北野は満足そうに頷き、シャツの袖をまくった。日焼けしていない細い腕と、手首に巻かれたマジック・ウォッチが露わになる。

「それじゃあ、早速始めよっか。いつでも魔法を発動できる状態にして、ちょっと距離を取って」

 篠崎は北野の指示に素直に従い、壁の方へ十歩ほど下がった。そして、デバイスを装着した左手をゆっくりと前に出す。今にも模擬戦は開始されようとしていて、高木にはどうしようもなかった。

「もうあと十秒くらいしたら始めるね。審判、開始の合図よろしく」

「俺かよ」

 高木は戦いに巻き込まれないよう壁際に下がり、ぼやいた。が、他に誰もいないのだから当然の役回りでもあった。

「…北野」

「何?」

 嫌な予感は振り払えない。せめてもの抵抗として、釘を刺しておくことにした。

「くれぐれも変な真似はするなよ」

 振り向いた北野は目を瞬かせ、少し驚いたような表情を見せた。

「…は?当たり前でしょ。何言ってんの」

「だよな」

 相変わらずの毒舌で返され、高木はやれやれと思いつつ適当に応じた。

(万が一あいつが何かしそうになったら…俺が止める。必ず)

 そう心に誓い、高木は二人の対戦者を見た。両者とも、既に準備は万端だった。

「―始め!」

 高木の合図とほぼ同時に、北野が赤の魔法陣を展開した。一拍遅れて、北野も茶色の紋章を投射する。

 魔法が次々に炸裂し、演習場は極彩色の戦場と化した。


「はあっ!」

 北野が素早く繰り出した数発の火炎弾を、篠崎は演習場の床を隆起させて生み出した土の障壁で防いだ。高熱の炎が命中し、壁が黒く焼け焦げる。けれども、術者は無傷のままだ。北野がちっと舌打ちをする。

『ゼウス・アタック』

 ならばと、北野が続けて黄の紋章の中心から稲妻を撃ち出す。篠崎は横に跳んで躱し、すぐに反撃した。

『ガイア・アタック』

 再度大地を司る魔術を発動し、北野の足元の床を大きく陥没させる。さすがの北野も、余裕を保つのは難しかった。バランスが崩れふらついた隙を突いて、篠崎が攻撃を仕掛ける。

『ポセイドン・アタック』

 宙に浮かび上がった氷の剣が、雨のように相手へ降り注ぐ。北野は咄嗟に「アレス・アタック」を使い、両腕で体を庇った。零度の刃が次々とその華奢な体に命中するが、肌には傷一つつかない。

(「ガイア・アタック」の使い方が特に上手い…土の魔術に適性が高いんだろうな)

 離れた位置から戦いを見守りつつ、高木は思った。以前北野と模擬戦をしたときにも同様に足元を狙われたが、篠崎の方が陥没の度合いが大きい。瞬時に反応して防御することもできているし、その技量はなかなかのものだった。

 ちらりと彼女の表情を窺い見ると、緊張し、それでいてどこかわくわくしているようでもあった。

(ちょっと前の俺にそっくりだ)

 魔術を使うという初めての経験に驚き、少しの恐怖を感じつつも、未知の力を意のままにする興奮を味わう。魔術師としての第一歩を踏み出した者が、必ずと言っていいほど通る道だ。

「このっ…!」

 苛立ちを露わに、北野が唸る。新人がベテラン相手に善戦している現状を見る限り、高木にも彼女の心境は分からなくはない。ただ、あまり共感はしなかった。

 視線を北野に戻しかけ、高木はぱっと目を逸らした。頬がほんの僅かに赤くなっているのを自覚する。先ほどの氷の弾丸を浴びても肉体にダメージはなかったようだが、衣服はその限りではない。青いスカートの裾が少し破け、大腿部が大胆に露出していた。

 しかし、本人はそんなことは気にも留めていないようだった。いや、多分気づいていないのだろう。目の前の相手を倒すことに病的に執着し、周りが見えていない。

『アポロン・アタック』

 北野が紅の魔法陣を展開し、火球を連続で放つ。篠崎は前方の床を隆起させて壁をつくり、今度もそれを防ぐことに成功した。

『ポセイドン・アタック』

 だが、今回は北野が一枚上手だった。間髪入れずに魔法陣から射出された氷のつぶてが、障壁を容赦なく叩く。灼熱と絶対零度、両極の攻撃に耐えられず、壁は温度差でついに破壊された。

 このような術式の連続発動は、術者への負担も倍増する。むやみに術を使うな、と師匠からは止められていたのだが、北野はそんな忠告に構っていられなかったらしい。

 万一使うとしても、奥の手としてのみ使えと言われている。連続使用は必殺の一撃にもなり得るが体力の消耗が激しいため、使いどころが難しい。そんな禁じ手にも近い行為を、北野はやったことになる。

(…少なくとも、初心者相手にやることじゃねえだろ)

 審判の高木は、北野が優勢に立ったのを苦々しい思いで見ていた。

 一方で、ぼろぼろと崩れ土へ還っていく障壁を見て、篠崎は唖然としている。こんなに一瞬で防御が破られるとは思っていなかったらしい。

「わ、わわっ…!」

 あたふたと次の術式を発動しようと構えるが、その時にはもう北野は動いていた。

『アレス・アタック』

 脚力を限界まで引き上げた北野が、高く跳び上がる。土の壁は確かに強力な盾になるが、カバーできない上からの攻撃なら防ぎようがないと踏んだのだろう。もっともドーム状の障壁を築けばガードも可能だが、今日魔術師になったばかりの篠崎がそんなテクニックを習得しているはずもなかった。

(やばっ…)

 シャンデリアに届くほど跳んだ北野から、高木はまたもや目を背けかけた。角度的に下着が目に入ってしまってもおかしくはない―が、恐る恐る目をやると、スカートの下にはショートパンツを履いていたことが分かった。

 けれども、そんな些細なことに安堵している場合ではない。

 攻撃を防ぐ術がなく、震えて立ち尽くす篠崎と、上方から猛攻を仕掛けようとしている北野。状況はあまりにも危険だった。

「あ…」

 怯えて後ずさる篠崎を、北野が血走った目で見下ろす。

『ゼウス・アタック』

 生成された巨大な雷撃の槍が、光の柱となって篠崎へ迫った。輝く光の奔流が、無慈悲に少女を狙う。それはまさに一撃必殺―体力の温存を度外視した、北野の渾身の攻撃だった。篠崎が悲鳴を上げ、自らを抱き締めるようにしてうずくまる。

(…まずい)

 考えるより先に、体が動いていた。

『ヘルメス・アタック』

『アレス・アタック』

 この際、術式の連続発動は避けるべきだとか、細かいことを気にしている余裕はない。二つの魔術を併用した高木の身体が超加速され、篠崎との間の距離を一瞬でゼロにする。彼女を抱き上げるとそのまま疾走し、演習場の反対側の壁まで逃れた。ここまでは雷撃も届くまい。

