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死神に鎌  作者: 蠍戌
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 試験会場、というのだろうか。

 そこは元がなんだったのかをもはや知るべくもない、廃墟だった。砕けた石とか折れ曲がった鉄骨とか細長い黒煙とかの、災害後にありがちな一コマ。不気味なほどに異質なのは、この辺り一帯をねぐらにしている死神たちが全て集まっていて、その数に相当する広い輪を作り、一糸乱れずにその中心を見つめているということ。今なら多少のことがあっても、この近辺の生き物は死なない。そしてまた、死ねない。

 死神と同数の視線にさらされているところには、原形を留めない程度に崩壊し、なおも存在感を保っている巨大な石があるのだった。すでに乾燥して色さえ黒くくすんでしまっているものの、底面から幾筋にも伸びている血の川がなければ、私にすらその正体が何なのかはわからないところだったろう。

 リーパーはその正面におり、膝をついた姿勢で固まっていた。顔が体勢に準じているのかあるいはその逆か、表情はこの世の辛苦の全てに歪んだ塑像のように硬直している。寒くはないはずなのに全身をぶるぶる震わせているのが、滑稽でもあり情けなくもあり、憐れでもあった。いつもの私なら、もう地震は収まったはずなんだけどな、とか、それともあれが震源地だったりして、などと、多少の皮肉は言えるのだが、今の私は初めて目にするリーパーの醜態に、少なからず衝撃を受けていた。

 死神たちはそんなリーパーを笑ったり嘲ったり、苦しんでいる人を早く死なせてやれと怒ったりしている。中にはもうちょいそのままでいいぞとせがむように囃し立て、猥雑な言葉を連発している死神もいる。ドS。名前は忘れた。思い出したくもない。つくづく耳を押さえられない自分がいやだ。来なきゃ良かったと思うぐらいに気分が悪い。あんなのこそ資質を諮るべきではないのか。

 私はその少し前に崎の手によって、離れたところに下ろされていた。音を立てないようにしなさいという崎の言いつけを守り、鎌を軽く持ち上げた状態で、リーパーを横から俯瞰できるこの位置まで歩いてきたのだ。近くの死神たちも私を認めるや、すぐに状況を察したのだろう、私の視界を遮らない程度に場所を空け、一方でリーパーからは見えないように私を隠した。

 身軽になった崎は鎌を手に持ち替えて、私の反対方向へと迂回していった。私がいることをリーパーに感づかれないようにするためだろう。向かいの死神たちが左右に割れ、できた道を悠然と登場する。全体の騒音も収まった。

 リーパーは驚いたような機敏な動作で来訪者を見遣り、それが崎だとわかると力なく顔を戻す。崎は自分と私を含めた三者を線で結べば正三角形が作れそうな位置で止まり、もう一つの頂点に目を落とした。

「もう聞かされてるだろうけど、念のため言っておくわ」

 前置きをしてから、崎は巨石に目を向ける。

「今からあなたにこの人を殺してもらう」

 殺すという言葉は電流のように襲い掛かったようだ。リーパーは全身をびくりと震わせて、その震度はなおも増した。激しく露出した脆弱な神経を知ってか知らずか、崎は淡々と続ける。

「見てのとおり、崩れ落ちた石材の下敷きになって、頭部胴体両手足、つまり全身を分け隔てなく潰されてしまった、性別も年齢もわからない気の毒な人よ」

 崎は深く息を吸い込み、大きなため息にしてそれを吐き出した。最後の私見とそれを再度噛み締めるような所作に、私はちょっとした違和感を覚えた。

「今すぐ救出されたとしても生還は不可能。さながら死を認められていない死体といったところね」

 否定が冠されてもその呼称は誤っていると誰もが思うより早く、崎は訂正する。

「でもこの人はまだ生きてる。死神に殺されていないから」

 そして改めてリーパーを見下ろした。

「殺すのはあなた。これが試験」

 リーパーは崎の視線から少しでも逃れるために、こちら側に首を傾けた。崎はその場を移らずに若干穏やかになった声で告げる。

「こんな簡単な仕事を試験にしてあげること、感謝しなさいね」

 リーパーの口元が弱々しく動くのが、ここからでもかろうじて見えた。発言そのものは至近にすら届かなかったのか、それとも全員に聞かせるためなのか、崎は素の、あるいは素を装った声で、「なあに?」と聞き返した。リーパーは覚悟を決めたように顔を起こし、サングラス越しに崎を睨み付けて言い放った。

「シックルがいないとできない」

 私は頭の中と胸の中を直接殴り付けられた気分になった。眩暈にも似た衝撃。その割に心地よい窒息。ほのかな光が体内に宿ったような感覚。

 一方の死神たちは失笑と叱責を浴びせかけ、ドSは哄笑と筋違いの称賛でリーパーを褒めた。変化がないのは崎だけで、一人仏頂面を保っている。

「シックルはどこだ」

 ある意味ではリーパーもそうだ。

「シックルを呼んでくれ」

 箍は外れて外聞も消え去ったようだが、私を求める性根、私に頼る矮小は、ちっとも衰えていない。

「シックルに会わせろ!」

 語気の強化に伴って乱暴に振り回される体に、死神たちの失笑が止みつつあり、ドSの下卑た言葉だけがやけに強く響くようになった。

「シックルは私が預かったわ」

 崎が強い口調で言い、どうにか周囲は鎮静する。リーパーは歯を軋ませた顔面を崎に見せつけ、掴みかかる代わりに問いただした。

「どこに連れて行った」

「私も聞きたいわ。どうして置いていったの」

 リーパーは私からは見えない向こう側の手を持ち上げてみせた。白い小さなビニール袋が提げられていて、底が軽く膨らんでいる。

「蚊取り線香を手に入れてきたんだよ」

 眩暈と窒息と光が倍加した。それからやってくる遅すぎる非難。それならそうって言いなさいよ! そうすりゃ私も崎にそう言えたじゃないの! バカ! バカバカ! 調達のために地震被害のないところまで遠出するから、邪魔にならないように私を残したってことぐらい、私にもわかるわよ! どれだけの間、二人で一緒にいたと思ってるのよ! 命を吹き込まれる前から、私はあなたの鎌だったじゃないの!