 疾駆するのを止めて立ち止まると、どっと疲労感が押し寄せてきた。やはり、連続使用は滅多なことではするものではない。

 しかし、北野ほどではないはずだった。

 雷が床に落ち、地階全体が振動する。視界を閃光が覆いつくし、轟音が響き粉塵が飛び交う。高木は、反射的に腕で顔を庇った。

 やがて視界が明瞭になると、爆風の晴れた中心点に北野が立っていた。

「何で邪魔したの」

 むっとしてこちらを見ている彼女に、高木は言い返した。

「寸止めのルールを守らなかったからに決まってるだろ。もう勝負はついてた。あそこまでやる必要はない」

「…そうするつもりだったのに。本気で当てる気だったわけないでしょ?」

 ああ言えばこう言うとはこのことである。正直なところ、高木には北野と口喧嘩して勝てる自信はなかった。

 不意に、北野の身体がぐらりと揺れる。たたらを踏みなんとか姿勢を戻したが、無茶な魔術の使用による消耗は隠せていなかった。

「あーもう、服に砂ついちゃったじゃない。馬鹿」

 誰に対してか分からない文句を吐き捨てるとくるりと背を向け、北野は螺旋階段へよろよろと歩いていった。

「どこ行くんだよ」

「トイレ」

 高木がその背中に問うと、素っ気ない答えが返ってきた。

「やれやれ…」

 彼女の姿が見えなくなり、大きくため息をつく。このメンバーで上手くやっていくのは思ったより大変なことなのかもしれない。

「あの…先輩……」

 彼はそのとき初めて、自分が篠崎を抱きかかえたままであることに気づいた。頬を紅潮させている彼女の体温が、心なしか高く感じられる。

「あっ…すまない」

 顔が真っ赤になっているのを自覚しながら、そっと篠崎を地面に下ろした。手を貸し、立つのを手伝ってやる。戸惑ったような表情で見つめてくる瞳は、高木の心拍数を無駄に引き上げた。

「いえ…あの、ありがとうございました」

 礼儀正しく一礼した彼女に、高木はどぎまぎしつつ謙遜して答えた。

「いや、当然のことをしただけだよ。さすがに度が過ぎてたから」

 そう言って、照れくささを誤魔化すように歩き出す。

「…えっと、どちらへ?」

 きょとんとして篠崎が尋ねた。

「ちょっと、手洗いに」

 振り向くなんてできなかった。篠崎の表情が眩しすぎて、直視なんてできなかった。

「……やけに派手にやったもんだ」

 十数分後、戻ってきた杉本に一同が油を絞られたのは言うまでもない。


 生まれ育った京都の町から上京し高木が大学生活を始めてから、はや数か月が経過していた。

 それなりに友達はできたし、必修の授業のクラスの人とも比較的上手くやっていると思う。サークルは試しにいくつか入ってはみたが、雰囲気が合わないと感じて結局やめてしまった。それに、週末に魔法協会へ訓練に向かうのが習慣になってからは忙しく、課外活動に充てる時間はあまりなかった。

 高木の所属している文学部では、必修は語学のみと進級条件は緩い。英語とドイツ語の勉強さえ怠らなければ、普段の講義の中で困ることはなかった。時々、授業についていける程度に予習・復習をしておけば問題はない。

 とはいえ、いずれ専攻ごとに分かれれば忙しくなるだろうし、さらにその先には就職活動も控えている。のんびりしていられるのは今のうちだということは、十分分かっていた。高木が今のところ考えている心理学専攻は、単位取得が難しいとの噂もよく耳にする。

 だからこそ、限りある今の時間を大切にしたいと思っていた。

 サークルに所属していなければ、何か用事でもない限り放課後大学に拘束されることはない。余裕を持って帰宅し、空いた時間には本を読んだりして過ごした。一人暮らしに慣れてくると、毎日の食事のメニューを何にしようか考えるのが楽しかったりもした。時間があるときには自炊もやってみている。

 ゆくゆくはアルバイトにも挑戦してみたい、と思う。

 そんな平穏な日常は、しかし、魔術の介入でしばしばかき乱される。


「すまん、急用ができた」

 いつも通り演習場に高木たちを集めた直後、杉本は数分間その場を離れた。そして戻ったときには、出し抜けに本日の訓練の中止を言い渡したのだった。

 当然、高木は困惑した。

「何かあったんですか?」

「悪いが、今は詳しくは言えん。用が片付いたら話す」

 杉本は、いつになく険しい顔つきでそう言った。

「あの、北野さんがまだ来てませんけど…」

 そこに、篠崎が遠慮がちに口を挟む。普段なら集合時間の十分前には必ず到着している彼女にしては、珍しい遅刻だった。

「北野には俺の方から中止の連絡をしておくから、問題ない。それじゃあ、急ぐんでな。せっかく集まってもらったところ申し訳ないが、解散だ」

 言うや否や、杉本は踵を返して階段の方へ足早に向かった。カンカンカンカン、と螺旋階段を上る足音が反響して聞こえる。残された高木と篠崎は、どう反応していいのか分からずにしばらくの間そこに立ち尽くしていた。

 杉本の表情は暗かったが、その目には使命を成し遂げてみせるという強い思いが溢れていた。


『お前の弟子を一人、人質にとっている。返してほしければ二神海岸に来い。今すぐにだ』

 五分前、高木と篠崎に適当な口実をつくって演習場を離れたとき、杉本は耳元に届けられた何者かからのメッセージを聞いていた。

 これは「ヘルメス・アタック」のもう一つの用法を用いた伝達方法だ。遠くにいる相手に、術者の意思をテレパシーのように伝える。使うにはメッセージを届ける相手の現在位置を把握しておく必要があるはずだが、推測するに北野を脅して居場所を吐かせたのだろう。

 謎のメッセンジャーの声に、杉本は聞き覚えがあった。忘れるはずもなかった。

「お前、過激派の『征』か」

『正解。やっぱり分かっちゃうか、何度も戦った犬猿の仲だしね』

 皮肉交じりのふざけた口調に一転し、「征」が楽しそうに笑う。

『先に言っておくけど、穏健派のお仲間は連れてこないこと。そうした場合、弟子の命は保証しかねるからさ』

「…分かった」

『できるだけ早く来ることだね。あまりにも遅かった場合は、人質は処分させてもらうよ。それじゃ』

 そこで唐突に通信は切られた。杉本の心は、怒りに燃えていた。

(…北野がまだ来ていない理由はこれか)

 魔法協会に向かう途中に「征」に襲われ、捕縛されたのだろう。以前、協会に直接乗り込んでテロ紛いの事件を引き起こした連中なのだ、それくらいのことは造作もないように思えた。

(増援は呼べるはずもない。弟子の二人を巻き込むなどもってのほかだ)

 やはり、自分一人で何とかするより他にないのだと杉本は思った。指定された場所に一刻も早く向かい、「征」を倒して北野を助け出す。

 無論、罠だということは百も承知だ。だがそれでも、杉本に他の選択肢はなかった。


「…なんか、変じゃないか」

 解散となった後も呆然として演習場に残っていた二人だったが、やがて高木が考え込むような表情を見せながら言った。

「師匠の様子、普通じゃなかった」

「私も、そう思います…」

 篠崎も同意する。

「何だか、とても慌ててるみたいでした」

 ただ事ではない気配を感じ取ったのは、二人とも同じだった。

「―よし」

 俯いていた顔を上げ、高木が真剣な表情で言う。

「…追いかけよう。少しでも俺たちが師匠の力になれるのなら、ついて行った方がいいと思う」

「…はい」

 篠崎が神妙な表情で、こくりと頷く。それで決まりだった。

 篠崎を連れて長い階段を上がり、協会の外に走り出る。黒のバイクに跨り、風を切って走る茶のコートの男が道路の前方に見えた。

『ヘルメス・アタック』

『アレス・アタック』

 高速移動と筋力強化の術式を併用し、二人はこっそりと師の後をつけた。


 漆黒に塗られた大型バイクが停車し、ドライバーは同色のヘルメットを外して辺りを素早く見回した。

「随分早かったじゃないか」

 嘲るような声を掛けられぱっと振り向くと、十メートル離れた砂浜に、にやにや笑いを浮かべた「征」がポケットに両手を突っ込んだ格好で立っていた。グレーのパーカーに、体にフィットした黒のズボンといった出で立ちだ。いつも以上に念入りに髪をセットしてきたらしく、努力の跡が見える。

 その後ろでは、頭を剃り上げている筋骨隆々とした男が北野を連れて立っていた。後ろ手に縛られ、さるぐつわを噛まされた彼女は砂の上に乱暴に転がされ、目で必死に助けを求めていた。手首に何もつけていないところを見ると、マジック・ウォッチも奪われたらしい。

 不幸中の幸いか、目立った外傷はない。おそらくは不意打ちを受けて連れ去られたのだろう。正面から戦ってそう簡単に相手に屈したとは思えなかった―共に長い時間を過ごした一番弟子の性格は、杉本が一番よく理解していた。

「貴様らの狙いは俺だろう。早く弟子を解放しろ」

 憎しみを込めた視線をぶつけても、コードネーム「征」と名乗る男に動じた気配はなかった。ポケットから両手を出して大きく伸びをすると、仲間の屈強な男の方を向く。

「…だってさ、『武』」

「はっ、放すわけがねえだろう」

 「武」と呼ばれたスキンヘッドの男は鼻で笑った。どうやらそれが彼のコードネームらしい、と杉本が察する。

「確かにこのガキの役目は終わった。お前をおびき寄せるための餌でしかねえからな」

 北野の脇腹をブーツで軽く蹴飛ばしながら、「武」は続けた。さるぐつわを噛まされた彼女はくぐもった呻き声を上げ、熱い砂の上を無様に転がった。薄ら笑いを浮かべて男が言う。

「…だが、こいつの未来を断っておいた方が俺たちにとっちゃ都合がいいんでな」

「―ふざけるな」

 その瞬間、杉本の目に憤怒の炎が宿った。

「俺の弟子に手出しはさせない」

 マジック・ウォッチを装着した左手をすっと前に出し、杉本が戦闘態勢に入る。対する「征」も同様に、黒の腕時計型デバイスを巻いた手を突き出した。その口元には、嫌味な笑みが残ったままだった。

「これを見ても、虚勢を張っていられるかな?」

 刹那、彼の手のひらの前に、三角形と四角形を組み合わせたデザインの紫の紋章が出現する。

『ハーデース・アタック』

 この術式には多種多様な効果がある。レーザー光による攻撃だった場合に備え、杉本はすかさず「ガイア・アタック」で砂の盾を形成しようとした。

 しかし、その読みは外れた。

 魔法陣から、異形の怪物が現れる。

 真っ黒な硬い肌に赤い眼、蝙蝠の翼、それに長い尾。両手には大きなかぎ爪を備え、口からは鋭く長い牙が見えている。頭部からは、山羊に似た曲がった角が二本伸びる。全身の筋肉が大きく隆起しており、また、宝石のような装飾のついた腰巻をつけている。

 身長三メートルほどの巨大な悪魔は、その全身を魔法陣からこちらの世界へ引っ張り出し、ずしんと音を立てて着地した。衝撃で、細かい砂の粒が辺りに飛び散る。

(何だこいつは…今まで奴が召喚した悪魔とは、レベルが違う!)

 大きさから威厳まで、これまでに戦ったものとは一線を画していた。杉本は油断なく身構えたまま、慎重に敵との距離を取った。余裕をなくした様子を、「征」が嘲笑する。

「より高位の魔物を呼び出して君を倒すために、元の術式に手を加えてアレンジしたのさ。これが、俺の新しい力だ…」

 自分に酔っているかのような調子で言い、「征」は自分の前に立つ大悪魔に簡潔に命令した。

「やれ」

 黒き巨人は天に咆哮し、空気を震わせた。そして獲物を見下ろし、口を大きく開く。

「…グオオオオ」

 そこから放たれた何発もの火炎弾が、杉本を襲う。咄嗟に、「アレス・アタック」による筋力強化で移動速度を上げる。

辛うじて回避に成功したものの、杉本は既にかなり追い詰められていた。何しろ、相手は体力を消耗することなくこの強力な悪魔を使役し続けられる一方、自分は魔術を行使し何かアクションを起こすごとに体力を奪われるのだ。

火炎弾が着弾した部分の砂浜が抉り取られ、真っ黒に焼け焦げている。

時折打ち寄せる波の音が、戦場に静かに響いている。

「武」に押さえつけられている北野が、目に涙を浮かべてこちらを見ている。

(師匠、あたしのことはいいから逃げて下さい…あたしなんかのために、命を投げ出す必要なんてありません)

 彼女がそう訴えているように、杉本には思えた。

(…俺は逃げない)

 小さく首を振り、数メートル離れて立つ巨大な悪魔を睨みつける。悪魔は低く唸り、今にも翼を広げ飛びかかって来そうな気配さえあった。

(奴らを倒して、お前のことも必ず助ける)

 黄の紋章を展開し、敵目がけて稲妻を撃ち出す。

(絶対に死なせない!)