 そのアイテムが私たちにとってどれほど重要なのかを知るべくもない第三者は、それ故にできる至極当然の指摘をする。

「明日でもよかったじゃない」

「約束したんだ。今日用意するって」

「どうしてもっと早くに調達しておかなかったの」

「忘れてたんだ」

「だからってあんな危険なところに置き去りにする? 一歩間違えば壊れちゃうし、下にいる生き物が無闇に死んだかもしれないでしょう」

「あいつのバランス感覚を侮るな。台風がやってきたって持ちこたえられる」

「余震で落ちたのよ! あんたは空でふよふよしてるだけだから揺れたことにすら気づかなかったかもしれないけどさ!」

 自分のことみたいに自信たっぷりだったリーパーの表情が、目を剥いた崎の絶叫で元通り以下になる。油断と過信から来る自身の失態にようやく気づかされたのだろう、両手で頭を抱えて強い悔恨を示すのだった。

「それに、置き去りにしたのは今回だけじゃないでしょう。鳩のときもそうだったでしょう」

「鳩の糞のときだ」

「同じよ」

 せめてもの反論を崎が一蹴する。リーパーが放った私と同じ言い回しに、私たちにとってはちょっと違うのよと、私は胸の中で呟いた。

「とにかく、シックルはいないの。いても呼ぶわけにはいかない。これはあなたの試験なんだからね」

 崎が自らの鎌を真正面に突き出した。リーパーは顔を上げ、目の前を横切る柄を認めると、しかし何もしない。業を煮やしたように鎌が上下する。

「ほら、一人でやりなさい。今だけ貸してあげるから」

 リーパーはゆっくり崎を見上げると、同じ速度で目線を戻した。唐突ににらめっこが始まる。鎌も待つことに決めたらしく、急かそうとはせずにそこに留まる。

 私は自分のこの後について、改めて考えを巡らせてみた。

 このままでいるか。普通の鎌に戻るか。それが問題だ。

 悩むまでもない、どちらもいやだ。

 リーパーが試験をクリアしても、私はリーパーの元には帰れない。普通の鎌に戻ったならば、あるいはそれも叶うかもしれないが、そんな空虚な形でリーパーと過ごすなんて、長い夜を一人きりで過ごすよりも退屈。それと近い理由で、リーパーの欠けた世界に私だけが今のまま残っていることも、あまり嬉しいことではない。

 程なくして、リーパーが動いた。崎に近いほうの手で柄の中心を握り締め、その拳を立てる。鎌は、たった今離れたばかりの主の掌中に、対極同士の磁石のようにへばりついたのだった。

「俺にはできない」

 ついに死神たちの憤懣が爆発した。もはや揶揄は絶え、嘲るためのものすら笑いはなくなり、怒声にまで進化した非難が轟々と溢れる。ドSは口元を下品に曲げているのみだ。

 しかし当のリーパーに動じる気配はない。それがどんなに卑俗な内容であっても、一つの決断を下した後にはよく見られる、どこか清々しい充足に隅まで支配されているのだ。

 私はどこかほっとしていた。リーパーに私以外の鎌を使われるぐらいなら、そっちのほうがよっぽどいい。そして私自身は第三の選択に決めていた。これなら崎の手を煩わせることもない。私こそが鎌なのだから。

 蛙の面に水と感じた死神たちが、次第に声を出すのをやめていき、ほとんど完全に収束した頃、崎は一歩前に踏み出して、その足を軸にリーパーに向き直った。

「それがどういうことになるのか、わかってるのね?」

「ああ」

「あなたの破滅よ?」

「構わん」

「死を司る死神が自身の終焉を受け入れるなんて、問題だわ」

 崎は吐き捨てるようなため息をつく。

「つくづくあなたは死神として失格ね」

 そしてたおやかに振り上げた鎌で、そっとリーパーを包み込む。刃はリーパーのうなじに、ちょうど蚊に刺されたという辺りに接して止まった。

「仲間を切るのは初めてだわ」

 崎はもう片方の手をカメラに添えた。上目遣いに準備の完了を確認したリーパーは、せがむように口を開く。

「最後に一つ、教えてくれるか?」

「どうぞ。二つでも三つでも」

 礼のように頷いてから、リーパーは崎を仰ぐ。

「どういう死神が、いい死神なんだ?」

 崎は不思議そうに目を見開いた。

「簡単に生き物を殺すことができれば、それはいい死神なのか?」

 そして不満げに細める。リーパーは四囲の死神たちの顔を一人一人確かめるように首を回し、なおも続ける。

「お前らはいつも、どんな気分で鎌を振ってるんだ? 生き物を殺すというのがどれだけ尊いことなのか、考えもしないのか? お前らを見、お前らの言い分を聞いていると、まるで俺ですら、殺すことが何にも替えられない素晴らしいことであるかのように、今にも錯覚してしまいそうだぜ」

 自分で言い放った皮肉を自ら大笑することで称賛したリーパーは、その高笑いも程々に憤怒を滲ませた真剣な顔つきになり、持論を叫んだ。

「それが命に携わる者の心構えか! 命の価値を少しは感じろ! 命を奪うことの重みを意識しろ! それもできずに死神などと名乗るな!」

 さらに崎に向き直って、矛先は個人に向かう。

「そのくせお前はなんだ。殺した生き物の姿を絵や写真なんかに収めやがって。そんなに自分の働きを残しておきたいのか!」

 鎌そのものさえ動くほど、崎の手が震えていた。見開かれた目と唇に食い込んだ歯を前に、リーパーはむしろ優越を得たに違いない。

「そんな薄情で無神経な奴らと、仲間なんていう枠で括られるぐらいなら、俺ははみ出し者でいい」

 リーパーの満足そうな微笑が引き金となり、崎が背を見せるほど大きな仕草で鎌を高く振り上げた。ただでさえ背後にあって、なおかつサングラスをかけ目さえ閉じていたかもしれないリーパーには、最も高いところで一瞬停止した鎌が、振り下ろされる寸前に手首を返されていたことなど、知る由もなかった。

 峰が肉を打擲する音と、肉が石に激突する音が、連続して鳴る。処刑を猶予した執行人以外には、真意はもちろん、出来した状況すらも、いまいち把握できかねた。それは当の罪人も同じらしく、地面に伏臥していたリーパーは接着したままの首を手で確かめつつ、それでも顔を振って衝撃や激痛を気にする素振りを見せながら、不審そうに体を起こすのだった。

「だから殺さないでもいいっての?」

 リーパーは怪訝な顔を崎に向ける。角ばったサングラスの片方が、蜘蛛の巣のようになっているのが見えた。

「教えてあげる。死神ってのは簡単に生き物を殺すことができればそれでいいわけじゃない。けれどどんな事情があっても、自らの手で責任を持って、生き物を死へと導かなければならないものなの。どんなに悩んでも、どんなに苦しんでもね」