 胸に雷を喰らった大悪魔は一瞬怯んだが、さほどのダメージは負わなかったらしい。すぐに黒い翼を広げ飛翔すると、赤く燃える炎を吐き出し、上空から降り注がせた。

『ヘルメス・アタック』

 超高熱のマグマの雨を高速移動を駆使してかいくぐり、杉本はさらに術式を発動した。あまりの熱に、波打ち際の海水の一部が気化するほどであった。

 辺り一帯は炎に包まれ、凄まじい陽炎と煙で視界が揺らぐ。太陽の光が、決闘者たちを容赦なく照らしつける。「征」は「武」と人質と共に安全な後方に下がり、ほくそ笑んだ。

「杉本宗一…今日がお前の命日になる」


 遥か遠くにではあったが、黒のバイクが見える。制限速度を大きくオーバーして疾走する杉本を追うのは至難の業で、大きく引き離され何度も見失いかけた。けれども、何とかこうして後を追ってくることができた。

 高木と篠崎は術式を解くとバイクの陰に身を隠し、海岸で行われている戦いの模様を窺った。

 「征」の操っているらしい巨大な悪魔が杉本に突進し、両腕のかぎ爪を振るう。杉本は後ろに跳び退いて紙一重で躱し、雷撃を繰り出した。腹部に稲妻が炸裂し火花を飛ばしたが、異形の悪魔にダメージを受けた様子はない。若干皮膚が焦げついたものの、すぐに傷が癒えて元通りになった。

(すごい再生能力だ…)

 傷を修復されるより早く攻撃を与え続ける必要があるが、かなり消耗しているように見える杉本にはそれは難しそうだった。

「早く、師匠を助けないと…」

 物陰から飛び出そうとした篠崎の腕を、高木は掴んで止めた。

「待って。闇雲に突っ込んでもやられるだけだ。今はそれより、こっちを…」

 高木が見ている先に、篠崎も視線を向ける。縛られ、さるぐつわを噛まされた北野が砂の上に転がされており、その傍には頭を剃り上げた屈強な男が立っている。彼らの少し前には「征」が立ち、残酷な微笑みを浮かべて杉本の苦戦を眺めていた。

「…使い魔を使役している方を先に倒す、ということですか?」

 やや戸惑ったような表情の篠崎に、高木は小さく首を振った。

「いや、あいつはかなり強い。俺たちだけで倒すのは難しいかもしれない。…まずは北野を救出して、戦力に加える」

「…分かりました、先輩!」

 二人は真剣な顔つきで頷き合った。


『ポセイドン・アタック』

 思わぬ方向から合成音声が聞こえ、「武」ははっとして周囲に視線を走らせた。死角から飛んできた何本もの氷柱を、横に跳んで躱す。

『ガイア・アタック』

 だが、何者かによる奇襲はそれだけでは終わらなかった。着地した地点が突然陥没し、足元の砂がごっそりとなくなる。「武」は流砂の中で懸命にもがき、蟻地獄から逃れようとした。

 高木と篠崎、それぞれの得意魔法のコンビネーションで、敵の動きを封じることに成功した。二人は素早くバイクの後ろから飛び出すと、倒れている北野に駆け寄った。手首を縛るロープをほどくと彼女はすぐに起き上がり、吐き出すようにして口に詰められたさるぐつわを外した。

「ありがとう。…あっ、あれ、あたしの」

 珍しく感謝の言葉を口にしてすぐ、北野は数メートル先の砂の上へ視線を向けた。そこに転がっているのは、白いマジック・ウォッチ。「武」が彼女から奪っていたものだが、奇襲攻撃を受けた際に落としたのだろう。

 篠崎がそれを拾いに行き、北野に手渡す。北野は微笑してそれを受け取り、左手首にはめた。

「大きな借りができちゃった」

「…気にするな。仲間なんだ、困ったときはお互い様だろ」

 高木が励ますように言い、手を差し出す。北野は笑ってその手を取り、立ち上がった。多少疲労しているようだが、全く戦えないほどではなさそうだった。

「てめえら、舐めた真似を」

 「アレス・アタック」の電子音声の後、怒り狂った「武」が地中から飛び出してきた。無理矢理砂をかきわけて脱出したらしい。黒のマジック・ウォッチを装着した左手を前に出し、戦闘態勢に入る。

 さすがに騒ぎに気づいたらしく、「征」が後方を振り返った。高木たちを見て楽しそうに笑う。その向こうでは、大悪魔が杉本に接近し猛攻を仕掛けていた。

「また君たちか。…『武』、こいつらの相手は任せていいか?俺はこの老いぼれをさっさと始末したいんでさ」

「おう」

 筋肉質な男は鷹揚に頷いた。

「…北野先輩は少し休んでて下さい。ここは私たちが」

 北野を気遣うように篠崎が言う。北野は少々複雑な表情を浮かべながらも、しぶしぶ承諾した。

「分かった。でも、危なくなったら援護するから。それくらいの体力は残してるつもり」

「…よし」

 高木は篠崎の隣に立ち、「武」と呼ばれた筋骨隆々とした魔術師を見据えた。

「行くぞ!」

「…はい!」

 次の瞬間、三者がほぼ同じタイミングで紋章を展開し、魔術と魔術がぶつかり合った。


『ハーデース・アタック』

 紫の魔法陣から二体のゾンビが躍り出て、それぞれ高木と篠崎に向かって突進する。対する二人は青の紋章を投射して、迫る屍たちの足元を氷結させた。両足の太腿より下を凍らされ、怪物の歩みが止まる。

 戦う場所が海岸となれば、辺り一面の砂を活用し「ガイア・アタック」を使うのも十分有効だろう。しかしそれ以上に、無尽蔵に広がる海―海水を利用した水の魔術が強力な武器となる。体を覆う氷に身動きを封じられ、生ける屍は両手を振り回すことしかできなかった。

「一気に決めよう。力を合わせるぞ!」

「…はい!」

 使い魔の無力化には成功したと判断し、高木はマジック・ウォッチを「武」へと向け直した。篠崎もそれに倣う。

『ポセイドン・アタック』

 二人は同時に、先刻と同じ水を操る術式を発動した。

 二つの魔法陣から水流が迸り、二筋の水の流れが混ざり合って一つになる。やがてそれは自らを凍てつかせ、零度の槍となって相手に迫る。

 その先端が徐々に形状を変化させ、龍の咢と化した。

 超低温の龍が、「武」に喰らいつかんとする。

「ちっ…」

 「武」はさらに数体のゾンビを自身の前に召喚し、盾として使った。腰巻のみを纏った腐敗した死体らが、高木と篠崎の繰り出した合体技を防ごうと腕を突き出す。

 圧倒的な速度で放たれた龍の一撃が、屍たちを瞬時に屠る。腐った肉体を噛み千切られ、肉塊となったゾンビが次々と砂の上に倒れ込む。

 だが、それにより回避のための時間的余裕が確保された。「武」は後方へ大きく跳び退き、攻撃を躱すことに成功した。

「こうも簡単に俺の操り人形を攻略しちまうとは…思ったよりはやるようだな」

 高木たちを見やり、不敵に笑う。二人の後ろでは北野がいつでも追撃をかけられるよう備えていて、戦いは第二ラウンドへ突入したかに見えた。


「ぐああ…っ」

 耳に飛び込んできた杉本の苦しそうな叫びに、高木は思わず、声のした方向へ視線を向けずにはいられなかった。北野、篠崎も同じだった。

 見れば、巨大な悪魔が振り下ろしたかぎ爪を避け切れず、師は右腕に深い傷を負っていた。出血がひどく、杉本の立っている付近の砂が赤く濡れている。

 よろめきながら後ずさる杉本に、とどめとばかり大悪魔が地獄の業火を吐きかけた。

「やめろ!」

 絶望に呑まれ高木が叫ぶ。だが、彼の今の力ではどうしようもなかった。楽しそうに笑い下僕を操る「征」、愉快そうな表情の「武」だけが、震えずに立っていることができた。

 炎に包まれた杉本は咄嗟に「ポセイドン・アタック」を発動し、自分を水の膜で包み守ろうとした。しかし絶対的な火力の前にはあまりにも心許なく、焼け石に水だった。

 爆炎が風で弱まり、視界が晴れたとき、杉本は全身に重度の火傷を負って力なく倒れていた。


「あんた…よくも師匠を…!」

 怒りで疲れを忘れた北野が前に出て高木と篠崎に並び、「征」を睨みつける。彼はセットした髪を片手で撫でつけながら「武」の方を向き、にこやかに言った。

「手こずってるようだし、あとは俺がやるよ。君は先に戻っていい」

「…そうさせてもらおうか。お前の上級悪魔の力があれば、こんなガキどもを叩きのめすのは容易いだろうしよ」

 それに他の仕事も片づけねえといけねえしな、と独り言ち、「武」は「ヘルメス・アタック」を発動した。高速移動を開始した彼は防波堤を飛び越え、その向こうへ姿を消した。

 さて、と思い出したように「征」が高木らへ振り返る。先ほどの北野の言葉など、まるで聞いていなかったと言うように。

 それが合図だったかのように悪魔が翼を羽ばたかせて舞い上がり、主人の前へ降り立って三人の敵を順番に眺める。三メートルほどもある体躯は、若き魔術師たちを圧倒した。

「弟子共々、俺の手であの世に送ってあげよう…やれ、バフォメット」

「…グオオオ」

 黒き魔人は天を仰ぎ咆哮を轟かせると、高木たち三人へ向かい疾駆した。筋肉の発達した逞しい足で砂を力強く蹴り飛ばし、一瞬で距離を詰める。 


『ガイア・アタック』

 真っ先に反応したのは篠崎だった。茶色の魔法陣が展開され、高木たちの目の前に高い砂の城壁が築かれる。

 バフォメットの振るった大きな拳が壁に激突し、一瞬で崩壊させる。けれども、杉本の元へ駆け寄る時間を作るにはそれで十分だった。

「師匠!」

 仰向けに倒れていた杉本へ三人が近づき、屈みこんだ高木が体を揺さぶる。だが反応はなく、師は目を閉じたままだった。

 北野もその傍に膝を突き、杉本の胸に恐る恐る耳を当てた。

「…大丈夫、脈はある。早く病院に運べば助かるかも―」

 束の間安堵した一同へ、大悪魔の吐き出した火炎が襲いかかった。その攻撃範囲は広大で、回避はほとんど不可能だった。

『ガイア・アタック』

 篠崎が再度術式を発動し、四人を守るようにドーム状の砂の障壁を展開した。荒れ狂う炎が即席の砦を舐めまわすようにして燃やし尽くし、消し炭と化させる。

「だったらこれでどう?」

 ぽろぽろと崩れていく砂のドームの陰から身を躍らせ、北野が展開した紋章から稲妻を撃ち出す。それに続き、高木も「ポセイドン・アタック」を行使した。いくつもの氷の弾丸が、雷の後を追うように魔人へ向かう。

 巨大な悪魔は、避けようとさえしなかった。黒々とした硬い皮膚で覆われた肉体、その胸部に雷撃と氷柱の雨が直撃する。黒く焦げ、何か所かに穴が穿たれたが、一瞬で傷が塞がり、皮膚の状態も元通りとなってしまった。

(同時攻撃でも駄目なのか⁉)

 高木の中に、焦りが生じていた。横へちらりと視線を向けると、篠崎が呼吸を荒くしていた。さっきの防御魔法で相当体力を奪われたようだ。拘束されていた時間が長かったせいだろう、北野もかなり消耗している様子だ。

 長期戦に持ちこめるような状態ではない。高木自身、ここに来るまでに「アレス・アタック」と「ヘルメス・アタック」を併用していたこともあり疲労が蓄積してきつつある。となれば早期に決着をつける必要があるが、あのバフォメットという上級の悪魔には高度な治癒能力が備わっている。倒すのは容易ではなかった。

 操っている術者―「征」に攻撃を当てられれば術を中断させられるだろうが、悪魔を常に自身の前に立たせ、盾として使っている彼へ攻撃を届かせるのはきわめて困難だ。

(奴が体を再生させるよりも早く、可能な限り大きなダメージを与え続けるしかない!)

 見上げるほどの大きさの敵に一歩も引かず、隣に立つ高木は言った。

「三人同時に仕掛ける!」

「あたしに指図しないでよね」

「…分かりました!」

 しぶしぶといった感じで北野が、真剣な表情で篠崎が了解する。

『ポセイドン・アタック』

『ゼウス・アタック』

『ガイア・アタック』

 高木が三角錐の形をした無数の氷塊を放ち、北野は唸りを上げる電撃を、篠崎は小さな球状に固めた土の礫を、巨大な悪魔へと撃ち出した。

 三人の渾身の攻撃が炸裂し、バフォメットが数歩後ずさる。胸部から白煙が立ち昇るのが見えた。

(効いたか⁉)

 高木の淡い期待は、直後に轟いた雄叫びで打ち砕かれた。

 叫びに呼応するようにして、胸から流れる黒い血が止まる。引き裂かれた皮膚が再生し、焦げた箇所は急激に冷却されて回復する。

 おそらく、あの悪魔の治癒能力は彼の意志に関係なく、自動的に発動するものなのだろう。能力の行使にエネルギーを消費するわけでもないらしい。いわば、あれは奴が生まれ持った力なのだ。

 奥歯を噛みしめ、何か手はないかと必死に考える高木の耳に、何かが砂の上に落ちる音が不意に飛び込んできた。

「…篠崎!」

 杉本の横に崩れ落ちた彼女の顔は青ざめ、生気を失っていた。

「すみません、先輩…これ以上は体が…」

 魔術師になったばかりの篠崎に、長時間の戦闘、さらには連続となる術式の行使は負担が大きすぎた。いいんだ、と小さく首を振り、敵を見据えたまま答える。

「篠崎はよくやってくれた。あとは、俺たちで何とかする」

 バフォメットは背中の蝙蝠に似た翼を広げ、地面すれすれに滑空してこちらへ接近してきた。頭部の大きな曲がった角と両腕の鋭い爪を武器に、高木たちを狙う。

「…こうなったら一か八か」

 北野が覚悟を決めたように悪魔を睨んだ。

『アレス・アタック』

 全身の皮膚を硬化し、筋力が強化された北野は大きく跳躍し、大悪魔へ正面から突っ込んでいった。

「やめろ、一人じゃ無茶だ!」

 悲鳴のような高木の声にも耳を貸さず、彼女は振り向かずに言い返した。

「こいつの目を潰して時間を稼ぐ!その隙にあんたが畳みかければいいでしょ!」

 そして、残された全ての力を拳に集め、眼前に迫る悪魔の頭部に向かって強烈な右ストレートを繰り出した。

(…とにかく、このままじゃ師匠も篠崎も巻き込まれる)

 高木は咄嗟の判断で「ヘルメス・アタック」を使い、二人を両腕に抱きかかえるようにして数十メートル離れた位置まで疾走した。師と後輩を下ろし、激突した両者の方を振り返る。