 何か言いたげなリーパーを制するように、崎は一人ごちる。

「次に、私たちがいつもどんな気分で鎌を振っているか」

 それから言う。

「自分の立場を恨みながら、憎みながらよ。誰一人として、自分が死神であることに、喜びややりがいなんて感じていない」

 リーパーは不愉快そうにしかめた顔を、抗議するようにある方向へ向けた。私も同じことをしていた。しかし私が焦点を合わせる前に、おそらくリーパーも同じくして、次の崎の言葉に首の位置を引き戻されていた。

「殺して喜んでるような死神は、そうでもしないと自分の気持ちを抑えられないだけよ」

 淡々とした崎の姿からは言葉の内容がうまく伝わってこない。崎は絞り出すように、苦しげに言葉を継いでいく。

「これが面白いんだ、このために俺は生き物を殺してるんだ、そうやって自分を誤魔化すことで、どうにか日々の殺戮をやり過ごしてるのよ」

 突如、寸前で嘔吐を防いだような醜悪な音が、地鳴りのように響いてきた。私が、リーパーが、ともに見ようとした方向。そこではつい今し方まで一貫してリーパーを囃し立てていたドSが、峻烈に泣いているのだった。

 崎の見解は正しかった。彼は自分でも忘れていた核心を思いがけず剥き出しにされ、堪えきれなくなって慟哭したのだ。胸が熱くなった。サディスティックな死神にこんな秘密があったなんて考えもしなかった。また涙が出そうで困った。彼のような死神を私に対して批判的に話していたリーパーもまた、自分の過誤を恥じているかのように、今はただ黙ってうつむき、この苦しい時間をやり過ごそうとしている。

 よく見れば他の死神たちも大同小異だ。誰もが辛そうに項垂れ、中にはしきりと目元を拭っているものや、互いに慰めるように身を寄せ合っているものもいた。私は声を上げたくなった。正体のわからない何かに向かって怒鳴りつけたくて仕方がなかった。命を奪うことを宿命的な常とするには、あまりにも優しすぎるこのようなものたちを、どこのどいつが死神なんかに任じたというのだ!

 不幸な仲間たちをなだめるだけの間をひとしきり置いてから、崎は場を持ち直すようにリーパーの質問の一つをなぞった。

「それから、生き物を殺すというのが、どれだけ尊いことなのか」

 もはやリーパーは、聞いているのかいないのか、こちらにはとてもわからない。それでも崎は答える。

「私たちはそれを誰よりも知っている。あなたが感じているのと同じようにね」

 鎌を持ち替えたその表情が、ちょっとだけ穏やかに変わった。

「自分だけが特別だとでも思ってたみたいだけど、そんなことはないのよ。あなたも死神だからね。あなたの苦悩は私たちと同じなの」

 崎はやおら腰を曲げ、リーパーの頭を手で包み込んだ。驚いたという具合に浮かんだ顔を、沈めるように撫で回す。

「あえて違いを言えば、あなたは自分の手を汚すのを恐れるあまり、シックルを作ったということ。私たちはそれが許せない」

 崎の手は、リーパーのあごまで達したところだった。最後の断罪に伴ってリーパーの顔が勢いよく持ち上げられたとき、弾みでリーパーの片方の目の先にあった蜘蛛の巣が瓦解して、粉々になった黒いガラスが月の光をキラキラさせて舞い落ちていった。

 死神たちにしてみれば、あのサングラスさえもが、殺生から少しでも目を逸らそうとしている卑怯な道具に違いない。崎は汚いものを払うように忌々しげに手を振り、図らずも付着した黒い欠片を一つ残らず撥ね退ける。

「最後に、私のことについて」

 狡猾の証に侵害された事実さえも消そうとするように、何度も引っ繰り返しながら衣服に擦り付けていた手で、崎は改めて鎌を握り締めた。

「私が自分で死なせたものの絵を描き、写真に収めているのは、残しておくためよ。私が殺した生き物一つ一つの姿を、日常に忙殺されて、殺すことに麻痺して、たとえ全て忘れてしまっても、せめて残しておくためよ。私のこの手で殺したんだっていう自覚をいつまでも捨てないためよ」

 対極なのだと私は悟った。言うなればリーパーの対義語が崎なのだ。そしてリーパーを除く全ての死神もまた、その割合こそ個人差はあれど、崎を希釈してできているのだ。崎のリーパーへの弾劾も無論、死神たちのそれの集合なのだ。

 自分の質問の答えの全てを獲得したリーパーは、今は黙って項垂れていた。まるで刈られることを正当な罰と見なしたかのように。崎には蚊に刺された跡がよく見えているだろう。

 他の死神たちと同様に殺すことを嫌悪していても、強い覚悟でその作業に臨んでいる崎にとっては、同族の粛清は自分に課せられた使命と等価、あるいはそれより重要に違いない。復讐にも似た感情とそれを素直に受容しようとする相手の姿は、強力な追い風となっているはずだ。

「あなたみたいに、鎌に命を吹き込んで、命を奪う責任も苦痛も全て鎌に転嫁させて、そのくせのうのうと俺も辛いんだ苦しいんだなんて偉そうなこと言ってる奴に、死神だなんて名乗らせるわけにはいかないのよ!」

 崎は、おそらくは初めて、私的な本音を叫んだ。その勢いで素早く振り上げられた鎌は、最高度で再び手首を返される。

 もうみんな言いたいことは言ったはずだった。リーパーも言った。崎も言った。死神たちは崎に言ってもらった。みんな聞いてた。私も聞いてた。私たちも聞いてた。でもまだ全部じゃない。私にも言いたいことはある。リーパーに、崎に、死神たちに、そして私たち鎌に、聞かせなければならないことがある。それを果たすまでは、この一事を終わらせるわけにはいかない。

 私は千切れそうなほど両手を後ろに引いて、思い切り前に振ると同時に全身の力を抜いた。くるりんりん。


 鼓膜が破けそうな甲高い金属音と、髪の毛一本一本や爪先まで伝わってきた波のような痺れが、崎の怨嗟の深さをうかがわせた。

 崎にしてみれば目的に到達するずっと前のところでいきなり出現した障壁に行路を阻害されたのだ。まだ私を視認してはいないらしく、ただ違和感だけに基づいて目を丸くしている。