「グルル」

 大悪魔は飛行速度を落とすとつまらなさそうに軽く頭を振り、顔の向きを少し変えた。

 ちょうど、自分の角の先端が北野へ向くように。

 砲弾のような勢いで飛び出した北野は渾身のパンチを放ったが、それは怪物の眼球に当たらず空を切る。

 そして、山羊のような角の鋭利な先端が、彼女の体に突き刺さった。


「北野!」

 絶望に満ちた高木の叫びは、ほぼ意識を失った彼女の意識には届かなかった。砂浜に落下した彼女の目は閉じられ、白のブラウスがみるみる鮮血に染められていく。

「残るは君だけだ」

 遠くで、バフォメットを操る「征」が嘲笑う。それは勝利宣言と同義だった。大悪魔は空へ飛びあがり、再び火炎を吐き出そうとしている。

「…ふざけんな」

 仲間を傷つけられた怒りに、高木は燃えていた。

北野と完全に打ち解けたわけではない。この前彼女が篠崎に怪我を負わせようとした挙句、一言の謝罪もなしに立ち去ったのを許したわけではない。それでも、北野は何度も自分を助け、共に戦ってくれた仲間だ。魔術の世界に放り込まれて右往左往していた自分を、杉本と鍛えてくれた存在だ。

時に厳しく、弟子の自分たちを育ててくれた杉本。いつも一生懸命な努力家の後輩、篠崎。そんな大切な仲間たちを見捨て、一人逃げるわけにはいかなかった。

「俺が皆を守る…守ってみせる!」

 放たれた炎の奔流を、高木は「ガイア・アタック」で形成した砂の壁で受け止めた。

 しかし、その途中でぐらりと体が揺れた。

(あ…?)

 気づけば、高木は砂の上にうつ伏せに倒れていた。炎が障壁を焼き払い、瞬く間に粉砕する。

(しまった…体に力が入らない)

 今の術式発動で、残り僅かだった体力が完全に奪われた。もはや、これ以上魔術を使い続けられる状態ではない。手が震える。

 徐々に視界が霞んできた。意識を保つのが少しずつ難しくなる。

「おいおい、威勢がいいのは口だけか?」

 からかうような「征」の声が、遠くから聞こえる。

 ゆっくりと悪魔が高木へと歩み寄り、左腕の爪を振り下ろし切り裂こうとする。

「先、輩…!」

 絞り出すような篠崎の悲鳴は、彼に届いただろうか。


 大悪魔の一撃が到達するまでの刹那に、倒れたままの高木は自分の不甲斐なさを呪った。

(俺にもっと力があれば。師匠も、仲間も、皆を助けられるくらいの力量があれば…)

 魔術の使い過ぎで体力を使い果たし、もはや攻撃を避けるだけの力も残されていない。無様に敗北を受け入れるしかない現実を前に、高木は悔しかった。こんな結末を受け入れられるはずがない。

(俺は、ここで死ぬのか)

 自分のことはどうなってもいい。だが、高木を殺した後、「征」は杉本たちを順番に始末していくだろう。さあ誰から殺してやろうか、とあの嘲るような笑みを浮かべながら。

 それだけは、絶対に許せなかった。

(力が欲しい…皆を守れるだけの、絶対的な力が。そのためなら、俺はどんな代償を払ったって構わない!)

 吠えるように、叫ぶように祈る。

『―その願い、確かに聞き届けた』

 その時、静かにそう言う声が耳元で聞こえた。

 高木の意識は肉体を抜け出し、別次元の存在と邂逅することとなった。


 気がつくと、暗黒の中にいた。さっきまで海岸で過激派の魔術師と戦っていたはずなのに、ここはまるで別世界だった。

『そう、別世界だ』

 不意に、上から低く落ち着いた声が降ってきた。はっとして後ろを振り向き、仰ぎ見る。

 そこに立っていたのは、「征」に操られていた悪魔よりも遥かに巨大な悪魔だった。身長は高層ビルほどもある。深い青色の皮膚の上に修道士のようなローブを纏っている。装飾のほとんどない真っ黒なローブが、聖なるものとは対になる存在であることを示している。

 バフォメットよりもさらに筋肉のついた、引き締まった肉体。何本もある長い尾の先は尖っていて、それぞれに蠍や蜂に酷似した毒針がついていた。

 頑丈な皮膚には蛇がまとわりつき、只者ではないことを見る者に知らせている。

 頭からは六本の角が生え、その形状は牛や山羊、鹿のそれに似ていた。三種の形をとった角は神々しいまでに輝き、暗闇をほのかに照らす。

 人語を解する高い知能も、今までに戦った怪物たちとは一線を画していた。

「お前は一体…⁉それに、ここはどこなんだ?」

 戸惑って問いつつ、高木は体の痛みや疲労が消えていることに気づいた。自分の知っている法則の通用する世界ではないらしい。

『私は冥王ハーデース。そして、ここは冥界だ。…正確には、冥界の中に私が持つ個人的なスペースといったところか。君とこうして話しているのを下僕どもに見られると面倒だからな、呼び出す場所を少し選ばせてもらった』

「あんたが冥王…で、ここが冥界⁉」

 オウム返しに言い、高木は思わずぽかんとして目の前の巨人を見上げた。

 ハーデース、という名には聞き覚えがある―過激派の魔術師たちの使う冥界術の術式は、「ハーデース・アタック」といった。冥界ということは、「征」の使役する悪魔が住むのと同じ世界に今自分はいることになる。

『そうだ』

 すると、冥王の体がみるみるうちに縮み始めた。あっという間に高木と同じくらいの背格好まで体を小さくすると、ハーデースはふふっと笑いかけてきた。

『このサイズの方が、警戒されないかと思ってな』

「…どうして俺を呼び出したりしたんだ」

 緊張をいくらか和らげながらも、高木は真剣な表情を崩さずに尋ねた。

『私が君に個人的に興味を持ったからだよ』

 ハーデースはにっこりと笑った。全身から迸るオーラが、彼の持つ凄まじい力を感じさせる。

「…興味?」

『ああ』

 冥界第一位の能力を誇る悪魔は話を続けつつ、どこまで続いているのかも分からない闇の中を円を描くように歩き出した。

『君の強い祈りが、君たちとは別の次元で生きている私のところにも届いたからね』

 祈りと言われてすぐにはピンとこなかったが、仲間を助けたいという魂の叫びのことだろうと思い当たった。

『こんなことは滅多にない。実に面白い現象だ。どうだ、力が欲しいのなら私が与えてやってもいいぞ』

「本当か⁉」

 高木は目を輝かせ、飛びつくように返事をした。事態は彼の想像を超えていたが、何はともあれあの悪魔への対抗手段を得ることができるのなら本望だった。

『ただし、分かっているとは思うけれどただで渡すわけではない』

 ハーデースは青い目を細め、歩みを止めて険しい顔つきで高木を見た。

「…冥界術の術者は、力を得る代わりに冥界の魔物に魂を売り渡す必要がある。さらに、死後術者の魂は永遠の苦痛を味わう。そういうことか」

 冥王の意味するところを察し、かつて師に教わったことを思い出して、高木は慎重に問うた。つまり、この悪魔は高木に冥界術を操る力を与えようかと取引を持ちかけているのだ。高木の魂を自らに委ねるという条件つきで。