 その視線が鋭利を回復する前に、私は崎の背後で留めておいたもう片方の手を薙いだ。両方の手が鎌でよかったと、初めて思った。一つの命が絶える感触は、張本人の私とその所有者であるリーパーはもちろん、周囲の死神たちも漏れなく感じる。

 たちまちにして得物の切っ先と張り合えるほど瞳を鋭くさせた崎と、背中を向けているのに如何が込められた表情に変貌したのがわかるリーパーの、シックル、と呟く声が、私の前後に同時に届いた。

「遅れてごめんね」

 私は破顔し、肩越しにリーパーを見遣った。私と同じ高さにあるリーパーのただでさえ困惑している顔は、複雑そうな色を帯びて何とも言えない形になった。言葉を待たずに首を戻す。

「これでいいんでしょ?」

 すでに私の笑顔には悪意も弾けていた。その上白々しく小首を傾げられた崎は、早くも期待通りの憤激を示してくれた。

「邪魔しないで!」

「邪魔なんてしてないわ」

 意識的に微笑を打ち消す。向こうも外観だけは真顔に戻る。

「私は死神の鎌だもの。ちゃんとリーパーの役目を果たしただけよ」

「話聞いてたでしょう…? 死神は自らの手で役目を果たすものなの。あなたのような鎌を使うのは違反なのよ」

「違反っていうからには、何か規則でもあるの? 死神規則とか」

「別にないけどさ…それって違うでしょ? 鎌に仕事を任せる死神なんて、聞いたことないじゃない」

「じゃあ素手でやれば?」

 眉をひそめて目をまんまるにして、崎はこちらが嬉しくなるぐらい呆気に取られた顔になる。

「これからは素手で殺したらいいじゃん」

 軽く周りを見渡してみると、どの顔も似たような具合だった。誰か一人に集中できない代わりに、誰にも聞き漏らさせないように全員を睨みながら言ってやることにした。

「鎌なんか捨ててさ、正真正銘の自らの手で、虫でも魚でも動物でも、殺したらいいじゃん。人間だったらそうね、首でもゴリゴリ絞めて、そうやって殺してあげなよ」

 どの面にも判で押したみたいな反意が現れる。それこそが私が付け入る最大の間隙だ。

「できないでしょうが。それができないからこそ、あんたらは私らを持ってるんでしょうが。リーパーのやってることと何が違うのよ」

 ただでさえ露出させられ、その上深く広くえぐられた弱点に、死神たちの表情はもう二度と陽を取り戻せないぐらいに濃く曇る。でも終わりにはしてやらない。まだまだ言わなくちゃいけないことは残ってる。

「さっきから聞いてりゃリーパー一人が卑怯者みたいに言ってるけど、あんたらだって命を奪う責任と苦痛を私らと半分こしてるんでしょうが。半分こ? 違うね。五分五分なわけがない。実際切るのは私らなんだから、大負けに負けて八二ぐらいね」

 半分こ? 以下のくだりは急に思い立った。それだけに予定を越えて本気で腹が立ってきた。拳を握れないのがもどかしい。それさえ怒りに転換してしまう。

「何が自らの手でよ。ふざけんじゃないわ。あんたらなんて私らがいなくちゃ死神ですらいられないじゃない。鎌を持ってない死神なんて、それこそ聞いたことないもんね。あんたらにリーパーを非難する資格なんてないわ。私に言わせれば、あんたらのほうこそ死神失格よ」

「望むところよ」

 その声を追い抜く勢いで、私の首筋をかすめた手がリーパーの喉笛を鷲掴みした。視界にあったために驚き咳き込む姿を偶然目撃した私が慌てて振り返った途端、私も同じ仕打ちに遭った。ひしゃげた音に目だけを向けると、直前に足元に投げ付けられたのだろう鎌が瓦礫だらけの地面に跳ね返り、複雑な動きで小さく弾んだところだった。

「望むところよ」

 崎は呪文のように繰り返す。まるで私を丸呑みしようとでもするかのように近くに迫っているその形相は、先に自分が対極に下した評価をそのまま承服するわけにはいかないという決意で出来ていた。

「これからの私が、真の死神として生きていくために、二人揃って始末してあげるわ」

 そんな展開は期待してなかったけど、私は頷いていた。やれるもんならやってみやがれという挑発の意味合いもあったし、実際にやられてしまったときはそれでいいやという受容の意思も働いていた。一人ぼっちはいやだけど、リーパーと一緒なら大丈夫。自然と浮かんでいた笑顔にも、その両方が混交しているはずだった。

「望むところよ」

 本当に呪文になってしまったのか、何かが憑依したみたいな詠唱と据わった瞳がさすがに不気味だったので、私はつい目をつむってしまう。再び見るのが怖くてもう開けられない。

 思わず飲み込もうとした唾が落ちていかなかったのが、異変の始まりだった。塊が詰まっているような違和感が何だか気持ち悪くていやだったけど、その場の状況だけで判断して相手の希望なんかを一切斟酌せずに終わらせてきた私にそんな贅沢は言えまい。諦める。

 初めて扼された感想は、あまり苦しくはないということ。これは意外だった。ちょっと息苦しいかな、というぐらいで、この程度のまま続くのならばいつまでも終わらずにいるような気がしたし、何度か切ってきた同じ状態の生き物の姿が漠然と浮かんできて、何でこれで終わっちゃうんだろうと不思議に思った。

 しかし、異変がその内容を変貌させるまでに、さしたる時間はかからなかった。私の息苦しさはそこから全く進行しないのだ。話に聞くところの意識が遠のくというような、付随して起こるはずの悪影響もない。うなじのその先に神経を集中させてみても、呻き声やそれに準ずる淀むような呼吸は感じられない。

 薄く目を開けてみると、崎は泣きそうになっていた。運悪く私と視線が交わってしまい、はっとしたように顔を強張らせ、両腕を膨張させる。けれど震えているだけだ。どっちが首を絞められているのかわからないぐらい呼吸が荒い。さすがに反省する。意地悪しすぎた。

「もうやめろ」

 諭すようなリーパーの声が背後から聞こえ、崎の拘束が一息に緩んだ。わだかまっていた唾が体の中に落ちてくる。やはり同類ということだ。私以上にリーパーは崎をよくわかっているのだ。

「お前がやればみんなもそうしなくちゃいけなくなる。こんな大変なやり方を押し付けるな。みんなは俺ほどじゃないにしてもやっぱり弱いし、お前だってそこまで強くない。後で一番苦しむのは、他の誰でもないお前なんだぞ」

 じっとリーパーを見つめていた崎は、にわかに瞬いた途端、落涙した。その涙に引きずられるように地面に膝をつき、私とリーパーの首からそれぞれの手が離れていく。

 項垂れ唇を噛み締め声も立てずただ両方の目から涙を流す崎と、傍らにはべる崎の鎌が刃によってそれらを残らず弾く光景をわけもなく眺めているうちに、私の脳裏に不意に納得できる語句が浮かんだ。

「死神に鎌ね」

「死神の? なに?」

「死神〝に〟鎌」

 聞き返してきたリーパーに振り向きざまに答えてから、自慢げに説明する。

「私が考えた言葉。猫に小判とか、豚に真珠とか、そんなのと同じ」

 向き直ると、崎は成り行き上とはいえ、打ち捨てたパートナーを見つめていた。意識することを心がけていたせいで、これで十分なのだと思い込み、実際は所有物といった程度に低く見なしていた自分の高慢に、少しは気づいてくれただろう。

「どんなに価値のある物でも、その価値を分かっていなければ、役に立たないってこと」

 不粋だから、そのこと自体は口には出さない。けど、当然含みがある。今一度後ろを見遣り、リーパーの位置を確認しておいた。

「本当に私の価値をわかってるのは、リーパーだけってこと」

 ゆっくりと両手を持ち上げ、真横に広がったところで力を抜く。

「だからこそ、リーパーは私を特別扱いしてくれる。命を与えたり、名前をつけたりして、大切な生き物みたいに接してくれる」

 落ちていく感覚は、やってみてわかったけど、結構気持ちいい。でも、それは今回みたいに、絶対に無事で済むっていう確信があるからだろう。支えてくれる誰かがいるという保証があれば、安心して危険な遊びができるのだ。

「私はもう、死神の鎌じゃない。リーパーの鎌よ。ただの死神の鎌なんかには、絶対に戻らない」

 しっかりと抱き留められたところで、私はそう言った。リーパーに伝え、目の前の崎にも伝えるために。そして私は首を曲げ、リーパーだけに伝えるのだった。

「帰ろ?」

 私を抱き締めるリーパーの両腕に力がこもる。幸せなぬくもり。


 *


 細すぎず太すぎず、健康的に膨らんだ三日月が、天窓の向こうで輝いている。月が西から昇って東へ沈むものでよかった。今日が快晴であることにも感謝したい。それは明日でいいよと気を遣った私をさらに気遣い、こうしてベッドに腰掛けさせたリーパーにとって、何よりの贈り物だったろう。いつもの夕日よりも明るい光が、まるで祝福するように私たちを包んでくれているのだ。

 月光の中、心なしかいつもよりも丁寧に手を磨かれながら、私はふと、鎌の手入れを怠る死神の真意に気がついた。彼らはものぐさなのではなく、刈りたくないだけなのだ。刈るにしても、全力で振り下ろさなければようやくそれを果たせないようにしておくことで、どうにか自分を保っているのだ。だからこそなまくらな得物をあえてそのままにしているのだ。

 死神はみんな、それぞれのやり方で、自分の運命を受け入れている。そのための工夫をしている。言うなればリーパーの工夫が、私なのだ。

 不意にリーパーが動きを止めたかと思うと、急いで道具を押しのけるや否や私を抱き締めてきた。

 如何を尋ねる間も、あったか~いと思う間もなく、辺りが揺れる。とはいえ朝の第一波に比べれば、震度はさざ波のごたる。それでもリーパーは腕の力を緩めない。動かないようにというよりは、守るようにという具合。

 私は脱力した体をリーパーに預け、もうちょっと揺れてていいよ、と心の中の口で呟き、またいろいろ死んじゃうかもしれないけど、と続けてこっそり舌を出していた。

「さっきもあったんだってな」

 揺れが収まって、それからさらにしばらく経って、ようやく体を離してから、リーパーが言った。

「悪いことをしたな」

 道具を持ち直し、私の手を取る。そういえば、という感じで、私は思い出した。

「二回あったの知ってる?」

 首を振って、リーパーは言う。

「俺は空でふよふよしてただけだからな」

「蚊取り線香持ってね」

 ただふよふよしていたのとは違うよという言外に込めた思いを、リーパーはきちんと聞いてくれたろうか。己の行為を嘲るためにかすかに吊り上げたままの唇や、私の爽快を維持するために変わらず研磨を続ける姿からは、その辺を読み取ることはできない。私は続けることにした。

「二回目のとき、崎の家にいたの。アルバムが落ちてきて、顔に当たっちゃった」

 手を止めて私を見上げたリーパーは、すかさず腰を上げた。棚を開けたところで私は留める。

「平気平気。ちょっと痛かっただけだから」

 頷いて取り出そうとした救急箱を戻したものの、こちらへ戻ってくる姿はどうも未練がましい。まったく、極端なんだから。

「おでこの辺り。こぶになってないよね?」

 リーパーは私の額に手をかざし、さするように軽く動かした。水が香る冷たい手のひらが気持ちいい。実際は鼻柱に近かったのだから、そんなところは初めから何ともなっていない。私の目論見など知らず、リーパーは平和そうに微笑んだ。それでいい。そうでなくてもこの後は、少し込み入ったことになるのだ。

「でもね、偶然開いたそのアルバムの中に、私の写真があったの。手が鎌じゃなくて、そもそも手なんてなくって、パジャマ着て死んでる私の写真」

 作業に戻ろうとしたリーパーの手は、再び止まる。今度はなかなか始まらない。私ももちろん急かしたりはしない。どこからどうすればいいか、これがなかなか難しいのだということは、何となくだけどわかってあげられるから。

「昨日の鴉、覚えてるか?」

 外角えらいとこ高めのマクラから始められたせいで、放られたボールを咄嗟には視認できない。

「生まれたときから自分についてた死神がいたって言ってたろう」

 そんな私を尻目にリーパーは続け、私も次第に思い出していく。

「それが命日にだけ、いきなり姿を消した」

 昨日の仕事の一件目が青虫で、その青虫を喰らった鴉がその直後に二件目となり、その鴉を食んだ錆猫を今日最初に刈った。数奇。

「なぜだかわかるか?」

 つくづく命の儚さ先の見えなさを嘆じていたため、聞かれていたのに気づかず、じっと見つめられているのにはっと気がつくと、大して考えていないのに首を横に振っていた。

「自分の手で死なせるのが忍びなくなったんだ」

 ああ、死神のこと言ってたんだ、とようやく気付く。

「もちろんそれはわかってたはずだ。それを承知で始めたわけだし、その頃は何とも思ってなかっただろう。だが相手の成長によって徐々に交流を持てるようになっていった。さぞかしいい関係を築けてたんだろうよ」