『呑み込みが早いね』

 紺色の肌をした悪魔は、少し意地悪そうな表情を見せた。

『本来ならば儀式の手順を踏まないと契約はできないが、今回は特別だ。君の願いが、私と君の存在を一時的にリンクさせた。その必要はないだろう』

 そこで一旦言葉を切る。

『…さあ、答えを聞かせてもらおうか。魂の自由と引き換えに禁断の力を手にするか?それとも、魔術師としてまっとうな生き様を貫くか?』

「決まってるだろ。俺の答えは―」

 高木の決意は、とうに固まっていた。


 意識が戻り、高木は体をびくりと震わせた。太陽の光で熱された暑い砂を、手のひらの下に感じる。

(戻ってきたのか…)

あの後、答えを聞いた冥王は満足そうに笑い、高木の胸にそっと右手を押し当てた。触れた手から伝わる熱に、高木が身じろぎする。

『そのくらいは耐えてくれ。契約のための刻印を押すだけなんだから』

 手を離された後にシャツの下を見てみたが、特に何も変化は起きていない。魔術的な印を魂に刻んだということなのだろう、と何とか理解する。

『これで終了だ』

 そう言われたと思った次の瞬間には、現実世界に戻っていた。精神が肉体に帰還する。


「先輩、上!」

 篠崎の悲鳴に我に返り、頭上を仰ぐ。大悪魔の繰り出した爪による一撃が、目前に迫っていた。

 回避する余裕はない。何か防御魔法を発動する必要があった。

 高木はマジック・ウォッチを装着した左手を、直感的に上に向けた。

『ハーデース・アタック』

 刹那、紫の巨大な紋章が上方に現れ、盾となって攻撃を防いだ。爪を弾かれ、バフォメットが驚いたように見えた。こちらを警戒したのか、やや後方に下がって間合いを取ってきた。

「…え?」

 ぽかんとして見つめる篠崎に、高木は何と説明していいか分からなかった。

「馬鹿な…何故お前が冥界術を使える⁉」

 それ以上に激しく動揺しているのは、バフォメットの背後で術を行使し続けている「征」だった。

「冥界術の会得のためには、特殊な儀式が必要となる…だがその儀式について記された書物は全て、我々が穏健派から奪ったはずだ!穏健派の魔術師が、冥界術を使えるはずがない!」

 なおも「征」が頭をかきむしりうろたえているとき、またあの声が聞こえた。ただし今回は意識に直接語りかけてくるのみで、別次元の空間に飛ばされるようなことはない。

『君の肉体に回復魔術をかけておいた。この私がここまで協力してやったんだ、必ず戦果を上げろよ』

(…ありがとう、冥王)

 気づけば、体に溜まっていた疲労が嘘のように消えている。高木は砂に手を突き、立ち上がった。力が湧き上がってくるのを感じる。

「―いや、実を言うと俺にもよく分からないんだ」

 二人に説明するように、高木はあっけらかんとした口調で言った。そして、篠崎の方を振り返り、微笑む。

「あとで詳しく話すよ」

「…はい!」

 神妙な顔つきで頷き、彼女はまだ言いたいことがある、というように高木を見つめた。

「あの…死なないで下さい、絶対に」

「任せろ」

 真っ直ぐに見つめる瞳に答え、高木は「征」とその僕である大悪魔へ向き直った。

「お前は俺が倒す」

 篠崎は自分に託してくれた。大切な仲間たちを守るために、ここで退くわけにはいかない。

「図に乗るな…たとえ冥界術が使えるようになったところで、俺の優勢は揺るがない!」

 「征」が吠え、それに応じるようにバフォメットが翼を広げて突っ込んでくる。高木は再度紫の魔法陣を展開し、戦闘が再開された。


「うっ……」

 高木と「征」の戦いをはらはらして見守っていた篠崎だったが、傍らから聞こえてきた呻き声に、反射的にそちらを向いた。

「…師匠!大丈夫ですか⁉」

「ああ…どうにかな」 

 かろうじて上体を起こした杉本は、篠崎に体を支えられて苦しそうに咳き込んだ。残された力を振り絞り、「ポセイドン・アタック」を発動する。

 杉本の全身を水の膜が包み、バフォメットの吐き出した火炎で受けた火傷を癒していく。

「これで、ひとまず応急処置はできたな…」

 荒い息をついて、師は呟いた。

「戦況はどうなっている?」

「先輩が今、頑張ってくれています。でも、北野さんが…」

 篠崎の報告を聞き、杉本は目を見開いた。

「北野がどうしたんだっ」

 篠崎が震える手で、倒れて意識のない北野を指し示す。篠崎の肩を借り、杉本はよろよろと一番弟子の元へ駆け寄った。腹部を悪魔の角に穿たれており、出血がひどい。幸い貫通はしていないのは、攻撃を受ける直前に「アレス・アタック」で皮膚を硬化しておいたからだろう。

「少々荒っぽいが、『アポロン・アタック』で傷口を焼いて塞ぎ止血するぞ」

「でも、無理はなさらない方が…私がやります」

 師を気遣い、体に鞭打って魔術を発動しようとした篠崎を、杉本は手で制した。

「篠崎はもう限界だろう。俺なら大丈夫だ、あと数回ならやれる」

 少しブラウスをまくり上げて傷を受けた腹部を露出させ、なるべく火力を抑えた必要最小限の量の炎を出し、傷口を焼く。

「……ぐ、ううっ」

 炎の熱で意識を覚醒させられたのか、北野が小さく唸った。その表情は苦しそうで、額には玉のような汗が浮かんでいる。

「頑張れ、少しの辛抱だ…」

 杉本はしきりに彼女を励ました。篠崎も心配そうに見守っている。やがて処置が終わると、北野がうっすらと目を見開いた。

「あたしは…」

 杉本は横たわったままの彼女の隣に腰を下ろし、背中に手を回してゆっくりと起こした。

「無事でよかった。今は、まだあまり喋らない方がいい…じっとしていろ」

 大きく息を吐き、汗を拭う。

(思ったよりきついな…あと一発が限界かもしれん) 

 そして、弟子を助けるのに必死になるあまり意識の外にあったことを思い出した。

(そうだ、高木はどうしたんだ。あいつ一人であの巨大な悪魔に対抗できるはずがない)

 はっとして辺りを見回し、彼の姿を探す。

(俺に残された力はもうほとんどないが…せめて、弟子の一人くらい救ってから死にたいものだ)

 残り僅かな魔力を高木を助けるために使う覚悟でいた杉本にとって、次に目に飛び込んできたのは予想だにしない光景だった。


『ハーデース・アタック』

悪魔の吐き出した火炎を跳んで躱し、高木が着地と同時に左腕を相手へ向ける。投射された紫の紋章から放たれたレーザー光が、バフォメットの胸を貫く。

 さらに何本もの光線が撃ち出され、同じ箇所を正確に撃ち抜く。

(何故あいつが冥界術を⁉)