「一日も欠かさずそばについてたって、鴉が言ってたもんね」

「だが、それはいつまでも続く関係じゃない。相手の死がそのまま終焉になる空しい間柄だ。そして明日がそのときだってこともわかるようになってくる。一番近くにいる死神は自分だ。そのときは自分で刈らなくちゃいけない。でも今更刈りたいわけがない。そりゃ逃げ出したくもなるさ」

「だったら初めからやらなきゃいいのに」

「そうだ。そういうことだ」

「何もそんな苦しい道を選ぶ必要はなかったのに」

「後悔してるだろうさ、そいつも。可哀相にな。きっとそいつ、そのことでこれからずっと、悔やみ続けるだろうな」

 その死神は今、何を思い、何をしているのだろうかと、私は考えた。リーパーの言うとおり、悔やんでいるのだろうか。それとも期せずして大量の仕事が舞い込んできたから、まずはそれを片付けているだろうか。何にしても、いずれはリーパーの予言どおりになるのだろう。餅は餅屋。死神は死神ストア。この場合ショップかしら? とにかく死神のことは死神にしかわからない。

 私はふっと天窓を見上げ、三日月と目を合わせ、声に出さずに呟いた。あなたのほうが大事だよ。

 できればその死神と視線を交え、直接言葉を交わしたいけど、そうもいかないから、こうしてお月様に託すことにする。私とその死神を繋ぐのは、この月明かりの下にいるということだけだし、その死神が持つ鎌は、思っていても主人に伝えられないだろうから、その死神が自分で気がつくしかない。せめてこの月を介し、伝わればいいなと思いつつ。

「実を言うと俺も一度、その死神みたいなことをしたことがあるんだ。やっぱり自分の手で死なせるのが忍びなくなって、最後は逃げ出しちまった」

 思わぬ告白に私は目線を戻し、リーパーは自分を嘲るように笑ってから続け、それからその乾いた笑顔を首ごと横に振った。

「だが俺の場合は、交流ができないにもかかわらず、だった。生きてる間に言葉を交わしたこともなければ、向こうはすぐそばに俺がいることさえ知らなかった。いや、だからこそ、そんなことをしたのかもしれない…」

「交流ができないってことは…」

 私の発見を見抜いたように、リーパーは頷く。

「そう、俺のときは人間だった。俺は人間の女を相手に、その一生に連れ添おうとして、結局できなかった。七年と少しという、本当に短い生涯だった」

「七年…じゃあ私と一緒だね…」

「そうだ…お前と同い年だった…背丈も同じで…体重はちょうどその鎌の分だけ少なくて…AB型だった…」

 私の体の中を、そのAB型の血がどっくんどっくん駆け巡っているのがわかった。自分が何者なのか。長年の疑問がついに解き明かされる。その予感で心臓が破裂してしまいそう。ううん、生き物だったらきっとそうなってしまったはず。鎌でよかった。死なないもん。

 リーパーはそっと私の手を取り、もう片方の手で峰から腹にかけてを撫でてきた。まるで今の私になる前の鎌を、ゆっくり思い出すみたいに、いつまでも。


 鎌に命を吹き込む前の俺は、屠殺場を専門にしていた。時代が変わり、場所が変わっても、そこに運ばれてくる家畜を殺すためだけに、毎日鎌を振るってたものだ。

 楽だったなあ。

 今際に立たされた命が、わざわざ探さなくても、向こうからやってくるんだからな。

 それだけに、屠殺場は段々と人気が高くなっていった。だが一日に運ばれてくる家畜の数は大体決まってる。毎日死神同士で話し合い、一頭ずつ交代で刈るなんていう取り決めをしたところで、全員に行き渡ることは滅多にないし、抜け駆けする奴は必ずいる。俺だってしたことがある。諍いが起こることももちろんあった。そこまでやってどうにか一頭刈れたところで、一日の成果としてはとても足りない。何日もありつけないことも珍しくなかった。

 そんな風にして日々を過ごしていた頃の、どうにも飢えた気持ちをいつも抱えていた、ある日の帰り道だ。俺は死の気配を感じて留まった。ずっと屠殺場で過ごしていくつもりだったが、背に腹は代えられん。もっとも気が向かなければやらなきゃいいと思いながら駆けつけると、人間の女がいた。

 人間といっても、まだほんの赤ん坊だ。だが正直なところ、それが赤ん坊だと気がつくのに、少し時間がかかったよ。なんせ両腕がなかったからな。しかも生まれたばかりに違いないってのに、濡れそぼった体をろくに拭かれもせず、布きれ一つまとわせてもらえないまま、人気のない冷たい地面の上に、無造作に放られていたんだ。もう泣き声を上げることもできないほど疲弊していたんだろうな、じっと黙り込んで、土くれにまみれて、死体と変わらない姿で止まっていたよ。

 一見して棄児だとわかった。わかったことはそれだけだ。後は何もわからない。親の所在も素性もわからない。もちろんそこに至った経緯もな。生まれつき両腕を欠いた赤ん坊を育てる意欲はなかったのか、それともそんな心構えだからこそ、誰にも見守られずひっそりと子を産み落とすに至ったのか…それがわかることは、ついになかったよ。

 俺は家畜を相手にするときと同様に、おもむろに鎌を振り上げた。狙いを定めて、刃先を向けて。だがそのとき、ふっと…な。この子の一生についていこう、そう思ったんだ。これからはこの子についていって、この子が殺すものやこの子の周りで死ぬものを刈っていって、最後にこの子を手にかけようってな。

 よく考えてみりゃあ、そんなにうまくいくわけなかったんだ。蚊を殺すのにも難儀するようなあの体じゃあ、何かを死なせることなんてできやしない。あぶれたとしても屠殺場に通うほうがよっぽどマシだったろう。そこまで頭が回らなかったのは、俺が人間を殺そうとした初めてのことだったからだろう。

 俺は鎌を下ろした。これでその子はもうしばらく生きていくことになったわけだ。それから少しして、ようやくその子は人に見つけられた。すぐに病院に連れていかれて、一命を取り留めたが、検査で大病を患っていることがわかった。長くは生きられないことと、いつ死んでもおかしくないことと、その短くて不確かな一生の間にただの一度も外に出られないことが、そのときから宿命づけられていた。

 俺は毎日、その子に会いに病院に通ったよ。いつ病状が悪化してもいいように、いつ不慮の事故に巻き込まれてもいいように、要はいつでも刈れるようにとな。もちろんずっと付き添うわけにはいかなかったが、その敷地の中で動物実験が行われていたことは、勿怪の幸いだった。屠殺場と同じで、もうじき寿命を迎えるって命が、常にそこにいるんだ。しかもそこの動物たちは、あっさりと死んでいくわけじゃない。奇妙なウイルスや毒にもなりかねない薬物を注入されて、当の研究者にすらどうなるかわからない変化に悶え抜かないといけない。それに耐え切れなかった奴やそうなる前の奴から、早く死なせてくれと懇願されることもあったし、そのとおりにしてやって感謝されることさえあった。そのときばかりは、鞍替えしてよかったと思ったよ。

 だがその子の一生は、それは無残なものだった。一向に下がらない高熱。常に付きまとう全身の疼痛。前触れもなく起こる発作は見ていられないほど気の毒だった。一度咳き込むとなかなか止まらない上に、悪いときには呼吸困難に陥って、しまいにゃ人事不省になっちまう。それだって、気を失いそうな痛い注射や泣きたくなるぐらい苦い薬を日に何度も体に取り込むことで、どうにかそこで抑えられているものだった。

 年を重ねて体格もそれなりに成長していったが、体調がいい方に変わることはなかった。意思を発現できるようになった分だけ、傍で見ているこっちも苛まれた。毎日のように泣きながら呻くんだ。痛い、苦しい、辛い、助けて、何でこんな目に遭わなきゃいけないの? 何にも悪いことしてないのに…余計なことをしたものだと後悔したよ。あのときあっさり死なせてやれば、こんなことにはならなかったのにな。いや今からでも遅くないって考え直すこともあった。でも、だめだった。

 少し調子が良いときは、かえってその身の不遇を深いところから嘆くんだ。どうしてこんな体で生まれてきたんだろう、どうしてこんなにしてまで生きてるんだろう、どうして死なせてくれないんだろう…その言葉を聞くたびに、伝わりゃしないのに、すまなかったな、もう終わらせてやるからなって答えてた。でも、できなかった。

 赤ん坊のときからそばにいたんだ。独りよがりでも情が湧いてた。いつか寿命に達したそのときに、何かの都合で居合わせてやれなくて、他の死神にやらせるぐらいなら、今のうちに俺がやってやるって、そう決意するたびに鎌を持ち上げたもんだ。でも、そこで止まっちまった。

 その子はな、早くから活字に親しんでたんだ。元の病気のせいだが、とにかく抵抗力が低くて、別の病気にでも感染したら命取りになるほど虚弱だから、大掛かりな検査のときぐらいしか病室から出してもらえなかった。面会に来てくれる家族もいなければ、自分から友達を作ることもできなくて、ずっと一人ぼっちだった。そのせいだったんだろうな。何のジャンルでもどんなに難しくても、字が書いてあるものなら構わず読んでいたよ。自由の利かない腕と、自由の利く残りの部分を、精一杯使ってな。そうして物語の世界に没頭したり、思索に耽溺したりすることだけが、その子の慰みだったんだろう。色んな言葉が身についていたから、大人でも知らないような言い回しをして、しょっちゅう周囲の人間を困惑させていたものさ。

 その子のそばにはいつも本が置かれていた。読みかけの本にこれから読む本、気に入ったからまた読もうと思ってる本…それが目に入ると、途端に鎌が重くなる。

 口ではこんなことを言ってるが、どこかで死を望んではいるが、心の底で思っていることは違うんだ、本当はまだ生きたいはずなんだ、俺が早まって死なせちまったら、この子は痛みや苦しみはおろか、得られるかもしれない喜びも楽しみも失い、ここで終わっちまう。それでいいのか。明日になれば、この子の病気を治す特効薬が開発されるかもしれない。もっと先かもしれないけど、死がこの子に訪れる前に、そのときが巡ってくるかもしれない。寿命が長ければ、幸福になるチャンスもあるはずだ、俺がそれを奪うわけにはいかない。そう思って鎌を下げた。

 だが、やがてその日はやってきた。その子が七歳になってすぐだった。俺はその日にだけその子から離れた。病院にさえ近づかなかった。今日は久しぶりに屠殺場に行こうなんて、何食わぬ顔で自分さえ欺いてな。

 屠殺場は相変わらずの人出だった。その日屠られる家畜の数より死神のほうが何倍も多かったが、俺がしばらく来ない間に明確な決まりができていた。希望者全員に籤を引かせるんだ。当たった奴は居残り、外れた奴はその日は終わり。そうして篩にかけて、必要な数になるまで何回も繰り返す。係の死神は持ち回りだが望めば誰にでもできて、そいつらは次回優先的に刈ることができる。

 運が良いんだか悪いんだか、俺は当たりを引き続け、一頭を刈れることになった。喜びはしなかったな。順番を待っている一連の間に、わかっちまったからな。

 俺は怖かったんだ。自分の手で、それとわかる形で生き物を殺すのが、恐ろしかっただけなんだ。屠殺場や研究室にいる動物たちにとっては、程なく死んでいくのが当然だ。そしていくら死神が鎌を振らない限り死ぬことはないとはいえ、目の前で直截的に命を奪う人間のほうが、今際の彼らから恐れられたり、憎まれたり、ときには赦されたりしていたもんだ。そのために死神である俺自身が、その立場を意識することを怠って、まるで死神が持つその鎌のように、振る舞ってしまっていたんだ。この命を奪うのは、俺じゃないんだってな。

 だがその子を刈るということは、俺がその子を殺すということだ。その子が俺のことを知らなくたって、俺は俺のことを知ってる。俺は俺がその子を殺すことを知ってる。いや本当はずっと知っていたんだろう。それなのに知らないふりして、こうして逃げてきたんだ。これまでずっと、色んな理由を浮かべてその子の命を猶予してきたのは、そのせいだったんだ。その子の幸福を願ったわけじゃない。その子の未来を考えたわけじゃない。自分の今を取り繕ってただけだったんだ。もっと早くにわかっていれば、覚悟を決められたかもしれない。それならば、あんなにも苦痛を長引かせることはしなかった。悪かった…。