 離れた位置から戦闘を見ながら、杉本は呆然としていた。穏健派の魔術師の間で使用をタブーとされている禁術を、何故教えてもいないのに彼が使えるというのだろうか。

「篠崎、あれは一体…高木に何があった」

「分かりません。消耗していたはずなのに、先輩が力を取り戻して…そしたら、あの魔術も使えるようになっていて…」

 篠崎は不安げに答え、視線を高木へ戻すと戦いの行方を見守った。


(…早い)

 一方、上級悪魔バフォメットを操る術者、コードネーム「征」は焦りを感じていた。

(奴が今までに冥界術を使った経験はゼロのはず。なのにどうして…これほどまでに術の発動スピードが速い⁉)

 高木賢司の使う「ハーデース・アタック」は、恐るべき速度で放たれていた。体力を消費を伴わない冥界術だからとはいえ、凄まじい速さだ。

 レーザーが悪魔の胸を貫き、その傷が完全に癒えるより前に次の攻撃が繰り出される。バフォメットの再生能力を上回る速さの連続攻撃に、「征」はまるで太刀打ちできていない。

「俺と同程度の発動速度だと…⁉舐めてんじゃねえぞ!」

 自らの劣勢を認めようとしないように、「征」が吠えた。術者に呼応するように、悪魔も唸り声を上げ、翼を広げた。地面すれすれに滑空し、両手のかぎ爪で高木を狙う。

 高木は臆することなく、大悪魔の眼を見据えた。転がって強烈な一撃を回避し、すぐさま体を起こすと再度レーザー光を放つ。

 心臓部を撃ち抜かれたバフォメットが翼を畳んで着地し、激痛に悶える。

 戦いの中で、一つ分かったことがあった。確かにこの悪魔の治癒能力は高い―しかし、再生と攻撃を同時には行えないのだ。現に今も、炎を吐きかけてくることなく、こちらの出方を窺っている。

(今がチャンスだ)

 マジック・ウォッチを装着した左手を突き出し、大悪魔の胸へ、心臓の真上へ照準を合わせる。

(さっきまでの攻撃でダメージを蓄積させることはできてるはず…あと一押し!)

 すみれのような色の魔法陣が展開され、レーザー光線が音速で射出される。

「…行けえええええっ!」

 幾本もの光が集まって束になり、やがて一本の輝く矢へと変化する。

 眩い一筋の光が悪魔の心臓を貫き、光の矢から迸る超高熱がその肉体を焼き尽くす。

 バフォメットが角の伸びた頭部を無茶苦茶に振り回し、断末魔の悲鳴を上げる。青白い炎に包まれ、猛威を振るった大悪魔は黒い煙となって消滅した。

「馬鹿な…俺の最強の使い魔を倒しただと…」

 「征」は信じられないというように高木を見つめた。だがすぐに冷静さを取り戻し、高木の方へとゆっくり歩き出す。

「ならば、俺自らの手で倒すまで!」

 その目は、怒りと屈辱で血走っていた。

『アレス・アタック』

 脚力が強化された「征」が砂を蹴り飛ばし、一瞬で高木に迫る。両者が左の掌を相手へ向ける。

『ハーデース・アタック』

 コンマ数秒早く、高木の方が先に攻撃魔法を発動した。続けざまに撃ち出されるレーザー光を、「征」が構築した紫の紋章の盾が防ぐ。

 しかし、目にも止まらぬ速さで連発された破壊光線の嵐が、障壁を打ち砕いた。

「くっ…」

 盾が光となって霧散し、「征」が横へ跳んで光線を躱そうとする。怯んだ隙を逃さず、高木は一気に畳みかけた。

 照準を合わせ直し、再び術式を発動する。

「喰らえ!」

 触れるものを焼き焦がす紫の光の奔流が音速で放たれ、相手に防御や回避を行う余裕を与えない。あまりの眩しさに光線を直視できず、「征」は目を細めた。視界を封じられた影響で、展開した防御障壁の位置に若干のずれが生じる。

 紋章の盾は、光の矢を防ぎきれない。

 瞬時に障壁は崩壊した。

 強大な衝撃波に吹き飛ばされ、「征」は砂浜にどさりと倒れ込んだ。


「こんな…はずでは」

 指先をぴくぴくと痙攣させ、虚ろな瞳で空を見上げる。

 力なく仰向けで倒れている「征」を一瞥し、高木は杉本たちの方をようやく振り返る余裕ができた。

「師匠、北野も…無事でよかったです」

「聞きたいことは山ほどあるが、それは後回しだ。…怪我人の搬送を優先するぞ」

 杉本は苦しそうに言い、突然目を見開いた。

「高木!」

 背筋が凍る。反射的に振り返ると、無力化したと思っていた「征」がどうにか上体を起こしたところだった。

「高木賢司…とんだダークホースがいたものだ。お前さえいなければ、俺の計画に狂いはなかったというのに…全部…お前のせいだ!」

 右手で体を支え、震える左手を高木に向ける。その手首に装着された黒いマジック・ウォッチから、紫の魔法陣が投射される。

(まずい)

 今度ばかりは、照準を合わせるのが高木より相手の方が一瞬早かった。この至近距離では、避けるのも難しい―仮に回避しても、後ろにいる仲間に命中してしまう。

『ゼウス・アタック』

 その時、杉本が残っていた最後の力を振り絞って渾身の雷撃を繰り出した。

 「征」が撃ち出そうとしたレーザー光線が放たれるより僅かに早く、杉本の雷撃の槍が敵に届く。高圧電流を一気に流し込まれた「征」は絶叫し、やがて崩れ落ち、息絶えた。グレーのパーカーと同じ色に、全身の皮膚が焼け焦げていた。

冥王の話が本当なら、彼の魂は冥界で闇のものたちに弄ばれることとなろう。それも、永遠に。

 息を呑んだ高木と篠崎に、杉本が静かに告げる。

「弟子のお前たちに、汚れ仕事を引き受けさせるわけにはいかない。…少なくとも、今はまだな」

 そこで杉本の意識は途絶え、砂の上に横たわった。

「…師匠⁉」

「大丈夫、気を失ってるだけだ。篠崎は魔法教会に連絡してくれ、俺は二人を運ぶ」

 高木自身も敵の魔術師の死を目の当たりにして動転していたが、それを押し隠すように篠崎を気遣った。杉本の大きな体を、肩に腕を回して何とか支える。北野はまだ意識が戻っていない。

篠崎は青い顔でこくりと頷き、携帯電話を取り出すと急いで電話番号を押した。万が一の場合はここに連絡するよう、以前に師から伝えてもらっていたものだ。

 激闘を制したのは自分たちだ。

 冥界術という禁忌を破ってしまったことは分かっている。それでも、かけがえのない仲間を守ることができて高木は嬉しかった。もし自分に処罰が下されることとなっても構わない、とさえ思えた。


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