 仕事を終え、病院にやってきたら、崎がいたよ。もう苦しまなくてよくなった、その子の写真を撮ってた。

 ずっとふざけた奴だと思ってたし、あのときもその子の死を悼んだり、自分の不甲斐なさを詰ったりするより先に、あいつの奇行に腹が立ったもんだが、さっきようやくわかったよ。あいつはそういう形で、自分と向き合ってたんだな。俺みたいに目を逸らさない代わりに、いつまでも直視してるんだな。そうやることで、あいつは死神である自分を受け入れていたんだな。

 鎌を振れなくなったのはそれからすぐだ。

 屠殺場に行っても、実験動物にせがまれても、駄目だった。

 ここで死んでいく動物たちは、人間ではなく、俺が殺すんだ。そのことにようやく気づいてた。そう自覚したら何もできなくなった。これまでの動物たちも、みんな俺が殺したんだ、俺がこの手で殺してきたんだ、そう思ったら、何も。

 届くことのない詫び事を、どこにともなく繰り返して、これまでのことをなかったことにしてくれと、何かに向かって祈ってた。そんなことで罪滅ぼしになるわけないだろうって、無駄な行いを嘲笑って、せめてこれからはもう何も死なせたくない、そうだそうやって過ごしていこうと決めて、気がついたら部屋にこもってた。外にも出ないで、一人きり。誰にも気づかれず、こうして朽ちていこう。

 だが本当にそのままだったら、それこそ生きていけなかった。

 死神が生き物を殺さないのは、いわば生き物が生きようとしないことだ。

 殺すことも怖くなったが、生きていないのはそれより怖かった。

 といって鎌を持つ気にもなれないし、持ったところで振ることはできないとわかってた。

 終わりたいけど、終わりたくない。終わりたくないけど、始められない。

 そこで閃いちまった。

 こいつに命を吹き込もう、俺の代わりに働かせよう。その命の元に、あの子を選んだ。

 享年七歳。身長百二十センチ。体重二十キロ。AB型。

 あの子はもっと生きたかったはずなんだって、そう言い訳して、そして、それから先の仕事を、人間として生きている間は一度も生き物を殺さなかったあの子に、全て押し付けた。

 俺はもう、何も殺さないんだ。そう思いたかったんだ…。

「思わなくていいよ。そのとおりなんだから」

 ………?

「私はその子じゃない。すごい似てるけど、やっぱり違う。私は鎌だもん。シックルっていう名前の、死神の鎌だもん。だからリーパーは、何も殺してないの。これまでも、これからも、ずっと」

 ………。

「リーパー、ちょっと、お願いしてもいい?」

 もちろんだ…何をすればいい…?

「まず離れて。手を上げるから。危ないから」

 手伝おうか…?

「大丈夫…よっと…それじゃ向こう向いて、こっちに寄りかかって」

 こう…? か…?

「そう。それでいい…はあ重かった。これで完璧。これでいつもの逆だね。私がリーパーを抱っこ」

 それで…? それからどうするんだ…?

「あったかい?」

 ん?

「私、あったかい?」

 ああ…まあな…。

「じゃあ、そのままでいて」

 このまま…?

「そのまま。リーパーが泣き止むまで、そのままで」

 ………ああ…わかった。


 マッチの火が蚊取り線香に移り、独特の香りが漂ってくる。

 手首を振って手元の火を消すリーパーの背中が、何だかとても小さくなってしまったことに、私は今更ながらに気がついていた。

 この男は誰よりも弱い。あの手で蚊を潰すのにも躊躇するほどの臆病者。失格という烙印を押したくなる崎たちの気持ちも、その一員のように理解できる。それでもいっぱしの死神として活躍できていたのは、ひとえに私のおかげということになるのだろう。

 私は鎌としてはまあまあ合格らしい。生き物を殺すのが特別好きってわけじゃないけど、体の中の何かを振り絞ってようやくできるというほどのことでもない。なんかめんどくさいだけ。

 でも、そのめんどくさいを乗り越えることで、こんなにも弱くて情けなくて、それでも愛しいと思える誰かを支えてあげられるなら、まあいいかもって今は思う。命を吹き込まれ、シックルという名前を与えられた鎌として、このままリーパーのそばにいてあげたい。そんな自分を保っていたい。

「一番大きい奴だから、そんなことはないと思うけど」

 マッチ箱を棚にしまって、リーパーはベッドに潜り込む。

「もし燃え尽きたら、言うんだぞ」

 そして横になる前に、私を見つめる。

「起こしていいから、言うんだぞ」

 私は頷いた。リーパーは満足そうに笑ったまま、頭を沈めていく。意外や素直。私の嘘など知る由もないのだ。もし燃え尽きたら? 言わない。起こそうとなんて? 絶対にしない。

 程なく寝息が聞こえてくる。疲れてたんだね。色々あったもんね。届かないねぎらいも不思議と嬉しい。

 寝とけ寝とけ。朝まで寝とけ。ほんの一時だけでも自分の立場を忘れてしまえ。自分の肩書きさえも忘れてしまえ。何なら夢さえ見るな。ノンレム睡眠万歳!

 私は勢いよく両手を挙げ、気づかれないようにそっと下ろす。

 私は寝ない。眠れない。そんな私を今盛大に寿ごう。これでいつでもいつまでもリーパーを守れる。ノン睡眠万歳!

 私はもう一度両手を挙げた。鎌でよかったと心から思った。これからの時間はその蓄積だ。自己肯定の瞬間の連続。これに勝る幸福があるだろうか。しかもおそらくは永遠に! ヒャッホウ!

 水を差すように蚊が現れ、私は激怒した。ちゃんと仕事しなさいよ蚊取り線香! 振り上げたままだった手で火を消しつつ真っ二つにしてやってから、音を立てないように椅子から降りた。

 蚊は三日月を蹂躙するように舞っている。私は身構え蚊を睨み付ける。そして念じる。

 来るなら私のほうへ来い。何があってもリーパーの血を吸うな。吸うなら私の血を吸えばいい。AB型よ。でも一滴も吸わせないからそのつもりでいなさいね。あんたらは私が全て殺してやるからね。

 私の殺意に挑むように、蚊がこちらへ突撃してきた。私は腰を落として間合いを計りつつ、口には出さずに叫び声を上げる。

 恨むなら、リーパーではなく、私を恨め。

 あんたらを殺すのは、生き物を殺すのは、死神じゃない。

 私なんだ。

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